カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 34号

一読法からの提言T

 4「小中高の成績評価について」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 34号

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           原則隔週 配信 2020年2月21日(金)



 今号は「成績つけるのやめませんか」について詳しく語る予定でした。
 が、前段階として「小中高ではどうやって成績をつけているか少し説明しておこう」と書き始めたら、(またも)長くなってしまいました。
 と言うのはこの件でネット検索したとき、たまたま小学校の子どもを持つ保護者の疑問にヒットしました。現在小学校の成績はABC(◎○△)の3段階絶対評価です(失礼ながら、まるで競馬の予想紙みたい)。
 小中は2002年に相対評価から絶対評価に変わりました。その人は「絶対評価と言いながら、テストで90点取れたのに、なぜAではなくBなんだ」と不満を述べていました。これは5段階の中学校でも起こりえる疑問です。「90点取ったのに、なぜ4なんだ」と。
 これらの疑問に答える気持ちも込めて今節は小中高の成績付けと、相対評価、絶対評価のもろもろを語り、提言は後に回したいと思います。
 なお、単独号としたので小見出しをつけました。また、ぼーっと通読を防ぐため、途中に「作者注……」を挿入しています。立ち止まって部分の再読をやったり、しみじみ考えてください。

 [今  号
 一読法からの提言 4 「小中高の成績評価について」
 [] 相対評価から絶対評価の流れ
 [] 五段階絶対評価と三段階絶対評価
 [] 疑問は筆記テストの三段階評価

 以下次号 提言 5
 [ 4 ] 高校の成績――絶対的相対評価


 本号の難読漢字
・嚆矢(こうし)・烙印(らくいん)・痛痒(つうよう)・忖度(そんたく)・釈然(しゃくぜん)・納得(なっとく)・損(そこ)ねる・忸怩(じくじ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』34 一読法からの提言T

 4 小中高の成績評価について

[ 1 ] 相対評価から絶対評価の流れ

 前置きに書いたように、小学校・中学校の成績評価は2002年に相対評価から絶対評価に変わりました。嚆矢世代は2020年現在、17〜18歳ですから、児童生徒の親御さんや孫を持つ世代はみな相対評価の体験者でしょう。中学校の5段階評価は(表向き)変化がないので、疑問や不満はさほど出ていないようです。しかし、小学校の3段階評価はかなり異和感が吐露されています。

 まず相対評価について復習しておくと、私の学校時代、中学校の成績は(生徒が100人なら)「5は7人、4は24人、3は38人、2は24人」と比率が決められ、1も《7人》出さねばなりませんでした。もちろん全国どこの中学校でも同じです。

 相対評価の理不尽と愚劣さについて多くを語る気持ちはありません。
 簡単に言えば、クラス45人として国社数理英五教科の試験で平均85点を取った。もちろん予習復習はしっかりやり、宿題は必ず提出し、授業中の態度は申し分なく、ノートは板書事項をきっちり写している(それくらいでないと、平均85は取れません)。なのに、クラスに平均90を超える生徒が2〜3人いれば、「5」の評定はつかず、永遠に「4」のまま……それが相対評価です。
 極端なことを言うと、94を取っても、生徒100人中申し分ない95が7人いれば、やはり評定は「4」

 余談ながら、競馬には3歳GI 「皐月賞・ダービー・菊花賞」があり、全て勝つと三冠馬と呼ばれ、名馬として長く競馬ファンの記憶に残ります。
 しかし、そのレースで同タイムハナ差の2着だった馬を覚えている人はまずいません。3戦連続2着だったとしても。
 三冠馬は10年に一度くらいしか出現しないので、2着だった馬の馬主や調教師は「他の年に生まれていれば、自分の馬が三冠馬だったかもしれない」と運命を呪いたくなるでしょう。

 競馬はそれですみます。馬自身はGIを勝ってもニンジンが増えるくらいだから、何も感じないと思います。しかし、人間の中学校ではたまたまクラスや学年によくできる子が何人もいれば、(自分もよくできているのに)評定は「4」のままです。この生徒は「4」に満足できなければ、「自分はダメな人間だ」と劣等感を抱き続けるかもしれません。
(作者注……「なんで教育論に競馬の例なんか出すんだ。不謹慎な」と思われた方、もう一度前の段落を読み直してください。意味なく競馬の例を出してはいません)

 また、五段階相対評価には「必ず《1》を付ける」逆の問題もありました。
 たとえば、五教科平均40点を取っている(その他もきっちりこなしている)けれど、クラスの順位がブービー、ブービーメーカーだと必ず最低点の「1」がつけられました。
 当時高校入試には「内申」と呼ばれる受験生の調査書が学校単位で持参されました。学校単位であるわけは全教科の「五段階分類表」が同封されているからです。「本校卒業生は100名。うち5は7名、4は24名……1は7名」と評定別人数(度数分布)が書かれています。もちろん学年200名なら、この倍になります。「法律で決められたとおりやっていますよ」という確認書みたいなものです。

 これ過疎地の小さな中学校でも全く同じ配分です。「卒業生は30名。うち国語の5は2名、4は6名……1は2名。数学は、英語は……」となっています。
 考えてみてください。学年1クラスで30名なら、先生の指導が一人一人に行き渡るから、評定1がつくとは思えません。なのに、制度として決められているから、中学校は必ず(5も付けるけれど)誰かに「1」を付けなければならなかった(私にはわかりませんが、少人数の場合は例外として「1」を付けなかったかもしれません)。

 ある時期中学校は校内暴力など大きく荒れました。理由の一つに五段階相対評価があったことは間違いないと思います。1年の最初に「1」がいくつも並び、「もっとがんばれ」と言われて、テストの点数を上げた。だが、2学期も「1」、3学期(学年末)も「1」。2年になっても「1」が並ぶ。
 五段階の評定平均4.5とは「4」と「5」が半分ずつの優等生ですが、平均1.5とは「1」が半分「2」が半分であり、劣等生の烙印を押されたようなものです。
 その子の気持ちがすさび、学校は面白くないところであり、勉強なんぞする気もなくなり、ゲームセンターに出入りして暴走族の一員となり、たまに授業に出れば雑談をして授業を妨害し、先生に反抗する……そのような子どもになっても不思議ではありません。

 そして、中学校の先生にとってこのような生徒はありがたい存在だったことでしょう(皮肉でも反面教師でもなく)。
 なぜなら、欠席は多い、授業態度は悪い、テストは限りなく0点に近いこの子に「1」を付けることは何の痛痒――痛みもかゆみも感じません。
 彼もしくは彼女のおかげで、真面目に出席している、授業態度もとてもいい、掃除もよくやってくれる、だが、テストだけは30点くらいしか取れない子に、「1」を付けなくて済むからです。
 もちろん中学校の先生が学校不適応の生徒を矯正しようとがんばっていらしたこと、それは間違いないと思います。がしかし、問題児が「心を入れ替えて勉強しよう」と思っても、通知票はしばらく「1」が続く……それが相対評価でした。

 この制度が戦後半世紀以上も続きました。戦前ならいざ知らず、この件に関して生徒も保護者も暴動を起こさなかったのは不思議なことです。日本人とはなんと優しく従順な国民なのでしょうか(私を含めて)。
 教員も同様ですが、「相対評価はやめよう。絶対評価にしよう」とは言い続けていました。
 読者各位は「そんな実状は知らなかった。知っていれば声をあげたのに」とおっしゃるかもしれません。確かに我々は生徒であるとき、知りようもない成績評価の仕組みでした。先生は教えてくれなかったし、多くの人も知らなかったようです。

 ただ、なぜ「相対評価をやめるべき」の声が増えなかったのか、思い当たる節はあります。
 一つにはこの制度は法律に基づいており、法律を変えるのは国会議員です。だが、国会議員の方々は(かつて小学校卒業の総理大臣がいらっしゃいましたが)基本みな高学歴の優秀な人ばかり。中学校時代「1」をもらったことはなく、「1」をたくさん付けられた子どもの気持ちなど、忖度することもなかったでしょう。現場の先生が「相対評価はひどい制度です」と訴えても、(特に与党議員は)聞く耳持ちませんでした。

 同様に多くの生徒と保護者も「なぜ5じゃなく4なんだ。4じゃなく3なんだ」と叫ぶことはあっても、「1」ばかりの子どもの気持ちを思いやることはない。ほとんどの児童生徒は五段階の平均3以上、2以上であり、「1」がずらりと並び、たまに「2」があるような生徒は一握りです。
 勉強をしない(できない)生徒自身はそれを当然だと思う。そして、親御さんも「うちの子は勉強ができない。親の言うことは聞かず、外で遊んでばかりだから『1』が並ぶのも仕方ない」と思う。
 これでは「相対評価は劣悪な制度だ、やめよう」との声が大きくなるはずはありません。

 それがとうとう変えられたのはおそらく「情報開示」ゆえでしょう。
 学校はどのような教育をしているか、どのように成績をつけているか。また、高校入試の内申と入学試験の比率など多くの情報が開示され、受験生が希望すれば、採点後の試験用紙を見ることができるようになりました。今から三十年ほど前のことです。

 最後の件は高校入試の現場にものすごいプレッシャーとなったことを覚えています。生徒に採点ミスを発見されたら、合否が変わるかもしれない。大げさに言えば、校長の首がすっ飛び、教育長は土下座して謝罪する、大変な事態だからです。
 それまで入試の採点は全員一室に集まって(ミスがないよう三度採点をやり直すけれど)お茶菓子飲み食いしながらの風景でした。ところが、入学試験の開示決定後はのんびり気分など吹き飛び、ぴりぴりした採点に変わったものです。
 このように情報開示の結果、相対評価の劣悪さが暴露され、「絶対評価にすべきだ」との声が高まったのではないかと思います。

 なんにせよ、戦後半世紀を越えた2002年、ようやく小学校・中学校は相対評価から絶対評価に変わりました。ところが、三十代以上の親御さん、祖父母世代は相対評価で学校をすり抜けてきたので、わが子、わが孫の通知票を見て新たな疑問や不満を抱えているようです。次にこちらの現状を語ってみたいと思います。


[ 2 ] 五段階絶対評価と三段階絶対評価

 この絶対評価、五段階の中学校の場合、最も単純にはテストの成績、授業態度、提出物など「文句なし」なら「5」、その下なら「4」、平均前後なら「3」、その下で「もっとがんばれ」なら「2」。絶対評価となったからか、「1」はよほどのことがなければ付けないと聞いたことがあります。
 よって、テストの平均点85なら、90以上が何人いようと「5」になるし、40で「1」はない。最低でも「2」がつくでしょう。100点を20点刻みに五等分して上から順に54321と付けることは納得しやすいところです。

 ちなみに、文科省では絶対評価とは「目標に準拠した評価であり、学習指導要領に示す目標がどの程度実現したか、その実現状況を見る」と定義しています。また、「個人内評価」(児童生徒ごとのよい点や可能性、進歩の状況などを積極的に評価する)とも説明しています。

 これを私なりに解釈してみると、児童生徒には学年毎・教科毎に目標が定められている。その目標に「完全に到達していれば5。充分達しているが、まだ完璧じゃないなら4。まずまず達しているなら3。まだまだ達していないぞ、もっとがんばろうなら2。全く到達していないから1」といった感じでしょうか。
 これなら成績評価は他の生徒とは関係ない、あくまで児童生徒個人の目標と、目標にどれだけ近いか、離れているかを評価している、ということができます。中学校ではそれを五段階に分けたと。

 ところが、小学校は同じ絶対評価でも、五段階ではなく三段階に分けました。A・B・Cの絶対評価であり、項目別に[◎・○・△]と付けられ、「よくできる」・「できる」・「努力しよう(もう少し)」といった意味合いになるようです。
 また、一教科全体の評定だけでなく、観点別のABCも付け加えられるようになりました。これがわかりづらいので、「絶対評価だからテストで90点取ったら、Aになって当然のはず。どうしてBなのか」といった疑問・不満が出るようです。
 何事もABCの三段階に分ければ「B」は「普通」と思える。90点で「フツーはないだろう」と言いたくなります。

 もしもそれを担任の先生に問い合わせれば、「確かにテストは90点でした。でも、他の提出物、普段の授業態度、積極的に発言するなど、観点別評価がイマイチだったので、Aになりませんでした」と答えるのではないかと思います(イマイチの言葉は使わないでしょうが)。校長、教育委員会、もっと上の文科省に問い合わせても、同じような回答があるはずです。
 結局、保護者も児童生徒も釈然としない思いを抱きつつ、黙るしかない……。

 この保護者の疑問は絶対評価になっても続く成績評価の難しさと、「納得できない感」を表していると思います。もっともっと大きな声で「おかしい」と言うべきでしょう。ここでも現場の声に耳を傾けないお偉方の優秀さが透けて見えます(これは皮肉です)。
 90点を取ってもAになれない子どもは劣等感を抱え、100点を目指そうとするかもしれません。先生に言いたいこと(異論・反論)があっても、「先生の機嫌を損ねてはいけない。黙って良い子でいよう」と思うかもしれません。
 先生は、学校は、制度を作った方々は、一人一人の気持ちを大切にしなければならない。そして、不断に制度を微調整すべきだ、と私は思います。

 ところが、(矛盾したことを言うようですが)学校や担任にとって児童が90点を取っても、「A」にし辛い別の理由もあります。
 一つには成績評価が集団を相手にする自然現象ゆえであり、もう一つは絶対評価制度に「観点別評価」という特質を持たせたからです。

 たとえば、絶対評価なら、小学校のあるクラスは児童全員「A」とか、中学校のある教科は生徒全員「5」になっても良さそうです。が、そうなっていないと思います。
 絶対評価と言いつつ、全員が「5」や[A]になったり、逆に「3」以上が一人もいない「2」ばかりとか、全員[C]になることもまずないでしょう。

 なぜかと言うと、それが自然では起こらない現象だからです。
 ランダムに集められた100人の集団に、何らかの課題(これが児童にとっての目標となる)が与えられたとき、集団を達成度によって区分けすれば、いわゆる正規分布曲線を描きます。中央付近の人数が多く、両端が少ない山形のあれ。点数化してABCの三段階に分けるなら、自然現象としてはBが最も多く、両端のAとCが少なくなります。よって、通常全員のAはなく、全員のCもない

 たとえば、ある課題について集団の一人一人が「できるか、できないか」で分けてみます。実技科目の体育が最もわかりやすいでしょう。
 跳び箱を跳べるか跳べないか。鉄棒の逆上がりができるかできないか。
 この課題に対して最初から全員できたり、全員できなかったりすることはまずない。すぐにできる子がいれば、何度か練習してできるようになったり、最後までできない子もいる。すなわち、「できる」群と「できない」群に分かれます。

 そして、「できる」群をさらに二つに分ければ、その課題を「上手にできる」A群。一応できるけれど、すごくうまくできるわけではない「普通」のB群。または、自力でできるA群と、自力ではできず何か補助があれば「できる」B群に分かれるでしょう。

 たとえば、ある学年で「跳び箱5段を跳べるようになろう」という目標(課題)が設定される。練習の結果5段を跳べるA群。5段4段は跳べないけれど3段なら跳べるB群。1、2段しか跳べないか、全く跳べないC群。
 鉄棒の逆上がりなら、自力で軽々とできるA群。自力ではできないけれど、補助用具を使えばできるB群。この場合前者は「よくできる」と評価でき、後者は「できる」にとどまる。最後に補助具を使っても逆上がりができないC群……。
 補助具とは跳び箱の場合、手前に弾力のある踏み台を置く。逆上がりでは鉄棒の先に置かれる斜めの板です。それに足を乗せて身体を持ち上げます。確かに補助具があれば課題はクリアしやすくなります。

 余談ながら、私が子どもの頃も逆上がりは体育の課題でした。私は高い鉄棒によじ登って仲間と猫飛び(飛行機飛び)の距離を競うくらいだったから、逆上がりなど楽勝でした。しかし、太った子とか女子など全くできない子も結構いました。先生から「このようにやればできるようになるぞ」と指導された記憶がなく、補助具なんぞ一つもありませんでした。
 近年小学校の鉄棒のそばに板製の補助具があるのを発見して、最初「なんだ、これは?」と思いました。試して逆上がり用補助具だと気づき、「ああ、昔もこんなのがあれば、できないと悩む子は減っただろうに」とつぶやいたものです。

 このようにランダムな集団はある課題に対して3段階の「できる・普通・できない」に分かれるから、ABCの3段階評価は説得力があり、充分児童の現状を評価できていると言えます。この言葉を「君はフツーだね」とか「できないね」と言うのはかわいそうだから、「よくできる・できる・努力しよう(もう少し)」に置き換えたと見ることができます。

 別の例として音楽の歌なら、「かなりうまい・普通程度・これは下手だ」と三段階評価ができる。ピアノなら小学校六年で「トルコ行進曲」を弾ければ「ものすごくうまいからA」と思うし、「猫踏んじゃった」なら「できるな、Bだ」と思い、全く弾けなければ「C」ですが、このCは「できなくて当然」のCでしょう。なぜなら、児童全員ピアノが弾けるよう要求されていないからです。
 リコーダーなら全員に課され、練習するので評価の対象となり、Cは「うまく吹けない・下手」だから「努力しよう」となります。
 美術の絵も完成した作品を見れば「うまい・普通・下手だ」とわかる。つまり、実技科目はABC(中学校なら5段階)の絶対評価をつけられても納得しやすいと思います。


[ 3 ] 疑問は筆記テストの三段階評価

 三段階評価でわかりづらいのは国語・社会・算数・理科・(英語)など筆記テスト中心の絶対評価でしょう。
 たとえば、国語の朗読なら「すらすら読める・つっかえつっかえ読む・うまく読めない」や理科の実験など実技的項目もあるけれど、五教科の基本はやはりテストでしょう。
 小テストからある範囲のテストなど、とにかくそれらをこなし(100点満点に換算して)平均80点以上なら「よくできる」、60点以上なら「できる」、59点未満なら「もっと努力しよう」と評価されると。
 しかし、この分け方は「大ざっぱすぎる」と感じるはずです。

 人によってはAの「よくできる」は90点以上だろう、B「できる」が70点以上で、50点以上は「普通」とすべきだ。50点取れなければ、「もっと努力しよう」と言える。よって「C」は「普通」の意味として、D「もっと努力しよう」を新設し、「ABCDの四段階評価にすべきだ」と言いたくなるかもしれません。

 私の個人的憶測ですが、小学校でABCの3段階になったのは大学の成績評価「優・良・可・不可」(戦前の「甲・乙・丙・丁」も四段階)から取ったのではないか、と推理しています。
 大学ではテストもレポートも合格点は60点以上です。80点を超えれば「優」、70〜79点は「良」、60〜69点が「可」と決まっており、59点以下だと「不可」になって単位をもらえません(戦前の甲乙丙丁も「丁」は落第を意味する)。もちろん絶対評価です。

 大学では不可の科目がいくつかあっても進級・卒業できるけれど、最低限履修しなければならない科目や総単位数が決められているから、達しないと卒業できません(在籍は最大8年まで)。
 すなわち、60点未満は不可であり、それは「評価されない、評価に値しない」点数であり、成績なのです。大学では(記憶違いかもしれませんが)不可の科目は空白になったような気がします。つまり、優良可をABCとするなら、不可を意味するDは成績表に書き込まれない、と言うことができます。

 先程三段階に分けた小学校の成績においてC群は「できない」にあたると書きました。本当は「できない」なら、その評価は優良可の「可」にあたる「C」ではなく「不可」にあたる「D」と評価するのが自然でしょう。補助具を使っても、跳び箱や逆上がりができなければ、絶対評価は「D」となるべきです。
(作者注……この「なるべき」は私の主張としての「べき」ではなく、「理屈を押し通せば、不可のDになるはず」という意味です)。

 しかし、大学生ならいざ知らず、さすがに「いたいけな子どもに『不可』をつけるのは忍びない。あるいは、制度上『D』を付けたからと言って落第(留年)させるわけではない。何があろうと児童・生徒は全員進級し、卒業する。ならば「4段階にする必要はない。3段階に留めておこう」とお偉方は考えたのではないでしょうか。

 よって、小学校の評価「C」には普通にできるCと、全くできないDが含まれている――そう理解できます。体育全体の評定は観点別の評価を合算・合体したものとなります。たとえば、観点項目4つとしてどれか一つにCがある場合、そのCには「全くできない」Dが入っているかもしれない。そうなると、他の3項目が全てAであっても、全体としてAの評定になるのは難しいと思います。

 これも私の推測ですが、小学校の先生は3段階ではなく、まず4段階、5段階で予備の成績をつけているかもしれません。ABCDEです。
 ものすごくよくできる「A」から全くできない「E」まで。それを三段階に置き換えているのではないかと。

 先程の体育を例にすれば、跳び箱5段を目標としても7段まで跳べる子どもがいます。あるいは、逆上がりどころか、まさかの大車輪ができる子どももいる。その子は当然「ものすごくよくできる」から(五段階なら)「5」でしょう。
 次に跳び箱6段が跳べて逆上がりだけでなく鉄棒の上をぐるぐる回転できる子は「よくできる」から「4」。すると、跳び箱5段を跳べる(6段は跳べない)子どもは「普通」だから「3」です。そして、1、2段しか跳べなければ、あるいは、補助具を使わなければ逆上がりができない子は「2」。補助具を使っても全く跳べない子、逆上がりができない子は「1 」と評価できます。

 最終的にこの5段階評価をABCに区分けする。「2・1」は当然最低の「C」となる。ものすごくよくできる「5」評価も当然最高の「A」で文句なし。普通と評価された「3」がAになることはなく、Cになることもないので、評定は真ん中の「B」。

 問題は「4」の評価をどうするか。五段階の「4」を最低の「C」に落とす理由はないから、まず「B」が確定。問題は「A」に上げるか、それとも「B」のままか。これは五段階でも悩むところです。「4」を「5」に上げるか、それとも「4」のままとするか。
 相対評価のときはある意味悩むことはありません。「5」が規定の人数に達していたら「4」のまま。規定の人数に達していなかったら、「5」に上げていたでしょう。

 ここで絶対評価の場合、担任にある心理が働くような気がします。それは5段階予備評価でものすごくよくできる「5」の子がたくさんいる場合と、「5」が一人もいない場合です。
 先に後者から見ると、「5」が一人もいなければ、評定「A」をつけやすい。逆に「5」がたくさんいると「Aにしてもいいんだが、今回はBだな」と思って最終的にB評定にする(可能性が高い)と思います。

 一方、6段を跳べた児童や保護者から見ると、「跳び箱で5段どころか6段も跳べたのに、なぜAではなくBなのか」との疑問が生まれます。しかし、担任にとっては「7段を跳べる子が10人もいれば、6段を跳べる程度ではBにせざるを得ない」と思うでしょう。
(作者注……この具体例、ぼんやり読んではいけません。一読法なら「何か妙だぞ」とつぶやいてしかるべきところです。部分の再読をやってください)

 また、別の要素も加味されます。それが「観点別評価」です。文科省はこれについて「関心・意欲・態度」、「思考・判断・表現」、「技能」、「知識・理解」など四つ〜五つの観点と説明しています。

 私なりの理解では、この観点別評価があるから、知識・理解は必要だけれど、「単に筆記試験の結果が良いだけではAが付きませんよ」と言わんとしているように思えます。
 児童生徒が意欲をもって授業を受けているか、しっかり考え、判断しているか、自分の考えを表現できているか等々、筆記試験以外の日常活動も評価して成績を付けているというわけです。
 いや、むしろこちらの方が成績評価に締める割合は大きいかもしれません。筆記試験とは詰まるところ「知識・理解」である。どれだけ知ったか、理解したか。それを自分のものとして定着できたか。それは四つの観点なら、全体の4分の1です。他の三観点は4分の3として成績付けがなされている(ようです)。

 では、他の三観点とは具体的にどのような実態であり、どのように評価されているのか。これも私なりの観察と理解から推理してみます。
 近年小学校の授業風景をよくテレビで見かけます。実家近くの小学校もケーブルテレビで紹介されており、わかりやすいので体育実技を取り上げます。

 体育など私の子ども時代と最大の違いは、子どもたちがタブレットを持って授業をやっていることです。跳び箱なら、お互いタブレットを使って跳ぶ様子(跳べない様子)を撮影している。そして、オリンピック級の体操選手がやっている模範演技と比較しながら、「ここが良くないね」とか、「こうした方がいいよ」とアドバイスし合っている。私にとっては驚きの、かつ羨ましさを覚える授業風景です。

 この様子が観点別評価として成績付けに組み込まれているようです。
 昔だったら、跳び箱ならABCの3段階に分けたとしても、「跳べるか跳べないか。上手か普通か」が評価されていた。ある意味それで終わりだった。
 だが、現在ではそれは「技能」面の評価である。むしろ「技能という一観点の評価に過ぎない」と言うべきでしょう。
 先程国社算数など筆記テストで100点を取っても、それは「知識」という一観点の評価でしかないのと同じです。体育の場合も跳び箱五段を跳べることが目標とされ、それができたとしても、評価は「技能」面の満点を意味するだけ。すなわち、100点中25点。さすがに体育だから、技能面が重視されるとしても、果たして全体の2分の1になるかどうか。目標をクリアしても、その評価は100分の25〜30(?)点くらいです。

 観点別評価とは児童が設定された目標にどのようにして到達したか。到達しなかったとしても、どの程度真面目に取り組んだか、努力したか――「意欲・積極性」なども「一観点」として「技能」と同じレベルで評価されている。ここでも「単に跳び箱を跳べるだけじゃダメだよ」と言っている(ように思えます)。

 たとえば、かたやタブレットを見ながら積極的に発言し、他の児童をリードしている子どもがいれば、かたやそれを聞いてうなずいているだけの子もいる。平べったく言えば、できる子ができない子に「こうすればできるようになるよ」と教えているように見える。これ自体別に悪いことではなく、むしろ良いことだと思います。
 そして、この様子が観点別評価としてABCが付けられる(のでしょう)。
 他の児童をリードしている子は「意欲・積極性・表現力」が高い。ただ聞いているだけの子はその点低い(ように見える)。
 ある二人が五段階ならどちらも「4」で、5に上げるか、4のままか――AにするかBのままか悩んだとき、もしも一人が積極的に他をリードする児童なら評定を「A」にあげ、もう一人は積極性に欠けると見えるので、評定「B」のままとなる。

 さらに、このような男の子もいると思います。彼は他の子がアドバイスをしてくれているのに、「うるさいなあ。オレは自分のやりたいようにやるよ」と言って反抗的な態度を見せている。すると、担任は「あの子は態度が悪い。協調性に欠けるからCだな」と評価する……。
 私が見る限り、テレビの中の小学生で反抗的・非協調的な子どもはいない。みんな「とても良い子」に見えます。
(作者注……これは皮肉です)

 要するに、保護者が3段階評価として見ている通知票の「A」にはものすごくよくできる「5」と、よくできる「4」が混じっている。そして、「B」にはよくできる「4」と、普通の「3」が混じっている。最後に「C」には普通の「3」と、普通よりちょっと下の「2」と、かなりできないか、全くできない「1」が混じっている。
 しかし、それは所詮知識面、技能面の評価でしかない。他の三観点――自ら考え活動しているか、積極的か意欲的か等々もAでないと、教科全体としてAは付かない。

 これは昔の相対評価体験者、筆記試験で九十点、八十点以上であったり、実技科目が得意だった人――結果小中で「5」が多かった親御さん、祖父母にとって「理解しがたい」成績評価かもしれません。
 しかも、5段階ではなく3段階になった結果、「C」に5段階の「3・2・1」が入ってしまいました。5段階なら「2」は普通以下だから、「努力して3にしよう」と言いやすい。そして、次の学期に「3」がついたら、「努力したから3になったね」と誉めることができる。

 ところが、3段階評価では児童や保護者の気持ちとしてテストを50点から70点にした、鉄棒で逆上がりができるようになったとしても、評価はCからC、BからBで変化がない……という悲しい通知票を見る羽目になりそうです。もちろん観点別評価では「C→B」、「B→A」があるかもしれません。だが、総合評価は「C→C」、「B→B」のままという意味です。

 また、授業における意欲・積極性についても難しい面があります。
 たとえば、クラス40人を1グループ5人の8班に分けた場合、班の中でリーダー的に活躍できる子は一人でしょう。誰か一人が前面に出てボス的存在になったとき、他の四人はその下で言う事を聞く部下になりやすいと思います。結果、A評価が付くのはこのボスであり、他の子はBかCになる。
 もしも意欲と積極性を示そうと思った子どもが「ここは自分がリードしよう」と、Aに取って代わろうとすれば、権力争いが起きるかもしれません。すると、負けた方はその班に居づらくなるような気がします。しかし、仕掛けなければ、意欲・積極性においてAを獲得することはできません。
 これっていじめの遠因になりはしないか、と心配するのは私だけでしょうか。

 かくして(ネットのご意見をつらつら読むと)、「絶対評価はいいけれど、3段階より5段階の方がわかりやすい。小学校も5段階に戻すべきだ」との意見が多いようです。
 しかし、きつい言葉を敢えて書くと、私にはこのような発言をする大人は子どもの感情など考えたこともない、地獄で亡者にムチをふるう鬼みたいな人だと感じます。
(作者注……理由はここでは説明しません。「そんなことはない」とおっしゃいますか?)。

 それはさておき、再度中学校の成績評価に戻ります。
 小学校の3段階に比べれば、中学校の5段階絶対評価は感覚的にわかりやすいと思います。とてもよくできるから「5」、よくできるから「4」、普通だから「3」、イマイチだから「2」。そして、不可にあたる「1」。
 かつて相対評価では「1」も必ずつけていました。が、絶対評価となった今、中学校で「1」を付けないのはそれが「不可」を意味するからだと思います。
 もしも不登校で学校の授業や試験類を全く受けていなければ、成績は全教科「1」になるはず。本来なら「不可」だから留年させてもう1年、2年やらせる必要がある。しかし、中学校では「1」も評価であり、単位取得となるので、留年はなく、3年経てば全員卒業させる――というシステムになっています。
 もちろん中学校においても、意欲関心、積極性、表現など観点別評価4つから5つによって評定「5〜1」が付く点は変わりません。

 長くなって恐縮です。もう一つ、絶対評価と呼びながら、児童生徒全員Aや「5」にならない理由、あるいは、全員Cとか「2」にならない理由があります。それは小学校の担任、中学校の教科担当など、先生によって極端な評価が出てはまずいという判断が働くからです。
 保護者にとって全員「5」ならまだしも、全員「2」だと知れば、クレームをつけたくなるはずです。
 特に一学年が複数クラスの場合、わが子のクラスは「A」や「5」が一人もいない。ところが、隣のクラスは「A」や「5」が半数もいる――と知ったら、「これはどういうことですか」と学校や教育委員会に怒鳴り込みたくなります。
 こういう事態にならないよう、校長先生はクラスの成績分布を提出させ、チェックしているはずです。場合によっては内部規約としてクラス40人だったら、Aは10人まで、Bは20人前後、Cも10人前後と決めているかもしれません。中学校なら、教科担当において「5」は10人まで、「4」も10人まで、「3」は何人……と決めているとしたら、それはもはや「絶対評価」と呼べないでしょう。



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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:新型コロナウイルスは日本でも大変な事態になりつつあります。
 テレビを見ながら、政府の後手後手の対応、ひどい方針に「どうして未来を読めないのか。一人一人の気持ちを考えてくれないのか」とつぶやいています。政治家と官僚に「一読法を勉強してほしい」と叫びたい気持ちです。

 これまで書いてきたように、未来予想で難しいことは何もありません。ただ三つ――楽観的未来か、悲観的未来か、どちらでもない未来を想像すればいいだけ。
 今回の件は中国がとんでもない状態になっており、日本にも1月半ばまでに同国観光客が多数来訪していることを思えば、市中感染→全国的感染という悲観的未来を想定すべきでした。しかし、1月半ばに「中国人入国禁止」とすることは野党政権でもできなかったと思います。
 そのうちクルーズ船のことなどいろいろ語りたいと思いますが、取りあえず今後について(たぶん誰も聞いてくれないであろう)提言があります。

 それは日本も中国のように全ての入出国を禁止し、官民あげて交通・経済活動など全てを停止、2〜3週間の外出禁止とすることです(食料販売系、警察・消防・医療関係などを除く)。日本が武漢や北京のようにゴーストタウンとなりますが、やむを得ません。

 日本は都市から地方まで切れ目がないので、ある都市、ある地域限定にできない。やるなら全国全土だと思います。島国だから海外からの流入は遮断できる。その間にウイルス感染者・発症者をあぶり出すのです。

 すでにイベントの中止、生産・販売・サービスの縮小・停止が始まっており、そのうち都市は実質的にゴーストタウン化すると思います。また、諸外国の「日本人入国禁止」も広まるでしょう。
 このまままだらだらと感染者が増えていけば、経済活動の萎縮は数ヶ月続き、外国人は全く日本に来なくなり、オリンピックの延期さえあり得るかもしれません。

 日本全土2〜3週間の活動停止など不可能と言うでしょうか。巨大台風が日本をおおって2〜3週間停滞していると思えば、交通機関はストップして我々は家に閉じこもるしかありません。つまり、可能ということです。

 中国の都市封鎖は2週間で終わっていません。それは開始が遅かったからです。今なら日本の「全国封鎖」は間に合うかもしれない。もはやカンフル剤を打つべきところにいる、と感じます。

 私は恐怖や不安を煽っているわけではありません。冷静に未来を予想して、できることを早め早めにやろうと言いたいだけです。
 政府はどうやら楽観的未来を予想しているようです。もちろんそちらが当たって我が予想が外れることを願っています。 御影祐
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「一読法を学べ」  第 35 へ (2月28日発行)

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