カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 36号

一読法からの提言T

 6「その場しのぎの教育・勉強をやめませんか」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 36号

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           原則隔週 配信 2020年3月20日(金)



 今回の提言は「その場しのぎの教育・勉強をやめませんか」です。
 コロナ騒動は別稿に回したので、こちらに集中します(^_^)。

 [以下今号]提言 6
 [ 6★ その場しのぎの教育・勉強をやめませんか。

 以下次号
 [ 7☆ ] 国社数理英五教科の内容、到達点を半分にしませんか。
 [ 8★ ] 高校入試、センター試験(共通テスト)をやめませんか。
 [ 9★ ] 成績つけるのやめませんか。


 本号の難読漢字
・凌(しの)ぐ・急(せ)かす・頑健(がんけん)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 36 一読法からの提言編T

 6 その場しのぎの教育・勉強をやめませんか

[6]★ その場しのぎの教育・勉強をやめませんか

 これは学校の先生方への、そして、学校で学ぶ児童・生徒、学生達への提言です。
 その場しのぎを漢字で書くと「其の場凌ぎ」となります。「凌ぐ」本来の意味は「苦痛や困難に屈しないで、耐えしのぶ」という立派な意味です。
 が、その場しのぎになると、「当面その場をやり過ごすこと。簡易的、暫定的、便宜的。本格的でなく場当たり的。間に合わせ、行き当たりばったり、とりあえず」となってどうも不甲斐ない意味ばかりです。まとめて言えば、「当面の苦痛、困難さえやり過ごせばいいや」という活動になりましょう。

  私は中学校から五年生の高専に進学し、三年で中退して一浪後大学国文科に進路変更しました。所謂国社数理英だけでなく、工学系の「機構学」とか「材料力学(教科書は英文)」など、多くの科目を学びました。
 そのうちその場しのぎでなかった教科は国語と日本史、世界史、政治経済だけです。後は専門科目を含めて英語、理科、第二外国語のドイツ語など、全てその場しのぎ――すなわち、テストで合格点を取るためだけの勉強だったと白状します。
 そこで小中高の先生方に問いたい。全ての大人に問いたい。
「あなたもそうではありませんか」と。得意な科目以外はその場しのぎの勉強だったのではないですか

 なぜその場しのぎの勉強になるのでしょう。思いつく理由は以下の通りです。
 すべからく勉強というものが、大きな目的・目標のためにやる活動であるなら、中高生は以下三つのタイプに分かれると思います。

 (甲) 将来何になりたいか、目標や職業が決まっている。
 (乙) 将来何になりたいか考えてはいるが、まだ決められない。
 (丙) 今楽しければいいから、将来の事なんか考えない。

 先生方と大人が子どもに推奨するのが甲。乙や丙に対しては盛んに「将来何になりたいか早く決めなさい」と急かすことになります。

 余談ながら戦前男子が二十歳になると、素っ裸になって受けねばならなかった徴兵検査でも「甲・乙・丙」の判定が下されました。「身体頑健」な甲種が合格。乙種は予備兵として登録され、丙種は不合格。それは「身体上極めて欠陥の多い者」と「目・口が不自由な者、精神に障害を持つ者」でした。丙種は「兵役に適さない」とあります。
 この発想が戦後になっても、「優生保護法」やハンセン氏病、精神病の隔離政策につながり、現在に至るも、競争に敗れた者は役立たずであり、いなくていいと見なす風潮につながっている……そう感じるのは私だけでしょうか。

 それはさておき、私は中学校時代将来なりたいもの、就きたい職業など全く決められない乙種人間でした。心の底の方では「小説家になりたい」というほのかな夢がありましたが、「お前にゃ無理だ」と言われると、黙るしかない子どもでもありました。

 高専に進学したのは「普通科高校に行きたくなかった」だけであり、偏差値60程度しかなかったし、当時高専の倍率は3倍もあったから、「どうせ落ちるだろうが力試し」と思って受けたら合格してしまった。だから高専に行った。あの頃「エンジニア」とは何をする人か、全く知りませんでした。

 もう一つ。目標のあるなしに関わらず、今やっていることが得意か不得意か、それによって分けることもできます。人には何事も得意なことがあり、不得意なことがある。好きな活動か、嫌いな(あまり好きでない)活動があります。おおざっぱに分けると、座学が得意か、身体を動かすことが得意か。

 かたや実技派――身体を動かす体育が得意か好き。手を動かして絵やマンガを描いたり模型工作が好きか得意。最後に歌を歌ったり、楽器を演奏することが得意か好き。すなわち、体育・美術・音楽が得意な実技派
 かたやそうした活動が苦手で教室や図書室で本を読んだり、いろいろ調べたり考える活動が得意か好き。こちらは国社数理英の座学派でしょう(この中にも理科の生物観察・化学実験など実技的科目もあり)。すると生徒は次の三派に分かれるでしょう。

 (1)実技より座学が好きか得意。
 (2)座学より実技が好きか得意。
 (3)どちらも好きでなく得意でもない。

 一言補っておきたいことがあります。それはこの分類を固定的にとらえないでほしいということです。生徒の成長によって実技から座学、座学から実技へと変わることがあるし、どちらも好きでなく得意でなくとも、あるとき突然何かに目覚めたかのように激変することもあります。

 そして、座学と実技全部まとめて成績を付けると、以下のように優等生として評価されるAから、劣等生と見なされるEまでランク付けされるでしょう。

 A 座学も実技も得意な生徒。文武両道の優等生。
 B 座学も実技も平均点+10以上を取れるタイプ。
 C 実技も座学も平均点前後の中等生。実技は優秀だが、座学が平均点以下。
 D 座学も実技も平均点-10以下のタイプ。
 E 授業はつまらなく、実技も座学も適当にやっているタイプ。

 中学校の5段階評定とはこれを表していると言えそうです。そして、ABCDEはさらに将来の目標が決まっている甲と将来の目標が決まっていない乙・丙に分かれます。Aの甲、将来の目標が決まって座学も実技も得意なら、文句なしの優等生。究極は5段階のオール5でしょう。
 また、Eに付け加えるなら、学校は仕方なく行くところであり、放課後遊ぶ事が楽しく、校内外の悪友とつるんでいれば、Eの下であり「劣等生」と呼ばれるでしょう。

 ところが、「その場しのぎの勉強」という観点から眺めると、AからEまで生徒は全てその場しのぎの勉強になります。
 こう書くと「そんなバカな」と言われそうです。が、本当です。

 まず将来の夢、目標が決まっていれば、それに関係した実技座学以外全ての科目は「本気でやりたい」と思えないはず。たとえば、野球選手、サッカー選手になりたければ、体育は(まずトップクラスであり)楽しく面白いけれど、他の全ての教科は平均点さえ取れればいい(最低でなければいい)と思うからその場しのぎ。

 一方、座学派で、大学の文学系、社会系を目指すなら、数理教科はその場しのぎ。逆に数理系、工学系を目指すなら、国社教科はその場しのぎ。座学派でも実技科目の体育・音楽・美術も得意なら成績上位を目指すけれど、得意でなければ音美体はその場しのぎ。英語は英米・外国語文学系志望、外交官、政治家志望でなければその場しのぎ。

 将来の目標が決まっていてさえこうだから、将来何になりたいか決まっていなければ、どの教科を取っても「将来につながっているか、つながっていないか、わからないなあ。取りあえず平均点以上を目指そう」と思うからその場しのぎ。必要かどうか、使うかどうかもわからない英語は当然その場しのぎ。

 結局、進路と結びつけられた勉強は、関係があれば一所懸命勉強するけれど、関係がない教科はその場しのぎとなり、進路が決まっていなければ、全ての教科がその場しのぎの勉強になる……と私は思います。

 もう一度「その場しのぎ」の意味を書いておくと、当面その場をやり過ごすことであり、本格的でなく場当たり的であること。行き当たりばったりであり、とりあえず「当面の苦痛、困難さえやり過ごせばいいや」という作業であり、生き方です。
 このような勉強では「学んだことが血となり肉となるはずがない」と言ったら言い過ぎでしょうか。
 小中高12年間の勉強、家庭学習は生活の多くを占めています。勉強がその場しのぎでは生き方そのものもその場しのぎになってしまう。そう思うのは私だけでしょうか。

 では、なぜその場しのぎの勉強になるのでしょう。
 一つは国社数理英の授業が講義型であり、もう一つはテストがあるからだと思います。勉強が取りあえずテストという困難を乗り越えるための作業になるのです。
 しかし、講義型授業において成績を付けるにはテストをやるしかありません。すなわち、講義型授業の成績評価=筆記テストなのです。

 と言うのは、講義型授業は一人の先生が多数の生徒に講義をする形で行われます。たまに質問、回答があったとしても、一人一人がどの程度活動したか、しなかったか、教師には全くと言っていいほど見えてきません。ノートを提出させることもあるけれど、「きれいに書かれているかどうか」の違いがある程度で、内容はほぼ板書事項ばかり。つまり、差がない。だから、単元の内容をどの程度理解したかは全員に同じテストを行うしかありません。

 逆に大学の「演習・ゼミ」を考えてみます。これは一人一人に課題が出され、その範囲について調べたり、考えたりしたことを発表したり、論文やレポートとして提出されます。
 この作業は通常図書館にある膨大な資料や論文を読んでまとめねばならないので、時間がかかります。数ヶ月から、卒論などは1年かけてやります。
 大学では上の学年に行くほど空き時間が増えます。別に学生や先生方に楽させているわけではありません。学生はその時間図書館で調べ物をし、うんうんうなりながら論文やレポートを書き、先生方はそれを(うんざりしつつ)読まなければならない。だから、空き時間が多いのです。

 また、演習・ゼミは先生方の研究分野(か得意科目)に限られます。そうでないと、学生が書く論文やレポートを評価できません。
 たとえば、才気あふれた国文の学生が「先生もさすがにこの解釈は知らないだろう、読んでいないだろう」と書けば、「君の解釈はあの雑誌で誰それがすでに書いているぞ」と言われてぎゃふんとなる。そこまでないと大学の先生は務まりません。
 いずれにせよ、学生はこうした作業の結果として論文やレポートを提出するから、それが評価の対象となります。だから、テストをやる必要がないのです。

 と言うより、自分に課された範囲以外をテストで質問されても答えることができないし、意味もありません。なぜなら、学生による稚拙な論文やレポートは記憶するほどの値打ちもないからです(と教授陣は考えているはず)。
 よく「今までの研究をまとめるだけでは何の意味もないぞ。新しいことを追加しなさい」と言われました。しかし、ホンネでは学生の論文に新しさなんぞ求めていない。演習とはあくまでどのように研究するかの訓練なのです。

 もちろん大学でもテストをやることがあります。それは主として多数の学生を対象とする講義型授業の場合です。もしも中高の授業が大学のように調べて発表したりレポートを提出する形なら、テストは必要ないのです。

 中高で学んでいることは座学の国社数理英と実技の音美体に分かれます。定期テストはほぼ国社数理英の五教科で行われます。まれに実技科目も知識が習得されているか確認のための試験が実施されるけれど、基本は実技ができているかどうか、うまくできるかどうか。

 一方、五教科の筆記試験は九割方「授業でやったことの確認テスト」であり、「それを暗記しているかどうか」の試験です。試験の多くは語句穴埋め(記号解答式)問題であり、数学も公式・解法を暗記しているかどうかの試験です(現役の先生から「それは昔の話。最近は違うよ」と言われそうですが、まー読み進めてください)。

 つまり、その範囲の内容を丸暗記していれば高得点が取れる。内容への疑問反論を抱えていても、取りあえず教わったことを答えれば[○]がもらえる。そして、それで終わり。テストが終わると新しい単元に入る。また、丸暗記して次のテストを乗り切る。終わったら忘れる。

 なぜこのように断言できるのか。定期テストに「教科書、ノート持ち込み可としたとき、何点取れるか」調べればわかります。私の感触では(入試など応用問題を入れなければ)おそらくほとんどの教科で生徒は90点以上を取るであろうと思います(「最近のテストは違う」とおっしゃるなら、タブレットを含め持ち込み可としてテストを行ってみてください)。

 結局、問われているのは脳内パソコンの優秀さ。あるいは、この丸暗記作業に疑問を持たず、空しいと思わず、そう感じても「やらなきゃ落ちこぼれる」と思って賢明に記憶作業に励む。その忍耐力のあるなしが評価されているだけ――と言ったら、言い過ぎでしょうか。

 このいやいややらされた、その場しのぎ勉強の結果、どのような大人ができあがるか、もうおわかりでしょう。

 一例をあげるなら、史学科以外の大学卒業生は江戸時代が何年、何世紀に始まり、鎖国は何年続いたか。幕府はなぜ鎖国をやめたのか(やめさせられたのか)。明治維新とはどのような出来事だったのか、答えられない人ができあがります。
 日光東照宮に知り合いの外人さんを案内しても、「そこに祀られている人は誰か」教えてあげることができません(これくらいはスマホを検索しなくとも、言える日本人でありたいものです)。

 かくしてその場しのぎの勉強を中高6年間続けたあげく、国社数理英の内容は大学に行かなければ、記憶残存率1割か2割。大学に行っても志望学科以外の科目は同2、3割。学校を離れると、もう教科書など読むこともない。国社数理英を勉強し直すこともない(英語だけは必要なときに駅前英会話教室に通う)。

 勉強とはテストのために無理矢理覚えさせられる作業だ――といういやな記憶しか残っていない。だから、働き始めて仕事を終えた帰宅後、あるいは土日の休日「面白そうな教科書」を読むことはない。そもそも教科書を「面白い」と思ったことなどないでしょう。

 仕事と満員電車の通勤でぐったり疲れているのに、「晩酌後に教科書なんぞ読めるか」とおっしゃいますか。それでいいのですか。
 いやいや、国は《生涯学習》を人生の目標に掲げています。教育基本法第三条において「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習する」と定められているのです(単なる努力目標としても)。

 これを具体化するなら、お子さんが(いて)小中高になったら、一緒にニュースを見ながら意見を交わす。お子さんと一緒に日本史の教科書を読み、疑問点を出し合い、スマホやパソコンで調べる――そうした(子が学び、親も学ぶ)家庭学習があっていいということです。やってないでしょうねえ。

 子ども部屋があるなら、彼らを一室に閉じこめ、自分はテレビのお笑い番組と連続ドラマを見つつ、コマーシャル時間に子ども部屋に行って「おい。勉強してるか」と聞く。
 そのとき不肖のわが子がマンガを見たり、テレビゲームやラインをやっていると、「何やってんだ。勉強しろ!」と怒鳴りつける……なんと素晴らしい親御さんでしょう。

 もっとも、この親御さん、かつて親から同じことを言われて育った子どもでした。そのとき内心思っていたことは「ああ、早く大人になりたい。そうすれば、こんないやな勉強しなくて済む」だったでしょう。今わが子は同じ言葉をつぶやいてその場しのぎの勉強に励んでいるはずです。さても歴史は繰り返す……。

 結局、学校は子どもたちに勉強の面白さを伝えられなかった。結果、日本の学校教育は「生涯学習なんぞとんでもない」と思う大人をたくさん産み出したと言うしかありません。
 大人になった自分はもう勉強しなくていいんだ、自分の務めは子どもに「何やってんの。勉強しなさい」と言うことだ――そう感じているとしたら、この親御さんたちもまた日本の教育の悲しき犠牲者であると私は思います。

 勉強を進路と結びつけ、テストのためにやる活動だと見なすと、勉強は必然的にその場しのぎとなる。中間テストという小山を越え、期末テストの小山を超えると、「終わった」と安心する。中学校の3年間を終えると、高校入試という中くらいの山がある。それを乗り越えるのに懸命に勉強する。高校入試が勉強の目的となっている。それを乗り越えると、また高校で中間、期末を当面やり過ごすため、その場しのぎの勉強が始まる……。

 生徒がその場しのぎの勉強になっているのは生徒の問題であると考えている先生方が多いようです。私は本末転倒であると思います。「テストがあるから、その場しのぎの勉強になる」のです。
 テストがあると、テストで良い点を取ること、せめて平均点以上を取ること――それが勉強の目的になります。
 先程富士山という高く遠い目的を目指すことが本格的な勉強だと書きました。中学校、高校入学時、すでにその目的を見つけている甲種生徒は本格的な勉強をスタートできるでしょう。だが、目標が明確な生徒が何人いることか。それがない乙種・丙種生徒はその場しのぎの勉強になります。あるいは、目指す富士山と関係ある科目は本格的な勉強をしたとしても、関係ない(と考える)科目はその場しのぎ勉強となりがちです。

 では「その場しのぎ」ではない勉強とはどのようなものでしょうか。私は幸いにも高専の3年間でこれを体験しました。高専とは「工業高等専門学校」と呼ばれるように、そもそもで言うと、工業系の専門学校です。五年で卒業して工業系企業の技術者になることを目指しているので、理数、工学系の科目を学ぶことが中心となります。

 先程も書いたように、私はエンジニアになりたくて高専に行ったわけではないので、工業系の科目はすぐに落ちこぼれて「留年(高専は59点以下で不可がつき、それが2科目で留年)しないため、60点以上を取るその場しのぎ」勉強になりました。

 しかし、(高専の先生は教授・助教授・講師と呼ばれ、自ら研究もしていたので)国語や社会の日本史、世界史、政治経済などは大学並みの講義が行われていました。たとえば、2、3年の現代文を学んだ先生は後に芥川龍之介研究の第一人者となりました。歴史の先生も大学に移って研究を続けていたし、政治経済の先生は著書を出していました。
 彼らの授業は講義ではあったけれど、とても刺激的で面白かった。それもあって私は俄然文系科目の興味関心が目覚め、自分でもその関係の書物を読み、先生と議論することもありました。一言で言えば、「学ぶことの面白さ」を感じたのです。

 その教科を勉強する意義、楽しさ、深み、総じて言えば「これは面白い」と感じること。知的好奇心を刺激し、学ぶことが楽しいとわかれば、理解も到達度も高く深くなります。これが「その場しのぎ」ではない本格的な勉強だと思います。

 さて、「テストをやめ、その場しのぎの勉強をやめましょう」と言うと、先生方から「テストをやめると、児童生徒の理解度・到達度がわからない」との反論が出ます。「テストがないと成績を付けることができない」とも。
 これこそ通読・精読の三読法講義型授業ゆえ、と言わねばなりません。一読法なら、テストをやらなくとも生徒の理解度・到達度がわかります
 三読法に基づく児童生徒のノートは板書事項がそのまま書かれているだけです。一読法なら、その過程は教科書の書き込み、ノートに記された様々な疑問、感想、異論反論を見ればわかります。つまり、理解度到達度を知る事ができます。ここでも三読法がテストを生みだしていると言えるのです。

 もっとも、次のような反論も当然起こるはずです。
「それはきれいごとだ。面白い内容の事もあるが、指導要領に示された教科内容の多くは難しかったり、つまらないことが多い。最低限覚えねばならないことがある。それに入試がある」とおっしゃるでしょう。そこで、次の二つの提言が生まれます。

 ☆ 国社数理英五教科の内容、到達点を半分にしませんか

 ★ 高校入試、センター試験(共通テスト)をやめませんか

 この詳細に関しては次号以降に詳しく語ります。

 最後に、小中高の成績付けとかコロナウイルス騒動をはさんだので、以前の「やめませんか」が雲散霧消したのではないかと思います。勉強面の「やめませんか」について本節も含めてまとめておきます。

 学校で学ぶ勉強とは一体なんのため、誰のためにやっているのでしょう。
 もしも……

 1 お父さん、お母さん、学校の先生に誉められるため、叱られないためにやっている……なら、そんな勉強やめませんか?

 2 テストのため、宿題のため、高校入試のため、大学入試のためにやっている……なら、そんな勉強やめませんか?

 そして、将来の目標が決まっている甲種と決まっていない乙種丙種の生徒へ。

 3 将来何になりたいか決まっている人。素晴らしいことです。が、それに関係する勉強は一所懸命やるけれど、その他の勉強はその場しのぎになっている……なら、そんな勉強やめませんか?

 4 将来何になりたいか決まっていない人。それでいいと私は思います。そんなに簡単に決められるもんじゃありません。しかし、決まっていないとあらゆる勉強がその場しのぎになりがちです。
 何か一つでもいい、できたら二つ。好きな教科、得意な教科について、テストのための項目暗記勉強をやめ、一読法による勉強――自ら疑問を発し調べて答えを探す勉強――を始めてみてください。きっと「勉強することの面白さ」に目覚めると思います。

 もちろん最後の「一読法による勉強」は将来何になりたいか決めている人へのアドバイスでもあります。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「もう長い後記はいいだろう」と思ったら、最近ぜひお知らせした方がいい事実を知りました。衆議院、参議院から自治体の各種選挙における「何それ?」の驚愕事実です。
 選挙ではまず「投票所入場券」が所在地に送られ、それを持って投票所に行きます(紛失しても申し出ればいい)。このごく普通の流れの中で驚くべき事態が起きていました。投票所入場券が「宛先不明」で担当者に戻ってくる。それが東京都だと平均2パーセントくらいあると。選挙人10万人あたり2000人です。
 問題はこの先。「その後所在が確認できないと、住民票が取り消される」というのです。つまり、その人は住民票がない人となる。主として車上生活者、ホームレスがこの事態に陥るそうです。すると、部屋を借りるにも携帯を取得するにも苦労する。たとえば、空き家は所有者が確認できなくとも、簡単に取り壊すことができません。なのに、所在が確認できないくらいで、住民票失効……って「ひどくないか」と思った次第です。
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「一読法を学べ」  第 37 へ (4月03日発行)

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