カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 38号

一読法からの提言T

 8「成績をつけるのは誰のためか」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第38号

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           原則隔週 配信 2020年4月17日(金)



 今号は「★ 成績つけるのやめませんか」についてさらに深掘りします。
 題して「成績をつけるのは誰のためか」

 私が小学校高学年の頃、四つ違いの兄は中学生で高校入試のための勉強真っ最中でした。その頃入試は国社数理英だけでなく、音美体に男子は技術、女子は家庭も入っていました。すなわち九教科の筆記試験です。
 さすがに実技科目は評価できないとわかったか、あるいは、単に「入試勉強の負担が重過ぎる」と思われたか、私の高校入試のときは実技を除く5教科に変わっていました。以後現代に至るまで高校入試の5教科は継続されています(推薦試験は導入されましたが)。

 前号「成績つけるのやめませんか」との主張は実技科目の具体例が多かったと思います。よって、反論として「実技科目に客観的な成績評価が難しいことはよくわかる。だが、主要五教科なら指導要領に定められた内容を到達点として評価している。それを知識として持っているか、応用できるか、テストによって点数化できる。だから、「成績評価は可能だし、成績がなければ入試に対応できない」との反論が出されるでしょう。

 それに対して私は「そもそも」論で応じます。そもそも、成績をつけるのは本人のためなのだろうか。多くの人は成績をつけなければ、子どもは勉強しないと考えている。悪い成績だと自覚させることで、努力させ、がんばらせることができる。だから、成績をつけるのだと。しかし、本当に本人のために成績をつけているのか。改めて誰のため、何のために成績をつけるのか。本節はこの問題を掘り下げます。

 [以下今号
 [] 成績をつけるのは誰のためか。

 [以下次号]
 九「小中の先生方に絶対評価はできない」


 本号の難読漢字
・脅(おど)す・無頓着(むとんちゃく)・対峙(たいじ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 38 一読法からの提言T

 8 成績をつけるのは誰のためか

[8] 成績をつけるのは誰のためか

 さて、世の中で暮らす人間集団を《個人と全体》に分けるなら、子どもに成績をつける、競争させる、がんばらせる、努力させるのは個人である本人のためか。それとも、社会全体のためでしょうか。
 選択肢は次の三つ(わけあって[B]とします)。

[B] 子どもに成績をつけるのは誰のためか?
1 本人のためである。
2 社会のためである。
3 本人と社会のためである。

 多くの人は「もちろん3。本人のためであり、社会のためでもある」と答えるのではないでしょうか。1が最も強い理由だが、それだけではない。2とも言えない。個人と社会は切り離せない。成績をつけることによって本人ががんばるし、有能な人間が増えれば社会にとっても有益である。だから、答えは3であると。
 よろしいですか。ほんとに3の答えが正解ですか。

 では、次の質問はどうでしょう――どうだったでしょうか。
 以前「そもそも学校の勉強とは一体何のため、誰のためにするのか」と問題提起しました。以下の質問に「はい・いいえ」でお答え下さいと。

1 父親のため、母親のため、学校の先生のために勉強する。はい・いいえ
2 テストや宿題のために勉強する。 はい・いいえ
3 入試に合格するために勉強する。 はい・いいえ
4 社会に出たとき、企業・組織のために勉強する。 はい・いいえ

 多くの人はこの質問に対して1と2は「いいえ」と答えたはずです。3も「いいえ」だが、取りあえず志望校に合格しなければならないから、「はい」でもある。4は「『はい』とは言いたくないが、『いいえ』でもない」でしょうか。

 1、2に戻ると、大人は子どもに対して次のように言い聞かせているはずです。
「勉強とは親のためにやるのではない。いわんや学校の先生のためでもない。お前自身のためだ。テストや入試も将来の目的のための通過点に過ぎない。入試のために勉強しているのではないんだ」と。1・2の質問に対して「はい」に○をした人はいなかっただろうと思います。

 実はこの質問の答えとして「はい・いいえ」の二択しか用意しなかったのは、巧妙に(?)仕組まれた罠です。
 1、2は誰でも「いいえ」と答えて安心する。「勉強が本人のためだなんて当然じゃないか」とつぶやき、それ以上考えようとしない。「さて、本当に本人のためだろうか。親である自分のためかもしれない」と振り返る人は少ないでしょう。

 どこの親も子どもが素直で言うことを聞き、学校の勉強はよくやり、成績もそこそこ良ければ安心します。しかし、その反対だと二つか三つは小言を漏らすし、子どもの将来を心配する。
 そんなとき誰かから「子どもに勉強させるのは本当に本人のためですか。案外あなた自身が安心したいからではありませんか」と言われたら、果たして「そんなことはない」と断言できるでしょうか。

 それに中学生の我が子がまだ将来のことを決めていなければ、「取りあえず高校入試目指して勉強しろ。将来のことは高校でゆっくり考えればいいじゃないか」と言っていませんか。
 それはつまり、現在の勉強は入試に合格するためであると認めていることになります。中学校時代の私は正にこのタイプでした。

 また、4については「社会に出たとき、一人前の人間として働くために勉強は必要だ。それが結果的に企業や組織のためになる。世の中で役に立つ人間を目指して勉強するのは当然だ。だから『いいえ』ではないが、『はい』とも言いづらい」とつぶやくのではないでしょうか。
 何にせよ、ちょっと深く検討すると、選択肢には「はい・いいえ」だけでなく、「どちらとも言えない」とか「《はい》とも《いいえ》とも言える」が必要だと気づきます。3と4に関しては特にそう感じた人が多かっただろうと思います。

 1も同じく3つ目の選択肢が必要です。それが「勉強とは本人のためであるが、親のためであり、学校のためでもある」という選択肢です。
 以前は二択だったのに、今回[B]の質問では三択にしています。これら誘導尋問のような問いかけには「あれっ、YES・NOの二択でいいのかな?」と異和感を覚えてほしいものです。以前から何度も触れています。解釈や未来予想には最低三つを思い浮かべようと。

 余談ながら、二択の主張はかつて「隣の国と戦争をするかしないか、二つに一つだ」といった論法で使われました。このような問いかけは「戦争によってしか事態を解決できない。戦争をしなければ敵国に占領され、屈辱的な目にあう」など、「しない」という選択はないかのように主張されることが多い。
 かくして戦前の日本は戦争に突き進み、敗色濃厚となってもリーダーは「一億総玉砕だ。本土決戦だ」と主張する。結果、否やもなく多くの命が失われました。今でも政治家は――某大統領のように「他国か自国か、敵か味方か」の二択を迫ることが多いので注意が必要です。

 相変わらず横道ばかりで恐縮です。
 本題に戻ると、「子どもたちが勉強をするのは誰のためか」という質問は次のように三択にできます(これが最初の質問なので[A]とします)。

[A] 子どもたちが勉強をするのは誰のためか?
1 本人のためである。
2 父や母、学校の先生のためである。
3 本人のためであるし、父や母、学校のためでもある。

 もっとも、三択に増やしても……やっぱり勉強は1「本人のためである」に落ち着きそうです。

 そこで、最初の質問「子どもたちに成績をつけるのは誰のためか」に戻り、[A]と比べつつ再度[B]の答えを考えてください。

[B] 子どもたちに成績をつけるのは誰のためか?
1 本人のためである。
2 社会のためである。
3 本人と社会のためである。

 私は思うのですが、もしも[A]で1と答えたなら、[B]も1に○を付けるべきです。[A]が2なら[B]も2。逆に言うと、[B]が2なら[A]は2。
 そして、(多くの人が○をしたであろう)[B]の3、成績をつけるのは「本人と社会のためである」と言うなら、[A]においても3、勉強をするのは「本人のためであるし、父や母、学校のためである」に○をするべきだと思います。なぜなら[A]と[B]は同じことを質問しているからです。

 ――と書けば、「いやいや、AとBは同じではない。子どもが勉強することと、彼らに成績をつけることは同じではない」と反論されるかもしれません。
 では、勉強ではなく、以下のような生活面ならどうでしょう。
 わが子が「学校の制服はダサイから着たくない。私は私服で行く」とか「ピアスをする、髪の毛を染めて行く」と言ったら……。
 学校の先生はほぼ例外なく「ダメだ!」と言います。昔は門の前で「学校に来るな」と追い返されたことがあります。今でもそうでしょうか。
 親御さんもまた「校則で決められているからダメだよ」とわが子を説得する(か、脅したりすかしたり、殴ってでも言うことを聞かせる)。子どもはしぶしぶ従うしかない……。
 この場合、次のような質問をつくることが可能です。

[C] 学校で制服を決め、頭髪の染色・ピアスを禁止するのは誰のためか?
1 本人のためである。
2 父や母、学校の先生のためである。
3 本人のためであり、父や母、学校のためである。

 [C]の質問に対して大人が1と答えたら、子どもは「嘘つき」と言うでしょう。校則のほとんどは本人のためではなく、親や学校のためにあると知っています。この場合は1でもなく、3でもない。社会がそう決めている。社会がそれを求めているからだとわかっています。

 それでも、親御さんや先生方は「いやいや、そんなことはない。子どもたちにはルールを教えねばならない。ルールを守ることは世の中を生きていく上で必要である。だから、子どもたち本人のためだ」とおっしゃるかもしれません。

 もしも日本という国が全体として制服が決められ、頭髪の染色・ピアスが禁止されているなら、学校でそのルールを守る訓練をするのは意味あることかもしれません。全体主義を採用する某大国はかつて「人民服」が国民全員の制服でした。あるいは、今でも特定宗教国家は女性に対して「顔を隠すこと」を強要しています。これって男も「顔を隠せ」と言うなら、まだわからなくはありません。

 もちろん日本でも、仕事によって制服というかユニフォームが決められているところはあります。大工さんの作業服などポケットが多く、機能的に作られた服はみな同じです。そして、その仕事に就けば制服なり作業服なりを拒否する人はいません。いやだったら、その仕事に就かないだけです。だから、わざわざ学校で制服着用の訓練をする必要はないのです。

 昔私が中学生だった頃「男子生徒は丸坊主とする」という校則がありました。さすがに今は(一部の部活動以外)なくなったようです。それも当時の社会がそれを求め、そう決めていたからでしょう。
 また、日本では大人に対して「髪の毛を染めてはいけない・ピアスをしてはいけない」という法律もありません。このように校則は社会にないルールであることが多い。よって、社会訓練にはならない。敢えて言うなら、理不尽な命令でも服従する訓練になっている(これは皮肉です)。

 むしろ制服を決めていることで、生徒は中高の六年間、自身の私服について考えることなく、無頓着に着ていることが多い。学校が「考える」訓練、指導を放棄しているとも言えます。
 これは制服のない高校の先生と話し合ったときにわかりました。
 私が「そちらは制服の指導がなくて楽ですね」と言うと、相手は「むしろ服装指導で大変です」と答えたのです。
 生徒によっては、社会通念上どうかと思われるような服装、夏など女子生徒の一部は薄着が過ぎる服装で登校する(教室にエアコンなどなかった時代です)。
 だから、「そんな格好じゃ痴漢に襲われるぞと、その都度指導している」と言うのです(もちろん校則違反ではない口頭指導です)。それを聞いて「ああ、それこそ本当の服装指導だな」と思いました。

 ただ、私は制服廃止論者ではありません。特に修学旅行などの校外活動は教師にとって制服姿である方がいい。あるいは、節目の行事は制服があってもいいと感じます。
 男子生徒の多くは制服肯定派でした。「制服があった方が毎日何を着るか迷わなくてすむから」と言うのです。また、一時期かつてのダサイ制服がしゃれたデザインに変わったときがありました。新らしい制服は女子生徒に好評で「繁華街には制服で行く」と語っていたくらいです。それもまた「あり」でしょう。
 よって制服は決めて構わない。しかし、それを着るかどうかは個人の判断に任せる。私服だけでなく頭髪、ピアス、リーゼントも同じ。行き過ぎたら一緒に考え指導する。それが世の中に出たときの訓練になると思います。

 また、道草食ったようです。以上ABC3つの質問は「親や先生は子どもの側に立つのか、社会の側に立つのか」――それについて考えてみようという質問でもあります。

 私は子どもと親御さん、学校の先生の関係について次のように考えています。
 学校の先生は社会の側に立って子どもと対峙している。親御さんも同じく社会の側に立っていると。

 このように問いつめ具体化してみると、ものごとの本質が見えてきます。
 わが子に勉強させるのは「本人のためである」などと言いつつ、実は「親自身のためでもある」と。
 たとえば、発展途上国では子どもをたくさん産みます。ご存じのようにあれは子どものためではない。親自身のためです。日本の戦前、多くの親は子どもを5、6人から7、8人、ときには10人以上産みました。あれは子どものためでも、親のためでもなく、男を労働者として、兵士として使役する日本国のためでした。つまり、個人と全体を比べてみれば、ものごとは個人のためではなく、全体のためであることがとても多いのです。

 そこで、なぜ子どもに、学生に成績をつけるのか。今度は社会(全体)の側から眺めてみます。すると、社会が要求する個人、企業や組織が個人の成績を求める理由が見えてきます。
 以前提起した「勉強は誰のため、何のためにするのか」に関する1〜4の質問を、4〜1の順に並べ替え、少々言葉を変えて再掲すると次のようになります。これらの質問に対して(二択ですが)「はい・いいえ」のいずれかで答えてみて下さい。

 [勉強をし、成績をつけるのは何のため、誰のためか]
4 個人が社会に出たとき、企業や組織が必要だから。 はい・いいえ
3 志望校に合格するには自分のランクを知る必要があるから。 はい・いいえ
2 成績をつけるにはテストや宿題が必要である。 はい・いいえ
1 不合格にならないよう、親のために勉強する。 はい・いいえ

 社会の側から眺めると、四つの質問は全て「はい」にならないでしょうか。勉強と成績が不可分である限り、これが社会と個人のホンネではないかと思います。
 では、もう少し詳しく4〜1を書き込んでみます。

 [児童生徒、学生に成績をつける理由]
4 個人に成績をつけるのは、企業・組織が優秀な人間・平均的な人間を選別し、採用するためである。
3 大学は優秀な人間、平均以上の人間を求めて大学入試を課す。高校も同様の理由で高校入試を課す。
2 テストや宿題は成績をつけるために必要であり、それはすなわち高校入試、大学入試のためである。ひいては企業や組織、社会のためである。
1 ゆえに、勉強とは本人のためではなく、社会のためである。中学校が成績をつけるのは高校のためであり、高校が成績をつけるのは大学のためである。最終的に企業や組織が優秀な個人、平均的な個人を選別するためである。親も学校の先生も社会の一員である以上、その養成に協力する。

 さて、これは暴論でしょうか。私はこれが世の中の、社会の側のホンネだと考えています。
 以前「優秀な人間を求めていると言うのをやめませんか」と書きました。
 この言葉も企業や組織など社会が求めている人間像を――ホンネの部分を表している。社会が求めているのは優秀な人間なのです。

 そして、ここで二分割が起こります。世の中は優秀な人間と、優秀でない人間に分けられる。優秀でない人間はさらに平均的な人間と劣っている人間に分けられる。企業や組織、大学、高校……すなわち社会は劣った人間を嫌っている。「劣等生はうちに来てほしくない」と思っている。それが社会のホンネではありませんか。

 どうしてこのようなことを書くかと言えば、大人たちが「個人は一人一人かけがえのない存在だ。だから、自分を大切にしよう」とか「いじめるのはやめよう」と言うとき、「それはほんとうに社会全体が発している言葉だろうか」と疑っているからです。劣った者は「来るな!」と言っているではありませんか。

 これも以前「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」について「ほんとうに心からそう感じているか。所詮理屈であり、タテマエだと思っていないか」と問題提起しました。
 社会は「私も小鳥も鈴も」ランク付けしている。その証が大学のランクであり、高校のランクである。子どもたちは少しでも上のランクを目指して勉強する。親御さんもそれを求めている。志望校に合格するには自分がどのランクにいるか知らなければならない。だから、学校はテストを実施し、成績をつけ順位をつける。

 一見すると、成績をつけるのは個人のためであるように思えます。だが、個人に成績をつけるのは社会が優秀な人間、平均的な人間、劣った人間を見分けるためである。
 成績をつけることによって、社会は組織や企業、大学・高校などのランク付け(=階層分け)を維持することができる。個人に成績をつけるのは社会に必要だから――これが私の結論です。

 私はこの階層分けは日本における(ひそかな)カースト制度だと思います。そして、現在起こっているさまざまな問題はこのカースト制度が引き起こすひずみやゆがみの表面化であると考えています。
 たとえば、ママ友集団のぎくしゃく、児童生徒のいじめや不登校、職場のパワハラ、セクハラ。何より優等生と思われている各所の長がおかしな言動を取っています。

 人間の選別が進むとどうなるでしょう。「劣った人間は社会に必要ない」となります。「世の中の役に立つために勉強する、生きる」を突き詰めると、「世の中の役に立たない人間は存在しなくていい」とならないでしょうか。
 ある犯罪者は「障害者は世の中の役に立っていない。生きるに値しないから殺してもいいんだ」と言って実行しました。あの犯罪者と「人間に害をなす害鳥、害獣は殺しても構わない」と言う人に違いはあるのでしょうか。

 優秀な人間を求めた結果何が起こったか。起こっているか。
 リーダーがお友達を優遇した。ばれなければ、談合、賄賂は当たり前のこととなった。ばれそうなときは書類を隠蔽し改ざんし、黒塗りの情報を公開した。
 上役は部下の劣等ぶりを怒鳴りつけた。言うことをよく聞く、命令に忠実な社員や部下こそ「優秀」である。そして、学校はこうした社会の要求に応え、子どもたちを命令に従う「良い子」に育てる機関になりはてた。

 しかも、劣った人間を判定するのは企業や組織の上に立つ優秀な人たちです。
 職場において、何らかの不正やおかしな慣行があったとき、異議申し立てをする人間は「空気が読めない反抗的人間である」とのレッテルが貼られる。それは会社や組織が行う評価であり、勤務評定です。そして、法律上、権利上やめさせることはできないから、陰湿ないじめやパワハラを駆使して「自ら辞職させる」方向に追いやる。
 最近学校でも校長によるパワハラ、教員間のいじめが多発しているとか。私はあれもまた「劣等生と評価された教員を追い出そうとする」現象であると考えています。

 個人を優秀な人間と平均的な人間と劣っている人間に分ける。おお……なんとこれは小学校の絶対評価ABCではありませんか。中学校の5段階評価ももちろん優秀な人間、やや優秀な人間、平均的な人間、劣った人間に分けています。

 すると、読者の中には「それがどうした。世の中なんてそんなもんだ。競争に勝たなきゃ個人の幸せはない」とつぶやく方もいらっしゃるでしょう。つまり、「世の中がそれを必要としているから、我々は勉強をするのだし、成績をつけるのも必要なんだ」と言う人は多いと思います。

 私は前号で「この答えは反論として却下します」と書きました。そのわけは開き直って「勉強も成績付けも本人のためではない、社会が必要としているからだ」と答える人にそれ以上言うべき言葉はないからです。
 わが子の幸せは「偏差値の高い中学校、高校、大学に行き、一流企業や高級公務員になることだ」と考えている親御さん。それを最上級の集団とするなら、そこには定員がある。滑り込めなかったら、次位の集団、さらに平均的な集団に入ることを求める。「これが正しい」と考えている人は多いと思います。

 そして、このような人は(私がこれから提言する)「高校の進学校、中堅校、底辺校」というランク付けをやめ、高校入試を廃止して「希望者はどこでも行けるようにしましょう」と言うと、「そんな甘っちょろい理想論なんぞ意味はない」とバカにする人たちです。私はそのような人と議論する気はありません(向こうが黙殺するでしょうし)。

 再度私の主張を繰り返します。私は個人に成績をつけるのは正しくないことだと思います。前号で書いたように、人は人を正しく評価できないからです。
 成績付けは本人のためではない。高校が選別のために必要だから、大学が選別のために必要だからつけている。最後に社会が必要としているから成績をつけている。それは個人ひとりひとりの価値を認めることではない。個人を会社や組織に役立つ優秀な人間、平均的な人間、劣った人間に分けるためである、そう思います。

 長くなりました。「小中の先生に絶対評価はできない」ことについては次号に回します。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:とうとう日本全国に「緊急事態宣言」が出されました。私は一日中執筆活動で、閉じこもり生活に慣れっこですが、みなさんは大変でしょう。時間を持て余したら、ぜひ一読法で小説を読んでください(^_^;)。
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「一読法を学べ」  第 39 へ (5月01日発行予定)

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