カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 39号

一読法からの提言T

 9「小中の先生方に絶対評価はできない」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第39号

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           原則隔週 配信 2020年5月01日(金)



 コロナ禍で学校の休校が続く中、突然「9月入学説」が飛び出してきました。「こんなときこそ学校を変えられるかもしれない」と言うのでしょうか。
 しかし、検討はしていいけれど、今年の9月から実施――となると、性急と言うより泥縄であり、あまりな暴論と言わざるを得ません(私が言うのもなんですが……)。
 今必要なのは休校措置が続く、もしくは解除されてもまた休校とぶつ切り授業が続く可能性が高い、《現在の子どもたちへの教育をどうするか》でしょう。
 私は直ちに教育に特化した第二次補正予算を組み、小中高校生全員にタブレットを供与して全国的にオンライン授業を開始することだと思います。

 ただ、9月入学説を聞いて「なるほど」とも思いました。
 その流れに乗っかると、私が提唱する新しい教育システム――成績をつけるのをやめ、高校や大学のランク付けをやめ、入試をやめる。そして、学ぶことが遊びのように楽しい学校をつくる。この突飛な提言を考えてもらえるチャンスなのかもしれません。
 私が披露するのは、子どもたちがわくわくするような、「ぜひ行きたい」と思うであろう学校です(^_^)。

 さて、今号は提言「★ 成績つけるのやめませんか」の(3)――「小中の先生方に絶対評価はできない」について語ります。

 もしも読者各位が現役の先生なら「バカにするな」と憤慨なさるかもしれません。
 まーそう怒らずに読んでください。以前「小中の相対評価ほど愚劣で理不尽なものはない」と書きました(→第34号)。これは児童生徒の側に立ったときの結論です。だが、成績をつける教師の側に立ってみると、相対評価制度はとてもよくできていたことがわかります。
 それは教員が悩まなくて済む、教員が優秀かどうかのレベルを問わない、とても簡単な方法なのです。
 では、どうしてこの結論になるのか、しばし考えてから本文を読んでください。ここで立ち止まるのが一読法です(^_^)。

 [以下今号
 [] 小中の先生方に絶対評価はできない

 以下次号
 [ 10 ] なぜ相対評価は絶対的観点別評価に変わったのか


 本号の難読漢字
・正鵠(せいこく)・擁護(ようご)・殺(そ)ぐ・素人(しろうと)・精進(しょうじん)・奉(たてまつ)る・闊歩(かっぽ)・舵(かじ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』39 一読法からの提言T

 9 小中の先生方に絶対評価はできない

[9] 小中の先生方に絶対評価はできない

 最初に執筆上のウラ話を明かすと、「小中の先生に絶対評価はできない」との表題は、読者に読んでもらうため、耳目を集めるためのセンセーショナルな表現です。つまりキャッチコピーのようなもの。

 この話題は次のように三つの小見出しをもって論ずることができます。
 [] 小中の先生に絶対評価の能力は必要ない
 [] 相対評価によって子どもたちは守られた
 [] 小中の観点別評価は子どもたちと先生を苦しめている

 正しくは「絶対評価できない」ではなく「必要ない」です。絶対評価できる能力がなくても構わない――というのが正鵠(せいこく)を射た表現です。今節の私は以前と違って相対評価を擁護していると受け取られるかもしれません。「何それ」と思いつつお読み下さい。


[一] 小中の先生に絶対評価の能力は必要ない

 以前小中高大の成績付けを解説しました。
 大学は「優・良・可・不可」の4段階絶対評価。高校は5段階の絶対的相対評価。小中は2002年にそれまでの5段階相対評価から絶対評価(+観点別評価)に変わりました。小学校は5段階からABCの3段階。中学校は変わらず5段階のまま。

 実はそのとき高校にも観点別評価が導入されました(私は退職したので未経験)。高校の観点は「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」の3つ。
 しかしながら、何人かの旧友に聞いた感じでは「一応観点別評価も付けているが、全体としては昔とあまり変わっていない」との答えでした。つまり、途中がどうなろうと、最終的には5段階の絶対的相対評価であると。

 この小中高大の成績付けに関して「なぜ大学だけは絶対評価なんだ?」との疑問を持たれたでしょうか。そして「なぜ小中は相対評価だったのか?」と。

 この答えこそ「大学の先生は絶対評価ができるが、小中高の先生に絶対評価はできない」ことを表しています。いや、むしろこう言うべきです。小中の先生方に絶対評価ができる能力・実力は求められていない。
 もっと言うなら「小中の先生は絶対評価ができなくても、児童生徒を教えていい。成績をつけて構わない」と。相対評価は先生方の負担を軽くするためだったとも言えそうです。

 前置きで書いたように、読者が小中高の現役教員なら、「絶対評価ができない」と聞いて「バカにするな」と憤慨されたかもしれません。少なくとも大学でそこそこ研究をしたとか、高い技能を持っていると自負する先生なら、「自分でも絶対評価はできる」とおっしゃるでしょう。
 しかし、大学の先生レベルのことは意識して研究を続けない限り――すなわち学術書や定期的に発行される「紀要」を読み、最新の研究結果を検証したり、論文を執筆、発表するなどしないと、絶対評価できるレベルを維持できません。

 大学の教授・准教授などはその研究分野のエキスパートです。そして、講義や演習はその分野しか担当しません。だから、学生がどのレベルにあるか評価できます。大学の先生は学生が発表したり、提出するレポートや論文が、もしもどこかの専門誌や単行本からコピペしたものなら、それを指摘できます。
 学生がいろいろ調べ考えたあげく、自信に満ちて「これはまだ誰も言っていない新説です」と発表すると、指導教授は「それならどこそこの大学の先生がすでに書いているぞ」と言って発表者の鼻の骨をへし折ります。専攻分野においてエキスパートだから、そのようなことができる。つまり、大学の先生は学生を絶対評価できるのです。

 ところが、小中高の教員に大学教官レベルの専門性は求められていない。だからこそ教員全体に対して「児童生徒にはこの内容を教えなさい」と教科、学年の内容が定められている。それが「学習指導要領」です。
 指導要領には小学校、中学校、高等学校など初等中等教育機関において各教科で「教える内容」が書かれており、これに基づいて教科書が作られます。すなわち、指導要領に書かれている内容が各教科で学ぶ全てであり、教員の側に要求されている専門性はこれが上限です。それ以上は(あるに越したことはないけれど)別に持たなくとも構いません。

 たとえば、大学のことを中学校にもって来ると、大学なら国社数理英、音美体などの専門家が他の教科を講義したり、指導することはまずない。
 当然のように思えますが、中高では必ずしもそうではありません。昔田舎の中学校では国語や音楽の先生が体育を担当することがよくありました。生徒数に応じて教員の定数が決まっており、体育の先生が週30時間担当しなければならない――なんてことがあったとき、週15時間の先生に体育の授業を割り振ったのです(私が中二のとき体育は担任の国語の先生でした)。大学ではあり得ないことです。

 また、高校(普通科)で「情報」の授業が始まったとき、「情報」の免許を持つ先生は一人もいませんでした。担当するのは主として数学か理科の教員でしたが、パソコンが得意な国語や社会の先生だったこともあります。
 これは今も続いており、これから小学校にプログラミング授業が導入されることになりました。しかし、全くやったことのない先生でも指導させています。そして、専門でもない人(担任)が子どもたちのプログラミングの習得状況に関してABCの成績をつけるのです。
 先生方は英語に続いて「またやらなければならないことが増えた」と○○していることでしょう(○○の中身は想像して入れてください)。

 おかしいと思いませんか。普通の感覚ならおかしいと思うことを、政治家や文科省のお偉方は「おかしい」と思いません。
 なぜおかしいと思わないのか。それは小学校の授業に専門性は必要ないと考えているからです。教えるのは初歩の初歩であり、いろはの「い」である。
 まずはパソコンやタブレットを使いこなせるようになること。次いで簡単なゲームなどを模範例どおり作って動かせるようになればいい。もっと深く学ぶ必要はないし、そのための人員を整備する必要もない。せいぜい音楽を専攻した教員を上級生向けに用意したように、「そのうちプログラミングの専門家を各校一人入れれば充分」と考えているはずです。

 お偉方のこの発想は小学校の先生がいかに真面目な人たちであるか、知らないから出てきます。あるいは、大学教官のように、すでに基本を知っている学生しか教えたことがない人の発想です。
 彼らは全く知らない人(子ども)にイロハしか教えないんだから、先生もイロハを理解し、操作できれば充分と考えているのです。
 しかし、現場の先生はそう思いません。「1つを教えるには10の知識を持っていなければならない」と感じているはずです。せめて5、最低でも2。

 なぜなら、パソコンのプログラミング画面を初めて見、初めて操作する子どもたちは思いもよらない動きをするからです。そのとき5つの知識を持っていれば、たやすく指導できるのに、指導できません。専門家もいないから、結局「もう一度書かれた手順どおり最初からやり直せ」と言うのが精一杯です。
 あるいは、すぐに上達してどんどん自分で工夫するようになる児童も現れます。すると、同レベルの知識しか持たない先生を超える質問をするようになります。もしも先生が答えられないと、子どもは先生を軽蔑します。
 こうなると、先生は「余計なことをするな」と言うしかなく、かくして子どものやる気を殺ぐ結果になります。

 先生方はそうした状況が予想できるから、教科書や指導書だけでなく、帰宅後プログラミング理論の勉強を開始しなければなりません。学校でそんな勉強をやる余裕はないからです。学校に残るな、と言われれば、自宅に持ち帰って仕事をし、新たな勉強も家でやるしかない。これでは真面目に対応すればするほど病気になるか、過労死しても不思議ではありません。

 もっとも、文科省が考える「深い専門性は必要ない」との理屈、取りあえず一理あると思います。
 たとえば、小学校一年生が学ぶ内容はひらがなやカタカナを読めること、書けること。算数の数字を理解して足し算や引き算ができるようになることです。この指導に関して国語や数学の専門家である必要はないでしょう。市販のテストを実施し、○×をつけることも、まー普通の大人なら誰でもできます。
 くどいようですが、この作業に国語や数学を深く学んだ大学の先生は必要ない。つまり、絶対評価できる力は必要ないのです。

 ただ、小学校の先生の名誉のために書いておくと、小学校の先生は教科内容に関して深い専門性を持つ必要はない。だが、教え方のプロ、専門家である必要はある。
 どのように授業を展開すれば、児童が飽きることなく、しっかり内容を理解し、応用できるようになるか。そのために工夫を重ね、他の先生方と議論を重ねて日々精進しています。これは普通の大人にはできない。いわんや大学の先生も(教育学部の先生以外)できないと思います。

 私は本節表題として「小中の先生に絶対評価はできない」と書きました。これは厳密に言うと、「できない」のではなく、「絶対評価は求められていない」というのが正しい。絶対評価ができるほどの専門性は要求されていないのです。
 教員は学習指導要領の内容(=教科書)が理解でき、それを子どもたちに教えることができれば充分である。いや、一点集中で深入りするような授業をしてはいけない。今度は先生が「余計なことはするな」と言われているようなものです。

 現場の実態を打ち明けると、たまに余計なことをする分には問題ないけれど、一年間余計なことばかりやっていると、かなりまずいことになります。下手すると不適格教員として辞職に追い込まれるでしょう。

 中高の先生方の中には大学学部で深く学んだ人がいます。国文学で言うなら、源氏物語とか伊勢物語、近代なら夏目漱石とか芥川龍之介。私は志賀直哉の「暗夜行路」を卒論でやりました。
 高校国語の教科書にはよく『城の崎にて』が掲載されています。当然私も授業でやりました。そのとき志賀直哉と代表作『暗夜行路』の内容を少々解説することはあっても、志賀直哉に特化した授業を1年間続けることはありません。
 必修だけでなく選択授業が増加したときでさえ、「選択・志賀直哉」を開設したことはありません。生徒はこちらより「選択・大学入試対応現代文読解法」を選びます。
 要するに、学習指導要領を外れるような余計なことは「やってはいけない」と決められているのです。


[二] 相対評価によって子どもたちは守られた

 このように、絶対評価はできない→絶対評価をする必要がない→絶対評価をしないから相対評価になる――とつながるわけですが、相対評価にはもっと積極的な理由もありました。
 妙な表現ですが、相反する言葉として「小中の先生方に絶対評価をさせない」ことです。これによって子どもたちは先生の個人的な違いから守られたと言うこともできます。
 ちょっと意外なこの点について次に解説します。

 これまで相対評価は主要五教科と呼ばれる国社数理英に関しては「知識」、実技三教科である音楽・美術・体育に関しては「技能」の習得具合を評価していました。
 前者「知識」については大ざっぱに言うと「知っているか、知っていないか。覚えているか、忘れたか」、それは筆記試験によって判定できます。算数・数学のように「公式や解法など覚えたことを応用できるか」もあります。
 一方、後者の「技能」に関しては「歌がうまいかへたか。絵がうまいかへたか」、体育なら「跳び箱や鉄棒、マット運動など確実にできるか、きれいにできるか」など技能面を普段の授業やテストによって判定できます(もちろん「技術・家庭」も)。

 そして、点数を合算すれば、クラスや学年で最も高得点の生徒から最低点の生徒までずらりと並びます
 たとえば、学年の生徒が100名、統一テストなら、上から順に5、4、3、2、1と評定をつけていくことになります。近くの学校に100名の生徒がいたとしても、その学校と本校生徒を合計して200名で成績を出すことはしません。相対評価とはあくまでそのクラス、その学年だけの評価です。

 この場合、成績をつけている先生にとって悩みの種は境目の子どもに「5をつけるか4にするか、4に上げるか3に落とすか」でしょう。
 相対評価制度はこの悩みを悩まなくて済むよう、5・4・3・2・1の人数を決めました。
 児童生徒100人に対して上から順に5は7人、4は24人、3は38人、2は24人、1は7人と。この比率は国の(法律で決められた)命令です。この基準に従っていれば、先生は悩まなくて済む。悩んだとしても、従わねばなりません。
 学期途中に多少の増減があったとしても、学年末の度数分布はこの比率でなければなりません。1学年の生徒数500人でも、30人でも適用しなければならない絶対命令です。

 そして、この制度は子どもたちを教員の能力と言うか教え方のレベル、そして思想信条から守るというメリットを持っていました。
 ……と書くと「なにっ!」と叫ばれそうですが、別に主義とか信仰といった深い意味の思想信条ではありません。
 先生方は「子どもとは、学びとはかくあるべし」と考えて授業を行っている。そして、子どものがんばり具合を評価するためテストを行い、成績をつけている――その程度の信条・信念のことです。

 たとえば、中高でA・B二人の先生が同じ教科書を使い、学年4クラスを2クラスずつ分け持って教えるとします。統一テストにすることが多いけれど、もしも「授業方法、信念が違う」場合、別々にテストを作成することがあります。当然成績も各自つけることになります。
 かたやA先生はものすごくハイレベルなテストをつくって最高60、平均は40点だった。かたやB先生はかなり簡単な問題をつくって最高95、平均70点だった。

 以前もこの例を取り上げました。入試など応用問題を多くすれば、前者の結果となります。逆に授業でやったことだけを問い、記号選択式にすれば後者の結果になりがちです。
 A先生は「入試に対応できるよう、生徒に真の実力をつけるための授業でありテストだ」との信条から難しいテストを作成する。かたやB先生は「テストは知識を習得したかどうか確認するためのものだ。それにばらつきが出るような問題を作成しなければ度数分布に合致しないではないか」との信念からこのようなテストを作成します。

 ちなみに、保護者は入試を意識した授業やテストを行うA先生を高く評価しがちです。が、そんなに単純ではありません。
 わが子が(そこそこ勉強しているのに)毎回20点しか取れないと、「もう少し簡単にしてほしい」と思うはずです。
 生徒は(5段階の場合)「自分は35点で2だった。友人は40点で3だ。違いがあるのか」と思います。また、自身の勉強不足を反省するより「A先生の教え方が悪い」と言ったりするものです。

 A・B両先生は考え方も授業もテストも違う。しかし、相対評価制度によって54321の人数が決められているから、A先生のクラスもB先生のクラスも54321の度数分布は全く同じになります。
 もしも絶対評価ならA先生のクラスには5、4が一人もいないことになり、B先生のクラスでは3以下が一人もなく4と5ばかり――となる可能性が高い。しかし、相対評価で度数分布が決められているから、そのようなことは起こらない。先生による偏りが発生しないのです。
 テストの点数や平均点に差があっても、成績評価は変わらない。これは生徒・保護者にとって安心できる制度です。
 もうこの一例だけで、小中の先生方に「個人の思想信条、個人の考えによる絶対評価はさせない」ことがわかるはずです。

 これは知識教科である国社数理英の話ですが、実技教科である音楽・体育・美術も同じです。
 ある体育の先生は器械体操でオリンピックに出場したことがある。別の美術の先生は二科展に入選したことがある。さらに絶対音感を持つ音楽の先生は音程のちょっとのずれさえ聞き逃すことはない。
 このような《優秀な》先生が自分の絶対的尺度で子どもの跳び箱運動や、絵や歌を評価したらどうでしょう。もしも「5の成績をつけられる子どもは一人もいない」と判定されたら……。
 ところが、取り立てて実績のない先生が教えている隣のクラスでは5がたくさんつけられている……としたら、子どもや保護者にとってたまったものではありません。

 以前このように書いたことがあります。
 ある美術の授業で生徒の作品をずらりと並べたら、「素人の私でもどれがうまくてどれが下手かわかる」と。
 あるいは、子どもに歌を歌わせてみれば、音楽の先生でなくとも、「この子はうまい。この子はまーまーだ。この子は音痴だなあ」とわかります。この評価はカラオケによる採点と大きく違うことはないでしょう。

 要するに、相対評価なら素人にちょっと毛の生えた程度の人でも行うことができる。ハイレベルの力を持つ先生であっても、平均か低レベルの先生でも、同じ度数分布の「54321」が提出されます。
 よって、相対評価とは実のところ「教える先生によって子どもたちの成績に差ができないよう守っている」とも言えるのです。相対評価とは先生にあまり負担をかけない制度であり、絶対評価を許さない制度でもあったのです。


[三] 小中の観点別評価は子どもたちと先生を苦しめている

 さて、2002年に長らく続いた相対評価は絶対評価(+観点別評価)に変わりました(詳細は→第34号)。
 しかし、これまで書いてきたように、大多数の先生はその道の専門家でない限り、絶対評価はできない。所詮素人にちょっと毛の生えた程度では、先生個人の能力・実力、あるいは経験、主義や信仰、信条・信念による価値基準によって「これは良い、これは良くない。これは優れている、これは劣っている」と判断している。つまるところ相対評価でしかないと言うべきでしょう。

 すると「だからこそ社会全体で評価基準を定めているんだ」と反論されるかもしれません。
 失礼な言い方ながら、このような反論を直ちに思いついた方は歴史を全く学んでいないと言わざるを得ません。社会全体の評価基準も絶対(正しい)とは言えず、相対的なものだからです。

 たとえば、戦前の日本は「天皇を神としてあがめ奉り、家長に従う人間が立派な人間である。子どもをたくさん産む女、国のために命を捨ててくれる男が評価5である。戦争に反対する人間など非国民であり、最低最悪の1である」と基準を定めていたではありませんか。
 多くの日本人はこの基準に従って近所の人を眺め、評価1の人間を密告しました。親や先生は子どもたちを評価5の人間にすべく、しつけ育てたのです。
 戦後連合国占領軍によってこの価値基準ががらりと変えられたことはご存じのとおりです。

 もっとも民主主義国アメリカの価値基準が全て正しいかと言えば、そんなことはありません。「日本人は漢字をやめてローマ字にした方がいい。英語を公用語にせよ」という文化破壊の価値基準を提示したのは間違いなくアメリカでした。
 かの国は今でも個人が銃を持ち、ライフルを持ち、マシンガンを持っても正しいという価値基準を持っています。もしも日本人が腰に真剣を差して通りを闊歩していたら、彼らは「なんと野蛮な」と言うでしょう。自国は振り返ることなく……。
 つまり、社会の価値基準、成績評価の基準も時代によって変化する。個人によっても変わる。ゆえに、絶対評価など不可能であると言っているのです。

 小中の先生に絶対評価はできない。その能力・実力は求められていない。だから、絶対評価ではなく相対評価をさせている(させてきた)。
 さらに、先生方の能力・実力による授業、テストによって子どもたちに大きな差が生まれることは平等・公平の観点から好ましくない。ゆえに、絶対評価ではなく相対評価を制度化した――とまとめられます。

 問題はここからです。では、なぜ絶対評価に変わったのか
 私は高校の教員でした。高校の成績付けは「絶対的相対評価」でした。ある範囲に評定平均が入るように成績をつける。最高点を1割程度出す。不合格となる「1」はよほどの事情がないかぎりつけない。この成績評価制度は絶対的でありつつ相対的であるという、生徒も教員もそこそこ満足できる制度だったと思います。

 もちろん学習指導要領に沿っているという意味では相対評価です。しかし、中学校のようにがちがちの度数分布ではなかった。相対評価の愚劣さは高得点を取っても、上がいれば5にならないことであり、必ず最低点の1をつけねばならなかったことです。相対評価であっても、テストで90点を超えたら5にするとか、1はよほどのことがない限りつけないなど、その程度の改定でも良かったように思います。
 しかし、文科省と有識者のお偉方は相対評価に見切りを付けて絶対評価に舵(かじ)を切りました。だけでなく、同時に観点別評価なるものを採用しました。一体なぜか。

 理由について考える前に、もう少し成績評価の流れをたどっておきます。
 戦前の成績評価は教員の主観だったとの報告があります。もちろん基本は知識や技能習得が第一義だったでしょう。しかし、先程書いたように、社会の価値基準がかなり含まれたことは間違いないと思います。
 戦後数年もアメリカ民主主義を価値基準とする主観的評価だった(かもしれません)。「相対評価でいく」とはっきり決定されたのは1950年代初めのことでした。
 その後約五十年、小中の5段階相対評価は維持され、2002年に撤廃されて「絶対評価」に変わりました。

 私はその直前小説家を目指して教員生活にさよならしました。当時思ったことは以下の通りです。
 先生方が長年要求してきた「愚劣で理不尽な相対評価をやめろ」との主張が通ってようやく絶対評価に変わった。これによって「小中はかなり変わるだろう、良くなるだろう」と。

 ところが、最近本稿を書くためいろいろ調べたり、少数ながら現役の先生の声を聞いてみると、「よくなっていないのではないか」と思うようになりました。
「どうも小中の絶対評価とは名のみで、本当の絶対評価ではなさそうだ」に変わり、最後に「観点別評価とは結局ランク付けのために導入されたのではないか」と思うに至りました。

 以前小学校の3段階評価ABCには、「できない」を意味する「D」が含まれていると書きました。補助具を使っても逆上がりができなければ、絶対評価としては「不合格」を意味する評価Dでしょう。しかし、いたいけな児童にDをつけるのは忍びない。それにDをつけたからと言って――それが2科目3科目あっても、1年間全て欠席しても――留年させるわけではない。だから、Dは設けずABCの3段階とした。
 これはお情けある制度としてわからなくはないけれど、絶対評価の名に値しないでしょう。理屈を押し通せば、絶対評価である大学のように4段階であるべきです。

 このように(ちょっと語弊ある表現ながら)不合格の「D」なのにゲタを履かせて「C」としたなら、「A」の数を減らすため、目標を達成して「A」になるはずなのに、難癖つけて「B」に落としているように見える――と書いたら、これまた語弊ある表現だと言われそうです。

 ある小学校の先生は国社数のテストで「95点以上取らないと、知識面のAはつかない」と語っていました。「えっ、ちょっと高過ぎじゃないですか?」と言うと、「テストが簡単だから、それくらいしないとAがたくさん出るんです」と答えたのです。「最終的に観点別評価が入るからAがたくさん出るわけではない」とも言いました。

 ということは、観点別評価とはまるで知識面のAをBに落とすためにつけているかのように感じられます。これもまた絶対評価とは言いがたい側面です。
 私にはまだ中学校の実状を詳しく聞くことができません。しかし、同じく「絶対評価+観点別評価」制度である限り、5段階の中学校でも似たような現象が起きているはずです。

 おそらく不合格にあたる1は激減したでしょう。中学校だって絶対評価だから、テストの平均点が80なら、半数は4がつき、90以上がさらにその半数なら、クラスの4分の1は5がつく……はずです。が、そうならない。

 なぜなら、観点別評価が入る。筆記テストの結果はあくまで「知識・理解」という1観点の評価でしかない。あるいは、実技教科で「技能」が目標を達成したとしても、成績には他に「関心・意欲・態度」、「思考・判断・表現」という3〜4観点が評価される。だから、筆記テストや実技試験で90点を取っても「5」になるわけではない――というわけです。

 現在小中において実施されている成績付けは「絶対評価風観点別評価」と呼ぶべきでしょう。観点別評価の方に重きがあるのです。そして、この成績評価システムが子どもたちと先生方に、相当のプレッシャーとストレスを与えていることもわかりました。

 子どもたちや保護者は知識や技能で満点を取っても、Aや5がつかない不可解さに首を傾げています。跳び箱5段を跳べることが目標で、懸命に努力して5段を跳べるようになった。でも、Aはつかない、5にならない。
 子どもたちは「じゃあどう努力すればいいの」と悩んでいるようです。もちろんAや5にならない理由が観点別評価でした。

 一方、教える側の先生方は(絶対的な評価など不可能なのに)、絶対的に評価しなければならないと感じている。小学校の先生は観点別評価のため、子どもたちの様子を、毎日毎時間注意深く観察しなければならないプレッシャーにさらされることになりました。

 この状況を生みだした――敢えてこの言葉を使います――《元凶》が観点別評価です。
 私には観点別評価とは絶対評価をそのまま採用すると、児童生徒が3段階ならAばかりとなる。5段階なら4とか5ばかりとなる。それでは差がつかない、ランクができない。だから、観点別評価を取り入れて順位がつくようにした――そう思われてなりません。

 ここでも私は前号の結論を繰り返すことになります。観点別評価とは児童生徒を優秀な人間、平均的な人間、劣った人間に分けるための制度であり、自分がカーストのどこに位置するか、自覚させるための制度であると。

 かつてはたくさんの知識を持ち、すぐれた技能を見せる子どもが優秀でした。ところが、今の子どもたちは知識を持ち、技能ができても「お前は優秀ではない」と言われている。「もっと意欲を見せろ。自分で考えて判断しろ。それを表現しろ。できたらお前は優秀な人間だ。だが、できなければ、お前は平均だ、お前は劣っている」と叱咤激励されている。結局、個人を選別し、カーストの構成員を養成するための学校であり、成績付け制度であると言わざるを得ません。

 ちょっと文学的なたとえを使うなら、子どもたちはその小さな肩に重い重い荷物を背負わされた。まるで荷役(にやく)の馬か牛のように。
 課された荷物をかついで中高の六年間を貫徹しないと、価値のない駄馬か鈍牛と認定される。もういい、自分はその道を進みたくない。そう思った子どもが不登校になるのでしょう。
 あるいは、ストレスとプレッシャーから、誰かクラスでへんなやつをいじり、からかい、いじめることにゆがんだ快感を覚える。学校からいじめがなくならないはずです。

 思った以上に長くなりました。本節最後に「では、なぜ相対評価を絶対評価風観点別評価に変えたのか」、そのわけを語るつもりでしたが、次号に回したいと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:4月から某局で始まった朝ドラに戦前の価値基準がよく描かれています。男性が詩を書いたり、作曲したり、なよなよしていると、「男らしくない」と言われ、女性が自分の意志を語ると「女らしくない」と言われる。これから戦時色が濃くなると、ますますその傾向が強まるでしょう。
 そして、今日5月1日から志村けんさんが登場するとかで見ました。なかなか出てこないのでガセネタかと思ったら、最後20秒ほどでやっと登場。いつもの人なつっこい笑顔じゃなかったので、「まさかヒール?」と思ってしまいました(^_^;)。
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