カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 43号

一読法からの提言T

 13「グローバル化と〇〇〇〇〇〇〇の進化が相対評価を終わらせた」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第43号

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           原則隔週 配信 2020年6月26日(金)



 お待たせいたしました。ようやく成績評価の本丸、「ここ数十年の世界史的大転換」について語ります。
 学校の成績評価と企業の勤務評価は昔も今も絶対的相対評価であり、21世紀に入って目標・ノルマが高く厳しくなったのはそこに理由があると考えるからです。

 この考察は「風が吹けば桶屋が儲かる」に似ています。このことわざ、桶屋にとってはなぜ突然桶が売れ始めたのか、根っこの理由が見当もつかないところがミソです。
 我々もまたなんでもかんでも因果関係がわかるわけではなく、《桶屋》の位置にいると言わざるを得ません。
 言い換えると、二十一世紀に入って普通に働き、生きることがなぜしんどくなったのか。なぜサラリーマン的詐欺師が増え、横領・着服、検査不正が頻発したのか。
 そして、子どもたちにはできないこと、したくないことまで「やりなさい」という高いレベルが要求されているのか。現状の根源に吹き荒れた「風」を見出そうという試みです。
 が、読者各位は私が何を書こうとしているか、かなり予想できているのではないか(と予想します)。それこそ一読法上達のしるし[徴]です(^_^)。

 [以下今号
  なぜ相対評価は絶対的観点別評価に変わったのか
 [ 13 グローバル化と〇〇〇〇〇〇〇の進化が相対評価を終わらせた

 以下次号
 [14] 生きづらい世の中――競争社会の到来(前節の復習と補足)」


 本号の難読漢字
・桶屋(おけや)・徴(しるし)・終焉(しゅうえん)・人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)・素人(しろうと)・俯瞰(ふかん)・直(ただ)ちに・蓄(たくわ)える・頓挫(とんざ)・容易(たやす)い・施(ほどこ)す・烙印(らくいん)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』43 一読法からの提言T

 13 グローバル化と〇〇〇〇〇〇〇の進化が相対評価を終わらせた

[13] グローバル化と〇〇〇〇〇〇〇の進化が相対評価を終わらせた

 まずは前号ラストのクイズ――「二十世紀末に起こった世界史的激変」について。
 答えは以下の通りです。

 [二十世紀末の世界史的激変]
 1 〇〇主義・〇〇主義の崩壊――社会主義・共産主義の崩壊
 2 修正〇〇主義の終焉とグローバル化――修正資本主義の終焉とグローバル化
 3 〇〇〇〇〇〇〇の発明・進化――コンピューターの発明・進化

 1と3はやさしかったと思います。2については後半を穴埋めにしようかと思いました。「グローバル化」とは人口に膾炙(かいしゃ)した――よく聞く言葉です。「修正資本主義が終わった」と書くと、「いやいや終わっていない。継続中だよ」というのが正しい理解かもしれません。私は21世紀に入って「終わった」と考えています。

 最初に言っておきたいことがあります。私は社会学者でも経済学者でも哲学者でもありません。研究もしておらず、歴史学・社会学の専門書をたくさん読んでいるわけでもありません。文体と気持ちは若いけれど、外見は単なる素人じいさんです。よって、今節のまとめや考察が正しいかどうか自信はありません。

 私が発行している競馬メルマガはしばしば理論的に完璧な予想を開陳します。が、よく外れます。それでもクレームは参りません。「読者の責任において馬券を購入下さい」と書いてあるからです。
 そのように、私の意見に賛同されるかどうかは、読者の責任においてお願いいたします。もちろん「そこはおかしい、間違っている」という部分はご指摘いただけると幸いです。

 もう一つ、私はこれらのことについて詳細に解説しようとも思いません。興味ある方はネットや専門書をご覧下さい。
 私が論じたいことは、日本の小中において相対評価がなぜ絶対的観点別評価に変わったのか――そこです。この件を、ドローンのように、いや、世界をもっとよく見られるよう、地上100キロの宇宙空間から俯瞰(ふかん)的に眺めてみようというのが本節です。
 なのでこの3項目をとても簡単にまとめます。まずわかりやすい3「コンピューターの発明・進化」について語り、1と2はまとめて解説します。


 〇 コンピューターの発明・進化

 私的かつ化石的話題で恐縮ながら、私が1979年4月に高校の国語教員としてスタートしたとき、定期テストは鉄筆とガリ版で作成していました。四十代以下の人は「何それ?」でしょう。そのころベテランの先生はほれぼれするような筆跡のテストを作っていたものです。印刷機はさすがに輪転機でしたが、みなさん試験前は四苦八苦でした。
 その後コピー技術の進歩によって自筆のテスト作成に変わり、職員室からガリ版が消えました。そして、1980年代半ばワープロ機が発明されると、爆発的に普及しました。教員は「文豪」派・「書院」派に分かれ、数十万円のワープロを自費で購入したものです。私は書院派でした。

 そして、1990年代コンピューターの進化に応じてパーソナルコンピューターが数台学校に導入され、私も今度は数十万円のデスクトップ型パソコンを購入して授業の資料やテストを作成するようになりました。ワープロ機は部屋の片隅に追いやられ、やがて処分されました。
 そして、1995年に「ウインドウズ95」が登場すると、パーソナルコンピューターは日本全体に広がりました。このころパソコンのワープロ機能は「一太郎」と「ワード」派に分かれ、表計算ソフトは「ロータス123」と「エクセル」派に分かれていました。が、前者が衰退していくのはビデオの「ベータ」対「VHS」の争いみたいなものでしょうか。勝ち残った「VHS」でさえ、やがてデジタルの「CD」、「DVD」へと変わりました。レコード盤からCDへの転換もあっという間でした。

 これらコンピューターの進化・発展が人間にもたらした最大の変化は「知識」の持ち方が変わったことだと思います。
 それまで知識はどこにあったかと言うと、書籍(教科書・専門書)の中であり、最大の「物」は各種辞典・百科事典でしょう。そして、個人の優秀さはその内容をどこまで覚えているか。すなわち、優秀な人とは脳内にたくさんのデータや情報を記憶し、問われたら直ちに口にできる人でした。

 余談ながら、子どもの頃好きだったテレビ番組の一つにNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」があります。
 その中に「博士」と呼ばれる物知りの天才的小学生がいました。詳細は忘れましたが、「魔女」編で博士が魔法に関して魔女も知らない重大な秘密を知る。魔女は捕らえて「教えろ」と迫るけれど、彼は口を割らない。そこで、魔女は自白させるクスリを飲ませて「お前の知っていることを全て話せ」と言うと、博士はとうとう口を開く。
 ところが、話し始めたのは彼が記憶している百科事典の内容。博士はなんと百科事典を全て暗記していたのです。そして、ア行の最初から順に言い始めたので、秘密どころかいつ終わるとも知れない。魔女はがっかりするという流れでした。
 私はそれを見たとき、「博士君のように百科事典を丸暗記できたら、テストは何でも100点だろうな」と思ったものです。

 ちなみに、博士は項目をぺらぺらしゃべり続けるわけですが、マ行に来て思わず「魔法」について語ってしまい、魔女が知りたかった秘密が暴露される……というのがオチです。
 その後どうなったか覚えていません。好きだったけれど、私は外遊び派でした。5時を過ぎると暗くなる冬はよく見たけれど、6時を過ぎても明るい夏は夕食まで外で遊んでいました。

 それはさておき、パソコンの進化によって「知識は人間の脳からコンピューターの中にある」時代となりました。今では国語辞典も漢和辞典も和英・英和辞典もパソコンで検索される。百科事典もパソコンの中にある。
 もちろんパソコン・スマホ・タブレットを使いこなせること、書かれた内容を理解できる最低限の知識、能力は必要です。だが、脳内パソコンにあらゆる知識や情報を蓄えておく必要はない。外の知識や情報をどう取り出し、いかに解析し、いかにまとめるか。それができる人が「優秀である」ことになった――そう言えると思います。

 文科省は「これからの社会を生きる児童生徒にとって身に付ける必要がある学力は、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力(である)」と書いていました。
 この中の「知識のみならず」のところがコンピューターの発明・進化によって「知識を頭の中にたくさん持っているだけでは、これからのコンピューター社会を生きていけませんよ」と言いたいことがわかります。

 コンピューターはさらに進化して今やAI(人工知能)・ロボット社会の到来とともに多くの労働者が職を失うと言われています。たとえば、バスやタクシーの運転手は自動運転バス・タクシーの登場によってリストラされる可能性が高い。医師でさえ癌の判定をAIが行う時代が近付いています。そのとき人はどのような能力を身につけるか。確かに知識・技能面だけでなく新しい力が求められているのです。

 となると、直ちに思い当たることがありませんか。知識がパソコンの中にあり、それをいかに取り出し活用できるか――という時代になったのに、高校入試・大学入試1次試験(センター・共通)は依然として「中学生・高校生の脳内にたくさんの知識が暗記されているか」、それを確認するための問題が多数出題されているのです。なんという言行不一致でしょう。

 私は高校入試廃止論者ですが、どうしてもやりたければ、入試にスマホ・タブレット、ノート他なんでも持ち込み可とするか、検索すれば正解できる語句穴埋め問題を廃止するべきだと思います。たとえば以下、

 [語句・年号穴埋め問題]
・1612年に江戸幕府が出した〇〇令について〇〇を漢字で答えなさい。
・銅+〇〇→酸化銅の〇〇を埋め、化学式を作成しなさい。
・1616年に亡くなった、四大悲劇を創作したイギリスの劇作家の名と四大悲劇を全て答えなさい。

 このようなクイズ的設問はネット検索によってなんなく答えることができます。
 私は次のように変えるべきだと思います。

・1612年キリスト教を禁止する禁教令はなぜ出されたのか、江戸幕府の鎖国政策、世界の情勢と合わせて説明しなさい。
・鎌倉の大仏は銅製と言われるが、野ざらしでありながら錆びて劣化することが少ない。そのわけを説明しなさい。
・シェークスピアの四大悲劇について読んだことのある作品を一つ紹介し、感想を書きなさい。読んだことがなければ、『ハムレット』の有名な一節「To be, or not to be: that is the question.」について思うところを書きなさい。

 後者はもちろん全て記述式です。すぐに忘れてしまう化学式を暗記するより、鎌倉の大仏は「なぜ錆びて劣化しないのか」検索によって調べ、それを化学式の知識によって説明できる。それこそ「これからの社会を生きる」児童生徒にとって必要な学力ではないでしょうか。

 また、読んでもいない四大悲劇の名を言えることは昔なら意味がありました。今でもテレビのクイズ番組では、全て正解すると「すごい」と称賛されます。
 だが、スマホ・タブレットで簡単に答えられる現代、作品を読んでいるか、そこから何を感じ、何を考えたか。それを言えることが本人の人間的な深みを表現することになるはずです。
 もちろん読んだとしても、三読法「ぼーっと一度読むだけの通読」ではすぐに忘れてしまいます。一読法なら数年経っても感想を言うことが可能です。

 昨年(2019年)大学入試1次試験に記述式問題を取り入れようとして頓挫しました。私に言わせれば、字数100字程度では記述式の名に値しません。
 上記のような記述式問題の回答は最低でも原稿用紙1枚から2枚になるでしょう。「採点がもっと大変だからとんでもない」と言われそうです。
 入試を3年生の2、3月に実施するから大変なのであって前年10月頃に(ノート、スマホ・タブレット持ち込み可として)生徒を集め、1、2ヶ月かけて採点すればできないことはないと思います。
 あるいは、エアコンさえ整えば、夏休み中の実施とすることも可能です。夏休み中なら採点のための時間をかなり取ることができます。これは将来九月入学になったとき、入試が7月に入ることと連動するでしょう。

 スマホ・タブレット持ち込み可としたら、「検索したものをそのまま書き写すだけの生徒が現れて意味がない」と言うかもしれません。
 丸写し結構。それで良いではありませんか。中学・高校で大学教官・研究者を養成しているわけではありません。独創的な新説を書かせるわけでもありません。
 どこに答えがあるか、いくつ見つけだせるか。それをまとめて(丸写しでも)書く意欲、表現力があるか。その力を見るわけです。
 それに先生も当然ネット検索して「正解」を確認しているから、すぐに丸写しだとわかります。その上さらに何が書かれているか、書かれていないか、それを読みとることも容易いでしょう。記述式でありながら、採点はそれほど難しくないと思います。

 もしもノートが一読法によって作成されていれば、「江戸時代の鎖国やキリスト教弾圧について感じたこと、考えたこと、さらに調べたこと」が書かれています。
 ノート持ち込み可です。この生徒は自身のノートを元にして「自分の考えや感想」を書き始めるでしょう。
 正に「知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力」を判定することができます。

 私は現行の高校入試を廃止しても、この活動は行うべきだと考えています。ただ、前提として高校教員の人数増加(=個人の授業数減少)が必要だから、国はこのような試験をやろうと言わないでしょうが……。

 まとめると、20世紀末コンピューターの発明・進化によって「知識・情報は書籍からコンピューターの中にある時代に変わった。人間もまた脳内に知識や情報を蓄える必要はなくなり、パソコンからいかに取り出し、いかに活用できるか、その能力を高めることが求められる」ようになった。
 それこそ文科省の言う「これからの社会を生きる児童生徒にとって身に付ける必要がある学力は、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力(である)」との見解が生み出された根源の風だと思います。
 私はこの見解、正しいと思います。ただ、問題はこの学力を身につけるために取った方法――観点別成績評価です。これが間違っていると、これまでさんざん指摘してきました。

 以前相対評価から絶対評価(と言いつつ目標・ノルマが高くなっただけの相対評価)への転換をウイスキーのシングルからダブルにたとえました。見た目コップ1杯のウイスキーでも濃さは2倍です。
 児童生徒に求められた「これからの社会を生きるにあたって必要な学力」とは、それ以前と比較すれば《2倍の能力養成》を求められているようなもの。子どもたちにとってはしんどいことだと思います。教科書の知識を丸暗記すれば、「チョー優秀だ、天才だ」と誉められたのに、「それくらいたいしたことじゃないよ」と言われるようになったのですから。

 知識の丸暗記でさえ四苦八苦していた中等生・劣等生にとって荷物は倍になった……だから、私はこれを荷役の牛馬にたとえました。大変になったのは牛馬だけではありません。彼らにムチをふるう現場の先生方にとっても仕事量が倍以上になりました。教員の労働強化であり、学校の悪徳企業化です。

 さすがに文科省もわかっています。新たな学力を身につけるため、かつての知識・技能内容を半減させることにしました。それが「ゆとり教育」である(と私は理解しています)。1990年代には少しずつ始まっていたようですが、本格的な開始は2002年の学校5日制と「絶対評価+観点別評価」の導入から。しかし、わずか10年足らずで挫折しました。
 最大の理由は15歳に課された世界共通の到達度テストにおいて学力低下が止まらなかったことです。結局、減らされた知識・技能は元に戻りました。

 ちなみに、知識・技能半減と書きましたが、厳密に言うと小学校・中学校の学習内容削減は3割にとどまりました。ここには「それじゃ詐欺だ」と思えるほどの仕掛けも施されていました。

 みなさん方は猿たちと飼い主が交わした「朝三暮四」の由来をご存じだと思います。経営難から食料のイモを減らしたいと思った飼い主が「朝のイモ4つを3つにしたい」と提案すると、猿から猛反発を食らう。そこで「わかったわかった。朝は4つに増やして夕方を3つにしよう」と言うと、「それなら」と猿たちが納得するお話です(これを漢文でやるときはいつも「飼い主はそれまでイモを一日何個与えていたんだ?」と聞きます。すると「4ヶ」とか「7つ」と答える生徒が結構いるので、「それじゃあ猿と同じだぞ」とからかったものです)。

 知識技能3割減はこれと真逆のことが行われていました。3割減で「さぞかし楽になったろう」と思ったら、減らした分は高校に移されたのです。
 学習活動を労働にたとえるなら、午前中の仕事は3割減らした。が、午後の仕事は3割増やした。全体として減っていない。正に言いくるめられた猿と同じではありませんか。高校に進んだ子どもたちはより大変な「知識習得の労働強化」に励まねばなりませんでした

 かくして高校にも観点別成績評価が取り入れられたはずなのに、現場の先生方は「観点別指導なんかやっていない」という結果になりました。相変わらず以前と同じ――いや、五教科においては以前より3割増えた知識習得授業が続いたのです。

 この学習は目前に迫った定期テストと大学入試を目的とした「その場しのぎ」です。1年も経てば忘れ去られる運命にある知識や解法暗記作業です。パソコン・スマホ・タブレットを検索すれば、すぐにわかる答えを本腰入れて覚えようと思うでしょうか。その場しのぎになるに決まっています。
 そして、小中で学んだはずの「これからの社会を生きるにあたって必要な学力」は多くの高校生に「結局、勉強とはその場しのぎだ。辛くていやなもんだ」との感想しか残さなかった……と私は思います。

 では、どうすれば良かったのか。今後どうすれば良いのか。私は再度学習内容の半減化に進むべきだと思います。子どもたちが楽に勉強でき、「学ぶことは楽しい」と感じることのできるシステムづくりです。そのための秘策はいずれ披露したいと思います。


 〇 社会・共産主義の崩壊と修正資本主義の終焉

 次に起こった大変化は社会・共産主義の崩壊です。これもまた学校教育と成績評価に大きく影響する《強風》だった(と私は思います)。

 第二次大戦後、世界は資本主義と社会・共産主義という思想(イデオロギー)対立に振り回されました。
 前者の代表はアメリカ、イギリスに西欧、後者はソ連、東欧に中国。「鉄のカーテン」とか「冷たい戦争」と呼ばれ、核兵器の保有によって第三次世界大戦が起これば、人類は滅亡すると叫ばれました。
 何度かの危機を経て大国間の戦争こそ踏みとどまったけれど、小国の代理戦争はあちこちで発生。代表的なものは朝鮮戦争やベトナム戦争でしょうか。
 それがまさかの改変。まずソ連が崩壊し(1991年)、東西ドイツを隔てた壁の解体(1989年)、東西ドイツ統一後社会・共産主義は世界から姿を消しました(その後も残っているのは小国と共産主義風独裁国家であり、実質的に資本主義国でしょう)。

 さて、資本主義や社会・共産主義を短くまとめることなど到底不可能です。が、私は素人なので敢えて短くまとめてみます。

 資本主義の最大特徴は《自由競争》でしょう。競争の結果弱肉強食・優勝劣敗、すなわち強い者、優れた者が勝ち残り、弱い者、劣った者が負ける。生み出された富は勝ち組が多く獲得するので貧富の差ができ、社会は上流・中流・下流に分かれる。五ランクなら、富裕層・上流・中流・下流・極貧層でしょうか。
 また、私有財産は子や孫に相続されるので、貧富の差は永遠に続く。ただ、宝くじとかある日突然成功するなど、十万人に一人程度のサクセスストーリーがあり、貧しい人はそれを夢見て日々を堪え忍ぶ。

 競争に勝つために生産物はデザイン、品質、価格などさまざまなものが生み出される。消費者はその中から身の丈にあったものを選ぶ。よって、選択の自由がある。政党も各界各層を母胎として多数存在するので、政党を選ぶ自由がある。国の舵取りは選挙で多数を取った政党が行うが、下流・極貧層を代表する政党が多数を占めることはない。資本主義信奉者は自由に活動して強い者が勝ち残ることこそ社会の進歩発展だと信じて平等の社会・共産主義を批判する……。

 一方、社会主義・共産主義。その最大特徴は《競争なき平等》でしょう。同じものを食べ、同じものを着る。同じ部屋に住み、同じ日常用具を使う。平等だから貧富の差も、上流・中流・下流の格差も存在しない(はず)。
 全て共有だから私有財産はない。選択の自由はない……と言うより、生産物は一つしかないか、あっても数ヶだから必要ない。政党を選ぶ自由もない……と言うより、国民の平等を主張する政党は一つだけ。他の資本主義・自由主義を主張する政党は貧富の格差、不平等を肯定する政党だから、存在意義がない。よって一党独裁となるので、選挙は必要ない。

 人間の平等を主張する社会・共産主義理論は絶対的に正しいので、批判する必要はない。ゆえに、体制を批判する言論の自由も必要ない。競争なき平等こそ人類の理想を実現していると信じて貧富・格差を肯定する自由・資本主義を批判する……。

 資本主義は[原始資本主義→帝国主義→修正資本主義→金融資本主義]に変化(進化?)したようです。
 ものすごく短く乱暴に説明しておくと、原始資本主義は資本家の富裕と労働者の極貧化を生み、帝国主義は財閥と独占、国内消費の行き詰まりから他国の侵略・植民地化に進んだ。修正資本主義はその反省から社会主義を一部取り込んだ。そして、現在の金融資本主義は金が金を生む社会である(とまとめます)。

 かたや社会・共産主義は長く続いた集団共産主義の崩壊後、資本主義の導入によって二つに分かれました。
 一つは社会システムとしての一党独裁も廃止して社会を自由化した国。もう一つは一党独裁を堅持した国。前者の代表がロシアで後者の代表が中国であることはご存じのとおりです。
 ただし、21世紀に入ってからロシアは個人独裁国家に、中国も集団指導体制から個人独裁国家に変貌しました。同時に日米欧の自由資本主義国も「強いリーダーシップ」の名のもと、個人独裁国家に変わった(と私は理解しています)。

 このへんのことも深入りしません。私が取りあげたいのは資本主義が修正資本主義に変わったことは何を意味するか――のところです。これによって資本主義は限りなく社会主義に近付きました。次にこのことについて語ります。

 原始資本主義は好況・不況の繰り返しと労働者の極貧化が不可避でした。結果、社会・共産主義革命が起こる恐れがあったので、経済界は労働者への分配を厚くして生活水準を上げ、政府は不況時に公共事業を行い、需要を創造して失業を軽減しました。
 計画経済、労働者(国民全体)の福利厚生の充実。つまり、資本主義でありながら、社会主義的政策を一部取り入れることで、労働者の不満を軽減し、共産主義への転換を防いだと言えるでしょう。修正資本主義≒社会主義でした([≒]はニアリイコールと読んでください)。

 日本も欧米同様資本主義国の一員として自国が共産化しないよう、福祉や社会保障などを充実させます。その最たる例が国民皆保険でしょう。一人一人から収入に応じて金を集め、医療を格安で受けられるようにしました。アメリカではオバマ大統領が導入した国民皆保険制度を「社会主義だ」としてトランプ大統領になってから廃止されたほどです(後日訂正――2020年10月現在、まだ廃止されていませんでした)。

 もう一つ能力主義の米欧資本主義ではあり得なかった日本的労使慣行「年功序列」もまた限りなく社会主義的でした。
 生涯一つの会社に勤め、年齢が上がるにつれて(能力実績に関係なく)給料が上がる。そのうち結婚して家を持ち、子どもが成長すると定年を迎える。その後は年金と蓄えた貯金が(年利数パーセントで10年後には1.5倍、最高2倍になり)穏やかな老後を過ごすことができる。日本の修正資本主義下では大企業の社長になっても年収1億程度と言われた時代です。高度経済成長下、労働者の賃金は上昇し、中流層が増加しました。

 もう一つ取り上げたいのは建築・土木業界に多かった「談合」と子請け・孫請けシステムです。これもまた競争をしないという意味で、限りなく社会主義的でした。
 入札方式に素直に従っていたのでは、競争が激化して共倒れになる。談合して順繰りに応札することにすれば、大企業数社が仲良く生き残ることができる。そして、傘下の関係者に実際の仕事を下ろす。「寄らば大樹の陰」と言われた時代。日本の中小企業、町の土木・建築屋さんは大手の下請け・孫請け・ひ孫請けであることによって生きていけた。正に社会主義的共存戦略。
 政府は各業界を守るため、異業種の参入を許さない「規制」も多数作りました。業界は見返りとして個人献金・政党献金に励み、選挙を応援しました(ときには結果賄賂となる感謝の金銭授受もあったでしょう)。

 社会・共産主義国と資本主義国における貿易はほぼその主義圏で行われていました。それを地域資本主義、地域共産主義と呼ぶなら、地域資本主義の恩恵を最も受けたのは日本と西ドイツでしょう。1960年代後半から70年代、80年代にかけて両国は高成長が続きました。

 私は思うのですが、資本主義というのは生産と消費が一国の中にとどまっている限り、あまり問題は起こらないような気がします。たとえば、年収手取り500万は日本では中流でしょう。月収30万でボーナスが計140万。ダンナがこの給料で奥さんがパート勤めして100万ほどを稼ぐ。それによって子ども二人を育てつつ、そこそこやっていける。

 ところが、アメリカのニューヨークやワシントンで年収500万は極貧層です。一家四人が(中流として)生きていくには、最低でも年収1200万が必要で、1000万程度は「貧困層」と呼ばれているそうです。逆に途上国なら年収500万はお金持ちに入ってプール付きの邸宅に住むことができるでしょう。
 このように他国と比較すると、きりがないけれど、自国内の比較にとどめ、その中で小さな競争に勝って中流を維持すれば、「めでたさも 中くらいなり おらが春」(小林一茶)と思って生きていけます。

 しかし、貿易という形で二国間、多国間の自由競争となったときには勝者と敗者が生まれる。それが1960年から70年代のアメリカと日本の関係でした。
 日本の安い製品がアメリカに輸出され、アメリカは主として穀物を日本に輸出する。日本の電機製品や自動車は最初安かろう、悪かろうであまり売れませんでした。やがて日本製品が安くて良質であるとわかると、アメリカの製品は日本に負けて衰退しました。1980年代、日米貿易戦争と呼ばれた時代です。地域資本主義の中で勝ち組は日本、負け組はアメリカでした。
 かくしてソ連崩壊直前、日本は世界第二位の経済大国として「ジャパンアズナンバー1」と呼ばれ、バブルと我が世の春を謳歌していました。

 ところが、社会・共産主義の崩壊によって修正資本主義も終わり、世界は資本主義一色となりました。それはグローバル化の幕開けであり、共産主義革命の恐れがなくなった資本主義が、労働者に対して「修正」の仮面をかなぐり捨てた時代の始まりでもありました。時を同じくして日本のバブルがはじけたのは皮肉な偶然でしょうか。

 なぜ社会・共産主義は崩壊したのか。これまた一言で説明するなど傲慢不遜の極みです。敢えて素人解釈を提示すると、私は「理屈が人間の感情に負けたからではないか」と考えています。

 貧富の差をなくし、平等をうたう理論は確かに正しい。だが、それは所詮理屈である。一人一人の感情は違った。人は自分や家族のためなら、一生懸命働くことができる。だが、みんなのために働くことは難しい。懸命に働いたのに返ってくるのは粗末なものばかり。
 あるいは、集団で働いていると、だらだら動く怠け者の姿が目に付く……そうなったとき、「どうして自分だけがんばらねばならないんだ?」と感じる。やがて「みんなのために働く」意欲が失われ、生産活動は縮小し、国を立て直すには資本主義経済を導入するしかなかった、と思います。

 21世紀を迎えるころ、イデオロギー対立がなくなり、世界は平和と繁栄に向かうだろうと思われました。だが、それは幻想だったようです。各国は自国ファーストのナショナリズムに走りました。なぜか。
 私の推理はこうです。イデオロギー対立がなくなり、世界が総資本主義化したと言っても、全世界が一つになって富を各国に配分するようになったわけではありません。各国は他国全てと競争し、勝たなければなりません。競争に負ければ自国の没落が待っているからです。それは弱肉強食、優勝劣敗の資本主義が持つおきて[掟]ではありませんか。

 そして、ナショナリズムの復活が各国政府、リーダーの独裁化に進んだことも歴史の必然でしょうか。国同士の競争となったとき、勝ち組に入るためには国民一丸となって戦わねばなりません。
 これはある種の経済戦争であり、戦争において「私は戦いません」という自由は許されていない。国を一つにまとめるのに最も有効な方策こそ、強いリーダーシップという名の独裁主義であった……と思います。

 それはさておき、世界の総資本主義化による恩恵を最も受けたのは中国でしょう。かつてアメリカと日本の間で起こったことが、中国と日本・欧米資本主義国間で発生しました。
 労働力の安い食料・原材料、中国製品が大量に資本主義国に輸出されました。(先程と同じことを書きますが)中国製品は当初「安かろう、悪かろう」でした。ところが、他国の技術を巧みに導入すると、さまざまな分野で「安くて良質な製品」が世界中に輸出されました。
 また、資本主義の先進国企業は高賃金となった自国労働者を嫌い、中国に安価な労働力を求めて生産拠点を移します。これによって他の資本主義国は自国経済の衰退を招き、反比例して中国は一人勝ちの経済成長を果たすことになります。
 2020年現在、アメリカと中国の貿易・経済戦争は資本主義国同士、独裁者同士の戦いとなっています。

 以上、20世紀末から21世紀初めに起こった世界の大転換について眺めてきました。
 最後に、これら社会・共産主義の崩壊、修正資本主義の終焉と世界の総資本主義化(グローバル化)によって日本の労働者が、そして労働者予備軍である子どもたちの教育がどのように変わったか、まとめておきます。

 グローバル化とは一国資本主義、地域資本主義・地域共産主義の崩壊であり、国と国との対立競争となったことを表しています。平べったく言えば、「もうお前のめんどうはみない。自力でやれ」ってところでしょうか。
 修正資本主義によって守られていた企業も、労働者も「能力の低い者、成果を出せない者のめんどうはみない。働き方を絶対評価するから、力のない者は出ていけ。その代わりがんばって成果を出した者は報酬を増やす」へと変わったようです。つまり、相対評価から絶対的な能力・成果を求め、それを評価する絶対評価への転換です(と言いつつ、実態は目標・ノルマを高く厳しくし、相対評価によって勤務成績をつけたことはすでに指摘しました)。

 振り返れば、社会・共産主義下、修正資本主義下における労働者にとって「生きること働くこと」はそれほど難しくなかった――と私は思います。
 社会・共産主義下ではいろいろな自由がない、懸命に働いてもそれに見合う報酬がない。そこは大いに不満である。だが、高い望みを持たなければ、なんとか生きていける。何より貧しい国で貧しいのは自分だけではない。みんな同じだから。
 かたや修正資本主義下においては貧しくとも自由がある。年功序列によって賃金が増えれば、家庭をつくり、子どもを育てて生きていける。お金持ちと比較すれば不満があるけれど、自分の能力ではこの程度が精一杯だ……。

 ところが、社会・共産主義と修正資本主義は終わりました。結果、金が金を生む金融資本主義が世界を制覇し、労働者に対しては原始資本主義が持っていた弱肉強食の掟が適用される世の中になりました。
 富める者はより冨み栄え、持たざる者は落ちぶれていく。中流(下流)を維持するためには今までより倍の働きをしなければならない。企業・組織は能力・成果中心の絶対評価に変わり、ノルマ達成を求めたからです。
 ノルマを達成できない者はやめさせる。しがみつく者はパワハラを駆使して追い出す。労働強化、サービス残業、長時間労働。この源流に吹いた風が世界の総資本主義化であり、グローバル化であり、競争社会の到来だった、と私は思います。

 かくして21世紀を前に各国はどのような国民を育てるか。その必要に迫られました。
 それが1990年代のことであり、日本のお偉方が選んだのが「どこに行っても通用する能力の養成」だったと思います。すなわち、学校における相対評価から絶対評価への転換であり、小中高に導入された観点別評価の実施です。

 これを最も端的な例をもって表現すると、英語を学ぶなら「世界のどの国に行っても使える英語を習得しなければならない」ということです。
 日本国内で英文が読め、日本語訳できる、英作文ができるだけではダメ。ヨーロッパ、南北アメリカ、アジア各地、アフリカ各国に出かけていったとき、現地の人と英会話ができること。政治経済について書かれた英文ツイッターを読んで意味がわかること。
 また、国内でも「インバウンド」と呼ばれる外国人の旅行者、日本で働く移民とも、簡単な英会話ができる英語力がほしい。
 近年土産物屋のおじさん、おばさんが外国人客に対して英語で説明し、精算する姿をよく見かけます。必要が彼らの英会話能力を高めたと言えるでしょう。

 さらに、遠い異国の地で活動するのは自分一人かもしれない。一人で考え、決断できる能力が必要である。かくして「これからの社会を生きる児童生徒にとって身に付ける必要がある学力は、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力(である)」との見解が生み出されました。
 日本の教育・成績評価の根源に吹いた一陣の風がコンピューターの発明・進化なら、もう一つの風は修正資本主義の終焉であり、グローバル化による国家間競争の到来です。

 今までは日本国内で競争していました。各都道府県、各学校で競争して優等生を出していました。しかし、この優等生は高校を卒業しても、大学を出ても、英会話さえ満足にできません。
 おそらく企業のリーダーは与党政治家に要求したでしょう。「もっと優秀な、世界と戦える人間を養成してくれ」と。それを受けて政治家と専門家、文科省のお偉方は考えました。
「相対評価が良くない。小学生並みの英会話さえできない英語力なのに、『5』の成績がついている。これではダメだ。絶対評価にしなければ」と考えたようです。つまり、日本国内で優秀であるだけでは世界で戦えない、日本は生き残れない、との気持ちでしょう。

 言わば優等生の価値基準が変わったのです。もはや知識を持っているだけでは優秀な人間ではない。それをどう使いこなせるか。世界の人を相手に交渉できるか。当然世界共通語である英語は必須。求められているのは他国の人を相手に戦える意欲・能力であり、世界の人と話せるコミュニケーション力・プレゼンテーション力である。
 かくして、「英語とパソコン操作は小学校からスタートすべきだ。知識と技能習得にプラスして意欲・思考力・判断力・表現力を全教科で養成し、それを絶対評価せよ」との大号令が下された。子どもたちには以前より2倍の学びが求められるようになったのです。

 再度書きます。あなた方は2倍の荷物を背負わされた牛馬に対して「そんなの大した荷物じゃない。かつげないのはお前の努力が足りないからだ。背負って歩かないと、牛馬として失格の烙印を押されるぞ。もっとがんばれ!」と叱咤激励してムチをふるいますか。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:文中一読法なら「おやっ?」と思うところがあったはずですが、つぶやかれたでしょうか。『ハムレット』の有名な一節「To be, or not to be: that is the question.」を取り上げたところです。
 これまで私は一度も英文を掲載したことがありません。ここは立ち止まって「なぜ突然英文を出したのだろう」と疑問を書き込んでほしかったところです。答えは本節の中にはありません。今後ある節に突入したとき、「ここの伏線だったか」と気づくはず……と言うか気づいてほしいものです。

 なお、教育システム・成績評価への「提言」はまだまだエンドマークを打つことができません。例年8月は全てのメルマガを停止して夏休みとしています。今年はこれまでちょっとがんばりすぎた(^_^;)ので、7月も休みとして次号は9月再開とします。ご了解お願いいたします。

 今年の夏も猛暑と異常気象による災害が起こりそうです。その上コロナ禍であり、コロナとともに生きなければなりません。心くじけず、お互い生き延びて9月を迎えようではありませんか。m(_ _)m

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