カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 44号

一読法からの提言T

 14「生きづらい世の中――競争社会の到来」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第44号

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           原則隔週 配信 2020年10月14日(水)



 今号は見出しを変え、前節の復習と補足です。
 [14] 生きづらい世の中――競争社会の到来

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 ご無沙汰いたしております。9月も休みにしてしまった御影祐です。
 決して怠けていたわけではなく、不本意ながら――でした。まずはこの話題から。

 6月末に発行した前号後記に「今年の夏も猛暑と異常気象による災害が起こりそうです。その上コロナ禍であり、新型コロナとともに生きなければなりません。心くじけず、お互い生き延びて9月を迎えようではありませんか」と書きました。
 これが恐ろしいほどに的中しました。

 全国的にコロナ第二波が拡大し、「新型と言っても所詮風邪みたいなもんだから、夏には収束するだろう」という期待が裏切られました。ただ、私が住んでいる大分内陸の町ではいまだ感染者が一人も出ていません。

 その点はありがたいけれど、自然災害はコロナ以上の猛威でした。7月初めに豪雨、9月初めに台風10号による強風によって甚大な被害が発生しました。実家すぐ近くで土砂崩れや堤防が崩壊し、私の実家も半床下浸水になりました。台風のときは翌朝家の前にでっかいトタン屋根が落ちており、家の屋根と同じ色だったので「やられたっ」と真っ青に。慌てて外に出て見上げたら、実家の屋根ではないとわかりました(近くの空き家の屋根が飛んで来たのでした)。
 幸い、私にとってはどちらも許容範囲の被害でしたが、熊本や大分の日田・湯布院など大変な状況になっています。改めてお見舞い申し上げます。

 そして9月半ば、とうとうその日がやってきました。ここ数年瀕死の症状を呈しつつ復活していた、「ウインXP入りパソコン」が断末魔の「ピーッピッピッ」の声を残して全く起動しなくなったのです。
 これは友人製作のパソコンで、問い合わせたら「マザーボードの寿命だから修繕できない」し、「もう部品がないので、同じものは作れない」とのこと。

 そうなると(4月に別の友人から「ウイン10入りノートパソコン」を譲り受けていたので)、そちらにうつるしかありません。ところが、ウイン10はうわさ以上の使いづらさで、習得するのに時間が必要でした。
 月末にはなんとか使えるようになり、こうしてメルマガを発行するレベルまでこぎつけたというわけです。

 かくして、『一読法を学べ』の再開です。実はまだ「やめませんか」を続けるつもりでしたが、3ヶ月も休みにしたせいで、前とのつながりがうまくいかない状態になってしまいました。簡単に言うと以前と同じことを述べる可能性があり、チェックの時間が必要です。

 さすがにもうひと月休むのも心苦しく、とりあえず今号は見出しを変え、前号の復習と補足に励んで時間稼ぎをしたいと思います(^_^;)。
 深掘りしたいのは「競争社会の到来」と「目標・ノルマ」についてです。

 [以下今号]提言編T
 14  生きづらい世の中――競争社会の到来
 []前節の復習
 []勝つためには手段を選ばない
 []目標とノルマ

 以下次号
 提言編U 第 45 「新しい教育システムの構築」その1


 本号の難読漢字
・磨(みが)く・頻発(ひんぱつ)・跋扈(ばっこ)・束の間(つかのま)・恫喝(どうかつ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』44 一読法からの提言T

 14 生きづらい世の中――競争社会の到来

[14] 生きづらい世の中――競争社会の到来

[1] 前節の復習 

 前号は21世紀に入って小中高の成績評価はなぜ相対評価から絶対評価に変わったのか。また、文科省の言う「これからの社会を生きる児童生徒にとって身に付ける必要がある学力は、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力(である)」との見解はなぜ生まれたか。この2点の疑問に関して「根源に吹いた風」を探す試みでした。
 文科省のお偉方はいずれも「それが大切だ・重要だ・必要だ」と言うばかりで「なぜ」の疑問に答えていません。

 ならば、こちらで考えるしかない――ということで、私は20世紀末世界で発生した激変に根源の風を見ました。コンピューターの発明と進化によって、知識の持ちようが変わったこと。今までは頭の中にたくさんの知識・情報を持っている人が「優秀な人間」であった。
 だが、(パソコン・スマホに習熟しさえすれば)知識や情報はインターネットを検索すればいい。いや、もはや机上のスマホやAIロボットに問いかければ教えてくれる時代になった。
 人の役割は知識・情報をいかに使いこなせるか――に変わった。その意欲を持ち、自ら深く考える力、表現する力が必要になったというわけです。

 また、社会主義・共産主義の崩壊によって世界が総資本主義化したこと。21世紀に入って生きづらく、働きづらくなったのは資本主義が修正資本主義(ほぼ社会主義)の仮面をかなぐり捨て原始資本主義に戻ったから(と私は考えました)。

 もちろん単純な原始資本主義への回帰ではなく、金が金を生む金融資本主義は継続中です。「金が金を生む」とは逆に言うと、金を生まない(利益が出ない)ものごとは「やらない」ということです。
 一時期全国に広がった大型スーパーやデパートは儲けがないとわかるや、どんどん撤退しました。地方の遊園地や箱物なども赤字に苦しみ、いや、現在赤字でなくとも、将来の儲けが望めなければ「やる意味がない」。かくして廃止・廃業が相次ぎました。

 修正資本主義の終焉によって、国家は個人を、企業を守ることをやめた。貯金をするより株や投資信託の購入によって「資産を増やせ」とか(そもそも利息が限りなくゼロ)、規制の撤廃、国営企業の民営化によって企業間競争を促した。「個人の責任」という言葉も至る所で聞かれるようになりました。

 それまで各国は社会・共産主義圏内、資本主義圏内において《競争》すればよかった(厳密には前者に競争はない)。だが、世界の総資本主義化=グローバル化によって競争相手は全世界になった。弱肉強食・優勝劣敗は資本主義の掟。競争は勝たなければ意味がない。負けたら個人は終わり、企業は倒産し、国には没落が待っている……。

 グローバル化の21世紀とは突き詰めれば「競争社会の到来」であった(到来である、と私は考えています)。

 世界と闘うためには英語が必須であり、遠い異国の地では上司も部下もなく、自分一人だけかもしれない。意欲・思考力に加えて判断力・表現力も必要である。知識と技能を磨いて日本国内で細々生きていけばいい……なんて甘っちょろい考えでは「これからの時代を生きていけませんよ」と言いたいようです。

 かくして「パソコン・英語を小学校から始めよう」となったし、各教科は世界に通用する絶対的な能力を育成すべきだと、相対評価から絶対評価に変えたというわけです。
 新たに導入された「観点別評価」も従来の成績評価が知識・技能に偏っていた――ほぼそれのみであった――ことの反省から「意欲・思考力・判断力・表現力」を評価するための制度でした。よって、知識や技能の有無・到達度を確認するテストの点数が90点であっても、後者が普通以下なら、成績は良くてBか五段階の[3]である現象が起こったわけです。

 ――と、ここまでまとめたところで一読法の復習です。

 読者各位は前号の前置きを読み、本文を最後まで読み終えたとき、以下の[?]をつぶやかれたでしょうか。

 前置きには以下の文言がありました。
「二十一世紀に入って普通に働き、生きることがなぜしんどくなったのか。なぜサラリーマン的詐欺師が増え、横領・着服、検査不正が頻発したのか」と。

 一読法なら本文を読み終えたとき、「あれっ、サラリーマン的詐欺師とか、横領・着服、検査不正が頻発した件について書かれていたかなあ」とつぶやいたところです。前置きにはあるのに、これらの言葉は本文で一つも出てきません。これこそ「作者の怠慢じゃないか」と言ってしかるべきです。

 それについて言及しなかったのは「それでも長い文章がさらに長くなる」し、二十一世紀に入って普通に働き、生きることがなぜしんどくなったのか、その理由がわかれば、そこから当然のように後者につながる。だから、「わざわざ説明するほどのことはあるまい」と考えたからです。
 ……と書きつつ、「でも、たぶん説明が必要だろうなあ。まー長くなったから、次号に回そう」てな感じで、筆を止めました(もちろん止めたのはキーボードの入力)。

 もしもおヒマなら、ここで立ち止まって考えてください。
 なぜ最近「サラリーマン的詐欺師が増え、横領・着服、検査不正が頻発したのか。さらに、モリカケ問題や政治家への賄賂・口利き、某与党の派閥復活・ボス政治の跋扈(ばっこ)から、新総理の日本学術会議任命拒否」まで、政治がまるで50年前に先祖返りしたかのような状況です。
 私はこれら全て今世紀の根源に吹き荒れた風で説明できると考えています。そのキーワードが「競争社会の到来」です。次節を読む前に立ち止まって考えてみてください。一読法の実践訓練です。

 ヒントは競争社会の到来とは《個人に、企業に、国家に到来した》というように分けることです。
 もう一つ、本節すでにこの答えは出ています。失礼ながら、ぼーっと読んでいると気づきません。もう一度読み直して「これかっ!」と気づいてください。

[一] に戻る

[2] 勝つためには手段を選ばない

 これから語ることはまだ前号の補足です。

 まずは先ほどの答え。読み返したでしょうか。
 競争社会の到来によって「サラリーマン的詐欺師が増え、横領・着服、検査不正が頻発した」云々についてちゃんと書いています。
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世界の総資本主義化=グローバル化によって競争相手は全世界になった。弱肉強食・優勝劣敗は資本主義の掟。競争は勝たなければ意味がない。負けたら個人は終わり、企業は倒産し、国には没落が待っている……
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 個人と企業と国家について書いているではありませんか。競争社会においては「負けたら終わり」だと。

 人は負けないために、勝つために、知恵を絞り、懸命に考えた。その結果、ある種の人は人をだまして金を得ようと考えた(マルチ商法・サラリーマン的詐欺師)。地道に働いてきたとある会計担当者。安月給で今後勝ちは望めない。だが、目の前に大金がある。ならば、束の間でいい、勝ち組の気分を味わいたい。そう思って彼(もしくは彼女)は組織の金を着服・横領した。また、競争に勝つために、一部の企業は定められた手数を省略してコストカットした(検査不正)。

 そして、政治家は選挙に勝つために金をばらまこうと考えた(広島の古典的選挙違反)。実業家は国の施策に参入するには政治家に金を回すのが近道と考えた(カジノを含む統合型リゾート汚職事件)。勝つためには手段を選ばない、金を使えば目的を果たせる――といわんばかりです。

 正当に生きて働いている(と思われる)人たちが、不正な手段によって目的を果たそうとするなら、日々の生活に困窮している自分が不正な方法でお金を得たとしても、「一体何が悪いんだ」とサラリーマン的詐欺師はつぶやいているでしょう。

 そして、国のリーダーは「国全体が一つにまとまらないと世界で勝てない」と考えた。一つにまとまることに賛同し、推進する愛国者を優遇するのは当然じゃないか(それがモリカケ)。逆に一つにまとまることを拒む輩(やから)は非国民である。そんな連中は冷遇し迫害し、考えを改めさせねばならない(従わない官僚は左遷する、政府の方針に反対する学者は日本学術会議への任命を拒否する)。

 2020年9月の某党総裁選は選挙をするまでもなく決着しました。派閥の多数が一人を支持したからです。正に「勝つためには勝ち馬に乗れ」のことわざどおり。

 かつてあれだけ派閥の弊害が指摘されながら、いまや誰もその言葉を発しません。泡沫議員は感じているのでしょう。某若手のようにマスコミからもてはやされるわけではない、知名度も低い自分が大臣になるため――勝つためには派閥に属するしかない。派閥の中で多数派に属するにはボスの決めたことに従う。それが議員という戦場で勝つための方策であると。

 彼らに「自分で考えて決断する」というアイデンティはあるのだろうかと哀れに思います。だが、このような指摘に対して彼らは言うでしょう。
「目的を果たすためには必要なことだ」と。

 前号の記述を再度掲載します。国家間競争は独裁とナショナリズム復活をもたらしました。
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 ナショナリズムの復活が各国政府、リーダーの独裁化に進んだことも歴史の必然でしょうか。国同士の競争となったとき、勝ち組に入るためには国民一丸となって戦わねばなりません。
 これはある種の経済戦争であり、戦争において「私は戦いません」という自由は許されていない。国を一つにまとめるのに最も有効な方策こそ、強いリーダーシップという名の独裁主義であった……と思います。
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 もう少し付け足すと、「私は戦いません」と言って黙るのはまだ許せる。だが、「反対です」ということは許さない――それが独裁です。個人であろうが、政党であろうが、独裁国家に言論の自由はありません
 ご存じのように、中国や北朝鮮に「国の方針・政策に反対だ」ということは許されていない。日本(の与党政治家)もまた目指しているのはそのような国であることがよくわかります。

 ここでも彼らは言うでしょう。「他国との競争に負けていいのか。負けたら日本国民は生きていけないではないか」と。
 あるいは、近隣国との戦争が近いことを強調して開戦の準備をし、いざというときのために同盟国との結びつきを強めねばならない。これみな全て「国内が一つにまとまらねば、戦争になったら勝てない。負けていいのか」との思いが根底にあるから(と私は思います)。

 余談ながら、最近蜂の生態について面白い番組を見ました。二ホンミツバチの天敵はスズメバチです。スズメバチはミツバチの巣を襲って一匹、また一匹と自分の巣に運びます。幼虫のエサになるそうです。ミツバチは1対1で戦っても決して勝てない。しかし、闘わないと巣は全滅する。では、どうするか。

 まずは女王バチを先頭に全員(全匹?)で逃げ出す。それがかなわぬときはスズメバチと闘う。その方法は十数匹でスズメバチの体をとり囲み、発熱してスズメバチを蒸し殺すというのです。ボールのようになるので、これを「蜂球」と呼ぶ。

 蜂球の内部は45度〜47度になる。スズメバチは耐えきれずに死ぬけれど、ミツバチの致死温度はそれより高いので死なない。それによって侵略者に勝つそうです。蜂球に参加した蜂は生き残るけれど、寿命が縮む。激しい発熱行動で消耗するのでしょう。
 興味深かったのは研究者の次の言葉です。「蜂球行動に参加するのは年老いたミツバチである」と。余命わずかな蜂が戦闘に参加するのです。

 私はそれを聞いて思いました。人間の戦争も血気盛んな若者、愛国心にあふれた連中がやるから凄惨になる。お互い余命いくばくもないお年寄りを戦場に派遣したら、「老い先短いんだから、こんなバカなことはやめましょう」と握手して別れるのではないかと。

 この余談、もちろん以下のような真意があります。
 競争は勝たなければ意味がないのか。勝つことなく、負けることなく共生する道があるはず。戦争を避ける道もまた、たくさんあるのではないですかと。

 閑話休題。本稿はあくまで教育・学校・読書論のための論考です。
 競争社会の到来、競争に勝つための勉強は子供たち、教師、学校に何をもたらしているか。それを考えねばなりません。

 おそらくここまで読まれた(中年以上の)読者各位は「競争社会の到来とか、大げさな。どの時代にも競争はあった。私の学校時代にも勉強や部活で競争したもんだ。ライバルの存在が自分を成長させたこともある。高校入試や大学入試も結局競争であり、合格することが勝つことだった。誰でも自分の子や孫に勝ってほしいと思うだろう」とつぶやかれるのではないでしょうか。

 ここで問題となるのが「目標・ノルマ」なる言葉です。私はこれまで二語をほぼ同じ意味で使ってきました。しかし、両者は似て非なるものと言えるほど違います。
 もしも「あまり違いを意識していなかった」と思われるなら、ここで立ち止まってネット検索してください。


[3] 目標とノルマ

 直ちに結論を言うと、目標は目指すべき地点であり、そこに達したいと心掛けている到達点です。自分で設定し、到達するかどうかは問われない。
 一方、ノルマとは誰か自分以外の人が設定して課される目的地であり、到達点です。それは「最低でもこれを越えるもの」として示されます。

 たとえば、車の営業の場合、「月に10台は売ろう」と自分で決めて活動するなら、それは目標。上司(会社)から「お前は月に最低でも10台売りなさい」と言われるのがノルマ。
 会社は1台売るごとに褒賞を出すけれど、前者は月に5台しか売れなくても歩合を出す。だが、後者は10台売れなければ出さない。
 もちろんそこまで露骨ではないから、ノルマを果たさないと、1台当たりの歩合を半減する、といった方法を使う。

 さらに、後者はノルマを果たさないと、まるで「お前は無能力だ、欠格人間だ」といった評価を下す。勤務評定は三段階なら常にC、五段階なら最低の1。
 社員はノルマ達成のために、自腹で購入したり、ときには相手をだましてもノルマを達成しようとする。それがゆうちょ銀行の「かんぽ生命・不正契約問題」でした。

 不正を働いた社員によると、「過剰なノルマを達成させるため、上司に日々の仕事を管理され、成績が悪いと“恫喝研修”に強制参加させられた」と言います(詳細はネット検索してください)。

 私たちが中学・高校のころ同級生と競っていたのは自らの意思でした。ライバルに勝てば嬉しかったし、負ければ悔しかった。
 確かに高校入試・大学入試は倍率数倍に勝つための競争だった。だが、テストである点数を超えれば良かった。それは自分の力に合わせて設定した。もしもその目的地が親や先生から指定されたとすれば、それはノルマと化すでしょう。

 具体的にはこういうことです。もしも親が東大卒、三人兄弟の二人も東大卒なら、三番目の子に課される東大の入試合格は当然のノルマとなる。
 東大は日本と関東のトップですが、関西には京大、九州には九大卒の親を持ち、その入学がノルマとなったり、有名私大が、高校が、中学がノルマとして課せられた子供たちも多々いることでしょう。
 あるいは、両親が声楽や器楽の芸術家である。スポーツ優秀でオリンピックに出たことがある。子供がもしも同じことを目的としたなら、両親の期待はノルマとなって子供の肩にのしかかると思います。

 みなさん方は「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」なる話をご存じでしょう。谷からはい上がってきた強い子こそ後継ぎとしてふさわしいとでも言うのか。試練を与えるのは「お前を愛するがゆえだ」とでも言いたいのか。

 中年以上の大人にとって学校時代は知識と技能習得に励めばよかった。しかし、今の子供たちは「意欲、思考力、判断力、表現力」を習得(?)せねばなりません。

 私は前号ラストで[絶対評価+観点別評価]の下で勉強せねばならない子供たちを、2倍の荷物を背負わされた牛馬にたとえました。知識と技能の習得だけでは不充分だ、「意欲、思考力、判断力、表現力」を見せつけろという。絶対評価の名のもと、それはノルマとなったのです。

 そして、先生方も(絶対評価など不可能な)「意欲、思考力、判断力、表現力」を評価しなければならないという、重い荷物を背負わされました。もはや小中高の教員は「素人に毛の生えた程度の知識・技能の持ち主」では務まらない職業になりました。

 そして、悲惨なことは独裁者も独裁政党も、企業も、深く考えて発言する個人を求めていないということです。不正を働こうとする上司や会社に対して「それはおかしい」という社員を求めていない。公務員に対してリーダーの施策・方針に異議を唱えることも求めていない。何も考えるな、オレ様の言うことに従え。日本も世界もそのような社会を作ろうとしている――私にはそう思えてなりません。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今年も残り2ヶ月半。下書きはある程度できているのですが、他のメルマガ作成もあって今後も月一の発行となりそうです。のんびりお付き合いいただければ、と思います。
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