カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第49号

提言編U 新しい教育システムの構築

 5「日本の抽象語は日常生活と結びついていない」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 49号

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           原則隔週 配信 2021年3月 日(金)



 新しい教育システムの提言――5回目は引き続き「日本語の難しさ」について語ることにしました。習得だけでなく、根深い問題をはらむ「抽象語」の難しさです。予告した「高校入試の廃止」は次号に回します。

 これは前号の補足としてさらっと触れるつもりでした。ところが、とんでもない舌禍事件(?)が勃発したので、「もっと書きこまねば」と思って(当然長くなったので)独立させた次第です(^_^;)。

 事件とは「2020東京オリ・パラ」組織委員会・某会長の「女性蔑視」発言です。日本だけでなく、世界を駆け巡る大ニュースとなって会長はとうとう辞任に追い込まれました。男女の不平等を示す「ジェンダー・ギャップ指数」において、日本の順位が153ヶ国中121位という不甲斐ない状況も広く知られるところとなりました。

 文科省や政治家はPISA(国際学力調査)の順位がちょっと下がっただけで、大騒ぎして制度変更を訴える。なのに、ジェンダー・ギャップに対する教育改革を提言しないのはどういうことでしょう。
 私は中高の細かすぎる校則を廃止することがそのスタートだと思います。あれこそSNSとか居酒屋では言いたい放題なのに、実際の会議では何も発言できない、微笑みとイエスマンの国民を育てている元凶ではありませんか。

 何にせよ、私はこの顛末を見聞きしたとき、「おお、これは次号で触れるつもりだった日本語最大の難関――抽象語の問題が噴出した例ではないか」とつぶやいたものです。
 世の人はくだんの発言を、本人の経歴・資質、高齢のせいと解釈しているようです。しかし、当人は「私に女性蔑視の意図はなかった」と終始おっしゃっています。つまり、反省なんぞしていない。「どうしてそんなに批判されるのかわけがわからない」といった趣なのです。

 読者各位はあのような発言を聞いてあることを思い出したでしょうか。それはいじめとかセクハラ・パワハラ、親の虐待が発覚したとき、加害者がよく言う「そんなつもりはなかった」との言葉です。今回またも同じ言葉が使われました。
 これが日本語最大の問題――抽象語習得の難しさなのです。
「はて、どういうことだ?」と思った方はぜひ本稿を読んでください。

 [以下今号
 5 日本の抽象語は日常生活と結びついていない
1 ]カルチャーは畑を耕すこと
2 ]ピースは平和?
3 ]そもそも言葉は抽象語
4 ]タテマエとホンネ
5 ]日常世界と抽象語を結びつけるには

 以下次号
 6「高校入試の廃止について」


 本号の難読漢字
・舌禍(ぜっか)・勃発(ぼっぱつ)・惨憺(さんたん)・顛末(てんまつ)・耕(たがや)す・営(いとな)む・充(あ)てる・読み漁(あさ)る・語彙(ごい)・和(なご)やか・捨象(しゃしょう)・忖度(そんたく)・誹謗(ひぼう)・懲(こ)りない・賄賂(わいろ)・縷々(るる)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』提言編U  49

 新しい教育システムの構築 5

 日本の抽象語は日常生活と結びついていない

 [1] カルチャーは畑を耕すこと

 何度も書いているように、日本に生まれて暮らす以上、我々は「漢字・ひらがな・カタカナ」混じりの日本語を習得しなければなりません。これは世界の人々に比べてものすごいハンデです。特に漢字を習得しなければ、読解力もへったくれもない。

 私は高校の国語教員でした。定期テスト終了後、他の座学4教科の先生方が「生徒はテストの問題文を読み取れない」とつぶやくのをよく聞いたもんです。数学の文章題など計算に入る前に、問題文そのものが理解できていないと。暗に「国語科は何やっちょるんじゃ」と言わんばかりです。
 それに対して私は「国語、特に現代文はもっとやらねばならないのに、他教科並みに減らされてしまった」と――言っても詮無いので、黙っていました。

 かつて高校の国語は現代文・古典で3時間ずつ6時間ありました。それが合わせて4時間になったのです。これ多くの高校は2時間2時間で分けず、ある時期は現代文だけ、他の時期に古文・漢文といった感じで授業を実施します。それがどのような結果をもたらすか想像できると思います。
 ちなみに、普通科高校は偏差値レベルによって上位校は古典の比率が高く、下に行くほど現代文の比率が高くなる傾向にあります。大学受験においてハイレベル大学を狙うなら、「古典」の点数を上げる必要があるからです。

 読み書きの国語力は全教科の基本であり根本です。聞く力、話す力を含めて、成人後社会生活を営むにあたっての生きる力だと言っても過言ではない。
 現場の先生方はそれが子どもたちの身についていないと感じています。生徒に国語力をつけたければ、特に中学校において「全時間の半分を現代文の授業に充ててもいい」とさえ思います。

 それはさておき、本題の「抽象語」について。これは漢字最大の難関です。抽象語を習得することは日本人にとって(いや、日本人だけと言っていいほど)最も難しい課題なのです。なぜか。
 それは日本の抽象語だけが日常生活と乖離しているからです。

 乖離(かいり)……簡単に言うと、日常生活と切り離されている・同じものと思えないという意味です。ここで「乖離」の漢字を読めず意味がわからず、「なんで〈切り離されている〉の言葉を使わないかなあ」と感じた方は、「抽象語が苦手」と白状したようなものです。

 ここから英語との比較を語ります。
 たとえば、日本語の「文化」は英語で「culture」と言います。
 この英単語は「カルチャーセンター」といったカタカナ語としても導入され、「教養」の意味もあります。公民館などで「何々講座」が開かれ、趣味や教養を深めるための活動としてよく使われる言葉です。
 ところが、「culture」には「文化・教養」の意味だけでなく、「栽培」とか「耕作する・耕す」という意味があります。
 なので、「culture of cotton」は「綿花の文化」ではなく、「綿花栽培」であり、「I cultivate the field.」は「畑を耕す」という意味(「cultivate」は「culture」の動詞形)になります。

 ちなみに「culture」は英語・フランス語が同形、ドイツ語では「kultur」、スペイン語・イタリア語は「cultura」とほぼ同じながら、発音が微妙に違います(次のサイト「speechling jp―英語で"文化"の発音の仕方」で各国の発音を聞くことができます)。

 ヨーロッパの人は二〜三ヶ国語を話せる人が多いと言われ、「すごいなあ」と思います。なーに、元のラテン語が各国にちらばって方言になったようなものです。
 とは言え、もしも日本人で共通語と津軽弁と鹿児島弁の3つを全て「聞き取れて喋れる」と想像すれば、ものすごいことです。私は津軽地方を訪ねたとき、「ここは異国だ」と思いました。

 よって、英語に限らずヨーロッパの人々にとって、抽象語の「文化」とは畑を耕すという日常生活から始まることがわかります。日本人で「畑を耕すことは文化だ」と思う人はそうそういないでしょう。

 なお、抽象語と日常生活が乖離している件は私の発見ではありません。二十歳のころ読んだ本に書かれていました。やはり「culture」を例として「日本語の漢字、特に抽象語は日常世界と切り離されている。間には深い溝があるので、そこを飛び越えなければならない」と。
 そのころは正直意味不明だったけれど、意味が分かってからは「大変なことだ」と思うようになりました。そして、どうやったら、間の溝を飛び越えることができるか。言い換えると、抽象語を理解し、使いこなせるようになるにはどうすればいいか、考えてきました。

 ただ、答えはすでに本の中にありました。抽象語が多く使われた評論とか書物をどんどん読むことだと。
 前節で「もしも読者が中高生で『小論文が苦手』と感じているなら、漢字能力の低さ、特に抽象語を使いこなせないことが原因」と書きました。この克服法として、先生から「論説文をたくさん読んで抽象語に慣れることだ。まず新聞を読め」と教わったことがあると思います。
 私も十代半ばくらいから「漢字のたくさん含まれた難しい本」を読み漁って抽象語に慣れていったものです。国語教員になってからも、生徒に同じアドバイスをしました。

 がしかし、論文系の文章をたくさん読むだけで、本当に抽象語を理解し、使いこなせるようになるのだろうか。もっと深い何かがあるのではないか。日常世界と抽象語の間の溝を飛び越えるには「論文系の文章を読むだけでは足りないのではないか」とずっと考えていました。
 この答えを見出したのは最近のことです。たどり着くまで数十年かかりました。


 [2] ピースは平和?

 それについて語る前に、もう一つ例をあげます。
 誰でも知っている英単語に「peace(平和)」があります。愛と平和など「love and peace」として使われることも多い。
 では、英語圏のとある教室で先生が児童・生徒に、
「Peace! Peace!」と言っている。これは何と訳すか。

「平和! 平和!」ではありません。騒いでいる生徒に「静かに! 静かに!」と言っているのです。
 先生からこの言葉を聞いた子供たちは「peaceとは教室がうるさく乱れている状態を静かにさせる言葉である」と理解します。ここがスタートです。
 その後いろいろな話を聞いたり、映像を見たり、書物を読んだりして成長すると「war and peace」のように「戦争と対比される平和の意味がある」ことを知ります。これが「peace」を抽象語として使うようになる到達点です。
 先ほどの「culture」が「耕す」からスタートするように、「peace」も「静かに穏やかに暮らす」という日常世界と結びついている。つまり、英語圏(ヨーロッパ言語)においては抽象語と日常世界が乖離していない。間に溝がないのです。

 ところが、日本において「平和」なる言葉は最初から「戦争と平和」の意味で使われます。日本人にとって「平和」とはどこか遠い国で悲惨な戦争が行われている。あるいは、かつて日本で他国と戦争をして殺したり、殺されたり、都市が空襲で焼け野原となり、原爆によって甚大な被害を受けた。それに対して「世界の平和を訴える」といった意味合いで使われることが多い。
 要するに、この抽象語は日本の日常生活とあまりつながっていない。だから、「今の日本は平和だ」と言い、それは間違いのない事実であると思って疑うことがありません。英語なら「Japan is peaceful.」でしょうか。

 しかし、もしも家庭内で親が子供を虐待したり、学校でいじめがあったり、教室が騒がしかったり、先生が暴言を吐き、体罰をふるっている状況があるなら、それは「peace」ではない。静かで穏やかな状態ではないのだから、「This is not peace.」である。
 よって、落ち着いて勉強がしたい、穏やかに家庭生活や学校生活を送りたいときは、「I wish for peace in our school(in my house).」(私は学校・家庭で平和が欲しい)と言っていいということです。日本では「平和」の語を使ってこのような発言をしたり、文章を書くことはありません。

 英語圏において「peace」は日常生活の静かで穏やかな状態という意味から始まり、やがて「world peace」とか「the peace of the world」といった戦争と対比する「平和」という抽象語として使われる。だが、日本人にとって「平和」と日常生活はつながっていない。切り離されている。このことを「日本の抽象語だけが日常生活と乖離している」と表現したのです。

 言語の習得を坂道にたとえると、人は誰でも身近の言葉からスタートして道を少しずつ登り、語彙を増やして頂点の抽象語に到達する。欧米の人に道は途切れていない。だが、日本語だけは抽象語の前に深い溝がある。別の言い方をすると、道が平たんなら、突然高い壁が出現してそれを乗り越えなければならない。

 この壁を乗り越えることのできない人は(ちょっと難しい表現ながら)思考が日常生活の段階にとどまって抽象語の世界に入れません。
 具体的に言うと、「女性蔑視」という抽象語と「会議を長引かせることなく、反対意見を言わない女性はとてもわきまえた人だ」という日常世界が結びつかないのです。だから、「私は自分の発言が女性蔑視とは思わない」といった発言が出てきます。

 なぜこんなことが起こったかと言うと、前節でも触れたとおり、明治時代に西欧の抽象語を日本語に転換する際、新しく漢字を作ったからです。「和製漢語」と呼ばれます。
 もちろん外国語をそのままカタカナにしたように、抽象語もお得意のやり方でカタカナにして導入できる(はずでした)。たとえば、「peace」をそのまま「ピース」として使う。

 ところが、それでは「意味がわからない」という人がどうしても出てくる。「私はピースは吸いません」など、タバコの「ピース」の方が有名になると、「ピース=平和」とつながらなくなってしまう。抽象語はそう簡単にカタカナにできないのです。
 外来語の単純名詞は「ice cream」だったら「アイスクリーム」、「beer」も「ビール」だけで他の日本酒や焼酎と混同することはない(ちなみに「日本酒」は英語で「sake」、焼酎は「shochu」と向こうがそのまま英語化しています。「sashimi」や「sushi」と同じです)。

 ただ、日本には漢字がある。だから、戦争なら一文字の「戦(いくさ)」、もしくは「戦い」で表せなくはない。
 確かにこれによって日常語は抽象語とつながります。だが、今度は別の問題が出てくる。大国と大国の長い戦争まで、日本国内の「長篠の戦い」のように小さく感じられます。「太平洋戦争」を「太平洋の戦い」と表現したら、「うーん」とうなりたくなります(英語では「pacific war」)。
 ベトナム戦争の時代、デモ隊が「戦(いくさ)反対! 世界にピースを!」とシュプレヒコールをあげても、どうにも気勢が上がりません。やはり「戦争反対! 世界に平和を!」でしょう。

 カタカナや既存の漢字では「war」や「peace」の語が持つ抽象語感といったニュアンスが出ない。そこで「戦や戦い」ではなく「戦争」、「平らかで和やかで争いのない世界」との意味を持たせて「平和」という漢字を新たに作成した……というわけです。
 今でも「昭和・平成・令和」など年号制定でこの手法が使われます。

 そして、抽象語になった途端、この言葉は日常生活から切り離されてしまいました。それはたとえば「虐待」もそうです。しばしば親が子供を虐待して死なせ、逮捕されるニュースが報道されます。
 そのとき親がよく言う一言が「しつけだと思った」との言葉です。その人にとって「虐待」とはどこか遠い世界の出来事であり、自分の日常生活と結びついていないのです。

 いや、このような特異な例を挙げずとも、我々は「子供を育てるとき、しつけと虐待の境はどこなんだろう」と疑問に思うことが多い。
 たとえば、幼児の食事の際、正したいことがあって「こうしなさい」と言う。しかし、何度言っても改善が見えないと、つい言葉を荒らげ、手をぱちんと叩いたりする。これはしつけなのか虐待か。「その程度ならしつけだよ」と言う人が多いのではないでしょうか。
 かつてアメリカでは子供が悪さをすると、ムチを使って叩いていたようです(『トム・ソーヤーの冒険』に出てきます)。トムはおばさんのムチを巧みに逃れ、おばさんは「私がムチを使わないのは愛情がないからだ」と反省する場面があります。あれはきっと《しつけ》だったのでしょう。


 [3] そもそも言葉は抽象語

 ここで「女性蔑視」発言をもっと掘り下げたいと思います。
 組織委・会長は「女性蔑視」発言を謝罪・撤回したけれど、辞任に追い込まれました。その言葉を聞けば、彼が最初から最後まで、自分の発言を「女性蔑視」と思っていないことがわかります。「そのつもりはなかった、そんな意図はなかった」と言い続けていました。「解釈の違いだ」とも。
 つまり、彼に好意的な人はあの発言を「女性蔑視」と解釈しない。彼に批判的で「面白おかしくしたい」輩が「女性蔑視」と言い張るのだと。

 あれなど典型例で、彼は奥さんを大切にし、娘や孫娘の意見もよく聞いている。いい夫、いい父、いいじいちゃんなのでしょう。そして、会議の冒頭発言は「みなさん原案に対して特段の反論もなく、時間は短く終わってとてもいい理事が集まりました」と言いたかっただけ。
 そこで終わっていれば問題はなかった。しかし、40分も喋ったもんだから、笑いも取ろうとして「女性が会議に参加するようになってからは……」と余計な話題を追加した。
 彼の頭の中では日常生活における自分の体験と「女性差別・男尊女卑」の抽象語が結びついていなかったのです。

 会長さんはむしろ「この場にいる女性はとてもいい人たちだ」と尊敬の念を語ったと思っているでしょう。だから、「女性蔑視などとんでもない」との発言が生まれます。彼は具体的な、チョー狭い会議の場にいる女性(同時に取り上げた「わきまえない女性」の例も具体的世界)について語っただけで、「抽象的・一般的な女性について語ったわけではない」と言いたかったのです。

 ただし、そもそも論も語らねばなりません。
 そもそも言葉というものは「抽象語」です。具体的に喋っているつもりでも「具象性が捨象された抽象語」なのです(簡単に言うと、具体的な日常生活の細々したことは切り捨てられた記号のようなもの)。

 たとえば、「私は昨日夕食で魚を食べた」と話します。このときそれはどのような夕食で、魚は何だったか、具体的なことは全て捨てられています。
 では、「私は昨日晩飯にサンマを焼いて食べた」と言えば説明は尽くせるでしょうか。
 いやいや、晩飯は一人だったか、家族と一緒か。サンマはどこで買ったか。もしかしたら自分で釣ったのか。グリルで焼いたか、昔懐かし七輪で焼いたのか。やはり多くのことが「捨象」されています。

 それより何より、雑談で相手がこのように話したとき、聞き手は「そんな単純なこと、話題にするかあ」と感じるでしょう。これでは話し手の思うところが伝わりません。

 そこで、40歳・独身のA君は友人のB君に以下のように語ります。

A「今までアパート暮らしだったから、魚はみんなグリルで焼いていたんだ。しかし、もう結婚もできそうにないから、中古で一戸建ての家を買った。小さいけど庭もある。で、子供のころやった七輪で魚を焼きたいと思ったので、七輪を買ってスーパーのサンマを焼いて食べた。いやーうまかったよ。グリルで焼いたのと全然違うんだ」
B「ほーほー。そりゃあうまそうだな」
A「でも、煙がもうもうと出て匂いも周囲に広がるし、隣の人が顔をしかめていた。さすがに毎日というわけにはいかないと思った」
B「そうだろうな」
 ――と、このように具体的に語ることによって、ようやく「私は昨日晩飯にサンマを焼いて食べた」内容と、語りたかった理由がわかります。

 このように言葉がそもそも(広い意味での)記号であり抽象語なのに、日本語独自の漢字抽象語には具体性が含まれていない。これはその後到来した外国の抽象語をそのままカタカナとした場合も同じです。

 たとえば、セクハラ・パワハラは本来の日本語にない言葉です。
 セクハラは「sexual harassment(セクシャル・ハラスメント)」であり、「パワハラ」は「power harassment(パワー・ハラスメント)」をそのまま日本語化してなおかつ短くしたもの。

 みなさん「harassment」の意味わかりますか。日本語では「嫌がらせ」と訳されています。つまり、前者は「性的嫌がらせ」、後者は「力(権力)による嫌がらせ」。辞書を引けば、このように「意味」が書かれている。だが、日本語訳を知ってみても、「わかったようで、わかりにくい言葉」との印象がぬぐえません。

 たとえば、男性上司・同僚が職場の女性の肩をぽんとたたくことは「性的嫌がらせ」と言えるか。多くの男性は「抱きしめたらまずいけど、激励の意味で肩を叩くくらいあるだろう」と思います。
 あるいは、上司が不甲斐ない部下を毎日叱ったり、それでも改善しないと閑職に移動させ、自発的退職に追い込むことを、上司は「力による嫌がらせ」と思ってくれるか。
 それは上から命令されたことだから、私のパワハラではない。もしくは上の意向を忖度して「自分の仕事だ」と思っている可能性が高いでしょう。部下を叱るのは仕事であって「嫌がらせなんかじゃない」ということです。

 セクハラ・パワハラはともに抽象語であり、日常世界となかなか結び付いていないことがわかると思います。だからこそ加害者側から「セクハラ・パワハラのつもりはない」とか、某会長のように「女性蔑視のつもりはなかった」との発言が生まれます。

 では、英語はどうか。ネットで「harassment」を検索してみました。先ほどの「culture」や「peace」のように、本来の意味があるかもしれないと思って。
 しかし、「harassment」の日本語訳は「迷惑をかけること・嫌がらせをすること」であり、「迷惑行為・嫌がらせ」とあって期待外れの結果に終わりました。
 ただ、その下にありとあらゆる英語の「嫌がらせ」が列挙されていました。

 一部日本語で紹介すると(傍線のところは必ず「嫌がらせ」を入れ、できたら声に出して読んでみて下さい)、
「職場の―・上司の―・外国人への―・悪質な―・中絶反対派の(医師や患者への)―・商業的―・絶え間ない―・ひっきりなしの―・客による(店員への)―・政府の―・インターネット上の―・同級生の―・電話による―」等々。

 ここにも英語の大きな特徴が表れています。「ハラスメント=嫌がらせ」とはどこか遠い世界の出来事ではない。自分のすぐそばで具体的に行われている。ハラスメントが具体的な日常語と結びついているのです。

 たまに女性の肩をぽんと叩くだけなら、嫌がらせではないかもしれない。だが、それが「絶え間なく、ひっきりなしに」行われていれば、セクハラになる。インターネット上の誹謗中傷も嫌がらせである。
 自分がいやなことを誰かにされること、逆に相手がいやがることを自分がすること。それは全て「ハラスメント」であり「嫌がらせ」だということです。

 ネット辞典にはなかったけれど、私はここに日本的ハラスメントを追加できると思いました。すなわち政治の世界において「与党の(野党への)―・野党の(与党への)―・議員の(知事への)―・内閣の(官僚への)―・官僚の(議員への)―」。
 あるいは、学校における「先生の(児童生徒への)―・校則の―・校長の(教員への)―・ベテラン教員の(新米教員への)―・部活顧問の―・上級生の(下級生への)―」等々。

 親とか祖父母による幼児への嫌がらせもありそうです。幼い子が嫌がる様子がかわいいと、からかったり、脅したり、怖い話をしたりしないでしょうか。
 こうなると、親が幼子の手をぱちんと叩く行為は、子どもがそれを痛がって嫌だと思うなら、しつけではなくハラスメント――少なくとも虐待につながる初めの一歩だと思います。子どもはそれを「嫌がらせだ」と言って抗議するすべを知りません。

 以上、日本の(漢字やカタカナの)抽象語がいかに日常生活と結びついていないか、わかってもらえたのではないかと思います。

 では、どうするか。問題はこれで終わりとなりません。どうやって抽象語と日常生活を結びつけるか。溝を飛び越え、壁を乗り越えるにはどうすればいいか――考えねばなりません。

 抽象語と具体的世界を結びつけないと「しつけだと思って虐待する」結果になりかねません。かたやいじめられ、セクハラ・パワハラと感じ傷ついているのに、加害者はそう思っていない。
 いや、第三者から見たら、明らかにいじめだと思うのに、被害者本人が感じていないことさえある。抽象語は具体的な日常生活と結びついている必要があるのです。
 結びつけるにはどうすればいいのか。日常生活で使われる言葉と抽象語の間にある溝を埋めるにはどうすればいいのでしょう。

 この答えは本稿の最後にもう一度取り上げます。ここで立ち止まって考えてみてください。私が見出した答えは、

 [日常世界と抽象語を結びつけるには□□を読むこと]です。

 □□は漢字2文字ですが、これまで出ていません。しかし、もう一つキーとなる□□□(漢字3文字)の言葉が多用されており、その□□□世界が描かれているのが□□であり、それをしっかり読むことによって抽象語が日常世界と結びつくのです。
 一読法で読んでいれば気づきます。再読してもわかると思うので、試みてください。
 ちなみに、□□に「論文」とか「評論」を入れた人は(失礼ながら)全く読めていない、ぼーっと通読したのであろうと推察いたします。

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 [4] タテマエとホンネ

 本稿は日本人論を語ることが本旨ではありません。しかし、日本語について語ると、必然的に日本人論に行きつきます。
 抽象語が日常世界と結びついていないこと。それは日本人のもう一つの特徴を浮き彫りにします。「タテマエとホンネ」です。

 端的な例を挙げるなら、国会において政権につく与党政治家はタテマエを語る。野党議員はホンネを引き出そうとする。身近なところで言うなら、我々は居酒屋でホンネを語り、会議ではタテマエを語る(ことが多い)

 しばしば一部の与党大臣が舌禍事件によって辞任に追い込まれます。だいたい講演などでポロリとホンネを漏らす。国会や記者会見など公の場ではタテマエしか言わないけれど、講演の聴衆は身内であり、みんな自分の味方だと思っている。つまり、居酒屋みたいなもんです。

 そのような場でタテマエを語っても面白くない。タテマエでは笑いを取れない。ホンネが面白く、ホンネなら笑いを取れる。聴衆は身内と思えばこそ、決して言わないホンネをつい言ってしまう。

 くだんの組織委・会長さんも「文科省は女性役員の比率を40パーセントに上げろ」と言っている。それはタテマエ。ホンネは「反対のための反対しか言えない女性、時間もテーマも身分もわきまえず、発言する女性ばかり増やしたってしょうがないだろう」ということ。そのホンネを会議でぶちまけた。言うことを聞かない某女性知事のことが念頭にあったかもしれません。

 その場の(おそらく)男性理事から笑いが起こったのは、会長の発言が(自分も感じていた)ホンネを語ったことだから。内心「そんなこと言って大丈夫かなあ」と思いつつ、それを問題視することはなかった。
 また、七人いたという女性理事だって「みなさんわきまえた女性」ばかりだから、「また、言っている」と思うだけで苦笑した(と推理します)。
 会長に「その発言はおかしいと思います。女性蔑視です」と言ったところでどうなる。会長は「そんなつもりはありません」と答えるに決まっている。それが想像できるから、女性理事も何も言わなかった。
 その後の会長を見れば、彼女らの想像が当たっていたことを示しています。

 ちなみに、なぜ会長さんは会議の冒頭で40分も喋ってしまったのか。おそらくもう話し合って決めることはなかったのでしょう。会議そのものは10分くらいで終わる。せっかく集まってもらって10分か20分で「はい終わり」では申し訳ない。だから、あれやこれやとだらだら喋ったのだと思います。

 余談ながら、(相変わらずの繰り返しですが)日本の小中高で行われている国語三読法授業は、会議でぼーっと聞く人たちを生み出すのに貢献してきました(もちろん皮肉ですよ)。
 彼らは誰かの発言を一言一句注意して聞くことはない。事務方や主要メンバーが練ってくれた《原案》を「いいと思います」と承認するだけ。その内容で問題はないか考え、将来どうかなどと予想することはない。それは一読法を学んでいなければ、できないからです。

 さらに、タテマエもホンネも悪いことなのに、なぜかやってしまう懲りない政治家たちについて。これもタテマエとしての抽象語がホンネにかき消されてしまう乖離現象です。

 たとえば、賄賂。タテマエでもホンネでも「やってはいけない」と知っている。
 だが、議員となって支援者に頼まれたので、行政に口利きをしてやった。それがうまくいくと、支援者は「お礼です」と言って高級店に接待したり、帰りにはタクシー代を多めに渡してくれた。
 議員は「これは賄賂ではない」と思う。なぜなら、最初に頼まれたときにお金は一切もらっていないから。「これはお礼だから別に構わない」と。

 それが何度か続くと、やがて依頼されると同時に「うまくいったときのお礼です」と言ってお金を渡される。「いやいや、うまくいかないこともあるから、さすがにそれは受け取れない」と固辞すれば、「そのときは寄付として政治献金として処理してください」と言われる。
 議員は「それなら賄賂ではない。うまくいったときの謝礼だ。うまくいかないときは政治献金だ」と思う……。
 もはや抽象語の「賄賂」は彼にとって「お礼」であり「政治献金」に変わっているのです。このときの彼は「賄賂」の意味を国語辞典や法律で確認することさえしないでしょう(「彼」と書きましたが、男性蔑視の意図はありません)。

 あるいは、国会議員が応援してくれた県議会議員や関係者に、当選後「お世話になりました」とお礼の現金を渡す。これも終わった後のお礼であり、寄付である。だから「買収ではない」と考える。
 こちらも次の選挙が近づくと、始まる前に手渡す。「これは普段の支持に対してのお礼。運動してくださるときの費用の足しにしてください。ささやかなるお礼の気持ちです。もしも当選しなかったら、政治献金として処理してください」と思っている。だから、「買収ではない」と無罪を主張する。

 彼らの頭の中では抽象語の「賄賂・買収」と日常生活が結びついていない、乖離していることを示しています。同時にホンネとタテマエも乖離しているから、何も感じないことになる(と私は推理しています)。

 もう一つ、タテマエでは悪いと知っているのに、ホンネで「そこまで厳密にやることはないだろう」と思っていると、不正な方針がはびこる現象が起きます。検査不正や建築・土木関係の手抜き工事です。
 一部の企業はなぜ法律で決められている手順を踏まず検査不正をやったのか。ここでもタテマエとホンネの乖離が見られます。

 会社はコストカットを求めている。だが、考えられることは全てやった。それでも「コストを減らせ」と命令される。
 社員が居酒屋で「もうこれ以上コストカットなんかできない。でも、あの工程でやっている検査ムダだよな。別に不具合なんか起きないんだから」とホンネを漏らす。同僚は「オレもそう思う」と同意する。
 すると、ある日「この検査はしなくても大丈夫だから、やめることにしました」と上司が言う。それは法律違反である。だが、社員はホンネで思っていたことだから、「それはまずいんじゃないですか」と反対意見を述べることがない。会社が決めたことだ。自分に責任はない、とも思う。

 あるいは、建築・土木関係は親受け、子受け、孫受けと下りてくるたびにピンハネされる。一番下は儲けを少しでも増やしたい。そのとき「正規の部品や材料を使わなくっても、建物や橋が倒壊することはない」とホンネが出てそれを実行する。見つからなきゃ、何やったっていいんだ、とつぶやいて……。


 [5] 日常世界と抽象語を結びつけるには

 さて、抽象語と日常世界の乖離。タテマエとホンネの乖離について縷々述べてきました。途中で提起したクイズ、

日常世界と抽象語を結びつけるには□□を読むこと

 ――の□□にあたる漢字はわかったでしょうか。

 本節は一貫して「抽象語の難しさ」について語ってきました。難しさの原因は抽象語が具体的な日常語、日常生活と乖離しているからであり、これは特に日本独特の現象であると。読み進めれば、多用されていた重要語□□□は「具体的・具体性」であることがわかります。
 そして、「昨日晩飯でサンマを焼いて食べた」A君とB君の会話のところで、「小説みたい」とでもつぶやいていれば、□□2文字が埋められたはずです。

 あの会話は言葉だけであり、いわば脚本。そこにA君B君の境遇、二人がどこで会話しているか(会社の休憩場所や昼飯のレストランなど)、季節はいつか(これはサンマが最もうまい秋しかないでしょう)などを地の文として書きこむと、「小説」の一場面ができあがります。

 A君が「昨日晩飯でサンマを焼いて食べた」と言うだけではB君に自分の思いを伝えることができません。それは「まとめ」の言葉であり、つまり抽象語みたいなもんです。まとめの言葉だけでは具体的世界を思い浮かべることができません。
 だから、詳しく具体的に語る必要がある。(妙な表現ですが)具体的世界を最も具体的に描いているのが《小説》です。それをしっかり読むことによって抽象語が日常世界と結びつくのです。

 読者各位は小中高の国語授業においてずっと「説明的文章(論文系)」と「文学的文章(小説や詩)」、その中間に入る「随筆(エッセー)」を読んできたと思います。高校入試も大学入試もだいたい「評論系文章と小説」が出題されます。国語力をはかることが目的なら、評論系の文章だけで充分でしょう。

 なぜそこに小説が入るのか。12年間の国語授業で、登場人物の心理や感情を細かく読み取る訓練を積むのか。その理由がわかっていただけたのではないかと思います。この作業によって具体的世界と抽象語の間にある溝を飛び越えることができるのです

 小説を読む授業をいいかげんに受けた大人が「女性蔑視・セクハラ・パワハラ」の抽象語と具体的世界を結びつけることができず、「私にそんなつもりはありません」などとほざきます。
 そして、残念なことに論文系文章を読むことが得意な人間がハイレベル大学に進み、社会の上層部に位置することが多い。官僚や政治家、企業・団体の中枢になって権力を獲得する。
 彼らには共通の資質があります。それは「人の心の痛みがわからない」ことです。そんなもん気にしていたら、出世なんぞできません。

 また、小説を読む授業をいいかげんに受けた大人は社会の中流・下流にもたくさんいます。こちらも弱い人、子供の心の痛みがわからないから虐待に走る。相手の気持ちを思いやることができないから、暴力をふるい、暴言を吐く。いじめが好きで人の不幸が好き。SNSでは誹謗中傷の言葉を並べて何も感じない……と書けば、さすがに言いすぎでしょう(^_^;)。もちろん人の心の痛みがわかる大人もまたたくさんいらっしゃると思います。

 最後に抽象語と日常世界を結びつける方法は他にもあります。私には以下の五つが思い浮かびます。みな学校で行われ、社会に出てからも続けたいことばかりです。

 (1) 小説など文学作品を読むこと
 (2) 実際に体験すること
 (3) 論文・評論系の文章を読むこと
 (4) 辞書を引いて意味を確認すること
 (5) 絵画・彫刻・映像作品を見ること

 この詳細について語ると、本節はさらに長くなるので省略します。これまで本稿においてぽつりぽつりと語ってきたことの繰り返しでもあります。
 私としては並列でみな大切なことだけれど、若干順位をつけています。
 また、ここに数学・理科・社会・英語等を入れないのは、それらを学ぶ基礎力が「国語」だからです。「中高でもっと国語・現代文の授業を増やすべきだ」と思ってもらえたなら、ここまで長々と書いた甲斐もあろうってもんです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:その後利害関係業者による官僚の接待問題が噴出して「先祖返りした」かのような政権中枢の不祥事が続いています。やれやれ。

 ところで、いよいよ「オリパラ開催」決定が近づいています。私の予想は中止でも延期でもなく、今年の実施です(観客は関係者と日本人のみ半減)。
 最近日本でPCR検査が増えない理由がやっと思い当たりました。いまだに日量20万件に達しないのはなぜか。検査数を抑制して「世界各国と比べればコロナ感染者は20分の1、10分の1です。だから、オリ・パラは実施できます」と言うためだったか……と。

 この1年国は一貫してPCR検査を増やそうとしませんでした。よって、この方針は昨年2月にはすでに決められていたのではないかと思います。おそらく日本(かアメリカの)フィクサーの指示だろうと想像を膨らませています。
 なぜなら前総理が昨年8月退陣前に「PCR検査20万件を目指します」と言っていながら、いまだに実行されないからです。総理の指示を無視するなんてフィクサーしかできないでしょう。
 この予想が外れたら?
 そのときは「予想だから外れて当然です」と答えます(^_^;)。


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