カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第50号

提言編U 新しい教育システムの構築

 6「高校入試の廃止について」(前半)




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 50号

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           原則隔週 配信 2021年4月13日(火)



 新しい教育システムの提言――6回目は「高校入試の廃止」について語ります。
 私は今の子供たちが「危機的状況にある」と思っています。ストレスとプレッシャーに押しつぶされそうになっている。だが、彼らはそれを言葉として行動として表現しようとしない。多くは心の中にためこんで、閉じこもって、言われるがままに学校生活を送っている(と感じます)。

 多くの大人は「自分の中高時代もそうだった」と言うかもしれません。しかし、最近20年の変化はかつての中高より2倍3倍の重荷を子供たちに負わせている。そのひずみは不登校、非行化、いじめ、勉強への嫌悪、コンプレックス、空しさ、自己否定感といった生きづらさとして顕在化している。そして、文科省調査(2016年度)によると、過労死ラインを超えて働く教員が小学校で3割、中学校で6割という実態さえあるように、重荷は小中高の先生方にも及び、みなさん疲れ切っている(ように見受けられます)。

 この状況は枝葉末節、小手先の改変(クラスの生徒数を40名→35名)なんぞでは解決しません。かつて「ゆとり教育」のために、ゆとりなき課業や報告が求められたように、今は「観点別成績評価」が子供たちと先生を苦しめています。知識習得だけでは評価されない時代になった(と言う)のに、入試は相変わらず知識暗記タイプの問題ばかり。だから、子供たちは昔と同じ項目暗記に励まねばなりません。

 一方、中高の先生方には担当生徒百数十名を観点別に評価しなさいという難行が課されています。なのに、部活指導、校内活動などは以前のまま。「働き方改革」もかけ声ばかりで根本的な解決にはほど遠い。それが文科省発「#教師のバトン」に寄せられた先生方の悲痛な声に現れています。

 不登校の生徒がクラスの半数になり、各地の教員採用試験が定員に達しない――そこまでいかないと、政治家も官僚も有識者も本気で改革しようと思わないでしょう。過去1年の新型コロナ対応を見てもわかるように、彼らが得意なのは後手後手と先送り。一読法を学んでいないから、未来を予測できないのです(^.^)。

 最も単純な解決策は存在します。それは教員の定数を2倍にしてクラスの生徒数を半減(20名に)することです。中高の部活動は原則外部委託とする(希望者の部活顧問は認める)。これによって《教員》の働き過ぎはかなり解消されます。「財政的に不可能だ」というのは政治家の怠慢でしかないと思います。同時に選挙権を持つ国民(18歳以上)の意識次第です。政党がこれを公約とするか、国民がその政党に政権を取らせるか。

 ただし、この解決策は教員には適用できるけれど、児童生徒に課された重荷の解消にはなりません。高校入試のための勉強、大学入試のために勉強するという基本はクラスの生徒数が20名になっても変わらないからです。
 だからこそ私は抜本的改革として高校入試を廃止し、「中学校までの教科書を中高6年間で学ぼう」と主張しているのです。
 まーこの提言も所詮黙殺の運命にあるので、歯に衣着せず書きまくります(^_^;)。

 [以下今号
 6 高校入試廃止について(前半)
 [ 1 ] 前節は「新しい教育システム構築」と無関係の話題か
 [ 2 ] 高校入試廃止について
 ( 一 )当たり前のことが当たり前とは限らない
 ()学校の勉強を「仕事・労働」と同一視する過ち

 [以下次号(後半)]
 (三) 鶏口牛後だった私の中高時代
 (四) 成績をつけるのは日本的カーストを維持するため
 (五) 高校入試を廃止すれば、高校のランク付けがなくなる


 本号の難読漢字
・忖度(そんたく)・乖離(かいり)・繭(まゆ)・漁(あさ)る・脅(おど)される ・破綻(はたん)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』提言編U  50

 新しい教育システムの構築 6

 高校入試廃止について

 [1] 前節は「新しい教育システム構築」と無関係の話題か

 本題の前にまずは前号の補足を。日本の抽象語について「日常生活と結びついていないから、身につけることはとても難しい」ことについて語りました。
 この話題は大見出しの「新しい教育システムの構築」と「カンケーない」ように思われたかもしれません。
 いえいえ、そんなことはありません。具体的世界(を表す言葉)から抽象的・精神的世界を表す言葉への移行は、人の成長にとって欠くべからざるものであり、学校でしっかり学ばなければならないことです。つまり、「国語にもっと時間を割くべきだ」と言いたいのであります。

 端的な例をあげるなら、みなさん方は我が子が「人をいじめている・いじめられている・万引きをしたことがわかった」とき、どのような言葉をかけますか。うろたえるばかりで「何と言ったらいいか、思いつかない」かもしれません。
 それでも、何らかのことを話す。最後はきっと抽象的かつ精神的な言葉となるはずです。「それは犯罪だ」とか「人の命はかけがえがない」とか「いじめられたくらいで何だ。もっとたくましく生きろ」などと。

 最初からこの結論を語ると、話は数分で終わります。結論だけでは相手は変わりません。抽象語の中に具体的な話題を盛り込む必要がある。その裏付けとなるのは自分や友人の体験とか、読んだ小説や詩などです。これのない(とても少ない)大人は我が子を、人を説得することができません。
 どれだけの本を読んでいるか。知人友人の話を自分のこととして聞いているか。自分でも「そんなことが起こったらどうしよう」と考えているか。これら全て学校で学ばれるべき内容であり、国語の授業で最も実践されていることです。

 その後またも言葉を軽率に扱った例が二つ噴出しました。
 一つはテレビで芸人さんがアイヌのことを謎かけにして「あ、犬が来た」と発言したこと。アイヌのことをちょっとでも調べていれば、これが差別的言葉であることがわかったはず。しかも、これ生放送の出来事ではなくビデオ映像だったとか。ということはスタッフや上司があらかじめ見ていた(聞いていた)ことを意味します。
 関係者が意識をもってしっかり見ていれば、気づいていいはずの事態です。誰かが「ちょっと待てよ」と言って立ち止まり、ネット検索していれば、気づけたのではないか。一読法から言えば、相変わらずものごとを通読している――「ぼーっと眺めている」ゆえの不祥事だと思います。

 また、オリンピック開会式に、ふくよかな体型をお持ちの女性芸人をブタの格好で登場させる演出(案)も、突如表に出てトップが辞任する事態となりました。もっとも、こちらは昨年3月の話で「それはダメでしょう」と否定されています。つまり、こちらのスタッフはぼーっと眺めていなかったし、ボスに忖度することなく、その発言を批判する自由もあった。
 それが今年になって漏れ出たことに、何やら組織内権力闘争の気配があってビミョーです。「仲間内のアイデアさえ語ってはいけない」となれば、言葉狩りの様相さえ感じられます。

 ただ、私にはこれも具体的世界と抽象世界の乖離現象のように見えます。創作や芸術にかかわる人間が舞台や映像世界を表現しようとする時、注意しなければならないことでしょう。「アイデアさえ語れないのか」ではなく、この思いつきを語る前に、彼自身が「ちょっと待てよ」と踏みとどまるべきではなかったか。

 私は小学校4年のときからメガネをかけ始めました。当時男子と口ゲンカになると、よく「メガネザル」と呼ばれました。それはいやな言葉でした。もしもあのころ学芸会で人が動物に扮装するお話をやることになって「メガネザルの役はあんたしかいない」と言われたら、私は学校に行きたくないと思ったでしょう。
 そんな経験を持つ(それを覚えている)ゆえに、私なら太った芸人さんにブタの格好をさせるアイデアは出しません。
 もっとも、子ども同士のケンカでは私も「お前の母ちゃん出ーべそ」とののしっていたから、どっこいどっこいですが。

 先ほどの「あ、犬」の件と言い、言葉に対する安易な使用と発想はネットやSNSにおける誹謗・中傷と同じです。公開する前に「これは誹謗中傷ではないか、嫌がらせではないか」と踏みとどまることのできる国語力、言語感覚、想像力が必要だと思います。

 具体的世界と抽象語を結びつけることは小中高において(国語だけでなく)全ての教科で、時間をかけてゆっくりじっくり学ばねばならない。高校入試、大学入試のための項目丸暗記主義、目の前の成果主義に侵され、入試が終わったらどんどん忘れてしまう。そのような勉強に終始してはいけない。要するに、前号の話題は「高校入試を廃止し、中高6年間でしっかり日本語を学ぼう」との方針につながるのです。

 というわけで、今号は「新しい教育システムの構築」の中で、最も実現性の低い「高校入試廃止」について詳しく語ります(いつものように長くなったので、後半は次号にて)。


 [2] 高校入試廃止について

 (一) 当たり前のことが当たり前とは限らない

 以前「なぜ学校では子供たちに成績をつけるのか。そんなものは必要ない」と書きました。これも黙殺されるしかない提言の一つでしょう。誰もがこれを「当然のこと」ととらえ、何の疑いも持たないように思えます。
 だが、世の中には「そんなの当たり前」と感じていることを改めて問うてみると、意外に「おかしいかもしれない」ことが多いものです。

 たとえば、働いて得る賃金はずっと「雇い主からもらうもの」であり、ありがたい報酬だと考えていた。それを「労働力という商品を売っている。その対価だ」と看破したのはマルクスさんです。
 つまり、賃金は雇い主の温情とか善意によって払われているのではない。かたや労働力を売り、かたや買っているのであると。これによってお米や魚の売り買いに上下関係がないように、賃金労働者と雇い主も対等であることがわかりました。

 ――と書きつつ、そもそも物の売り買いは対等であると理解していない人も結構いるようです。「オレは米や野菜を金を出して買ってやっている。だから、オレが上で生産者は下だ」と勘違いして何の疑問も持たないのです。
 かくして、売る方が「ありがとうございました」と言い、買う方は黙って立ち去る現象が起こります(この件について意味不明の方は『狂短歌ジンセー論』121号「ありがとうを言わないお客さん」をお読みください)。

 論文を読むことによってこうしたことがわかります。そして、文学(小説)も当たり前とされる世界に疑問を投げかけます。

 私は高校3年の現代文を担当すると、必ず「小説の魅力」と題して自主教材の授業をやりました。取り上げたのは三編の短編小説で、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、梶井基次郎の『桜の樹の下には』、そして安部公房の『赤い繭』です。これらは短いこともあってどこかの教科書には入っているけれど、三作同時に掲載されることはまずありません。
 いずれも濃い内容と素晴らしい表現を持つ名作だと思って紹介しています。卒業後も小説を読んでほしいとの思いを込めて。

 ちなみに『蜘蛛の糸』は小中で読むか、内容はだいたい知っている生徒が多い。私は授業で「これはカンダタという極悪人の話ではないこと」と「利己主義は良くないという道徳のお話ではないこと」を、丁寧に読み解くことで明らかにしていきます。
 ポイントは「蜘蛛の糸を切ったのは誰か」という質問です。生徒は「極楽から蜘蛛の糸を垂らしたお釈迦様」だと答えます。違いますよ。
 関心があるようでしたら、読んで考えてみてください。なぜお釈迦様ではないと言えるのか。根拠となる表現は作品内にあります。

 それはさておき、本題に関係あるのは『赤い繭』。これは少々難解ながら、現代社会で当然とされていることに素朴な疑問を投げかけます。
 おそらく読めば「何これ?」でしょうが、とても面白いのでお勧めです。

 その中で主人公の「おれ」は浮浪者・ホームレスです。彼は街をさまよい、「なぜ自分には身体を休める家がないのだろう」と疑問を抱きます。
 世の人は「ホームレスだから家がないのは当然でしょ」と思う
 だが、彼は「多くの人に休息できる家があるなら、私にだってあるはずだ」とつぶやく。
 そこで、通りかかった家をノックして出てきた奥さんに、
「ここはあなたの家ですか。私の家ではありませんか」と問う。
 すると、彼女は不安げに「あら、私の家ですわ」と答える。
「では、それを証明してください」と言うと、不審顔は恐怖に変わってドアをばたんと閉じられる……。

 私は生徒に「たとえば、君たちはみんな消しゴムを持っている。それが自分のものであることを証明してくれ」と尋ねます。筆箱に名前を書いている生徒はいても、消しゴムに名前を書いている生徒はまずいません。
 生徒はぽかんとして「考えたこともない」って顔です。

「たとえば、君は消しゴムを床に落とした。隣で拾ったA君が乱暴なやつで、『これは俺の消しゴムだ』と言い張ったら、『それは自分のものだ』と言えるか。それをどうやって証明するんだ」と問えば、みな困った顔を見せます。

 多くの生徒が「今は書いていないけど、自分の名前を書いておく」と答えます。小学校でそう指導されたものです。鉛筆の手元を薄く削って名前を書いたこともあります。
 私は「包装紙に名前が書いてあれば、外して捨てればいい。消しゴム本体に書いてあっても、こすれば名前は消せる。消しゴムならではだ。さーどうする?」と聞きます。生徒はさらなる困惑顔。

 別の生徒は「逆隣のB君に証明してもらいます」と答える。彼とB君は仲が良く、しばしば一緒に勉強している。
「なら、B君がAに買収されたり、暴力で脅されて『その消しゴムはA君のものです』と証言したら、どうする?」と問えば、
「そんなー」とつぶやき、B君を見つつさらに考える。B君はにやにやしています。
 結局、何も思いつかないようで「そのときはあきらめます」と答えます。
 他の生徒も似たり寄ったりの返答です。すなわち「自分のものだと証明できない」のです(今だったら、スマホで証拠写真を撮っておくかもしれません)。

 もちろん「君の家が自分(両親)のものであることも証明してくれ」と質問します。生徒はいろいろ答えます。消しゴムの例からして「隣の人が証明してくれるとは限らない」ことがわかったので、「家には権利書がある」と答える生徒が出てきます。証明してくれるのは国であり、公の機関です。

 私は「よく気づいたな」と誉めつつ、「じゃあ、権利書が燃えてなくなったらどうする?」と問えば、「役所に原本があるはずです」と応じる。
「じゃあ、役所が火事で燃えて原本もなくなったら?」と聞けば、「……」もはや答えることができません。

 私は生徒の答えを全て論破して「自分のものだと証明することは不可能である」との結論に導きます。彼らは作中の奥さんのように、不安げな顔を見せて前半は終わったものです。

 最後に昭和20年の敗戦時、それは日本で本当に起こったことだと説明します。焼け野原となった市街地は原本が焼失したので、どこからどこが誰の土地だかわからなくなってしまった。そこで生き残った住民に「ここが私の土地です」と申し出てもらった。正直に、間違いなく届けた人がいれば、隣の家の住民が全滅したことを知り、そこを含めて申請した人もいた……と。

 ネタばれは避けたいけれど、作中の「おれ」は最後に住むところを獲得します。それは自身糸のようにほどけて作られた繭です。その中で彼は思います。「ようやく住むところができた。だが、今度はおれがいなくなった」と。
 (一読法読者なら、ここで立ち止まって「どういうこっちゃ?」と考えていいところです)

 閑話休題。児童生徒に「成績をつける」ことも当たり前であり、当然のこととして誰も疑問に思わない。だが、『赤い繭』の「おれ」のように問題視することは可能です。そして、「成績をつけなかったら、子供たちはほんとに勉強しないか」問うてみてもよいのではないでしょうか。
 私は「児童生徒に成績をつけなくても、彼らは勉強する、学ぶことができる」と考えています。これから、この件を語ります。

 結論を先に書いておくと、二つのことを意識できれば、成績をつけなくとも、子供たちは勉強します。
 一つは勉強を遊びのようにすることです。子どもの遊びに成績をつけていますか。そもそも大人自身が趣味や遊びに成績をつけていない。そんなものやらなくとも、人は遊びが好きです。時間がたつのも忘れて没頭するではありませんか。好きでやることに成績付けは必要ない。小学校1年生は学校が好きです。初めて学ぶ勉強は彼らにとって新種の遊びだからです。
 もう一つは将来何になりたいか、何をしたいか。目標が決まれば、成績をつけずとも自ら進んで勉強します。たとえば外国への留学、海外出張など英語が必要になれば、別に成績などつけなくとも、懸命に自学自習するはずです。


 (二) 学校の勉強を「仕事・労働」と同一視する過ち

 小中高の児童生徒になぜ成績をつけるのか。理由は勉強というものを、大人の《仕事・労働》と同一視しているからだと思います。大人の日常生活の基本が働くことであるなら、「子供の仕事は勉強である」と多くの人が思っている。だが、その考え方は「正しいですか? 間違っていませんか」と問題提起したいのです。

 自給自足生活でない限り、我々は働いて賃金を得なければなりません。それは食べるため、生きるため、家族を養うために必要なことです。もしも食糧を得ることができなかったら、子供から大人まで飢えて死にます。資本主義も社会主義も独裁者も教祖もへったくれもない。国は滅び、やがて人類が滅亡します。だから、(狩猟採集生活ではない現代においては)必ず「働いてお金を得る」体制をつくらねばなりません。

 これを逆に言うと、「大人は賃金を得なければ働かない」と言えます。ボランティアなど、報酬なき慈善行為があるけれど、それはあくまで賃金を得るという生活の基盤ができた上での話。年金制度もそれまでずっと働いて得た賃金を老後支給されるという意味で、賃金の一種です。

 この「賃金という報酬を得なければ人は働かない」という理屈を、そのまま子供に当てはめたのが「学習に成績をつける」という発想ではないでしょうか。「成績をつけるのをやめましょう」と言うと、直ちに飛び出す反論――「成績をつけないと子供は勉強しない」との言葉。それは「大人は賃金を得ないと働かない」と同一です。学習を子供の仕事と見なせば、仕事には賃金(報酬)が必要である。だから、子供の勉強に成績をつけて評価するというわけです。

 そうすると、何が起こるか。大人が自分に支給される賃金に対して居酒屋で「少ない」とぼやき、家庭で「働き甲斐がない」と嘆く。そのように、子供も成績が良ければ喜び、悪いとがっかりします
 学期末の最終日。修了式を終え、教室に戻ると通信簿(成績通知表)を受け取る。仲の良いクラスメイトと見せ合ったりする。それは我々誰もが経験し、子どもたちの様子で知ることができる光景です。

 かつて小学校の成績は5段階でした。今は[ABC]の3段階です。増えているのは「こんなにがんばったのにAにならない」との嘆きです。保護者もまた失望を顔に表しているようです。
 今の小学校では筆記テストで80点を取ってもBです。最も単純な種明かしは「クラス全員の平均点が80」なら、成績は《普通》だから「B」がつく。

 もちろんこれは相対評価だった昔の話。今は絶対評価(のはず)だから、Aがついてもいいけれど、90点以上をAにすると、80点では「Aじゃないな」となるようです。5段階なら「4」がつく。しかし、3段階でAの下は「B」しかない。だから、どんなにがんばっても「またBか」と(大人が酒飲んだときのような)ぼやきが出る……か、「自分の力はこんなもんだ」とあきらめる。
 しかも、今はさまざまな観点別評価が入るから、筆記テストが90点でも99点でも「B」になる可能性が高い。筆記テストの結果はそのまま全体成績にならないのです。

 中学校はどうでしょう。昔も今も5段階ですが、こちらも観点別評価が入っているから、筆記テストだけではやはり「5」になりません。高校も学期10段階から学年末はやはり5段階評価となります。高校も中学同様観点別評価が導入されました。当初は「そんなのカンケーねえ」だったようです。

 ところが、近年は「厳密に観点別評価をしなさい」と言われ始めた。それは授業に影響して「先生が一方的に講義して生徒はそれを聞くだけの授業形態はダメだ」と指導されるようになったそうです。流行りは生徒が調べる活動を重視する単元学習であり、アクティブ・ラーニングです。

 以前も書いたように、中高においてこれが可能になったのはパソコンやタブレットなど、インターネットとつながったからです。かつて図書室の辞典・事典や図鑑・書籍くらいしかなかった時代はやろうったって不可能でした。

 私は一読法を含めてこれら「調べて理解し発表する」授業は大いにやるべきであると考えています。これは生徒に学ぶことの楽しさを教える最高の授業です。
 しかし、問題はそれが入試につながらないこと。学習指導要領は相変わらず昔のまま。「ゆとり教育」導入によっていったんは減らされたけれど(事実は中学校で減らしてその分を高校に回しただけ)、廃止によって元の分量に戻ってしまいました。

 つまり、高校入試も大学入試も中心は相変わらず項目丸暗記問題です。その象徴が「大学入学共通テスト(センター試験・共通一次試験)」です。近年そこに「記述式問題」を取り入れようとの動きが起こっています。それは「中高の調べる活動を重視する授業に入試が対応していないじゃないか」との批判に応えようとするものです。

 単元学習やアクティブ・ラーニングなど「調べる」活動は時間がかかります。先生が解説して生徒が時折の質問に答えて板書をノートする――昔ながらの講義型授業なら、ある単元を1、2時間で終えられる。
 ところが、そこに「調べる」活動を取り入れると、5、6時間はかかってしまいます。なのに、学習指導要領の内容は変わっていない(減っていない)。特に国語以外の教科は「一年間で漏れなくやりなさい」とのプレッシャーにさらされています。

 高校入試も大学入試も試験問題は学習指導要領を元に作成されます。だから、国社数理英の5教科は相変わらず項目丸暗記に励まねばならないのです。
 結局、観点別評価の導入によって生徒は2倍3倍の重荷を背負わされることになった。しかも、「調べる」活動に面白さを見出し、「もっとこの教科だけ勉強したい」と思っても、入試がその意欲を打ち砕きます。
 ある教科への興味関心に目覚め、「もっとこの教科を勉強したい」と思って《一教科の専門家》となるA君より、「そんなの入試にゃカンケーねえ」と5教科の丸暗記に徹したB君の方が入試の成績は上位になるからです。

 今小学校児童や中学校の生徒で大人も顔負けの「専門家」が出現しています。彼らはそれが面白くて楽しくて仕方がないから、どんどん調べて勉強してハイレベルに達します。しかし、その教科以外を勉強して丸暗記することを増やさないと、高校にも大学にも進むことができません。
 大学なら推薦とか「一芸入試」がある。だが、高校入試にそれはありません。しかも、大学の「一芸入試」なんぞ、だましもいいところ。「他の教科が平均以上を取れており、一芸が優れている生徒」専用だからです。一芸は90点だが、英語は20点。それでは大学に行けません。

 たとえば、高校・大学入試を「教科書・参考書・ノート・スマホ持ち込み可」として原稿用紙数枚分の記述式問題とすれば、項目丸暗記の必要がなくなり、「調べる」活動をたくさん行って自ら考えた生徒が有利になるはず。しかし、現実は中学校も高校も「まずは項目丸暗記であり、その上に「調べて考える活動をやれ」と言われている。つまり、勉強が2倍、3倍になって生徒の肩にのしかかっているのです。

 かつては知識をたくさん覚えている――すなわち脳内パソコンを持つ人間が「優秀だ」と評価されました。しかし、今は「そんなの優秀でもなんでもない」と言われているようなものです。テレビのクイズ番組だけでしょう。脳内パソコン優秀者を「すごいですねえ」と持ち上げているのは。
 すでに文科省が「知識はパソコンで調べればいい。調べたことについていろいろ考え、うまく発表できる人が優秀である。そんな時代に変わりましたよ」と言っているのですから。

 であるなら、高校入試・大学入試で評価されるべきは《現在の優秀な人間》でしょう。そのために推薦入試や一芸入試が増えている。しかし、入試の総本山である「大学共通テスト」、高校入試を抜本的に変える動きにはならない。ちょこっと記述式問題を取り入れるとか、資料をたくさん掲載してその分析をさせるといった小手先の改変でごまかそうとしている。私にはそうとしか思えません。

 どうしても高校入試をやりたければ、中学校で各自調べて考えた研究の成果を原稿用紙10枚の論文として提出させることでしょう。それでは「自作論文かどうかわからない」と言うなら、高校で一日1教科、計5日間、全て持ち込み可として数題の記述式問題を課せばいい。それが「調べる」活動を正当に評価する入試だと思います。

 まとめると、小中で単元学習やアクティブ・ラーニングなど「調べてよく考えてその成果を発表する」授業を重視するなら(私はこれは正しいと思います)、高校入試は「それを一所懸命やった子供たち」が評価されるべきです。
 だが、国社数理英の5教科入試はそうなっていない。繰り返しになるけれど、記述式問題を増やすとか、資料をたくさん掲載して分析させるといった程度のことしかできません。その前にまず大量の丸暗記知識習得が求められているからです。

 そして、今後増やされようとしている記述式問題、資料の分析問題とは昔も今も大学の専門課程でやられていたことです。
 大学の先生なら資料をたくさん漁って分析、発表することが好きでしょう。専攻科の学生も必要なこととして勉強します。しかし、もしもそれを専門以外でも「やりなさい」と言われたらどうでしょう。「できない」と言うに決まっています。たぶん興味もないでしょう。
 入試に導入が始まった「資料分析問題」。そのための授業。それは多くの子供たちにとって面白くもない授業であり、勉強です。なのに、入試のためにやらねばなりません。

 予備校や塾の先生は無批判に「合格のためにはもっと記述式に慣れる必要がある、たくさんの資料を分析する力をつけねばならない」と言って、子どもたちをますます《いやな勉強》に追いやっています(と言ったら、言い過ぎ?)。中学校の先生も同じでしょうか。

 もちろんこれは言い過ぎ、書き過ぎ。彼らは子供たちのことを最もよく考えている。志望校合格のために、試験の成績を上げるためにどうすれば良いか、懸命に考えている人たちです。
 私が指摘したことなんぞ「考えても仕方がない。取り合えず入試に対応する勉強をしなければ合格できないではないか。それでいいのか」と反論されるでしょう。

 確かにその通り。「いやなことはやらない」を押し通すと、学校は不登校になる。丸暗記勉強は無意味だと思っても、しないと入試に受からない。結果、中卒では将来真っ暗。そう脅されて日本の子供たちは学校生活を通過する……。

 ここで突然ですが、安部公房『赤い繭』のラストについて私なりの解釈を披露して本節前半を終えたいと思います。

 ホームレスの「おれ」は最後に住むところを獲得しました。それは自身糸のようにほどけて作られた繭だった。その中で彼は思う。「ようやく住むところができた。だが、今度はおれがいなくなった」と。

 私は生徒に「これをどう思うか。各自考えればいいことで正解はない」と述べた上で、「ただ、人生の真実の一つは語っている」として以下のように解説します。「人生の真実とは、何かを得たときには必ず何かを失っているということだ」と。

「たとえば、お金を得たときには友情を失う。恋愛を得たときも友情を失う。逆に友情を取れば恋愛を失う。男女の三角関係がいい例だ。また、親となって子供を得たときには自分の自由な時間を失う」など例を挙げて詳しく説明します。
 なぜお金を得たときには友情を失うのか。「それはたまたま100円だけ買った宝くじが1等3億の一つ違い番号で、1億当たったときのことを想像してくれ」と言って考えてもらいます。

「みんなは宝くじが1億当たったことを友達に打ち明けるか。打ち明けないか。もしも打ち明けるなら、友人にいくらあげる?」と問うと、空想に過ぎないのに、教室は大いに盛り上がります。「話すわけないだろ」とか「絶対秘密と言って打ち明けるよ」などの声が出た後、
 私はA君を指名して「じゃあ打ち明けるというA君。仲がいい隣のB君にいくらあげる? 打ち明けて0円てことはないだろ?」と聞くと、
「うーん。10万かな」とすごく現実的な答えが返って教室内から「たったそれだけ?」の声(なき声)があがります。B君はなんとも言い難い微笑みを浮かべます。

「じゃあB君。君ならA君にいくらあげる?」と問うと「オレは100万かな」と豪気な返事です。A君の顔は真っ赤に。
「ならばBに聞こう。君はAの他にも友達がいると思うが、10人として全員に一人100万ずつあげるかい? もし20人いたらどうだ?」と問えば、A君は「うーん」とうなります。言ってしまって後悔顔ってところです。

「A君が言った10万はたったそれだけと思うかもしれない。だが、1億当たったことを打ち明けて100人にばらまくと、一人10万ずつでも1000万だ。両親とか兄弟姉妹とかじいちゃん、ばあちゃんとかは10万というわけにはいかない。世話になったおじさん、おばさんだっている。ばらまいていると、1億なんかすぐ半分になる。

 では、当たったことを生涯の秘密として口にカギをかけるか。これがまた難しい。と言うのは、当たった喜びを誰かに話したくてしかたないからだ。何ヶ月か何年か経って『実は』と打ち明けると、相手はどうしてすぐに打ち明けてくれなかったのかと思う。そのとき1億がかなり減っていると、話だけで現金は友人に渡らない。友人は『その程度の仲だったのか』と思ってがっかりする。
 あるいは、『絶対秘密だよ』と言って一人か二人の友人に打ち明けて10万を渡せば、いつの間にかそれが広まっている。『あいつは1億も当たったのに、オレに10万しかくれなかったよ』との尾ひれつきで。こうなると、友人関係の破綻は間違いない……。
 ほらね、宝くじで1億というお金を得たら、友情を失うだろ」と説明します。

 そして、「赤い繭の主人公はホームレスだ。彼には家がない、お金もない。失うべき何ものも持っていない。だが、幸いなことに自分の家である繭を得た。ならば、彼は何かを失わねばならない。失えるものとしては身体しかなかった。だから、彼は身体を失った」と。

 多くの子供たちは今の学校体制の下で高校に進学します。
 もう一度大人が言う先ほどの言葉を書きます。「いやなことはやらない」を押し通すと、学校は不登校になる。丸暗記勉強は無意味だと思っても、しないと入試に受からない。結果、中卒では将来真っ暗……。

 さて、高校入試合格という成果を得たとき、子供たちは何を失っているのか。それを考えてみても良いのではありませんか?
 別に難しいことではありません。読者がすでに学校生活を離れた大人なら、自分の中高時代を振り返ればいいだけの話です。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:日本の新型コロナは変異株の大流行に突入しそうです。ただ、ワクチン接種も始まり、6月末までには高齢者分のワクチンを確保できるとか。
 そんな中、数百名分のワクチンを「平等に配布したいから」と数十万人にパソコン・電話で申し込みさせた自治体があったようです。電話は通じず、予約はすぐに埋まったとか。「アイドルのチケットじゃあるまいし、何考えてるんや」と驚きます。老人ホームなど施設入所者を優先するのが当然の、思いやりではないでしょうか。この当たり前にクレームが来ることを恐れてはいけないと思うのですが……。
 最後に朗報を一つ。
 やりました! ゴルフ・マスターズで松山英樹が10アンダーで優勝!
 私は最近とんとやらなくなりましたが、ゴルフの端くれにいた者として嬉しい限りです。にしても、水泳池江選手の復活といい、松山といい、もはやオリンピックを開催するしかない盛り上げ方ですね(^_^)。
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「一読法を学べ」  第 51 へ (5月12日発行)

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