カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第51号

提言編U 新しい教育システムの構築

 7「高校入試の廃止について――鶏口だった中学時代」(後半)




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 51号

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           原則隔週 配信 2021年5月12日(水)



 前号ラストの質問、考えてもらえたでしょうか。《何かを得たときには必ず何かを失っている》――これが人生の真実であるなら、子供たちが高校や大学の「合格証」を得ることによって失われたものとは何か。

 読者がすでに学校を離れた大人なら「失ったものなどなかったよ」と答えますか。
 あるいは、最近入試をくぐり抜けた(感受性豊かな)現役の十代なら、ぜひ考えてほしいテーマです。3年間、6年間の受験勉強で「何を失ったかなあ」と。

 えっ、「なぜ《感受性豊かな》を( )に入れたか」ですって?
 グッド、グッド。注意深く読んでいる証です。すぐにそうつぶやいた人は一読法がかなり身についてきたことを示しています(^_^)。

 そりゃあ、鈍感な人は気づかないから――と言いたいところですが、多くの十代は少年少女であるがゆえに感受性豊かです。
 だから、失われたもの、捨てたものに気づいていると思います。

 でも、大人になるにつれて豊かな感受性は失われます。昔のことはどんどん忘れます。よって、《豊かな感受性》を( )に入れたのは「失ったものなどないよ」と言ってのほほんとしている《大人》への皮肉がこめられています。

 おお、何を失ったか、すでに一つ目の答えが出ているではありませんか。「豊かな感受性」とは人の痛みを自分の痛みとして感じることのできる心です。高校入試の倍率は1.1倍から2倍程度。自分の合格と引き換えに誰かが失意と失望と絶望を感じている。
 そう思って「高校入試っておかしいんじゃないの?」とつぶやくのが少年少女の感受性です。
 一方、大人は「そんな弱弱しい心でどうする。この世は競争社会だ。勝ち抜かなければ生きていけないぞ」と子供を説き伏せ(あるいは、そう感じさせ)て受験勉強に駆り立てる……。

 ほらね。入試を見事通過し、合格という証文を得て大人となった人たちから《傷つきやすい心=豊かな感受性》が失なわれているでしょ?

 とまーこんな風に今号はとても感情的、情緒的に「高校入試廃止」について語ります。なお、前号予告の目次と少々変わって「日本的カースト」の件は先送りにして今号は「鶏口牛後だった私の中高時代」の「鶏口」までとします。

 [前号]
 6 高校入試廃止について(前半)

 [以下今号
 7 高校入試廃止について(後半)
 ()入試合格と引き換えに失ったものは?
 ()子供を戦争に巻き込むな!
 () 鶏口だった私の中学時代

 [次 号]
 8 牛後だった私の高校(高専)時代


 本号の難読漢字
・鶏口牛後(けいこうぎゅうご)・印尼越(いんにえつ)[印度・印度尼西亜・越南=インド・インドネシア・ベトナム]・臥薪嘗胆(がしんしょうたん)・韓信(かんしん)・改竄(かいざん)・殲滅(せんめつ)・落人(おちゅうど)・逓信(ていしん)講習所・卒琢同時(そったくどうじ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』提言編U 51

 新しい教育システムの構築 7

 高校入試廃止について(後半)

 (一) 入試合格と引き換えに失ったものは?

 子供たちが高校や大学、短大の「合格証」を得ることによって何を失ったか。まだまだあります。

 この『一読法を学べ』の提言編は31号からスタートしました。その冒頭に2019年11月に発表された、日本財団による「18歳意識調査」について触れています。
 世界9ヶ国(米英独、中韓日、印尼越)の若者、17歳から19歳の男女千名ほどを対象にした、十代末期の意識調査です。
 その結果を見て「提言編」を書こうと決めました。覚えていらっしゃいますか――と聞かれて「覚えているよ」と答えられる人は皆無でしょう。なにしろ31号を発行したのは昨年1月のことですから。

 その中に「自分で国や社会を変えられると思いますか」との質問があります。
 これに対して「1位のインドが8割。他国が6、5、4割と下がって8位の韓国で4割(39.6)。そして、日本の若者は2割に達しない18.3パーセント」と紹介しました。詳細は書かなかったので、今回9ヶ国の数字を全て掲載します。

[自分で国や社会を変えられると思う]
 1 83.4 インド
 2 68.2 インドネシア
 3 65.7 アメリカ
 4 65.6 中国
 5 50.7 イギリス
 6 47.6 ベトナム
 7 45.9 ドイツ
 8 39.6 韓 国
 9 18.3 日 本

 ここにも失われたものの答えがあります。日本の十代8割が合格と引き換えに失ったのは《自分で国や社会を変えられる》との思いです。一語でまとめれば「理想・理想主義」でしょうか。
 この「理想」とは「現実」の反対語として考えています。日本の十代は入試という現実に合わせるため、いったん理想を捨てたという意味です。もしかしたら「いったん」ではなく「その後ずっと」かもしれません。

 いやいや、(再度読者が十代二十代の若者なら)このように指摘されたからと言って別に落ち込む必要はありません。
 そもそも大人が理想を語ることをやめ、現実に合わせているのだから。
 親御さんは我が子に対して(先生は生徒に対して)「理想を追求しよう」などと言わない。「現実に合わせることが幸せになる道だ」と教えているではありませんか。

 もちろん「夢を探せ、何になりたいか早く決めなさい」とは言っている。でも、夢は理想と違います。夢をかなえるためにはときに理想を捨てて現実に合わせねばなりません。
 ――と言えば「そんなことはないだろう」と反論するか、「確かにそういう面はある」とつぶやくか。具体例は省略します。考えてみてください。参考になる故事成語として「臥薪嘗胆」とか「韓信の股くぐり」があります。

 余談ながらアンケート結果には以下の部分もありました。
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 日本の《18歳》男女で「自分を大人だと思う」と答えた若者は3割弱(29.1パーセント)でした。他国との比較では、1位が中国で9割超。米英独、インド、インドネシアの5ヶ国も8割前後の高さ。ベトナムが6割、8位の韓国でも5割。比べてみると、日本の3割は抜けた最下位であることがわかります。
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 昨年私は「抜けた最下位」と書きました。しかし、今は日本の若者の方を評価したい気持ちに変わっています。むしろ18歳の時点で「自分を大人だと思う」方が(敢えて書くと)《異常》かもしれません。

 たとえば、この「大人」というのが、国家が決めたことに異議申し立ては一切言わず、自国を愛し、迫害される(とリーダーが言う)他国は敵だと思い、上からの命令に忠実な人間。これこそ「良い大人である」――との意味で使われるなら、この比率は全く逆転して眺めることができます。

 国家の部分は会社とか組織に置き換えられます。刑事物ドラマではしばしば「命令だ」の言葉が出てきます。大企業の検査不正とかパワハラ・セクハラ、公務員のモリ・カケ、文書改竄・隠蔽などを見ると、あれがドラマだけでなく、命令に忠実な大人、上司の顔色をうかがって行動する大人がかなりいることを示しています。

 いやいや、(再度読者が大人なら)このように指摘されたからと言って別に落ち込まないし、傷つくこともないでしょう。

 理想の職場? 理想の組織? 粋がって正義の御旗を振りかざしても生きていけない。異議をとなえれば、煙たがられ、シカトされ、左遷される。職を失えば、家族が路頭に迷う。
 みんなそうやって生きている。だから、自分も現実に合わせて生きる。それが賢い大人の生き方ではありませんか。

 日本の若者の7割は「自分を大人だと思わない」。もしかしたら「そういう大人になりたくない」数かもしれません。
 でも、8割は「自分で国や社会を変えられる」とは思わない。だから、理想を語ることをやめ、居酒屋でぐちぐち酒を飲みたくなるのでしょう。

 一方、世界では「自分を大人だと思う」若者の多さに驚きます。1位の中国が9割、米英独、インド、インドネシアも8割。かつての日本では昭和10年代、18歳の9割は「自分を大人だ」と思っていたでしょう。

 そして、もしも国のリーダーが「あの国と戦争するぞ」と決定したら、「自分を大人だと思う」若者が8割以上いる国は「敵を殲滅して勝つまで戦うぞ」と決意を述べそうです。米国と中国の冷たい対立を見ていると、そう感じます。米国内の内戦にまで発展しそうな分断は、老いも若きも「自分は正しい。あいつらが間違っている」と思っているからでしょう。
 これに比べると、現代の日本の若者の7割は「すわ鎌倉」の事態になっても「私は戦いません」と言うかもしれません。

 かくして、日本の政治家の中に「こんな不甲斐ない、ひ弱な若者でどうする。二十歳になったら自衛隊に半年くらい体験入隊させた方がいい。教育は中国のような若者を育成すべきだ」と考える人が出るのでしょう。


 (二) 子供を戦争に巻き込むな!

 最近久しぶりに映画を見ました。『シン・エヴンゲリオン』なる作品(2021年3月公開)です。「その年で」と言われそうですが、教員を辞める前後がちょうどシリーズの全盛期で、生徒と議論を交わすことがあり、時折テレビ版や映画を見ました。なので、その解決編とあっては「見ないわけにいかない」とばかりに出かけました。

 作品全体の感想はひとまず置くとして、見終えたときあの頃の疑問を改めて思い出しました。それは「なぜ14歳の少年・少女を人型兵器エヴァに搭乗させ、苛烈な戦いに駆り立てるのだろうか」との疑問です。
 乱暴な言葉を使うなら、「戦争をやりたきゃ大人がやれよ。子どもを巻き込むな」ってことです。

 もちろん冒険小説、SF、漫画、映画など子供がヒーロー、ヒロインとなって闘うお話はたくさんある。鉄腕アトムも鉄人28号も(古いっ!)アトムは子供だし、鉄人28号をリモコン操縦するのは少年でした。私が子供時代好きだった『伊賀の影丸』も、忍者「影丸」は十代後半か二十代だと思います。

 ただ、『エヴンゲリオン』の主人公14歳のシンジ君が違うのは「ぼくは戦いたくない」と言っていることです。なのに、大人は彼を戦場に連れ出す。そして、地球がシトとの戦いに負けて壊滅状態になったら、「お前のせいだ」と責める(責めなくてもそう感じさせている)。

 もう一度書きます。「戦争をやりたきゃ大人がやれよ。子どもを巻き込むな」と。

 閑話休題。最近使われなくなった、死語となった感のある言葉に「受験戦争」があります。
 大人たちは現実の世の中が学歴社会であり、その現実に合わせるために高校入試、大学入試という「受験戦争に勝ち抜け」と子供たちに教えている。
 仮に大人社会がある種の戦争であっても、「せめて子供時代くらいは戦争のない時間、好きな遊びや趣味を思いっきりやれる環境をつくってやっては?」と思うのは私ばかりでしょうか。

 戦争は勝たねば意味がない。負けたら(平家の)落人だ。浮かび上がることのない敗残兵で落伍者だ。日陰者として生きるしかないぞ。だから「戦争に勝て」と戦いに駆り立てる。
 私は何度でも大人たちに言いたい。「子供を戦争に巻き込むな!」と。


 (三) 鶏口だった私の中学時代

 本稿は一応「論文」の体裁を取っています。筆者の中学校、高校(私の場合は高専3年間)時代を語るなんて私小説ならあり得るけれど、一項目設けて書くほどのものか……と思ってどうにも筆が(キーボードが)進みませんでした。

 しかも、昔話というのはだいたい自慢話に終わることが多い。法に触れたり、人に非難されるような体験でさえ、自慢げに語られる。「こんなヤンチャな時代がありました」てな感じで。
 あるいは、「環境が悪かった・親がひどかった」とか、「制度の犠牲者だ」と語るのもちょっとビミョー。自己弁護と言い訳に終始するのは望むところではありません。

 ……と思ってどうにも書きづらかったけれど、今号は情緒的感情的表現を許している。まー取り合えず書き始めることにします。もちろん「高校入試廃止」を訴えたいがゆえの私小説的告白です。

 その前に家族構成について。私の家は父と母、4つ違いの兄がいる4人家族でした。物心ついたころから母は専業主婦で父は郵便局(田舎ながら局員10名ほどの集配局)の局長代理でした。
 父の最終学歴は戦前の逓信講習所電信科卒業――つまり「トンツートンツー」の無線通信を学ぶ1年制専門学校みたいなもので、実質父も母も尋常小学校卒でした。

 さて、(両親に失礼ながら)トンビがタカを生んだかどうか、私の中学校3年間を一言でまとめると「優等生」でした。
 生徒数100名強の田舎の中学校(全9クラス)だったけれど、3年間通信簿はほぼオール5でした。かと言っていわゆる「ガリ勉」ではなく、1年の最初から3年まで卓球部に所属して部活動をやり、3年最後の大会では3回戦を勝ち抜いて郡のベスト8に入りました。

 また、1年時は中学校代表(男女2名)として郡の弁論大会に出場して優秀賞を獲得し、美術の版画部門で大会に出品されました(佳作)。2年も弁論大会で中学校代表となり(参加賞止まり)、3年の秋には英語暗唱大会で中学校代表として郡の5位でした。最後に3年の後期生徒会長に選出されました。
 そして、当時倍率3倍の高専(5年制の国立工業高等専門学校)に合格して高専に進学した……うーん、文武両道の優等生ですねえ。

 書き忘れました。もう一つ、一年のときからクラシックギターを買ってもらってギターも始めており、中三の文化祭では友人二人と体育館のステージ発表に参加しました。当時はエレキとGS(グループサウンズ)全盛時代でしたが、田舎の生徒でギターを弾ける生徒は少数派でした。

 しかし(と直ちに書きます)、私は自分を優等生と全く思っていなかった
 むしろ劣等生と思い、コンプレックスのかたまりでした。なぜか。

 まず父親です。父は私の通信簿を見て「それが当然である」かのように誉めることはなかった。
 当時も教科は国社数理英に音楽・美術・体育・技術(女子は家庭)の9教科でした。1年のころは4が3つくらいあったけれど、中二中三のときは8教科が5で何か一つが4でした。私はそれを「オール5マイナス4ひとつ」と呼んでいました。

 父は私の通信簿を見て「今回はこれが4じゃな。次はこれを5にしろ」と言う人でした。オール5になれない私は自分を優秀だと感じていなかったのです。
 成人後父とこの件を話題にしたとき、(父の実家は農家でした)「お前は農作業のような手伝いをやらんでいい。だから、勉強ができるのは当然と思った」と言ったもんです。

 次に中学校の先生方。彼らもほぼオール5の私を誉めることはなかった。
「君のライバルはここにはいない。実力をつけなさい」と言ったのです。

 私はそれを「県一斉摸試」の偏差値が低いこと、それを上げることだと理解しました。国社数理英5教科の模擬試験で私の平均偏差値は常に60〜65の間でした。一度も70に達したことがありません。模擬試験には県全体の順位も書かれていて私はいつも一千番台でした。つまり、県内同学年の中ではちっとも優秀でなかったのです。

 ここで「よくそんなことを詳しく覚えているなあ。記録でも取っていたのか」と思われたかもしれません。よく覚えていられる理由があります。《あと一つ足りない》点で、劣等感が思春期の心に深く刻まれたからです。

 自分の中学校ではトップだった。だが、外に出ると一度もトップになれなかった。1年の弁論大会では最優秀になれば郡を代表して県大会出場でした。だが、次位だった。これが最優秀が3年とか2年生ならまだあきらめがつきます。最優秀は同じ1年生でした。
 3年の卓球最後の大会ではベスト8に入った。だが、県大会はベスト7位までで、私は5位決、7位決定戦に負けて県大会出場を逃した。そして、成績では何か一つ4になることでオール5になれなかった。

 それはまるでもぐらたたきでした。ある教科が4だったので、その教科を懸命に勉強する。次の学期それを5にすると、別の教科が4に落ちている。それを5にすると、まさかの得意教科が4に変わっている……。

 当時生徒間で通信簿を見せ合う習慣はなく、「どうだった?」と聞く程度でした。私は学期末のたびに「あまり良くなかった」と答えていたものです。
 通信簿を見せたら、きっと「どこが良くないんだ!」と言われたことでしょう。しかし、当人は雲一つない快晴でない限り、「今日もまた曇りだった」と感じていたのです。

 なぜかくまでオール5にこだわり、一つだけ4があることにコンプレックスを抱いたのか。振り返れば異常な中学生と言わざるを得ません。
 しかし、そう思う理由がありました。それは4つ違いの兄が中学校時代オール5だったからです。当時の私にとって最大のライバルは兄でした。

 しかも、彼は郡を代表して県大会にも出場しています。3年の時陸上の大会(確か400メートルか800メートル)で中学校代表→郡1位となって県大会に出場しました。夏の一日、父と一緒に県営の陸上競技場まで応援に行った記憶があります。
 兄は陸上部ではなくブラスバンド部でした。当時の陸上は記録さえ良ければ中学校代表になり、郡の大会で1位になれば県大会出場でした。
 父は完璧な文武両道の兄と比較して「お前もオール5を取ったら誉めてやる」と思っていたでしょう。そして、私もオール5を目指して懸命にがんばる子供でした。

 小学校時代の私はとても平凡な成績でした。身体も小さく遊ぶことが好きで、近くの一つ上とか数歳下の子供たちとよく遊んでいました。習い事も小4から卒業まで剣道をやったくらいで何もせず、塾にも行きませんでした。

 そもそも田舎だったし、普通の子が塾に行ったり、家庭教師を雇うような時代ではありませんでした。家が小学校のすぐそばにあったので、放課後は小学校のグランドで暗くなるまで遊びまくっていたものです。父や兄が「御飯だぞ」と呼びに来たことを覚えています。

 テレビこそ午後8時までと決められていたから、毎日2時間ほど勉強したけれど、漫画も好きでした。毎日の小遣い10円では漫画は買えず、買ってもらえる家に見に行きました。暗がりで読み過ぎたせいでメガネをかけることになったほどです。

 結果、国語や数学などいくつかは5とか4だったけれど、体育は3、美術は一貫して2でした。兄が中学校でオール5の成績を取ったとしても、中学校に入るころ私は「自分には無理だ」とあきらめていました。

 ところが、以前も書いた通り、小学校時代ずっと2だった美術が突然5になりました。そして、次に無理だと考えていた体育で5となるや、オール5の可能性が出て確かに「ほぼオール5」となったけれど、何か一つは4である不甲斐なさを感じなければならなかったのです。

 さて、問題はこの成績・状態を維持するため、私は何を失ったか、何を犠牲にしたか。当時の筆記試験は教科書・ノートを丸暗記していれば90点以上が取れました。筆記試験なら私はほとんどの試験で90点以上か悪くとも80点台。
 この高得点を取るために私は必死でした。余裕で取れるほど記憶力は良くなかったのです。

 月曜から金曜は午後8時から0時ころまで一日4時間、授業の予習と復習に充てテスト前はひたすら《丸暗記》に励みました。放課後は部活、夜は予習復習の勉強。日曜とか長期休暇でようやく好きな本を読んだり、ギターを弾ける程度でした。ギターに関しても父は当初反対で、「成績が落ちたらギターをやめる」約束でした。

 結果……の一つ目、私には友人ができなかった。ただ、当時「自分には友達がいない」と意識したことがありません。
 そもそも「親友というものは遊んだり、悩みを打ち明け合ったりして関係が深まるものである」との思いがなかったのです。教室ではいつも固まる数名のクラスメイトがいたし、部活の卓球でも同じ。私は彼らを友達と思っていました。

 ところが、ずっと後になって中学校時代仲が良かった《友人》たちと再会したとき、彼らが中学校時代について「誰それが好きだった」とか「こんな悩みがあったなあ」と語り合うとき、それが私には初耳であり、また、誰も私の中学校時代の悩みや片思いを知りませんでした。
 当然でしょう。私は彼らとそのような話題について全く会話したことがなかったのですから。

 なぜだろうと考え、二つの結論に達しました。一つ目は私から自分の心を打ち明けることがなかったこと。あまりに多忙でそのような時間を取れなかったのです。中学校時代、私は友人の家を訪ねたり、彼らが私の家に来ることは一度もありませんでした。
 そして、友人と並んで登下校しなかったことも理由だったか、と思い当たりました。
 私の家は(ちょっと高台にある)小学校のすぐ下にあって通学時間は1分、中学校も正門まで徒歩5分でした。つまり、私は同級生の友人と並んで登下校した経験がなかったのです。

 結果……の二つ目。私はこのような勉強がいやでいやで仕方なかった。どんなに暗記しても4割を忘れる。しかも、この勉強によって覚えた知識は「いったい自分のためになっているのだろうか。何のための勉強なのか」さっぱりわかりませんでした。

 兄は小学校のころから教員志望で、私が中三の時地元の普通高校から大学(教育学部)に進みました。私にはそのような夢も目標もありませんでした。
 当時購読していた月刊の学習雑誌に「レディーメードの知識はやめよう、受け売りの知識でなく自分で考えよう」とあるのを読み、「自分の頭の中に自分で考えたことは一つもない」と感じていました。

 結果……の三つ目。これが最大かもしれません。私は自分の性格に表と裏があること、内面と外見の「うそ」が悩みの種でした。あの禅智内供のように。

 このころ私は母が嫌いでした。母はどちらかと言えば、亭主関白の父に従い、二人の子に優しい昔タイプの母親だったと思います。しかし、一つだけ内心と外面(そとづら)の違いを私に見せる女性でした。
 父が局長代理だったため、ときどき近所の人が保険や貯金を家に持ってきました(当時はそんなこともできたようです)。
 母は持参した相手をもてなし、世間話も交わして「ありがとうございます」と言って帰します。

 そのとき私がそばにいると、さもいやそげに「こんなことは好かんのじゃ」と吐き出したものです。先ほどまでのにこやかな顔と笑顔からは想像もできない裏の姿。私はそんな母が嫌いでした。

 しかし、それは私自身の姿でもありました。学校で私は同級生とケンカはしない、先生に反論しない、成績優秀な《良い子》でした。内心は悩みを抱え、必死で勉強しているのに、悩みなどなく、余裕で好成績を取っていると見られて(見せて)いました。

 中一の時クラスで仲良くなり始めた男子が――かなりできる子でした――定期テストが返却されると、すぐ私のところに来て「何点だった?」と聞きます。私をライバルと見なしていたのかもしれません。
 最初こそ正直に自分の点数を答えました。しかし、ほとんど90点以上で、彼は80点台が多かった。その都度彼は「負けたか」とつぶやく。その後私はときどき10点引いて答えました。すると彼は「これは勝った」と嬉しそうに言ったものです。

 彼との仲を壊したくなくてつく「うそ」。それは母と同じでした。私はこれもいやで、妙にライバル視する彼に対しても不快を感じていました。
 彼とは幸い2年、3年で別クラスになりました。それ以後クラスメイトとテストの点数を明かすことはやめたので、このうそは1年で終わりました。

 大げさに言えば、中学校時代私は厭世観と人間不信に陥っていました。完璧を求める父、人間の裏表を見せる母。兄とは疎遠でも親密でもない関係でした。しかし、両親は「優秀な兄に期待して私のことなぞどうでもいいんだ」と感じてもいました。
 これが「こんな家にいたくない」と思い、「中学校を出たら働きたい」と父に伝えた理由でもあります。父は私の内心を問うことなく「高校から大学に行け」と言うばかりでした。

 結果……の四つ目。これを書くのはもっと筆が進みません。なので、詳細を書くのはご容赦ください。一言で言えば、私は爆発寸前の早熟な中学生だったと思います。すでに爆発の兆候は表れていました。が、その告白は「いつか別の機会」とさせてください。

 一つだけあまり差し支えないことを書くと、このころ多くの男の子同様私も性的方面に興味津々の中学生でした。
 今でも覚えているのは父と一緒に遠出をして大きな本屋に立ち寄ったとき、「なんでも好きな本を買ってやる」と言われ、選んだ本が山田風太郎「忍法帖〜」シリーズの一冊でした。ちら見して大人向けの小説であるとわかって選びました。

 本はあまり読まない父も、さすがに内容を予想できたのでしょう、「お前にはまだ早い」と言いました。私はその後別の本を探したものの、「やっぱりこれがいい」と申し出ると、父は黙って買ってくれました。

 中三の時は同じく山田風太郎の『柳生忍法帖』(単行本)を隣町の本屋で見つけ、立ち読みを始めたらやめられなくなって小遣い二か月分の値段だったけれど、買いました。そして、引き出しの奥に隠して読みふけりました。どちらもエロティックな作品で中学生が読むのは確かに「早すぎる」でしょう。

 以上です。まだまだ書きたいことはあるけれど、ここまでにしたいと思います。

 読者各位は「卒琢同時」という言葉をご存じでしょうか。それは卵の中のヒナが生まれて声を発し殻をつつき始めると、親鳥が外から殻を破ってやることを言います。大げさではなく、中学時代の私は全ての悩みと秘密を卵の中に閉じ込めたヒナのような存在でした。鳥と違うのは自ら殻を破る気はなく、外からつついてくれる人もいませんでした。

 しかし、運命の不思議と言うか、「偏差値60ではまず受からない」と言われていた高専に合格しました。高専は家から通えなかったので、寮に入りました。家を出たいとの思いは果たせたけれど、自分が偏差値60であること、中学校の鶏口から一転牛後に落ちる自分を見る羽目になります(以下次号)。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:新型コロナのワクチン接種が始まりました。変異株の急拡大、緊急事態の再発出、接種予約をめぐるドタバタ。特権階級から「先にワクチン打たせろ」の圧力。政府は「我々はよくやっている」と自画自賛し、野党は「何をやっているんだ」と責めるばかり。

 どうしてもっと深く考えられないのかと思う事態が続いています。オリンピック・パラリンピックも実施されるでしょう。そして、来年コロナが終息したら、「そんなことあったっけ?」と昔のことはころり忘れてまた日々の現実に戻る……。

 さて、「こんな大人になりたくない」と考えている十代の諸君。
 もはやあなた方に期待するしかありません、とつぶやくのは私ばかりでしょうか。
 今のうちにいろいろ考えて理想を語り合ってほしい。ただし一読法でね(^_^)。
 そうか。大人が不甲斐ないから、『エヴァンゲリオン』も14歳の少年少女に頼るしかなかったんだ……。
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