カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第52号

小説『高専一年生の秋』




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 52号

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           原則月刊 配信 2021年6月8日(火)



 突然ですが、今号より3週連続で以下の3編を配信します。(八)として牛後だった高専時代を語るつもりでしたが、当時のことをもっと知ってほしいとの思いからです。
 小説は原稿用紙20枚ほどです。高専一年時に抱えていた悩み、それをどう克服したか、その後どう変わったか――などわかってもらえるのではと思います。
 週刊としてお読みいただければ幸いです。

 [今 号]52 小説『高専一年生の秋』

 [次 号]53 (八) 牛後だった私の高校(高専)時代

 [次々号]54 小説『一九七二・五・一五』


 本号の難読漢字
・逸(そ)れる・三和土(たたき)・割烹着(かっぽうぎ)・喧噪(けんそう)

 なお、次の言葉についてここで解説しておきます。
 一つは「たたき」。昔の家は玄関と言うか入り口を入ると、土の内庭がありました。「三和土(たたき)」とはこの踏み固められた土間のことです。私の実家も二十歳ころ改築して木の床になる前は三和土でした。竈(かまど)もあって電気釜やプロパンガスが入るまで、母が竈で煮炊きしていたものです。
 余計な解説ながら、なぜ「三和」かというと、赤土(砂利)・消石灰・にがりなど三種類の材料を混ぜ合わせてつくる――つまり「和(あ)える」からだそうです。
 もう一つ文中「列車」とか「汽車」と書いていますが、帰省に使った各駅停車の鈍行は汽車=SLです。当時は煙もうもうで、乗るたび煤で顔が汚れました。冬は暖房があったけれど、夏の冷房はなし。だから、窓を開けるしかなく、トンネルの出入りでは窓を開け閉めしなければなりませんでした。今SLは子供たちに人気ですが、私はあまり乗りたいと思いません(^_^;)。
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 52 別稿小説

 高専一年生の秋

  一

 O高専機械科一年二組の四十人が実習工場に集まった。
 金曜の三、四時間目は工場実習だ。十月も半ばを過ぎて工場内はやっと涼しくなってきた。

 四月に実習工場に入ったときのことは今でもよく覚えている。天井が高く、体育館のような広さにまずびっくりした。コンクリの床はひんやり冷たく、鉄さびと機械油の匂いがした。通路の左右に初めて見る旋盤が五台ずつ並んでいた。
 生徒は真新しい作業服を着て通路に整列した。そして、主任の先生から五人の実習指導員を紹介された。彼らは企業で働いたことのある経験者で、ベテランの職工さんといった雰囲気だ。
 この建物で旋盤実習と鉄成形が行われ、鍛造、鋳造、木工は隣に別の実習棟がある。僕はこれまで木工と旋盤を体験し、今日から三クール目の鉄成型に入る。

 僕が通うO高専は一学年四クラス。電気、土木、機械の三科だが、機械だけ定員80で二組に分かれている。
 僕は入学前工場実習は機械科だけがやるものだと思っていた。電気科はハンダゴテ持ってラジオやテレビの組み立てが実習だろう。だが、一年時は電気科も機械科と同内容の実習を受ける。電気科であっても機械工場に就職することがあるから、知っておく必要があるのかもしれない。ちなみに土木科の連中は測量実習だ。

 生徒は八人ずつ五つの班に分かれ、ローテーションで旋盤、鉄成形、鍛造、鋳造、木工の実習をこなす。鍛造は刀鍛冶のように真っ赤に燃えた鉄を叩くし、溶接もやる。鋳造は鉄塔で鉄を溶かし、砂で作った鋳型に流して鋳物を作るなど本格的だ。

 いつものように主任の簡単な注意――「気を抜くとケガをします。集中してやるように」などを聞いてから、各班はそれぞれの実習場所に散らばった。
 僕ら成形班の八人も卓球台ほどの作業机に一人ずつ並んだ。高専入学から半年、作業服の汚れとしわだけはみな工員らしくなった。

 まず「Мブロック」という鉄の塊を万力の台座に固定する。これはタテヨコ十数センチ、奥行き五、六センチ、Mの字を逆さにしたような鉄の塊だ。文字と違うのはMの底面が全てつながっていることだ。

 Mブロックは未成形なのでごつごつしている。持つとずっしり重い。未成形と言っても、手前と奥の二面は機械できれいにカットされている。つまり、M字金太郎飴みたいなもんだ。
 鉄成形とはそれを万力に固定し、逆さにしたM字の底面を削って平らにする実習だ。使う道具はトンカチと鋼の棒――先端が平たく手元が丸いので平ノミと言う。

 トンカチは家にあるような金づちではなくハンマーって感じだ。平ノミは全部鋼でできている。普通大工さんが使うノミは先が鉄で柄は木だから、これはいかにも鉄を削るためのノミだとわかる。どちらも見た目以上に重い。

 作業工程はまず朱を使って端から一センチほどのところに線を引く。その線の少し上まで鉄をそぎ落とし、その後鉄ヤスリを使ってでこぼこを取る。鉄ヤスリは最初粗い目、次に中くらい、さらに細かい目に持ち替え、最終的にミクロ単位で凹凸がないくらいの平面にする(と先生が言っていた)。
 機械でやれば何でもない作業だけれど、高専一年生初めての工場実習として、原始的なやり方で鉄を成形するわけだ。

 他の七人は右手にハンマーを持っている。僕は左利きだから、右手にノミ、左手にハンマーを握った。鉄を削るなんてもちろん生まれて初めての体験だ。
 実習教官がかーんかーんと手慣れた感じでお手本を見せた。
「最初は慣れないからノミの頭を見るでしょう。でも、できるだけ見ないように。先端を見て叩いてください」

 ちょっと小太りで穏やかな感じの先生だった。「まあ最初は何度も手を打ってあざができるでしょう」とも言った。
 僕は早速打ちそこなって親指の付け根が赤くなった。

 先生の説明を聞いてから、僕らはとんかんとんかんと慣れない成形作業に入った。先生は巡回しながら注意を与える。僕もまず数十回ノミを叩いた。うち七、八回は的がそれて自爆した。その都度「痛っ」と叫びながら。「痛い」の声は至るところから漏れていた。

 この数十回で削れたのは深さ二、三ミリくらい。幅は一センチにも満たない。先生は固い鉄と柔らかい鉄だから削ることができるという。だが、いくら柔らかいと言っても豆腐じゃない。鉄はやっぱり鉄だ。

 僕は向こうの方で旋盤に取り組んでいる仲間を見ながら、旋盤実習や木工は楽だったなあと思った。どちらも鉄や木の塊を機械にはさんで回転させると、後は取り付けた刃で薄く削り取るだけ。力は全く必要なく、機械の作業を鼻歌気分で眺めていれば良かった。それに比べると、この鉄成形はかなりしんどい。昔の工員さんはほんとに人力でやったのだろうかと思う。

 グループの中には要領をつかんだか、ハンマーの音が様になる者が出始めた。僕も思い直して再び鉄削りに挑戦した。一気に百回連続して叩いてみる。慣れてきたようで、的が逸れる回数は減った。
 しかし、鉄はほんのちょっとしか削れない。手は機械油で黒く汚れ、ハンマーを握る左手も赤くこすれ始めた。手袋は用意されていないので素手でやるしかない。
 僕は一休みして上着の袖で額の汗をぬぐった。これくらいの作業なら、汗ばむほどの季節ではなかったけれど。

 おそらくげんなりしていたのだろう、近くに来た先生が僕の胸をのぞき込むようにして「斎藤君はもっと力をこめて打たないと、削れませんよ」と言った。そして、実地にやって見せた。

 先生の鋼さばきは的確で力強く、鉄は見る見るうちに削り取られる。わずか数回で僕の百回分を越えてしまった。ズゴッ、ズゴッと音が違う。ハンマーの振り上げ角度が違う。大きく構えてガキーンと振り下ろしている。

 確かに遠くから力をこめて打つしかない。だが、ハンマーの的が外れるのも怖い。恐る恐る叩くから、とても先生のようにはいかなかった。「そのうち慣れるでしょう」と言って先生は離れた。
 他の生徒も悪戦苦闘していたが、僕が一番遅れているように思われた。その後本腰入れて数百回も叩いたら、終了のチャイムが鳴った。やっと昼飯だ。

  二

 高専は全県一区だから、県内各地から生徒が集まる。そのため寮があって市内の生徒以外ほとんど寮に入った。僕も通学できる距離ではなかったので、当然のように入寮した。
 寮は校舎正門の反対側にある。三階建ての宿泊棟が四棟、別に平屋建ての事務室棟と大きな食堂があった。寮生は寮の食堂で三食を摂る。昼食時は五学年の寮生が一斉に集まるので、かなり混雑した。

 寮の敷地に入って事務室の横を通ったとき、後ろから「誠二!」と呼ばれた。電気科の松下が早足でやって来る。彼は僕と同郷で、九月まで同じ階だったこともあって入学後すぐに親しくなった。

 松下は追いつくと、「今日はカレーライスだぞ」とうれしそうに言った。カレーは寮生の人気メニューだ。牛乳が一本と希望者には卵がつく。福神漬けやラッキョウは取り放題。
 僕は来た当初卵をかけなかった。松下がやっていたので、そんなものかけたら、ぐちゃぐちゃして汚いだろうと言ったことがある。ところが、あるとき試してそのおいしさを知った。松下は「だろ?」と言って鼻を動かしたものだ。

 事務室棟を過ぎたところで列の最後尾になった。食堂の中では三百人ほどが席に着き、外は百人くらい並んでいた。
 松下が「ところで、俺は明日帰省するつもりなんやけど、誠二はまだ帰らんのかい?」と聞いた。

 僕はちょっと考えた。九月末に前期期末試験が終わって三日間休みがあった。その時帰省して以来帰っていない。同方向だし、松下とはタイミングが合えばよく一緒に帰省した。
「そうやなあ。もう帰ってもええころやけど……でも、俺はまだ帰らんわ。英語なんかの予習もせんといかんし」

 英語の予習というのは嘘に近い。僕はこのひと月英語の予習など全くしていなかった。帰るなら一人で帰りたかっただけだ。松下は「そうか」と言って無理強いしなかった。合わないことはしばしばだから、お互い断っても気まずくなることはない。

 僕は話題を変えた。「ところで、お前工場実習で鉄成形はもうやった?」
「ああ。今鍛造だから、この前鉄成形が終わったところだ」
「そうか。どうだった。うまく削れたかい」
「いやあ、なかなか。ハンマーで手の甲はたたくし、何とか削り取ってヤスリ仕上げに入ったら、厚みが残っちょったから、仕上げに時間がかかってえらい大変じゃったよ。何だ、今鉄成形なんかい?」
 松下の話は僕をちょっと安心させた。
「そうなんじゃ。これ見てくれよ」

 僕は右手の赤黒いアザを見せた。松下はちらと見て言った。
「まあ、最初は慣れんから俺でもそうじゃったよ。そのうち慣れるがに」
「そうかなあ。あれは旋盤や木工よりずっと難しそうで……それにしても、ああいうのをやっちょると、俺たち工員になろうとしてるんだってつくづく感じるよ」
「まあ、あれは実習じゃけんな。俺たちは会社に行ってあんなことやるんじゃないけん。ある程度できりゃええんじゃ」
 僕の不安と比べると、松下は楽観的だ。

 確かに実習の先生方はいつも「君らはエンジニアとして機械工を指導する立場になる」と言う。
 高専生は工場の工員になるわけではない。大卒と工業高校出身者の間に入って工員全般を指導するというのだ。だが、僕は実習を苦手としていたので、将来工場に入ったとき旋盤の指導などできるだろうかと感じていた。

 僕らはやっと食堂に入った。甘辛い匂いにつばが湧く。食事にありつくにはあと十数人。すでに食べ終えて出る者もいる。食堂内はスプーンの音と噛む音と話し声が混ざり合ってうわーんと鳴っていた。

  三

 翌日土曜日、僕はやっぱり帰省することにした。午前中の授業を終えて昼飯を食べると、しばらく部屋でのんびりしてから駅に向かうバスに乗った。夕方O市発の汽車に乗れば、六時過ぎには実家に着く。何となく帰りたくなった。それだけのことだ。太陽が西に傾き、涼しい風が吹いていた。

 出る前事務室で「帰省届け」を提出した。夜から日曜の昼食まで、寮で食べないので「欠食届け」も出さなければならない。しかし、そちらは三日前までと決められているので、もう間に合わない。土日は寮生の帰省や外出で食堂利用者が激減する。がらんとした食堂で食べることが何週間か続くと、家に帰りたくなる。

 ちなみに、高専は基本的に届け出制である。入学式で「とにかく届け出ること。それが大切です」と言われた。許可制だと許可されないことがある。しかし、届け出制にはそれがない。生徒会長は「これが自治です」と言っていた。だから、僕は事務室で「帰省届け」に必要事項を書くと箱の中に入れた。確かに届けるだけで、誰にも許可を求めていない。

 家に電話しようかと思ったけれど、事務室前に二台ある公衆電話はふさがっていた。
 ちょっと待ったけれど、二人とも長電話のように思えたのであきらめた。これまで何度か連絡しないまま帰省することはあったし、最近はしてもしなくても、夕食の献立が変わることはない(と感じていた)。だから、まー大丈夫だろう。

 O駅から二時間半ほど汽車に揺られると、実家近くの無人駅に着く。あたりはかなり暗く肌寒さを感じた。家は内陸にあったから、海岸沿いのO市に比べると夏は暑く冬はかなり寒い。
 駅前広場にバスが待っていた。山間の温泉街に向かう最終便で、僕の家はその途中にある。歩いて三十分の距離だけれど、僕はバスを使った。実家のすぐ前が停留所だ。

 五、六分走ってバスを降り、玄関前に立ったとき、妙な気配を感じた。家の中からがやがや騒ぐ声が聞こえ、入り口が開けっ放しになっていたからだ。
 のぞくようにして中に入ると、いつもは薄暗い三和土が真昼のように明るく照らされていた。割烹着姿の女性が数人、忙しく動き回っている。湯を沸かす音にぐつぐつ煮立つ音。日本酒や煮しめの匂いがごちゃ混ぜになっている。

 テーブルの上には色とりどりの大皿や小皿が重ねられ、上がり口には一升瓶とビール瓶が何十本となく並んでいた。どうやら宴会の準備がされているようだ。明るいはずで、普段は一つの電灯が三つに増やされていた。
 畳の間を見渡すと、四部屋の襖や障子が全て取り払われ、家にはない横長の飯台がずらりと置かれていた。畳の間でも女性が数人あちこち動き回っている。一目で大々的な宴会だとわかった。

 僕は呆気にとられてただいまとも言えず、入り口付近に立ち尽くした。三和土の女性達の中に母の姿はなかった。
 手伝いで来ていたのだろう、隣のおばさんが僕に気づいて母を呼んでくれた。母はすぐやって来た。驚いたようだが、にこにこ顔で「帰って来たんかい」と言った。僕はうなずくだけで言葉が出なかった。

「今日はネ、新郵便局の落成式じゃったんよ。そのお祝いでいろんな人たちが集まってこれから宴会なんじゃ。お父さんもネ、大変じゃったんよ。局長になってそれでやっと新しい局舎も完成してネ」
 母はなお大変ぶりを誇らしげに語った。

 父は一昨年この地の郵便局で局長代理から局長になった。老朽化した局舎が建て替えられる話は以前聞いたことがある。だが、今日が落成式とは知らなかった。
 妙な時に帰って来たと思った。しかし、もうどうしようもない。母も別に迷惑そうな顔は見せなかった。もっとも、近隣の人たちがいれば、そんな顔はしない人だ。
 母は後で夕食を持って行くから離れにいるようにと言った。もちろん僕もそのつもりだ。

 離れは二年前に増築された四畳半一間の部屋だ。当時高校三年だった兄が大学受験のために一年間使用し、兄の大学入学後は僕が高校受験のためやはり一年間使った。本来僕の大学受験まで四年間使うはずの部屋だった。だが、僕が地元の高校に行かず、高専に入学したので、以後空き部屋になった。父はいずれ物置にすると言っていた。今はまだ机やベッドがそのままなので、どんちゃん騒ぎのそばにいるよりよほどましだ。

 僕は着替えてベッドに横になった。やがて宴会が始まったようで、母屋の喧噪が聞こえてきた。窓の外の小さな庭が明るく照らされている。ラジオをつけたけれど、宴会の騒音を消すことはできなかった。

 僕は寝ころんだままぼんやりいろいろなことを考えた。父や母と話したいことがあったような気がした。逆に特別話したいことがあったわけではないとも思った。
 九月以降、学校の授業では机に突っ伏して居眠りしていることが多い。教室で行われるほぼ全ての授業でそうだった。夜更かしをしているわけではない。寮は点呼が午後十時、消灯が十一時と決められており、ほぼ全ての寮生がその前後に寝につく。もちろん僕も。
 朝は七時二十分に起床のメロディーが流された。それは最終的な目覚ましみたいなもので、みなその前には起き出す。もちろん僕も。
 だから、寝不足ではない。なのに、学校で眠くて眠くて仕方がない。授業が面白くないと言うより気力がわかなかった。僕は眠気のままにただ居眠りした。起こす先生方は皆無だった。それも自治なんだろう。

 僕は右手を見た。指先の一部や爪の端に実習の汚れがこびりついている。汚れは赤土に似た特殊な石鹸で洗い落とす。しかし、大ざっぱにしか洗わないので、二、三日は必ず汚れが残った。
 これを見るたび工員だと思う。右手の甲にはいくつかアザができている。皮膚がはがれる程ではなかったけれど、少し痛みがある。赤黒いのは痛くてきれいに洗えず、機械油の汚れが残っているからだ。

 四月に入学してから、僕はこれまで三つの実習を経験した。木工と旋盤、そして昨日から始まった鉄成形。木工と旋盤は比較的楽だった。だが、完成した作品を他の生徒と比べると、僕のはかなり劣っていた。素人目にも出来不出来が明らかだった。機械が自動でやっていることなのに、どうして仕上がりに差ができるのか不思議だった。

 もっとも、中学校の技術科は得意科目ではなかった。不器用というか、文鎮作りやちり取りのリベット打ちなど下手くそだった。それを思えば、当然の結果かもしれない。それでいて工業系の高専に進学したのだから笑ってしまう。

 本来地元の普通高に進学するつもりだった。力試しと思って受けたら合格してしまった。高専はどの科も倍率三倍だったから、採点ミスではないかと思った。
 行かなくてもいいと言っていた担任の先生は手のひらを返したように入学を勧めた。僕は高専の八期生にあたり、中学校では初の合格者だった。辞退なんてさせるわけにいかなかったのかもしれない。

 僕自身も合格したら、考えが変わった。普通高に進学すれば、三年後、いや三年間大学受験の勉強をしなければならない。それを思うと受験勉強がないし、五年で卒業できる高専の方がいいと考えるようになった。田舎を離れてO市で暮らす点も魅力的だった。それにO市には大学に通う兄がいた。母は不安げだったけれど、父は賛成した。むしろ積極的に勧める感じだった。

  四

 高専は入ってみたら、各中学校でトップクラスの生徒ばかりが集まっていた。僕自身も中学校ではだいたい三番以内だった。だが、田舎だし、一学年百人程度の中学校だから、県一斉の模擬試験になると平均六十点ぐらいしか取れなかった。高専入学後クラスの何人かに聞いてみると、模擬試験で八十、九十平均というのがざらにいた。

 入寮後同室となった電気科のAなど、キツネのような顔をして県北の方言丸出しの男だった。いかにも田舎者といった感じで、とても頭がいいように見えなかった。ところが、彼でさえ「模試だったら、だいたい八十点を切ったことはないよ」と言った。それを聞いたとき、自分は一年生の中でどん尻近い成績で入学したに違いないと思った。

 高専の成績は大学同様「優・良・可・不可」の四段階でつけられる。試験で六十点未満になると不可がつき、不可が二科目あると自動的に留年だと聞かされた。
 僕のクラスには一人留年生がいた。最初わからなかったけれど、実習工場に集まって判明した。彼だけ色褪せた作業服を着ていたからだ。
 僕は焦った。五、六月頃は半ば脅迫的に勉強に励んだ。部活は中学校に続いて卓球部に入った。だが、そのうち行かなくなって夏休み前にやめた。郡のベスト8まで行ったのに、レベルが違い過ぎた。それに高専から始めたという2年生に、全くかなわなかったことも理由の一つだ。クラスではなかなか友人ができず、僕はだんだん劣等感と自己嫌悪にとらわれるようになった。
 そんな頃、僕は日記に「崩壊」と題して詩らしきものを書いた。

  崩 壊

 俺は今苦しくなった。
 俺は今全ての優越感を失いつつある。頭脳も身体も詩も心も。
 一つだけ残っているのはギターが弾けることくらい。
 それだってすぐにくずれる土台のないもの。

 人によく見られたい。人によく見られたい。
 俺の心の奥底にはこいつが棲みついている。
 何をやっても。何を言っても。
 俺は人に見せるために生きているのだろうか。

 批判をする。幼くてろくに本も読んでいないくせに。
 いっぱしの評論家ぶってものを語る。
 他の奴がいると、いやに大人ぶった態度で事を処理する。
 なのに、自分が批判され、悪く言われるのはたまらない。

 積み重なる劣等感。俺はあせる。
 あせってすきまから他の奴の悪い部分を見つけ、
 それで俺の優越感を満足させようと、すきまをあえいでいく。
 肝っ玉の小さい自分。どうしようもできない自分。

 情けない。こんな自分が情けない。
 俺はこれからどうなるのか。どう生きたらいいのか……

 ドアがノックされて母が入って来た。お盆の皿には刺身や唐揚げ、酢の物に煮しめ、鶏汁。そして、僕の好きないなり寿司が載っていた。宴会のごちそう一人前だ。

 母はうれしそうだった。僕の食べる様子を見ながら、父のこと、郵便局のこと、今日の落成式のことなどを語った。僕が突然帰省した理由など聞くはずもない。もちろん僕も気まぐれで帰って来たのだから、自分について語ることはない。

 母の話が一段落すると、僕は「おめでとう。お袋さんも大変だったでしょう」と言った。
 母は満面の笑みを浮かべて「ありがとう」と応じた。そして、お盆を持って母屋に戻った。

 僕は再びベッドに横になった。身体がべとついていた。風呂には入れそうにない。顔や足を洗おうにも浴室は母屋にある。どんちゃん騒ぎは相変わらずよく聞こえる。寝るしかないけれど、眠れないだろう。こうなったら、明日は早めに寮に帰ろうと思った。

 そのうち寝入ったようだ。翌朝目覚めたときには十時を過ぎていた。あたりは宴会などなかったかのように静かだ。その後全く目覚めなかったから、宴会が何時まで続いたかわかるはずもない。

 僕は離れを出て母屋に行った。誰もいない。父も母も。おそらく何か用事があって出かけたのだろう。僕を起こさなかったのはいつものことだ。
 間違いなく宴会が行われたことは残骸を見ればわかる。どの部屋も腐った酒のような匂いがして窓は全て開け放たれていた。数え切れないほどの一升瓶やビール瓶が三和土の隅に並んでいる。畳の間の飯台は壁に立てかけられていたけれど、コップや小皿・大皿は上がり口に雑然と積み重なっていた。

 テーブルの上に朝ごはんが用意されていたので、みそ汁をあたためて食べた。おかずは昨日の残り物だ。昨夜はごちそうだった。しかし、同じ内容の朝食はなんだかしなびた感じがする。二日酔いの大人の体臭がこびりついているような気がした。

 僕は食べながら二人の帰りを待たずに学校に戻ることにした。H駅発午後一時二十分の鈍行に乗れば、夕方O市に着く。その便に合うバスはないけれど、駅まで徒歩三十分だ。
 その後十一時半過ぎに家を出た。離れの机の上に「このまま帰ります。誠二」と書き置きを残した。これも届け出制だ。

  五

 H駅には正午過ぎに着いた。古ぼけた駅舎の傍らに大きな柿の木があり、実が赤く色づいている。昨日は暗くて気づかなかったので、妙に驚いた。家の裏にもフユ柿がある。実っていたら食べられるので、しまったと思った。朝から全く見上げることなく家を出てきた。それも不思議だった。

 僕はがらんとした待合室に入った。まだ一時間以上待たねばならない。ベンチに座って昨日、今日のことを考えた。そして、今度の帰省は失敗だったと思った。しかし、反論の言葉もすぐに浮かんだ。
 何が失敗だと言うのか。親に相談したいことがあって帰ったわけでもないだろうに。ただ、言葉を交わせばいろいろ話をしたに違いない。新郵便局の宴会とは思いもしなかった。結局、父とは会えずじまいだ。

 やがて列車が到着して客が数名降りた。乗り込む客は僕を含めて三人だけ。僕は車両の真ん中辺りまで入り、進行方向に後ろを向く形で座った。車内は半分ほどの入りだった。
 出発するとすぐ車掌が通ったので、O市までの切符を買った。その後はうつらうつらしながら時間を過ごした。

 四十分ほど走ってY駅に止まると、後部ドアから四人の親子連れが入って来た。子どもは小学校一年生ぐらいの男の子と四、五歳ほどの女の子。そして、乳飲み子の三人。母親らしい女性が赤ん坊を背負って荷物を持ち、男の子は女の子の手を引いていた。

 四人は僕のボックス席から二つ離れた所に入った。男の子と女の子は背もたれの陰になり、女性は赤ん坊を抱いて通路側に腰掛けた。僕も通路側だったので、僕と彼女は斜めに向き合う形になった。

 子どもの年格好から考えると、女性は三十歳前後だろうか。黄色のワンピースを着て髪が長く、華やかな感じの女性だ。僕は一目見て美しい人だと思った。子どもがいなければ、二十歳前後と思っただろう。

 子ども二人は菓子をねだったり、互いにちょっかいを出したりと落ち着かない。時折奇声も発する。女の人はそれに対してやさしく、時に厳しく対応していた。それを見る限り、母親に間違いなさそうだ。
 その後も彼女はバッグからまだ緑色のみかんを取り出して二人にあげたり、柔らかそうな菓子を赤ん坊に食べさせたりと忙しい。

 僕はちらちら見ながら甘い気分を感じた。その女性もときどき僕の方を見ているような気がした。目が合うこともあった。しかし、知らない女性だし、じろじろ見ては失礼だ。そう思って僕はできるだけ窓の外の景色を眺めるようにした。そのうちまたうつらうつらし始めた。

 二十分ほどしてふと目を上げると、その人が僕の方をじっと見ていた。僕はどぎまぎした。しかし、彼女はすぐに目をそらし、また子供の世話に専念した。その後こちらを見ることはなかった。
 僕は知っている人だろうかと思った。どこかで見たことがあるような気もした。だが、思い出せなかった。

 やがて車内アナウンスがO市まで残り四駅となるKが近いことを告げた。母子四人はどうやらそこで降りるようだ。彼女は赤ん坊を席に寝かせ、立ち上がって棚から荷を下ろし、子供たちにも降りる準備をさせ始めた。僕はその様子をのんびり眺めていた。

 すると、彼女は手にみかんやお菓子を持ち、突然僕の方にずんずんやって来た。
「せいちゃんでしょ? やっぱり。これ食べて」
 彼女はそう言ってみかんや菓子を差し出した。

 その瞬間その人が幼稚園の先生だったことを思い出した。
「あっ、河合先生ですか?」
 僕は両手を広げてみかんや菓子を受け取りながら言った。
「ええ。今日はネ、子供達を連れてKまで行くところなの。お元気?」
「はい。元気です」

 河合先生は美しい笑顔を見せながら、早口で「今どこに? 高専? 高専の一年生? あらそう。勉強家になったのね」など矢継ぎ早にいろいろなことを聞いた。僕も早口で答えた。向こうでは子供二人が席の陰から不安そうにこちらをのぞいていた。
 時間にして一分ぐらいだろうか、先生は「それじゃあ、お元気で」と言って足早に子供達の方に引き返した。僕も「さようなら」と言った。

 列車が駅に着くと、先生一行は慌ただしく降りて行った。男の子は母と妹の手を握り、振り返りつつ歩くので、僕は手を振った。それから窓の外を見た。しかし、彼らの姿を見つけることはできなかった。

 数分後列車は出発した。僕はまだどきどきしていた。こんなところで幼稚園の先生に会うなんて。しかも彼女は三人いた先生の中でもっとも若く美しい人で、僕が一番好きな先生だった。僕自身彼女から可愛がられた記憶もある。

 幼稚園は小学校と同じ敷地内にあった。だから、僕が小学校に行ってもしばらく先生の姿を見かけた。しかし、いつだったか覚えていないけれど、退職か転勤で河合先生はいなくなった。それ以来の再会になる。

 僕が幼稚園のころ先生は何歳だったか、現在いくつなのかわからない。今思えば、河合先生は昔とあまり変わっていないような気がする。
 僕の心理をたどるなら、最初見たとき、幼稚園の先生ではないかと思った。だが、すぐに違うと打ち消した。それはあれから約十年経って、もし河合先生だったら、もっとおばさんになっているだろうと思ったからだ。

 振り返れば、最初の直感が当たっていたことになる。逆に自分はかなり変わっただろうに、先生はよく気づいたなと思う。面影があったのだろうか。
 列車は終点のO駅に近づいていた。僕はもらった菓子とみかんを食べた。まだ緑色のみかんは固くてちょっと酸っぱかった。

 列車が駅に着くと、僕はしばらく本屋で時間をつぶした。明るいうちに帰りたくなかったし、寮の夕食も食べたくなかった。それに中心街に出たときは基本的にトリ天定食を食べることにしている。入学直後に兄が「ここのトリ天はうまいぞ」と教えてくれたレストランがTデパート裏にある。それ以後外出すると、必ずと言っていいほど食べていた。

 それからレストランでトリ天定食を食べ、外へ出たときはすでに暗くなっていた。肌寒い風が吹いている。今日のトリ天はあまりおいしくなかった。もう飽きたのかもしれない。
 バス停付近では多くの人がバスを待っている。僕も高専方面に行くバスを待ちながら、何となく心細さを感じた。家なんか帰ったってしょうがないと思った。

 そのとき後ろから肩をたたかれた。振り向くと松下がにこにこしながら立っていた。
 まさかここで会うとは思わなかったので、僕はちょっと動揺した。結果的にうそをついた形になる。
 僕は内心を悟られないよう、大げさな口調で言った。
「おお。これはまた奇遇。ずいぶん長く家にいたんだな。やっと御帰寮か」
「お前こそ。なんだ、映画でも見に来たのか」
「ああ……うん。いつもの映画鑑賞さ」
「何を見たんだ?」

 僕はとまどいつつ、先日一人で見た「赤頭巾ちゃん気をつけて」のことを話した。昨年芥川賞となった庄司薫の同名小説が映画化され、評判だった。
 松下はまだ見ていなかったようで、ふんふん言いながら聞いていた。正直に打ち明けられず、僕はさらにうそを重ねてしまった。
 それから二人してバスに乗り込んだ。松下とは席が離れたので、言葉を交わすことはない。僕は外の景色を眺めながらほっとした。

 バスはしばらく市街地を走る。デパートのネオンサインや、街灯の光がまぶしい。やがて郊外に出て高専に至る台地の坂を上る頃、人家が途切れ、周囲は真っ暗になった。あと数分で寮に着く。
 僕は「こんなことだから俺はだめなんだ」と思ってしきりに自己嫌悪にとらわれていた。

 一週間程して母から手紙が届いた。《挨拶回りから帰ったら、お前がいなかった。遊びにでも行ったのかと思ったけど、なかなか帰ってこないので心配した。夕方離れに行ったら、机の上に「このまま寮に帰ります」と書かれたメモを見て涙が出た。何か話があったんじゃないのか。ごめんね》と書かれていた。
 僕は「別に話があったわけじゃないのに」とつぶやいて手紙を引き出しに放り込んだ。 (了)


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:新型コロナワクチン接種が広まり、方々で接種ミスやワクチンの保管に失敗して廃棄などと報道されています。スタッフの能力不足ではない、急がせるからだと思います。ゆっくり確認できる時間が与えられない、「早く、たくさん」と急かすからミスが起こる。何のために急がせている? そりゃあ、オリパラ実施のためでしょう。その後の選挙のためかもしれません。重篤な事故が起きないことを祈っています。
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「一読法を学べ」  第 53 へ (6月15日発行)

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