カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第53号

提言編U 新しい教育システムの構築

 8「牛後だった高専時代」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 53号

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           原則隔週 配信 2020年6月15日(金)



 今号は鶏口牛後の「牛後だった高校(高専)時代」についてエッセー風に語ります。
 このことわざ元々は大国のお尻でいるより、小さくとも一国の主であれという意味です。私の場合は中学校でほぼオール5だった田舎の優等生が高専に入学して牛後だと痛感させられたことを表しています。その一端を前号『高専一年生の秋』として紹介しました。

 よく言われる言葉に「子供が発する危機のサインに気づきなさい」があります。
 取り返しのつかない事態になったとき、「なぜ気づかなかったんだ」と非難されたり、気づけなかった自分を責める親御さんもいらっしゃると思います。

 しかし、親だって年がら年中子供を注視しているわけではない(でしょう)。兄弟姉妹、友人にしても、まず自分の生活があり、それから他者のことを気にかける。学校の先生はクラス全体を見ているので、一人一人の悩みに気づきにくいものです。

 それに子供は自分の危機を自覚していないことが多い。もしくは自分が抱える悩みを「人に知られたくない」と思えば、悩みを打ち明けないし、危機のサインなど出しません。「親に心配かけたくない」とはしばしば聞く言葉です。そもそも自分の言動が危機のサインだと思いもしないのではないか。

 私がそうでした。高専一年秋のある日、実家に帰り翌日黙って寮に戻った。書置きを残したから心配しないだろう。当時はただそれだけのことと思っての行動でした。
 しかし、父と母はそれを危機のサインと受け取ったようです。数日後父は電話を寄こし、私は「高専が合わないかもしれない」と漏らした。父はその後ある行動を取りました。
 母は手紙に「書置きを見て涙が出た。ごめんね」と書いていた。それは母が私に出した初めての手紙でした。そして、兄は11月の大学祭の時私を「遊びに来い」と大学(寮)に呼びました。
 後から振り返ると、家族三人はそれぞれのやり方で私の《危機》を救ってくれました。卵の殻を破ろうともしなかった私は外からつつかれることで、ようやく卵を割って出ることができた……そう思っています。

 今号は中学校の鶏口から牛後に落ち、「何のために勉強するか」がわかってがらりと変わった高専三年間について語ります。
 なお、次号は高専三年のとき書いた短編小説をもう一つ紹介します。

 [前々号] 51  高校入試の廃止について(後半)

 [前 号] 52  小説『高専一年生の秋』

 [今 号]53 8 高校入試廃止について(後半続き)
 牛後だった私の高校(高専)時代

 [次 号]53 小説『一九七二・五・一五』


 本号の難読漢字
・所謂(いわゆる)・詰問(きつもん)・極(きわ)めつけ
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』提言編U 53

 新しい教育システムの構築 8

 高校入試廃止について(後半続き)

 8 牛後だった私の高校(高専)時代

 まずは前号高専一年時のことを書いた『高専一年生の秋』について。
 もちろん私小説ですが、いくつか事実の再構成があります。一つは工場実習で鉄成型をやったのは高専入学直後の四月から五月でした。私の実習は[鉄成型→鍛造→鋳造→木工→旋盤]の順でした。

 この中では鉄成型が最もしんどく木工や旋盤は簡単と言うか身体の負担は全くなかった。鉄成型に悪戦苦闘して「自分は不器用だ。エンジニアになる能力がないのではないか」と思ったのは入学当初からでした。
 もう一つは帰省した翌日両親に黙って寮に戻ったとき、汽車の中で幼稚園の先生と再会したこと。これもほんとにあったことですが、同日ではなく他の帰省のときでした。なぜ取り入れたかは読者の解釈にお任せします。

 また、ごく短い作品ゆえ書かなかったこともいくつかあります。たとえば、入学してとても楽しかったことは書いていません。
 それは映画です。中学校までいた町に映画館はなく、隣町の小さな映画館に行くしかなかった。それも最新作は都市部の一年後に上映されるような映画館でした。私が一人で見た作品で覚えているのは『卒業』と『ミクロの決死圏』と『猿の惑星』くらい。

 それがO市に住むことになって劇的に変わりました。市内には映画館が(成人映画専門館を含めると)七、八軒あり、ほぼ違う映画が上映されていました。
 寮に入ったことで、父は私の小遣いを中学校時代の10倍に増やしてくれました。私は土日になると、毎週のように映画館通いをしたものです。卓球部に入部しながら退部したのも土曜(午後)や日曜の練習がいやだったからです。

 また、別の楽しいことでは初恋が(文通という形で)成就したことでしょう。別のところ(狂短歌エッセー「半年の文通」)で書いたように、中学校三年間同じクラスだった女の子と四月末くらいから文通を始めました。それは十月まで続き、夏休みには隣町の喫茶店で再会したり、交通事故にあったと聞いて病院に見舞いに行ったことなど、振り返って「あれが初恋だった」と思ったものです。

 それと長くなるので書かなかったのは寮生活の実態。今は違うようですが、当時1、2年生用の寮は2棟あって一室4名でした。ところが、第1寮だけ妙なつくりで、ベッドのある寝室は間に(タンス付きの)壁があるのに、机が置かれたスペースに仕切りはありませんでした。つまり、勉強するときは3室12名が顔を合わせることになります。

 それが東側と西側に3室、中央は6室連なっていました。つまり、ほぼ12人から24人の集団生活でした。1年の前期は3室毎に上級生が指導役として1名入っていました。
 私は3階の東ブロックに入りました。三人のベッドに真新しい布団が敷かれているのに、一つだけ薄汚れたせんべい布団があるのでびっくりしたら、それが3年生の布団でした。この人から高専のことなどいろいろ聞いたものです。

 集団生活のいい点は予習復習でわからないところを誰かに聞けること。悪い点は一人か二人がだらけたり雑談を始めると、つられて集中力が保てないことでした。月に一度くらいミーティングがあって問題点を話し合った記憶があります。
 各部屋にテレビはなかったし(個人のラジオ持ち込みは可)、勉強の習慣がある連中が集まっていたので、夕食や風呂を終えた午後7時くらいから(点呼が10時、消灯11時)寝るまで、だいたい予習復習をしていました。しないと授業についていけないくらい進度が早かったし、テストで59点以下は不可となり、不可の科目が2つあると留年――と聞けば、勉強せざるを得ない状況でした。

 二期制の高専は中間テスト(6月半ば)と期末テスト(9月末)がありました。
 テスト前一週間部活動は中止、寮も消灯がなくなり、午前1時とか2時まで試験勉強をしたものです。各棟の中間にガスや台所のあるバラック小屋があり、簡単な調理ができました。テスト勉強中は腹が減るので、よくラーメンを作りに行ったものです。

 10月から後期になると、寮も入れ替えがあって1寮2寮は1、2年生の混在となりました。一室4名の半分は2年生、半分は1年生でした。
 私は一室が完全に仕切られた2寮に移ったけれど、これが新たな悩みの種となります。部屋がたまり場のようになって上級生と浪人した1年生が集まり、中には喫煙する者まで現れたからです。もちろん学校も寮内も飲酒喫煙厳禁。

 私はタバコの匂いが嫌いだったし、所謂「ワルの雰囲気」に染まることはありませんでした。これも担任や寮母を含め、誰にも打ち明けることなく、高専をやめたいと考えるようになった理由の一つです。

 その他のことはほぼ書かれた通りです。当時の三科のうち電気科と土木科は定員40名で、機械科だけ80名でした。入試の倍率はみな3倍前後で、偏差値60の私の成績では機械科も40名だったら、合格しなかったと思います。
 小説で書いたように、入学して周囲の《優等生》ぶりを知ることになります。クラスには英検準2級の男子が一人いました。外人教師の英会話授業で、彼は普通に英会話ができました。私を含めて他の生徒は先生の英語を全く聞き取れないのに、彼だけは聞き取れて喋れる。彼の発音は先生と同じ。私は中三のとき郡の英語暗唱大会に出ました。しかし、自分の発音はネイティヴではないと思い知らされ、レベルの違いに愕然としたものです。

 また、数学とか英語などどんどん進みます。今でもよく覚えているのは数学の授業で、突然数名が指名され、前に出て問題を解くことになったときのこと。私一人できずに立ち往生しました。因数分解の単元でした。

 例えば、A [X二乗+7X+12]を因数分解しなさい――ってやつ。

 これ「足して7になり、掛けて12になる数を見つけて( )二つに分ける」と答えは(X+3)(X+4)。

 先に展開からスタートすると答えに達します。
 (X+3)(X+4)=X二乗+3X+4X+12
 =X二乗+(3+4)X+3×4=X二乗+7X+12

 だから、「Xの前は足して7になる数であり、最後は掛けて12になる数。つまり、3と4が出てくる」わけです。
 これが[X二乗−X−12]なら、足してー1、掛けてー12になる数、つまり+3とー4だから(X+3)(X−4)となります。

 後から考えれば、どうしてと思うほど、この簡単な問題が解けませんでした。たすき掛けの意味がわからなかったのです。
 そのとき白髪が目立つ五十代の先生は30分ほどかけてやさしく丁寧に説明してくれました。それはありがたかったけれど、さらし者になったようで、クラスメイトの「なんでそんな簡単なことがわからないんだ」といった視線を感じたものです。
 自分の力のなさを痛烈に意識し、入試はきっと最下位で入ったに違いないと思い知らされた――敢えて言えば「事件」でした。中学校までに獲得したものはことごとく崩れた気がして「崩壊」を日記に綴りました。五月ころのことです。

 ただ、現在の感想はちょっと違います。
 優等生は理解し納得しなくても、解法を覚えて答えを導き出すことがあります。だから、予習さえしていれば正解に達します。私はどうもそういう勉強をやめようと考えたようです。自分が納得するまでは「わからない」と言おうと。

 なぜそのように考えたか。五年制の高専に入ってもはや大学入試を意識する必要がなかったからです。中学校三年間の勉強は丸暗記してテストで満点か最低でも90点以上を取ることだった。だが、その勉強では偏差値60にしか達しない。時間が経てばどうしても忘れてしまう。普通校に進学して大学受験を目指すなら、同じ勉強をするだろう。しかし、高専の卒業後にあるのは工業系の企業に就職してエンジニアになること。だから、丸暗記の勉強では何も身につかない。そう考えて「わかった」ふりをやめることにしたのです。

 高専は力試しの受験であり、将来エンジニアになる希望は持っていなかった。それでも(自分で言うのもなんですが)私は真面目な15歳だったと思います。入った以上、心底身につく勉強をしてエンジニアになるべきだ、と考えていたようです。
 しかし、他の優秀な連中に比べれば、自分は不器用だし、飲み込みも悪い。高専は合わないのではないかと考え始め、やる気がわかず、授業でよく居眠りをするようになった。それが夏休みを経た九月から十月ころのことでした。

 当時の私は悩みを内に抱え込む生徒だったので、誰にも悩みを打ち明けませんでした。小説に登場した電気科の松下君はよく同じ列車で帰省する仲だったけれど、彼は望んで高専に進学し、エンジニアを目指すことに何の疑問も持っていなかった。だから、彼にも打ち明けることはありませんでした。

 さて、これから私の危機を救ってくれた兄、父、母のことを語りたいと思います。ただ前置きで書いたように、私はあの頃の自分が危機だと自覚していませんでした。
 親に何の連絡もせずに帰省したら、郵便局長となった父親の新局舎落成記念の宴会が行われていた。私はどんちゃん騒ぎを聞きながら離れで寝た。そして、翌日高専に戻った。それだけの話で、そこにどんな意味があるのか。なぜ突然帰省したのか、なぜ黙って寮に戻ったのか。そのとき理由を聞かれても答えることができなかったでしょう。当時の私にとってあれは危機のサインでもなんでもなかったのです。

 しかし、両親と兄はそれを私の危機だと思った。父から連絡をうけたのでしょう、兄は11月の大学祭に私を呼びました。そして、兄の部屋で一晩中語り明かしました。
 大学2年生の兄は自治会の執行委員になっており、開口一番「今自分はとても充実している」と言ったことを覚えています。

 ただ、兄に対しても高専が合わない気がするとか、寮の部屋がたまり場になっていることなどは打ち明けませんでした。私が漏らしたことはただ一点、「自分が何のために勉強しているのかわからない」という悩みでした。

 この問いに対して兄の答えはとても単純でした。
 他の人にとってはたいして重い言葉ではなく、誰でも言っていることかもしれません。
 しかし、当時の私には兄の言葉が深く刺さりました。

 出し惜しみしないで答えを言うと、兄は「自分のために勉強している」と言ったのです。誰のためでもない、自分のために勉強するんだと。
 何をしたいか、何を目指して生きるか。それがわかるためにはいろいろなことを知らなきゃならない。社会の仕組みとか、人間のこととか、日本の歴史や近現代史、世界の歴史・経済・法律……とにかくたくさんのことを知らなきゃならない。
 それらを知った上で、やっと「自分の生き方とか、自分がやりたいことに気づくんだ」と言いました。だから、「今やっている勉強はあくまで自分のためだ」と言ったのです。

 それを聞いたとき、私はあることに気づきました。それまで自分のために勉強していなかったことに。
 私の勉強はテストで百点を取るためだった。高校入試に合格するためだった。その先はなかった。父や母に誉められたくてやっている勉強だった。あるいは、オール5の兄と競り合うための勉強だった。私の勉強は《自分のためにやっている勉強ではなかった》と初めて気づきました。

 兄の言葉は別の面でも意外でした。彼は中学校のころから「小学校の先生になりたい」と言い、高校も普通科に行って大学を目指し、教育学部に進学しました。
 私は兄がやりたいことを決め、目標をもって生き、その道に突き進んでいると思っていました。ところが、大学生になっても「何をしたいか、何を目指して生きるか。それを見つけるために勉強する」と言った。兄は小学校の先生になるために勉強するんだ、とは言わなかった。
 それは大学四年間の勉強次第では、この先別の進路を選ぶかもしれない、その可能性があることを意味します。

 高専に入学した以上、自分の将来はエンジニアになること、5年で卒業してどこかの企業に就職すること。自分にはその道しかないと思っていました。しかし、他の道もある。兄は「いろいろなことを勉強して自分がやりたいこと、なりたいことを見つければ、他の道に進んでもいい」と教えてくれた。言い換えれば、今は迷っていいんだと。
 これはとてもありがたいアドバイスでした。ちょっと大げさながら、目の前の霧が一気に開けたかのような気持ちでした。

 私は兄と話し合って劇的に変わりました。やっと何のために勉強するかわかったからです。あれだけ眠かった授業も眠らなくなりました。特に国語とか歴史(日本史)が面白く感じるようになり、兄に勧められた哲学の本も読み始めました
 ちなみに、このとき初めて白帯の岩波文庫を買って読みました。エンゲルスの『フォイエルバッハ論』で、とても薄い本なのに1頁読むのに1時間かかりました。知らない漢字ばかりで、いちいち辞典で確認して余白に意味を書き込んだからです。
 振り返れば、それは一読法のやり方でした。誰に聞いたわけでもないのに、本格的な読書を一読法で始めたのは不思議なめぐりあわせだと感じます。

 ただ、理数とか、工業系の科目はイマイチだったし、実習も相変わらず下手で鉄成型の後は鋳物でかなり苦労しました。しかし、高専が合うか、合わないかはやってみなければわからない。そう思って全て本気で打ち込みました。

 寮の部屋がたまり場になった件はどうしようもなかったので、同じ階に自習室として用意されていた空き部屋(机も4つ)に布団を持ち込み、勉強と就寝はそこでやるようにしました。部屋に元からいる三人は私の行動を許してくれました。
 これは届けさえせず無断の行動でした。ある夜見回りに来た先生から「どうしてここで寝ているんだ」と詰問されました。事情を話すと、先生は私の部屋に行き、喫煙の現場を目撃したようです。それ以後翌年3月まで私の自習室暮らしは黙認されました。

 その後十二月になって父親が独断専行の事件を起こします。高専から地元の普通高へ移れるよう、転校手続きを進めたのです。私の了解を取ることもない勝手な行動でした。
 十月末に父から電話があったとき、高専は合わないかもしれないと漏らした。父はそれだけで行動を開始したようです。私をよく知っている中学校の教頭先生と相談して二人で隣町の普通高に行き転校をお願いした(と後日聞きました)。

 当時高専から普通科への転校はカリキュラムが違うので、一年終了後二年に入ることができなかった。転校できても同級生より下の学年になる。しかし、父がお願いしたら、校長先生は高専生なら能力が高いし、二年に入ってもやっていけるでしょうと許可してくれた――と父は言いました。

 十二月末に帰省したとき、「来年転校できるぞ」と聞いて私は怒りました。何、勝手なことをするんだと。そのころ私は次第に勉強が楽しくなっていたし、当分高専でやるつもりでした。だから、普通高への転校なんて考えてもいなかった。当時は父の独断専行をなじったもので、結局、転校話は白紙になりました。

 私は三年終了後高専を中退して文系の大学に進路変更しました。三年間自分のために勉強してみて、私がやりたいことはこの先にないと思ったからです。それがはっきりしたので、文系の歴史か国文学に進みたいと思い、両親も兄も賛成してくれました。

 もっとも、文系科目に比べて理数系・工学系の科目は進級するほど成績不振に陥り、2年の時「機構学」で(学校人生初の)0点を取り、物理もひどい点数。原書(英語)の「材料力学」では強度の計算に微分積分を使う――あたりでちんぷんかんぷん。追試やレポート提出で辛うじて不可を免れるようなありさまでした。

 極めつけは3年の工場実習で歯車を作ることになったときのこと。
 作業自体は大型機械を使うのでとても簡単。決められた数値を入力すれば、機械が勝手に大小二つの円盤を削って歯車を作ってくれます。だから、これも鼻歌気分で眺めていればいい。
 これは二人一組の担当でした。そのとき私が「なぜこの数値を打ち込めば、歯車がうまく噛み合うのか、理屈が全くわからないんだ」と言うと、相方は「そんなのわからんでもいい。数値さえ入れればできるんじゃから」と言いました。
 これが最後の引き金となって高専継続をあきらめました。

 私はずっと高専一年時の危機を救ってくれたのは兄だと思っていました。しかし、もっと後になって父も母も私を救ってくれたとわかりました。
 それは母の手紙だし、父の強引な転校手続きです。当時母の手紙は私を動かさなかった。父の行為は私の意志を確認もしないで勝手にやって迷惑なことだと思った。

 だが、二人とも私のことを心配したから行動してくれた。母は涙を流した、ごめんねと手紙を書いた。振り返るたびに母は私のことを心配してくれたんだとわかります。
 大げさに言うと、私は父と母、兄からとても愛されていたことがわかった。あのころ私が求めていたのはそれだったのかもしれません。

 私は高専に行ったから、理系・工学系が自分に合わないとわかりました。もしも高専ではなく地元の普通高に進学してテストで百点を取るため、大学に合格するための勉強を続けていたら、私は理系か工学系の大学を選んだかもしれません。数学は好きだったからです。それを思うとぞっとします。

 高専に行ったから自分の適性がわかったとも言える。それに、その後の二年間は高専生活を思いっきり楽しみました。受験勉強は三年の後半になるまでやらなかったし、二年になってから松下君と一緒に軽音楽部に入りました。吹奏楽部とは別のジャズバンドでベースを担当しました。ギターの素地があったのでベースは簡単で、またいくつかポップな曲をアレンジして演奏してもらうこともあり、とても楽しかったものです。

 大学入試は理系から文系への進路変更になるので、さすがに現役では合格せず、一年間予備校生活を送りました。しかし、高専の三年間はとても充実していたと今でも思っています。

 以上です。

 私は「高校入試を廃止して中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」ことを提言しています。この提言の最大理由は自分の中高6年間の体験からです。
 読者の中には「それによって空いた時間はどうする。子どもは遊んでばかりいるんじゃないのか」と批判されるかもしれません。

 もしも入試がなくなり、中高のやらなければならない勉強が半減すれば、空いた時間は自分のための活動を始めることになります。
 運動系、文科系の活動であろうが、遊びと見なされる活動であろうが、それは自分がやりたいこと、得意なこと、好きなことです。それに没頭することで「もっとこの道に進みたい、極めたい」とか、逆に「どうも面白そうだと思って始めたけれど、イマイチだから別のことを始めよう」と進路転換する。これを6年間でやるのです。

 大人はしばしば「早く自分のやりたいこと、目標を見つけなさい」と言います。
 もちろんそれを小学校高学年、中一の段階から見つけて進める子供はそれでいい。しかし、なかなか決められない子供も多いはず。少なくとも私はそうでした。
 中学校3年間で将来の道を決められなかった。高専に行って「この道は自分には合わない」と思い、(大学入試を意識しないだけ)映画をたっぷり見て好きな小説や書物をたくさん読んだ。あるいは友人と社会や政治など様々なことを議論することで、だんだん進みたい道が見えてきました。そして、進路転換を決めました。その余裕を十代前半に与えてほしいと思うのです。

 最後に(敢えて書きます)、空き時間を多くしても、ろくなことをしないと批判される方は「空いた時間に自分の好きなこと、やりたいこと、そのための勉強をしたことがない」人ではないか。
 だから子育てを終え、仕事をやめ、老年という第二の人生に差し掛かったとき、「空き時間をどう過ごしたらいいかわからない」人が続出するのではないでしょうか。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本節を読んで次のような感想と言うか疑問を抱かれたかもしれません。
 本節前半は『高専一年生の秋』の内容がほぼ繰り返されている。後半の家族によって救われた話がメインの話題だ。そこも小説にした方が良かったのではないか。「なぜ小説にしなかったのだろうか」と。

 しっかりじっくり一読法で読んでくださったと感嘆します。
 答えはこうです。実は『高専一年生の秋』は今から数年前当時の日記を元に書いていた作品です。その後半に11月から12月のこともあります。今回それを読み直して「この表現では当時の気持ちが描けていない」と感じました。それが満足できる作品なら、そのまま公開したでしょう。満足できなかったので、エッセー風、解説風に書き直した次第です。

 もう一つ。因数分解の話のところで「そんなこともできなかったのか」と馬鹿にされそうなので、「いやいや、結構難しいんですよ」との気持ちを込めて別の例題を紹介します。
 次の問題はどうでしょう。簡単に解けますか。

 例題B [3X二乗+5X−2]

 これは「たすき掛けのやり方」と題したサイトに出ていた例題です。
 この答えは「足して5になり、掛けてー2になる数」ではありません。X二乗の前に定数があると、たすき掛けのやり方が変わるのです。
 この問題が何の前触れもなく突然出題されたら、そりゃあできませんて(^_^;)。
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「一読法を学べ」  第 54 へ (6月22日発行)

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