【その12】 狂短歌
「西安宵の明星旅」連載12回目です(^_^)。
○ 帰国後に翡翠を調べ 驚きの答えを得たり 謎解けたかも
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(^O^)ゆとりある人のための10分エッセー(^O^)
七月十一日最終日。西安空港でホーさんと別れて離陸。上海で帰国の便に乗り換え、成田に着いたのは午後三時ころだった。M氏の車で帰路に就き、私は満ち足りた気分で帰宅した(^_^)。
友人に西安旅行を報告するメールを書きながら、充実した五日間を振り返った。
帰宅後すぐいくつかの疑問点をインターネットで検索した。思いがけない発見があった。
私は出発前空海に関連して長安では明けの明星を見たいと思った。だが、今の時期は宵の明星だと知って正直がっかりしていた。
ところが、帰国後ネットの「世界の明星」サイトを見て空海が長安に入った西暦八〇四年は宵の明星だったと知った。出かける前に調べなかったのはうかつだが、意外なことだったので、ちょっとびっくりした。
空海の長安入城が宵の明星であるなら、私も同じ時期に長安を訪ねたことになり、この時期の長安旅行はベストの選択だったことになる。またも自ら意識しない偶然が起こっていたことになり、面白いと思った(^_^;)。
☆ 青龍寺の空海と恵果和尚
空海の乗る遣唐使船は八〇四年の八月、福州の沿岸に漂着した。そして十一月三日福州を出発し、十二月二十三日長安に到着している。この旅の途次、空海はずっと西の空に宵の明星を見ながら歩いたことになる。
だが、空海はそのようなことを何も記していない。それだけでなく、長安滞在時の日記さえつけていない。空海に遅れること三十四年(八三八年)、天台宗の円仁が遣唐僧として長安を訪れている。円仁は『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)を著し、詳細な長安、中国滞在記を書いた。それに比べると、空海はほとんど私的記録を遺していない。
考えてみれば、あれだけ多数の仏教書を著しながら、自らの私的記録を全く書かなかったのは不思議な気がする。いや、書いたけれども焼き捨てたかもしれない。もっと推理するなら、書いて残したけれど「決して公表してはいけない」と言い残した可能性もある。
そんなわけで、私は空海が長安を訪ねたとき、それが宵の明星の時期であると知らないままだった。
彼が初めてあの巨大な城壁のある長安を前にしたとき、西の空には宵の明星が一つくっきりと浮かんでいたことになる。それは私が長安のホテルで見た宵の明星と同じなのである。私にはその重なりが新たな感動としてよみがえってきた(^_^)。
☆ 西安の宵の明星
また、翡翠についてインターネットで調べてみた。
青龍寺でホーさんに「中国で金以上に価値のあるものは」と訊ねた。
そのとき彼は「翡翠ではないか」と答えた。
こちらも調べてみると、意外なことがわかった。
宝石の翡翠はジェダイトという純粋で高価な「硬玉(ヒスイ輝石)」と、ネフライトという「軟玉(透閃石・緑閃石系角閃石)」の二種類に分かれるらしい。似ているが両者はまったく別の鉱物だ。中国でお土産として売られていた翡翠はほとんどネフライトであり、ジェダイトは全く産出されないらしい。
☆ 翡翠の製造販売店入り口
相当突飛な空想だが、空海がもし父親か母親あたりから翡翠の勾玉を譲り受けていたとするとかなり面白いと思った。
司馬遼太郎によると、空海佐伯家はかつて東北から四国讃岐へ流れてきた蝦夷(えみし)の末裔だったろうという。そして空海の父は讃岐で郡司となった。つまり、彼らはかつて蝦夷の実力者だった。
これが事実であれば、空海の父が勾玉(まがたま)を先祖代々の宝として保持していた可能性は高い。
思うに、空海が入唐を前にして母親に今生の別れを告げたとき、母親が先祖代々のお守りとして「これを持ってお行き」と息子に勾玉を手渡したかもしれない。
そのとき空海はありがたく受け取りながら、中を見て「なんだ石か」とその値打ちをあまり感じなかったに違いない。
というのは、空海の時代勾玉(まがたま)は、日本で忘れられた宝石となっていたからだ。
たとえば(これもネットの記述だが)「魏志倭人伝」には卑弥呼の後継者が魏の国を訪朝したとき、使節は貢ぎ物として「青大句珠二枚」――つまり翡翠の勾玉を二個献上したとある。
このとき使者は五千個もの真珠を献上しながら、勾玉はたったの二個しか贈っていない。それほど日本で貴重なものだったことがわかる。いわんや硬玉の翡翠を算出しない中国ではもっと価値が高かっただろう。
だが、日本の勾玉は七世紀末まで宝物として珍重されていながら、その後歴史からばったり途絶えてしまう。八世紀――つまり西暦七〇〇年代には歴史書から翡翠や勾玉の記述が全く絶えてしまうというのだ。
となると空海が唐へ旅立つ八〇四年ころ、翡翠の勾玉は宝物としての価値が忘れられていた可能性がある。
そのとき空海の父はすでにないが、母は健在である。
空海は唐へ旅立つ直前、永久(とわ)の別れと思って故郷の母を訪ねただろう。
母も今生の別れと思い、息子に「お守りとしてこの勾玉を持ってお行き」と言って渡した。
だが、空海は「なんだ石のかけらか」と思い、それでもお守りだからとありがたく受け取った――そのような情景が想像できる。
そして入唐後密教継承をなしとげ、披露宴として莫大な費用が必要だと言われたとき、空海は困り果てた。
持参した金子ではとても足りない。
同輩僧から「何か宝石のようなものは持っていないのか」と聞かれ、空海はお守りの勾玉を出して見せる。
同輩僧は「おい。それはもしかしたら王家しか持たないという翡翠の勾玉じゃないか」と言う。
空海は「いやあ、宝石じゃないさ」と笑ったが、試みに宝石商に見せた。
宝石商は一目でその価値を見抜いたに違いない。
彼は目を見開き「これは……何千両もの価値があります」と答えたとしたら……
そのとき空海はきっと父母と祖先への感謝に打ち震え、自分の夢の実現にさらに自信を深めたことだろう。
単なる石かと思っていた翡翠の勾玉。それは密教継承の披露宴費用だけでなく、種々の仏典・仏画製作費用として充分だった……。
我ながら面白い空想だと思った(^_^)。(続)
○ 帰国後に翡翠を調べ 驚きの答えを得たり 謎解けたかも
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:『西安宵の明星旅』は一年で完結させるつもりでしたが、もう一号「まとめ」を出したいと思います(^_^)。
ところで、世はデフレスパイラル真っ盛り(?)ですが、流されつつ、とどまりつつ、逆らいつつ、夢を追い続けようではありませんか。(御影祐)
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