ヒンドゥーのご神体リンガ(プリアカーン遺跡)

ワット驚くアンコール

また旅日記


1 出発日午前

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※ 家〜成田空港〜空路バンコクタイへ [原稿用紙21枚分] 

   @ 通風こらえていざ出発
   A 海外旅行で心がけていること
   B 偶然のワット旅行とSF小説の構想
   C 辛うじて成立したワット・ツアー



@ 通風こらえていざ出発

 三月二日土曜日、朝四時過ぎに起床。五時二十分家を出た。これからカンボジア、アンコール・ワットへ六日間の海外旅行だ。日本の出発時はまだ冬。現地カンボジアの気候は乾季だから夏。着るものに迷ったけれど、結局私は長袖のポロシャツに薄手のセーターを着て、その上に軽いブルゾンを羽織った。幸い今朝は暖かで寒さは感じなかった。左足甲の通風の痛みは治まっていて一安心。昨日は突如通風が再発、足を引きずりながらの歩行だった。今朝はJR横浜線の最寄り駅まで普通に歩いて行くことができた。
 同行するは以前高校で同僚だったゴルフ仲間のM氏。約束通りK駅で夫妻(夫人は見送り)と待ち合わせる。終点一つ前の駅でM夫人の友人が待っていた。私たちはその人の運転で成田空港へ向かう。空港には八時までに着かなければならない。
 M夫人の友人と落ち合うと、すぐ車で出発した。結構すっ飛ばす女性だった。M氏がこれまた時々あおるようなことを言う。その効き目があったかなかったか、車は集合予定の八時直前に成田空港へ到着した。空港敷地内へ入る車は警官がいちいちトランクを開けさせている。さすがに警備が厳しい。私たちは空港建物前の路上でM夫人らと別れた。
 私とM氏は出発ロビーDデッキの集合場所へ向かった。Kツーリストの女性添乗員山崎さんが待っていた。簡単な手続きを済ませ、集合時間を聞く。その後両替所で円をドルに替えた。カンボジアでは日本円は現地通貨(リエル)に両替できないからだ。一ドル一三六円。私は昨日近くの銀行で約四万円分を三百ドルに替えていた。今回のツアーは途中の自由行動が一切なく、朝昼夕全て食事が付いている。もしお金を使うとすれば、観光途中の飲み物代とかお土産くらいしか考えられなかった。だから、三百ドルもあれば充分だろうと思った。M氏とは円で十万円くらい持っていこうと相談していた。彼は八万円分計六百ドルを両替した。私も念のためもう三百ドル持っていくことにした。
 午前九時前ツアー一行十五名が集合場所に顔を揃えた。みなリタイア組のお年寄りから熟年の方々。女性が多い。たぶん一番若いのが私だったろう。すぐに出国手続きを経てANAのバンコク行きに搭乗。午前十時に成田を離陸した。
 飛行機は日本を少し離れた太平洋上を南下する。目の前のモニターが地図を映しだし、時折現在地を教えてくれる。四国沖を過ぎ、奄美大島から沖縄、そして台湾。地図上では飛行機は南西方向にまっすぐ向かっている。高度は九千メートル前後、外気温はマイナス三十五度。台湾上空に来たとき、やっと私にある種の解放感がわき起こって来た。なぜか独りでに笑みがこぼれる。いよいよ日本脱出、海外旅行開始の気分だろうか。

☆ 通風の痛みこらえてカンボジア二度目の海外心は踊る



A 海外旅行で心がけていること

 私にとって海外旅行は北京に次いで二度目になる。今回の海外旅行で私にはいくつかやりたいこと、注意したいことがあった。
 いつも旅で心がけていることは現地の人と言葉を交わすことだ。今回のカンボジアはクメール語。さすがにそれを勉強する余裕はなかった。だから、通じるなら片言英語で会話をしてみたいと思った。また、二年前二泊三日で北京を訪ねたとき、私はゲロゲロピーの下痢状態になった。その反省から今回は食事や体調管理に特に気を付けようと思った。左足甲の通風だって酒は良くない。
 それから、旅に出ると私はガイドブックの解説や写真に採り上げられた景色を可能な限り見に行く。言わば名所を確認しているわけだが、同時に自分が見て感じ取ったイメージを大切にしたいと思っている。ガイドブックに関しては賛否両論あるようだ。そんなものに頼らず、独力で歩き回り、自分だけの感じ方をつかめと言う否定的意見。だが、私はガイドブック賛成派だ。何しろ凡庸(ぼんよう)な自分としては、どうしても見所を見落としがち。だから、取りあえずこんな所があるよと書かれたガイドは嬉しい。それにガイドブックの記事や写真は、あくまで撮影者や著者・編集者の感性、意図の元に撮られ書かれたもの。特に写真は切り取り方によって大きく印象が違う。当たり前のことだが、同じ大きさで撮られているからと言って、被写体が同じ大きさとは限らない。現地に行ってみて初めてその全体像を知ることが出来る。何だこんな小さなものだったのかとがっかりしたり、逆に実物の大きさに驚嘆することがある。写真に撮られなかった所になぜか感動し、自分だけの宝物を見出すことだってある。やはり基本は「行って自分の眼で見なけりゃわからない」のだ。
 また、今回は絵はがきや小物の物売りから最低でも千円分くらいは何か買おうと思った。それは北京旅行でこんなことがあったからだ。そのときもツアー一行は日本人ばかり十数名だった。私は父と二人で参加した。そのとき我々は万里の長城や著名観光地で、しばしば現地中国人(大人)から、絵はがきや小物を「シャクエン、シャクエン」と言って押し売りされた。ガイドの中国青年は「民族の恥だ。買わないで欲しい」と言った。さらに、彼は「ちゃんとした土産物屋に連れていきます」と付け足した。私はガイドの言葉通り、それら物売りに冷たく手を振った。一つも買わなかった。他のツアー同行者も私と同じ態度だった。その後私たちはガイドが案内してくれた土産物屋でお土産を買った。そこでは店員が必ずマンツーマンで付き従う。そのしつこさたるや遺跡の物売り以上だった。見歩くだけの冷やかしなんぞ不可能だった。そして、こちらが少しでも関心を示して、いくらにまけるかと聞くと、すぐに値札の値段を下げる。私の父なんぞは一本一万円の掛け軸を買うかどうしようか迷っていた。すると、店員が二本で一万と言い、ついには三本一万円で売ると来た。父は買ってしまった。私も漢詩で有名な「夜光杯(やこうはい)」を定価の半額で買った。まけてくれるのは嬉しい。だが、そこまで行くと、一体何のための定価なのかと思った。その店は政府が保証した土産物屋だった。
 その後私たちはある大学に連れて行かれ、漢方系の有名教授による講演を聞いた。講演は健康をテーマとしたもので、それ自体は何も問題なく、いい講演だった。その後教授は特別にツアー参加者を診断してくれた。彼はただ脈を診ただけで、その人の病気を言い当てる。そして、その病気にはこの漢方薬が効くと言って、錠剤が数百個入った瓶を一つ数千円で売りつけようとする。さすがに診断された直後では断りきれず、私は二万円分、父は三万円分を買った。もちろん騙されたわけではない。だが、そのときのツアー参加者はみな中年以上の方々。誰でも一つ二つの病気は持っているだろう。そう思うとそのやり方が釈然とせず、何となく腹立たしかったことを覚えている。そんなことに数万も金を使うのだったら、あのシャクエン、シャクエンと言ってまとわりついた物売りから、絵はがきを一つでいいから買ってやればよかった――帰国後私はそう思って後悔した。少なくとも彼らは必死に正直に生きていると思った。



B 偶然のワット旅行とSF小説の構想

 最後に今回の旅ではどんな偶然が自分に起こるか興味があった。最近の私は何かしらの偶然が起こると、自分にとっての意味を考える。同じことがたまたま二度重なると、かなり深い意味があり、そこに私が必要としている答えがあると思う。三つ重なるとものすごく深い意味があり、それが自分の決断と関わっていれば、この決断は間違っていないと感じられる――などと思って偶然の出会いや出来事を楽しみにしている。
 今回も行き先がアンコール・ワットに決まったこと自体既に偶然の産物だった。昨年夏頃私とM氏はどこか海外に行こうと計画した。私は昨年三月、二十二年間勤めた高校教員を辞め、作家を目指して執筆活動に励んでいた。未だ作品発表に至っていないけれど、時間は完全にフリーだった。先にも述べたように私は二年前北京に出かけ、かなり刺激を受けたので、そろそろ二度目の海外旅行をと考えていた。一方、私より数歳年上のM氏は、勤続二十五年以上の教員に与えられるリフレッシュ休暇(年休使用による一週間の休暇)を使って、海外旅行へ行きたいと言っていた。普通なら夫婦で行くところだが、M夫人は働いており、犬も飼っているので長期間二人で出かけることができない。そんなわけで私と彼の思惑は一致し、十二月には二人でどこか海外へ行こうと決めた。だが、九月に米国で起こった同時多発テロで状況は一変した。ニューヨークマンハッタンの超高層ビルへの自爆テロ以来、飛行機による海外旅行は激減。私たちも正直びびった。ほとぼりが冷めてから出かけようということで、しばらく計画は中断状態となった。
 その後米国はアフガニスタンの空爆を開始、情勢はイスラム対キリスト教の宗教戦争のような様相を帯びてきた。イスラエル国内ではアラブ過激派による自爆テロが激増し、世界情勢はますますきな臭くなっていた。私はその頃第二作の小説を構想していた。退職後書き上げた第一作の人生論的評論は友人達に不評で、私は自費出版を諦めていた。そこで私は第二作としてタイムトラベルをテーマとしたSF小説を構想した。そして、その中にキリスト教の愛、イスラムの善、仏教の慈悲を統合合体できないか、それを含めた小説を書きたい――などと考えていた。そんな無謀とも思える構想がうまくまとまるはずもなく、小説は遅々として進んでいなかった。
 その後今年になってアフガニスタンのタリバンがほぼ壊滅した。長引くかと思われた米軍対タリバンの戦争は終わり、アフガニスタンでは暫定政権がスタートした。イスラエルは依然として危険領域だが、海外旅行は安全な雲行きになってきた。その頃M氏が本格的に海外へ行こうと言い始めた。私は相変わらず無職無収入状態だったし、作品出版の目途も立っていなかった。だから、昨年夏一作目を書き上げた時のような、押せ押せ気分ではなかった。無収入状態はいつまで続くのか。作品を出せず、出しても売れなければ、かなり生活は苦しくなる。正直節約したい気持ちだった。しかし、まだ退職金等の貯金に余裕はある。そのうち海外旅行なんぞ、行きたくても行けなくなるかもしれない。だから、今のうちに「行っておくべえ」てな気分になった。そこで熱心なM氏に乗っかるような気持ちで、海外へ行こうと決めた。
 行き先はどこでも構わなかったので、目的地の選定はM氏にお願いした。一月半ば頃、M氏からアンコール・ワットでどうだと話があった。そのとき私は「いいですよ」と返事した。しかし、内心少しだけ失望感があった。アンコール・ワットはいつか行ってみたい所ではあったが、今ぜひとも行きたい海外ではなかったからだ。
 毎年暮れ私は友人と京都や奈良、明日香を訪れる。その中で最も古い飛鳥時代は西暦六〇〇年頃。対してアンコール・ワットは一二〇〇年前後の遺跡で、日本では平安の終わりから鎌倉時代頃の遺跡になる。いわばアンコール遺跡群はエジプトやトルコ、南米インカ等古代文明遺跡ほどの古さを持たない。あるいは、ヨーロッパ巡りの教会や芸術作品の華麗さ、美しさを持たない。世界遺産に指定されていたけれど、密林に埋もれていたことで有名になった遺跡――私のアンコール・ワットに対する印象はその程度だった。しかも、M氏によると、そのツアーはアンコール・ワットだけで四日間滞在すると言う。何も知らなかった私は「アンコール・ワットだけで、そんなに見るところがあるんですか」と聞いた。M氏は「アンコール・ワットには数十カ所の遺跡があって、ゆっくり見学するとそれくらいかかるそうだ」と答えた。普通なら、タイやベトナムに二、三日滞在し、アンコール・ワットは二日くらいで見学するのだろう。M氏はそのような行程のツアーもあると言った。
 そのとき私は思った。最近の自分は向こうからやって来る偶然をほとんど全て拒まないようにしている。その中におやと思う出会いや出来事があり、そこから何らかの意味をくみ取れれば、それだけで充分だからだ。そもそも行き先はM氏に任せた。だから、文句を言う筋合いではない。たまたまやって来たアンコール・ワットだけをじっくり眺めるツアー。ならばその偶然に乗ってみよう、行ってみて何かがあればラッキー、何もなくてもそれもまた良し――私はそんな心境になった。こうして行き先はアンコール・ワットになった。つまり、今回のアンコール・ワット観光は自分で望んだと言うより、たまたまやって来た偶然に過ぎなかったのである。



C 辛うじて成立したワット・ツアー

 しかも、この旅行計画が成立したこともきわどい偶然が作用していた。M氏は年休を使用してのリフレッシュ休暇だから、三月二日から六日間しか休みを取れない。それは前にも後にもずらせない。Kツーリストによる「アンコール・ワット完全周遊六日間の旅」と題された企画は、昨年十二月冊子に発表された。それは二月から三月にかけて計二十回の出発日が設定されていた。このツアーは最低十名以上集まらねば成立しない。M氏は当然のように三月二日出発に申し込んだ。彼が一月半ば頃予約を入れたとき申込者はゼロで、私たち二人が最初の客だった。その後二月に入ってもまだ四名。どうも成立しそうになかった。だから、M氏は念のためもう一つ別企画に申し込みをしておいたほどだ。ところが、二月半ばになるとばたばたと申し込みが相次いだ。そして、すぐ限度一杯の十五名になり、三月二日出発のアンコール・ワットのんびりツアーは成立した。
 この間私はテレビで二つの偶然を見た。一月末にTBSテレビの「世界不思議発見」でアンコール・ワットが取り上げられたこと(私は見損ねたが、M氏はビデオに撮っていた)。なおNTVテレビの「電波少年」では、「アンコール・ワット、舗装への道」と題された企画が放映されていた。これはたまたま二月末に見て知った。そして、インターネットで番組内容をもっと詳しく調べてみると、それは昨年七月から既に放映されていたのだ。私もM氏も全く知らなかった。その番組はタイ方面からアンコール・ワットのあるシェム・リアップまで続くでこぼこ道を、一日一キロを目標に舗装しよう(道ならしのようだった)という内容。ちらと眺めただけだが、かなり面白そうだった。私がテレビを見たとき、道ならしは既にアンコール・ワットまで残り二十数キロに近づいていた。どうやら二月になってばたばたとツアーの申し込みが相次いだのは、この二つの番組がかなり影響していたようだ。
 私はたまたま重なった二つの番組を見て自分がアンコール・ワットへ行くことは正しい選択なのかもしれないと思い始めた。しかし、さっきも記したように、日本では鎌倉時代にあたる遺跡群は、私にとって偶然を引き起こしたり、感動やさらなる興味をかき立ててくれそうに思えなかった。ガイドブックを詳しく読んでみても、その気持ちは変わらなかった。むしろこのたまたま見出した電波少年の内容の方がとても興味深かった。あるいは、遺跡見学よりもそこを訪ねた方が、自分にとって意味ある出来事に遭遇するかもしれない。私はそんなことも考えていた。
 私は機内でM氏に電波少年のことを話した。そして、もし遺跡巡りが面白くなかったら、どこか一日を自由行動にしようと思っている。今現在電波少年の舗装工事が行われているかどうかはわからない。しかし、たぶん現地でも話題になっていると思うから、そのときは電波少年の道ならしをやっている所へ行ってみたい――そんなことを語った。


→「ワットまた旅日記」 その2





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