トンレサップ湖畔

ワット驚くアンコール

また旅日記


3 現地1日目 午前

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※ トンレ・サップ湖クルージングの衝撃? [26枚] 

   @ まだ遺跡巡り始まらず
   A シェム・リアップを走る
   B ヤシの葉葺きの小屋また小屋
   C トンレ・サップ湖
   D 湖上のみやげもの屋



@ まだ遺跡巡り始まらず

宿泊したホテル
 朝私は七時過ぎに起床した。耳栓を使っていたのでよく眠れた。M氏は朝が早く六時前には起きだしてがさがさしたりテレビを見ていた。私もその気配で目を覚ましたが、もう一度眠りに就いた。その浅い眠りの中で妙に艶めかしい夢を見た。
 ――何かいろいろあって、どこかでテレビ局の女子アナと卓球勝負をしている。ラリーを楽しんでいる感じだった。最後に私が勝った。すると、賭けか約束事でもあったのか、相手の女子アナが逃げ出した。私が追いかけると彼女は逃げながら服を脱ぎだし、最後はすっぽんぽんになった。たわわな胸が揺れていた。とうとう私は追いついて彼女をつかまえる。その豊満な肉体を抱きしめたところで目が覚めた。向こうでM氏がテレビを見ている。私の一物は元気いっぱい。それにしても、こんな異国に来て、何で夢の相手が日本の女子アナなのか。何であんなに豊かな胸だったのかと不思議な気がした。
 窓の外はやや薄曇りの空。このホテルはシェム・リアップ東西を走る国道六号線沿いにある。ガイドブックの地図では、市の中心街より西へ二キロほど行ったところだ。
 M氏が「車やバイクがものすごくたくさん走っている」と言う。私も起きだして窓近くから道を見下ろした。昨夜ガタゴト走ったので、道路は舗装されていないと思っていたが、ちゃんとしたアスファルトの道だった。そこを左右に行き交う車やバイクに自転車。ホントに慌ただしく大量に往来している。歩行者は少ない。もっとも多いのがバイク。大人が一人から二人乗りで、時には大人三人が乗ったりしている。子どもを間に挟んで四人が乗るバイクさえあった。それらがうじゃうじゃと道を走っている。そのバイクが昔懐かしい日本のスーパーカブ。ほとんど原付だった。走っている車も大多数日本車だ。自転車もバイクに次いでたくさん走っていた。二年前北京を訪ねたとき、自転車の大群が道をうわーんと往来していた。私はその様子を思い出した。これはまた日本や北京とひと味違うカンボジア朝の通勤風景だった。(しかし、後から振り返ってみたら、この日は日曜日だった。この翌日月曜以降はこれほど凄まじい移動風景が見られなかった。日曜日というのに、なぜ朝早くからあんなに大勢が出かけていたのか。特に何か国民的行事の日でもなかったようだ。考えてみたら不思議な光景だった。)
 この日はまたちょっとしたハプニングがあった。と言っても、単に午前と午後の行程が入れ替わっただけだ。本来は午前中に九世紀初めのロリュオス遺跡群を見学、午後にシェム・リアップ南部にある広大なトンレサップ湖をクルージング――の予定だった。添乗の山崎嬢は現地ガイドのセィリーと話し合って午前と午後を入れ替えることにしたのだ。理由は午後になると湖の岸辺がかなり臭いかららしい。カンボジアは乾季と雨季の国。トンレサップ湖は雨季と乾季で大きさに数倍の違いがある。乾季には日本の琵琶湖のほぼ五倍の大きさだが、雨季になると十倍にもなるらしい。今は乾季に入ってほぼ四ヶ月。だから、かなり水が減っている。そして、水際では獲った小魚を使って「魚醤油」(現地ではナンプラー。日本の醤油のようなもの)を作る。発酵した魚類で岸辺はかなり臭いと言う。特に午後になると日の光を受けてもっと臭くなる。しかし、午前中だったらまだましだそうだ。



A シェム・リアップを走る

 そんなわけで、朝食後私たちはマイクロバスに乗ってトンレサップ湖を目指す。地図では中心街から約十五キロ南にある。バスの中でセィリーは簡単に自己紹介。日本語がぺらぺらなので、何年勉強したのと聞くと、たった二年間だった。現地の日本語学校へ通ったらしい。彼女はトンレサップ湖まで約四十分から五十分程で着くと言う。私は妙だなと思った。何でそんなに時間がかかるのだろう。十五キロなら、日本だと三十分もあれば行ける距離だ。しかし、後でその理由がわかった。中心街を外れると無舗装のものすごい悪路。最後は時速数キロでしか走れなかったからだ。
 バスはホテルを出ると、左折して中心街へ向かう。カンボジアではキープライト。つまり車やバイクは右側通行だ。セィリーによると、車は免許が必要だが、バイクだと免許は要らないそうだ。だから、誰でも乗れるし、定員もないので、乗れるだけ乗っていいと言う。道は舗装されていても滑らかではないから、昨夜と同じでガタゴトガタゴト走る。時速四〇キロから五〇キロくらいしか出せない。走っていて驚いたのは、バスがビービー、ビービーとしょっちゅうクラクションを鳴らすことだ。他の車もよく鳴らしている。なぜ鳴らすかと言うと、道は中央線がなく辛うじて二車線程度の広さ。しかも端に歩行者・自転車専用ラインがない。だから、右側路線には自転車やバイク、車が同時並行的に走っている。自転車はもちろん、バイクもかなりスピードが遅い。車はそれらを追い抜こうとして、その都度クラクションを鳴らすわけだ。バイクや自転車に乗った人はあまり後ろを注意していない感じだし、そもそもバイクにはバックミラーがなかった。その警告クラクションはどこへ行ってもついて回った。
 道の左右はヤシやココナッツの大木、名も知らぬ大木が立ち並ぶ。一応街路樹になるのだろうか。しかし、統一性が感じられない。その合間に建物が点々と続く。よく目に付いたのはホテル。それもみな四、五階建てくらい。高いビルは一つもない(後日法律で高さ制限があることを知った)。現在建設中のホテルらしき建物もかなり見かけた。その他はごく普通の事業所らしき建物が多い。一戸建ての建物が民家なのかどうかはわからなかった。取り立ててカンボジアの特徴を現すような景色と言えば、街路樹としてのヤシの大木ぐらいだろうか。中心部に近づいてもあまり状況は変わらない。道の傍らでは朝市なのか、緑色をした何かの実が山積みされて売られている。セィリーは蓮の実だと言った。ジュースにしたり、食べたりするそうだ。それから六号線と交差するようにトンレサップ湖へ行く道がある。バスはそこを右折して南下する。次第に中心街から離れていく。すると景色が一変した。
 まずきれいな建物が少なくなっていく。道は赤茶色の土で覆われ、車が通る毎にもうもうと土煙を上げる。バスがワニ園を過ぎた辺りから、左右の道沿いにヤシの葉で葺(ふ)かれた粗末な木造平屋建ての家屋が見え始めた。高床式で壁は木、入り口が一つある。その壁やヤシの葉の屋根が赤茶色に染まっている。時折トタン葺きの家もあるが、それも(雨が降らないからだろう)赤茶色。次第にヤシやココナッツの大木が増えて来る。これは街路樹と言うより、自然に生えている感じだ。木の最上部にはでっかい実がたわわに実っている。セィリーが細くて長い葉はココナッツで、やや短くて丸い葉がヤシの木だと説明してくれた。その大木の下の方に生えた低木の木々類も赤色の土にまみれている。時折熱帯地方らしい真っ赤な花を見かける。だが、全体的には埃でぼやけたような景色で、お世辞にもきれいとは言えなかった。
 途中道を広げるのか、道路工事が行われていた。見ると尖った小石を敷き詰めている。たぶんあの上にアスファルトを流し込んで、平らにするのだろう。石が丸くないから、どうりで完成後も道路がガタゴトするわけだ。小石を敷き詰める仕事は女性ばかり十数名でやっていた。セィリーによると、あの仕事で一日一ドルとのことだ。しかし、一ドルあれば一日何とか暮らしていけるとも言った。
 道の左側を流れているシェム・リアップ川は幅七、八メートル。流れていると書いたが、実はほとんど流れがない。まるで泥水が溜まったような川だ。一人だけ泳いでいる人を見かけた。それを見つけた同行女性陣から「いやだー!」と驚きの声が漏れる。
 道沿いの家々は相変わらず高床式で、ヤシやトタンで葺かれた粗末な民家が続く。セィリーは、家が高床式なのは、雨季の洪水とかのためではなく、乾季になったとき冷房などないので、高床式が最も涼しいからだと説明した。時折犬や子供達を見かける。だが、ここいらの民家は後から振り返れば、まだまだ中流層だったかもしれない。
 道の傍らにはしばしば屋台があった。ジュースの缶や瓶、ミネラルウォーターのボトルが並べられ、ココナッツの実が積まれている。ココナッツジュースが飲めるそうだ。私は機会があれば、ぜひ飲んでみたいもんだと思った。日用雑貨類が並べられた屋台もあった。道は相変わらずバイクが多い。向こうからひっきりなしにやって来る。こちらもガタゴトガタゴト、プァープァーと追い越して行く。中には観光だろう、白人を乗せたバイクも追い抜く。乗用車の場合はタクシー、オートバイの場合はバイク・タクシーと呼んで、こちらの必需品と言ってもいいようだ。自転車もかなり走っている。これも二人乗りに三人乗り。荷台に木々をたくさん積んだ自転車もよく見かけた。薪にするそうだ。行き交う車は圧倒的に日本車が多い。トヨタ、ホンダ、日産、ごくたまにベンツ。まるで日本の道路のようだ。だが、なぜか日本でおなじみの軽自動車だけは全く走っていない。不思議ですねとM氏と話し合った。税制上の優遇措置がないからだろうか。一度だけ小魚を山盛りに積んだ軽トラックとすれ違った。ナンプラーの原料のようだ。私たちのバスはガタゴト道をのんびり行く。空はやや曇っているし、車内はエアコンが効いているので暑くはない。しかし、この赤色の土埃ではとても窓を開ける気になれない。その後道の左右はだんだん開けてきて田園風景になっていった。
 左右に田園らしい湿地帯が広がる。今はまだ稲などは植えられていない。ホテイアオイの紫色の花が見えた。そのうち右に小高い丘が見えてきた。丘の上に寺院がある。この辺一帯で山と目されるのはそれ一つだけ(それもせいぜい高さ数十メートル)で、後は見渡す限り地平線までずっと平野だった。これだけは日本で見られない景色だ。



B ヤシの葉葺きの小屋また小屋

 バスは雨季になると水の底に沈んでしまう道に入った。ここは全く舗装されていない土の道。幅も狭くバスは途端にぐらぐらと左右に大きく揺れ始めた。速度も十キロ出ているかどうか。道理で湖まで時間がかかるはずだと納得した。
 この辺りから道の左右の民家はまるでスラムのような雰囲気に変わり始めた。家々はほとんど一間の一軒家。ヤシかココナッツの葉で葺かれた掘っ建て小屋のような感じ。高床式だが、床を支える木は細くて枝のよう。それが二、三十本むき出しになっている。ここでは家の壁もほとんどヤシかココナッツの葉っぱだった。大きさはみな四畳半から六畳一間くらい。入り口から中が見えたりする。家具らしきものは見られない。そんな民家が道沿いにずらりと並んでいる。何だか台風一過であっさり倒れてしまいそうだ。たやすく風に吹き飛ばされそうだが、たぶん建てるのも簡単だろう。
 時折商店らしき構えの家がある。その店先に物品や野菜が並べられている。床屋もあった。男性が散髪をしていた。これは万国共通のようだ。水はどうしているのか。一度だけ道の傍らにポンプ式の井戸を見かけた。子どもや女性が水を汲み上げていた。おそらく共同で使っているのだろう。大人や子供達の着ている服は貧しそうに見える。男の子は下は半ズボン、上はランニング姿だったり、裸も多かった。女の子は長めのスカートとTシャツ姿。ほとんど靴やサンダル等を履いていない。また、集会所なのか、男達が七、八人固まって何か話し込んでいる家もあった。仕事もせずにぶらぶらしている風にも見えた(もっとも今日は日曜日だから別におかしくはない)。そんな男達からこちらをちらと見られると、視線を合わせたくないなと思った。
 この道を一人で歩くのはかなり勇気がいりそうだ。しかし、ここがスラムと言えるかどうかわからなかった。テレビニュースで見たことのある外国のスラム街はもっと汚くてゴミが散乱していた。それに対して、ここはお世辞にもきれいとは言えなかったが、それなりに統一されていた。ゴミ等もさほど散乱していない。ただ、六号線沿いの景色から考えると、ここがシェム・リアップでかなり貧しい地区に入ることは間違いなさそうだ。
 このような情景はトンレサップ湖の岸辺まで数キロに渡って続いた。家屋は全てヤシ葺きの掘っ建て小屋で、トタン屋根の家は一軒もなかった。しかし、考えてみれば、この辺りは雨季になると湖の底に沈んでしまう所。セィリーによると、人々は乾季の間ここに来て住み、雨季になると違う所へ引っ越すのだそうだ。だから、建てるも壊すも簡単な掘っ建て小屋に住むのは、当然のことなのかもしれない。
 そのとき突然バスの左側を、半ズボン一つの男の子(四、五歳くらい)が併走し始めた。バスは超スローだから、男の子はほぼ同じスピードで走れる。坊主頭のその子は裸足で走りながら、右手を高く掲げ人差し指で天を指している。そして、走りながら何か叫んでいた。私は最初意味がわからなかった。あの子は俺が一番だなんて気持ちでも表しているのだろうか――などとお気楽なことを考えていた。すると、同行者から「ああやって一ドル頂戴って言っているんだね」との声が聞こえてきた。そうかと思った。その子はバスの外人観光客に恵みを求めているのだ。しかし、その顔や上半身裸の浅黒い身体は、飢えてがりがりという感じではなかった。彼はしばらくバスと併走していた。そして、諦めてしまった。私は窓際に座っていたが、私を含めて誰も窓を開けなかった。



C トンレ・サップ湖

トンレ・サップ湖畔の子どもたち
 やっと湖の船着き場に到着した。たくさんの観光バスが集合している。バスを降りると、強烈な魚の腐臭が漂ってきた。同行女性陣は「臭い」と言って鼻を押さえた。誰かが〈くさや〉の匂いだと言った。ここいらでは、小魚を発酵させて魚醤油(ナンプラー)を作る。たぶんその匂いだ。なおかつ道の方々には小魚が落ちていた。それが腐った臭いでもあったろう。予定ではトンレサップ湖をクルーズ観光と聞いていた。ところが、クルーズ船は約十人乗り程度の小型漁船だ。ツアー同行者から失望の声が漏れる。船着き場も単なる岸辺だった。
 船に近づくと子供達が盛んに寄ってくる。皆四、五歳くらいの男の子や女の子。口々に何か言いながら、手を差し出す。多くは「ワンダラー、ワンダラー」と言っている。その中に少し大柄で七、八歳ほどの女の子がいた。胸に裸の赤ん坊を抱いている。差し出す手と目が必死さを訴えていた。私たちは「ノー、ノー」と言いながら船に向かった。
 湖の水面は水と言うより土色の汚水。私たちは二つに分かれて船に乗り込んだ。相当使い込まれた船だ。座布団付きの椅子が十脚ほど置かれている。私とM氏は左側の船に乗り込んだ。私は岸辺から数メートルの一人席に座った。M氏は後ろの広い席に行った。
 ふと私が岸辺を見ると、赤ん坊を抱いた先ほどの女の子がこっちを見ている。視線が合った。すると、彼女は手を差し出しながら水の中に入って来た。水はまるで台風一過のように土色に汚れている。彼女はスカートをたくし上げ、それが水に濡れるのを気にしつつ、二、三歩足を踏み入れる。しかし、すぐに深くなっているのか、それ以上は進めない。そんなことをするのは彼女だけで、他の子供達は陸上から諦め顔でこちらを見ている。なおも彼女は手を差し出して「ワンダラー」と言う。目がとても切なげで哀しげだった。裸の赤ん坊は彼女の弟か妹なのか。他の一人でやって来る子どもたちと違って、彼女だけは赤ん坊の分も稼がなきゃならない。その子の必死な様子はそう訴えているように見えた。私は一ドルあげようかと思った。しかし、もう手を伸ばしても届きそうにない。船は全員が乗り終わって岸辺を離れだした。彼女は諦めたのか陸に戻り、赤ん坊を抱え直した。そして、突っ立ったままでずっとこちらを見つめていた。(なお、この画像の子どもたちの中にその女の子はいません。M氏も私もその子のことが気になりながら、写真は撮っていませんでした。)
 やがて船はエンジンをかけてスタートした。最初は船や水上生活者の家々(船の上に建てられた家)の間をゆっくりと進む。私はさっきの女の子のことを考えた。彼女のスカートを濡らしてまでの眼差しは、私の脳裏に焼き付けられていた。私はクルーズから戻ってきたとき彼女がまだいたら、一ドルあげようと思った。
 水面は青く緑の湖面――などととても言えたものではない。ホントに見事に土色に濁っている。日本なら間違いなく台風直後の川だ。それがずっと続く。雨季や雨季直後のシーズンなら、湖はもっときれいらしい。しかし、乾季に入って数カ月経った今は次の雨季開始までずっとこんな色だそうだ。座った船端から手を伸ばせば湖面に届く。私は水に手を入れ濡らしてみた。カンボジアの水! そう思って何かを感じ取ろうと思う。しかし、何だか手が汚れるだけのような気がした。同行者で水に手を触れようとする人はいなかった。
 ガイドのセィリーはこちらの船に乗っていた。セィリーによると、ここで水上生活を送っているのは、ほとんどベトナム人とのこと。一九七〇年代以降の戦争時に流入した他、アンコール時代からの水上生活者もいるらしい。
 我らがクルーズ船は少しスピードを上げ、船や船上家屋の間を進む。湖と言うよりまだ川のように両岸は草原だ。浅瀬では若者が二人網打ちをやっている。こんな所に魚がいるのだろうかと思えるほど、船やら何やらでごちゃごちゃした所だ。しかし、船上に立っている若者が持つ網には、確かに小魚がかかっていた。そばの船では、現地のおばさんが船端で小魚を切り刻んでいた。これら水上生活者の家々はみな木造平屋建てで、とても頑丈に作られている。入り口が開いた家が多く、中をちらほら見ることができた。テレビのある家もあった。
 同行者は遠慮なく写真を撮る。私はカメラを向ける気がしなかった。ある船の上では小さな男の子三人がバナナを手にきゃーきゃーふざけていた。こちらが手を振ると、笑顔で手を振って返して来る。くったくのない笑顔で、何か言いながら突つき合ったりしている。先ほど岸辺で「ワンダラー」と言って近づいてきた、笑顔なき子供達とはえらい違いだった。船上に建てられた家から考えると、ここではたぶんそこそこの生活が成り立っているのだろう。
 建物全体が青く塗られた大きな平屋建て(下部は船)もあった。学校や病院らしい。船上生活と言っても今は乾季なので、それらの建物は杭を湖底まで打ち込んで固定してあるとのこと。雨季に水面が上がってくると、それら公共機関もやはり移動するらしい。私は前にいたセィリーのそばまで行っていろいろ話を聞いた。病院や学校は政府が作った。しかし、小学校は義務制ではない、などと彼女はいろいろ教えてくれた。
 やがて船上家屋が姿を消し、左右の岸辺は低い樹木が乱立する草原になった。船はトップスピードとなり軽快に走り出す。ここもまだ湖と言うより川のような感じだ。相変わらず水は土色をしている。驚いたのはもうかなり船着き場から離れたのに、湖はまだ一メートルの深さらしい。向こうから白人の団体が乗った船が近づく。すれ違うときにお互い笑顔で手を振った。見ると彼らは救命具を身につけていた。セィリーは「救命具は必要ない、落ちても普通に立てる」と言った。私は辺りの樹木を指差して、雨季にはどのくらいの高さになるのか聞いてみた。すると、彼女は数メートルは湖面が上昇するので、あの木々はみんな水の中だと教えてくれた。



D 湖上のみやげもの屋

 その後(船仕立ての)土産物屋で休憩した。そこから先は水深が深くなるので、もうこれ以上進まないとのことだ。やはり見渡す限り土色の湖面だった。琵琶湖の数倍という大きさでは、当然のように水平線の向こうはわからない。土産物屋(船)のある辺りはやや波が荒く結構揺れた。二艘をつなぎ合わせたような建物のすぐ下は湖面。いかだの上の家屋といった感じだ。でっかいナマズかコイのような魚を養殖している。それが時折ばちゃばちゃと荒れて水を跳ね上げた。大きな黒いペリカンや、その子鳥らしい白いのが七、八羽舳先(へさき)に立っている。これも飼っているようだ。鉢植えのブーゲンブリカには赤い花が咲いていた。
 その土産物屋には五歳ほどの男の子がいた。ニシキヘビの小さいのを身体に巻き付けている。小さいと言っても二メートルはある。どうやらペットらしい。他にも猿と犬がいた。犬猿の仲なのに、じゃれ合っていた。私は思わず男の子と並んでパチリ。山崎嬢に撮ってもらった。店番は若い娘さんだった。M氏がここで魚籠(びく)とザルをかたどった小さな置物を一つ買っていた。一ドルだと言う。手頃な土産物なので私も買った。他にも竹製の可愛い腕輪があった。姪の土産にいいかなと思った。値段を聞いてみると三ヶで一ドルだと言う。安いので直ちに買った。ところが、その後現れた別の娘さんは他の客に「四ヶで一ドル」と言っている。私やM氏が「ええっ!」と問題にした。さすがにさっきの女の子が苦笑しながらもう一ヶくれた。なるほどここでは必ず値切ってみるべきだなと妙に納得した。
 暫く休んだ後、船は初めの船着き場へ引き返した。私は一ドル札を胸のポケットに忍ばせた。外国では人前で財布を見せない方がいいと聞いていた。あの赤ん坊を抱いた女の子がまた近づいてきたら、この一ドルをあげようと思った。やがて船は船着き場へ到着した。下りて見回すけれど、あの子はいない。逆にさっきはいなかった松葉杖を突いた男性が、帽子を抱えて立っている。髭ぼうぼうの浅黒い顔。とても貧しい身なりで、左足の太股から先がなかった。カンボジアでは地雷で足をなくした人がたくさんいると聞いていた。彼は帽子を捧げ持って私たちの前に立った。私はその帽子に胸ポケットの一ドル札を入れた。彼は何度も頭を下げた。
 彼の姿を見たとき、私はふっと自分の子供時代を思い出した。隣町の公園で白衣の傷病兵がいた。彼らはハーモニカやアコーディオンを演奏して恵みを乞うていた。
 その後バスに戻ると、山崎嬢が近くの人と「東南アジアにはわざと足を切って物乞いをする人がいるらしい」などと話しているのが聞こえてきた。その言い方はそんな人には恵む必要はないと言っているように聞こえた。私は船に乗っているとき、必死に一ドルをせがんだ女の子も、実は演技ではないかとかすかに疑いを抱いていた。しかし、それが演技であっても、あるいは恵みを乞うた男性が、地雷以外の原因で片足をなくしていたとしても、構わないと思った。演技の子どもがおり、あるいは詐欺まがいの物もらいがいるかもしれない。だが、見た限りではどちらなのか判断できない。そして、本当にせっぱ詰まって困窮している子どもや地雷被害者だっているはずだ。私がこの国で十ドル、千数百円分を恵んだって、こちらにとっては痛くもかゆくもない。だから、だまされても構わないと思った。少なくともあの女の子は、他の子どもと違って土色の水の中にまで足を踏み入れてきた。それはホントに必死の眼差しだと思った。
 トンレサップ湖の小型クルージングを終えると、バスはまた大揺れの道を引き返し、ガタゴト道の舗装道路を通って中心街に戻った。そして、昼食場所のレストランに行き、そこの二階でクメール風飲茶料理を味わった。
 食事後時間があるからと全員で簡単な自己紹介をした。参加者十五名のうち、夫婦が四組、女性二人連れが二組、男の二人連れが私とM氏だった。もう一人、女性一人だけで参加した人もいた。さすがにみなさん人生経験豊富で「話すことは苦手でして」などと言いながら結構多弁だった。その後一階のお土産屋へ行ったが、値段が高く店員もマンツーマンで付き従う。私はすぐうんざりして出発時間までM氏と外を散歩した。午前中はずっと曇り空だったからそれほど暑くなかった。しかし、さすがにこの頃になると、日差しは強く、かなり暑くなり始めていた。

☆ サップ湖の岸辺にたたずむ女の子必死の眼差し君だけは別?



→「ワットまた旅日記」 その4





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