ロレイ遺跡

ワット驚くアンコール

また旅日記


4 現地1日目午後

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※ ロリュオス遺跡群の子どもたち [ 18 枚] 

   @ パスポート関所
   A ロレイ遺跡
   B プリア・コー〜バコン
   C 夜、アプサラの舞い



@ パスポート関所

 昼食後ホテルに戻ると、約三時間のお昼寝タイム(!)があった。昼食時山崎嬢から「約三時間ホテルで休養です」と言われたとき、私とM氏はちょっと呆気にとられた。そんなことは旅程表のどこにも記されていなかったからだ。明日以降も毎日二、三時間のお昼休みがあると知ってさらに驚き。さすがに年寄り向けのゆったりツアーだなと思った。しかし、涼しい部屋で昼寝を取ってみると、これがなかなかおつなもんだとわかった。最も暑い時間帯に休養を取り、その後も元気に遺跡巡りができるからだ。もっともそれだけ自分たちも年取ったんだなと、M氏と自嘲気味に話し合ったことだ。
 バスは午後三時四十分頃ホテルを出発した。やっとアンコール遺跡群の探索開始だ。と言ってもメインのアンコール・ワットやアンコール・トムは後のお楽しみ。最初はその周辺遺跡からじわじわ見て回ることになる。まずはこれから西へ十五キロほど行ったロリュオス遺跡群を見学する。
 町を東西に走る国道六号線を中心街に向かい、左折して数キロ先の関所(?)のような所へ行く。そこで遺跡見学専用のパスポートを購入した。一人四日間通しで四十ドル。その後再び六号線に戻って東へ向かう。シェム・リアップ川にかかるストーンブリッジを渡ると、ごちゃこごちゃした屋台が立ち並ぶ市場街が見えてくる。市場は今新しいのが建設中らしい。旧市場はテントのような小屋が建ち並び雑然としている。野菜や魚、フルーツ、雑貨類や名産品のような物が並べられていた。そこを過ぎて家々がまばらになると、やがて左右に田園地帯が広がり、周囲全てが平野となる。バスは遠く地平線まで伸びている一直線の道をひた走る。前方を見やると、道は気持ちいいほど一点に収束している。まるで投影図法典型のような道だ。左右の原っぱでは時折牛がのんびり草を食(は)んでいる。ヤシやココナッツの巨木が立ち並ぶ。土がいくつもいくつも盛り上がっている田んぼがあった。大から小まで白っぽくて砂の小山のようだ。大きいのになると、高さ一メートルはあって草木が生えている。セィリーによると蟻塚とのことだ。その後家屋はしっかりしたものから、ヤシで葺かれた掘っ建て小屋風になっていく。しかし、土台の柱は太くてそれほど貧しさを感じさせない。また、トンレサップ湖の道沿いにあったような掘っ建て小屋は、ぽつりぽつりとしか見られなかった。朝の景色と違って、ここは南国の牧歌的な雰囲気が漂っていた。
 六号線は相変わらずのガタガタ舗装道。それでもバスは朝よりスピードを上げて走る。すれ違う軽トラックに似た車の荷台に二十人近い大人や子どもが乗っていた。それを見た同行者から驚嘆の声があがる。この道をまっすぐ行くと、首都のプノンペンに至る。セィリーの話では車で約七時間かかる。タクシーだと五ドル(観光客だと十ドル、何と一四〇〇円足らず!)で運んでくれるらしい。みんなから「何で?!」の声が上がっていた。M氏はガソリンが安いのではないかと推理した。(後日聞いたら、ガソリンはそれほど安くなかった。あるいは、荷台に積めるだけ人を積んでいたように、タクシーも乗せるだけ人を乗せるのかも知れない。セィリーは車やバイクに定員はないと言っていた。)
 そのときセィリーは、カンボジアの小学校は義務制ではないこと、また十六歳までの子どもは医療費が無料であることを話した。みんな感心していた。私はM氏と、それなら老人医療費はどうなっているのだろうと話し合った。きっと成長途上の国だし、子どもはこれから次代を背負う人間だから大切だけれど、老人は先が知れているから無料ではないんだよ、などと冗談を言い合った。それにしても、あまり老人の姿を見かけないので不思議だった。(これらのことも翌日セィリーに尋ねてみた。予想通り無料なのは子どもだけで、大人の医療費は全て有料だった。老人の姿を見かけないがと聞くと、家の中にいるし、多くは寺に行くと答えた。それは本人の意思で行くのかと尋ねると、彼女はそうだと答えた。そのとき私は彼女に日本の姥捨て伝説の話をした。)



A ロレイ遺跡

ロレイ遺跡
 三十分ほど走ってロリュオス遺跡群の一つロレイに着く。ここは九世紀末ヤショ・ヴァルマン一世によって建立されたヒンドゥー教寺院とのこと。
 バスを降りると早速子供達が寄ってくる。これはお金をせがむのではない。七、八名の子供達(女の子が多かった)が手に手に絵はがきを持ち、日本語で「イチドル、イチドル」と声高に言う。つまり、絵はがきの売り子たちだ。顔色はいいし、声に元気がある。ツアー一行は黙って歩く。私は「ノーサンキュー」と言い、手を横に振りながら歩いた。他には十歳前後の男の子が、写真集のような冊子を示して「ゴドル!」と言う。誰も相手をしないと、寄り添って歩きつつ、「ヨンドル……サンドル」と値を下げた。セィリーが石段の上に遺跡があると言う。この子供達、さすがにそこまでは追っかけてこないので助かった。
 数段の石段を登ると、左にやや新しい寺院。屋根の上に細く折れ曲がった飾りの棒が付けられている。これは現在の仏教関係の寺院らしい。そして、正面右に十メートルほどの高さの石塔がある。赤茶色の地肌の至る所に枯れ草が生えている。左側の塔は崩壊して高さが三分の一ほどになっている。赤レンガ造りの朽ちた石塔。これがロレイ遺跡だった。八世紀から九世紀にかけての建立だという。塔の入り口は高さ二メートルほど。扉はない。入り口上部にレリーフがあり、左右には石像がある。厚さ十数センチの扉の壁にはサンスクリット語で文字が刻まれていた。石塔内部はがらんどうで、見上げると天井中央に小さな穴が開いている。入り口手前の地面にはきめ細かな赤色の土があった。ゴルフで言うなら、バンカーの砂地のような感じだ。M氏はこの赤色の土がレンガの原料だろうと言った。二つの塔の真後ろにやや小さめの塔がもう二基ある。前が王様で後ろは王妃用だとセィリーが解説した。後ろの塔もかなり崩壊しかけている。奥の入り口横には女神像が刻まれている。そのレリーフは豊かな胸をした女神像だった。均整が取れてとても美しい。私は今朝夢に見たボインの女性はこれだったのかなどと思った。他の女神のレリーフはかなり崩壊している。私は塔の間に立って上を見上げた。塔の上部は枯れた草が生い茂り、樹木さえ生えている。全体的には今にも崩れ落ちそうだ。
ロレイ遺跡、女神のレリーフ
 暫く見学した後四つの石塔の背後へ回った。葉の生い茂った大木が数本あった。その一本に二、三十センチはありそうなぼわんとした実がなっている。セィリーに尋ねてみると、ジャックフルーツの木だと言う。すぐそばの木はマンゴーで、こちらも高いところにマンゴーがなっている。ジャックフルーツの木は初めて見た。実は食べられるそうだ。
 その後バスに戻る。私はここで絵はがきを一つ買おうと思っていたので、また一ドル札を胸ポケットに入れた。私とM氏が一行から少し遅れて歩いていくと、子供達はみんな前の人たちにたかっている。一人だけ女の子が諦めた感じでぼんやりと立っていた。私はその子に一ドル差し出して絵はがきを買った。途端に他の子供達が私に押し寄せてきたので閉口した。バスに戻ると絵はがきを買ったのは私だけだとわかった。私は「みなさん薄情ですねー」と言った。誰かが「そうね、一ドル恵んだと思えばいいんですものね」と応じる。M氏は「買ってやった方がいいのか、それとも冷たくあしらった方がいいのかわからない」と言う。私は彼に北京での体験を話し、「少なくとも十ドルはこんなものを買うつもりなんです」と言った。絵はがきは中に二十枚ほど入っていた。うち十九枚はアンコール・ワットを撮った写真だった。

☆ ロリュオスの遺跡見学始まれば「イチドルイチドル」物売りの子ら



B プリア・コー 〜 バコン

プリア・コー
 その後バスは南へ十分ほど移動してプリア・コー遺跡に着く。これも九世紀後半に建立されたヒンドゥー教寺院跡だ。私たちがバスを降りると、ここでも絵はがきを持った子供達がまとわりついて来て「イチドル、イチドル」と言う。私はさっき買ったので、今日はもう買うつもりはない。他の人たちも買わないようだ。
 少し行くと石だらけの廃墟に着く。瓦礫の山がまず目に付いた。そこをさらに進むと、石の積まれた壁がある。その入り口を入ると、高さ十メートルほどの石塔が三基ある。これも頂上に枯れ草がたくさん生えている。赤茶色のレンガ造りで、見た目はさっきのロレイとよく似ている。背後にもう三塔あった。やはり前が王で、後ろが王妃らしい。ともにかなり崩壊している。プリア・コーとは「聖なる牛」の意で、中央石塔の前に横座りの牛の石像があった。牛の像は至る所が欠落している。私は菅原道真を祀る天満宮にある牛の石像を思い出した。
 見学を終えバスに戻る間も子供達がすり寄ってくる。私は何も買わずにバスに乗り込んだ。バスの外ではなお何人かの子供達が「イチドル、イチドル」と叫んでいる。その子らは絵はがきではなく、手に手に木の実のようなものを持っていた。緑色の果実からきれいな赤紫色の羽根のようなものが飛び出ている。花びらのようだが、日本では見たことがない花の形だった。彼らはその実を差し上げて一ドルで買ってくれと言っている。何の花だろうと思ったが、わからなかった(後日「ローソクの木」の実だと知った)。

バコン寺院
 プリア・コーを出発してバスはバコンへ向かった。数分も走らないうちにバコン遺跡に着いた。バスは数十メートル離れた外壁の外に停められた。これも同時代のヒンドゥー教寺院遺跡。これは遠くから眺めてもかなり巨大な建造物だとわかる。日本の国会議事堂に似た石塔が、林の中に頭一つ抜き出ている。表門を入って裏に抜けるので、バスは塔の向こう側で待つとのことだ。ここでもバスを降りると、物売りの子供達がどっと寄ってきた。若い娘さんもいて、マフラーかネッカチーフのようなものをかざしながら「三ドル、三ドル」と叫ぶ。どうやら女性がターゲットらしい。私たちは振りきるようにして石塔への参道を歩いた。彼らは門の中までは追ってこない。
 歩くにつれて大きくなる石造廃墟はかなりの規模だ。最も高い中央塔は高さ四、五十メートルはありそう。長い石段があって上の方を登る人はとても小さく見える。石段の両側はかなり石組みが崩れている。石塔にはテラスがあった。子象程の大きさの石像が四方を向いている。
 私たちは急な石段を登って行った。塔の向こうに太陽が沈みかけている。逆光になるので若干迷ったが、塔をバックとしてM氏と互いに写真を撮った。私は使い捨てのカメラを持参し、M氏はデジタルカメラを持ってきていた。ここに来るのは午前がいいと思った。本来ならこのロリュオス遺跡群は今日午前の見学だ。予定通り行程を進めてくれれば、きれいな写真が撮れただろう。そう思うと、行程の変更がやや恨めしかった。それから頂上まで登ってテラスから辺りを見回した。かなりの高さだ。周囲は正しく密林の樹海だった。どこか向こうから読経の声が聞こえてくる。南側のテラスを赤茶色の僧衣をまとった坊さんが二人歩いていた。
 私たちは周囲の景色を堪能した後反対側へ下りていった。この塔は裏から見ても、ほとんど表側と変わりなかった。何だ、こちら側から見上げて撮れば、逆光にならなかったのにと思った。下は草原で右側の石組みの所に僧侶が七、八名佇(たたず)んでいた。セィリーに彼らをバックにして写真を撮ってもいいだろうかと聞いた。大丈夫と言うので、M氏と並んでパチリ。その後私は彼らに向かい、ありがとうの気持ちをこめて合掌。そうしたら笑い声が聞こえて来た。その後裏門外壁の外で待つバスに向かう。バス近くではやはり物売りの子供達や娘がいる。同行の女性一人が布製のマフラーを二ドルで購入していた。一ドルまけさせたらしい。バスの中で見せて貰った。お土産としては安いものだわと言っている。洗ったら色落ちしそうだとも言っている。私は「それでもいいじゃないですか。私たちは金持ちだなんて思っていないけど、彼らにとって日本人は金持ちなんだから。いろいろ買ってあげましょうよ」なんてことを話した。
 これで本日午後の見学は終了。バスは宵闇迫った六号線をホテルへと向かった。



C アプサラの舞い

 このツアーにオプションはついていなかった。しかし、この夜市内のレストランでアプサーラ(美しく着飾った踊り子)たちの舞踊があると言う。一人十ドルで見られるらしい。こういうたまたまは嬉しい。私とM氏他ほとんど全員が見に行くことになった。
 夕食後七時半頃私たちは中心部にあるレストランに着いた。ライトアップされた舞台とその前にたくさんのテーブル。ほぼ八割方客で埋まっている。すぐに最初の演目が始まった。アナウンスは、現地カンボジア語と英語、そして日本語でも行われた。確かに見回すとかなりの日本人が席に着いていた。
 初めの踊りは「祈りの踊り」。舞台左の器楽団がもの悲しい感じの曲を演奏し始める。美しいアプサーラ姿の娘が一人、とてもゆっくりと登場した。独特な指のそらせ方。ものすごくゆっくりとした滑らかで流れるような歩み。手には杯か香を焚く壺を捧げ持っている。踊り子は舞台上でライトに照らされとてもきれいだ。その後さらに三人のアプサーラが加わり四人で踊った。
 二つ目は「餅つきの踊り」。これは農民演芸のようだ。男性二人女性一人の若者三人が組となって三組登場した。上は白、下は赤のはかまのようなズボンを履き、手に長い杖を持っている。日本で言うなら寿ぎの紅白か。彼らは音楽に合わせて軽快に餅をつく。男二人が餅をつき、娘はそばでもちを返す。次第にテンポを上げ、杖が臼(うす)に当たる音がカッカッと響く。途中左端の組の男性二人が目配せしつつ妙な笑みを見せていた。踊りの段取りを間違えたのかもしれない。
 三つ目は、再び滑らかでゆったりしたアプサーラ二人による恋の踊り。秘めやかで清らかな恋だと解説された。共に女性だが、一人は男役ということになろうか。衣装や髪飾りも違う。私は日本大衆演劇の、男女入れ替わった美男剣士と芸者の踊りを連想してしまった。音楽をバックに寄り添い、見つめ合う目と目――なんて雰囲気はそのものずばりだと思った。
 その次の演目は、カンボジアが豊かな湖と川を持つということで、魚籠(びく)とザルを使った男女五組の踊り。登場した男女が持つ魚籠とザルを見て、トンレサップ湖の土産物屋で買った置物はこの地方を代表するものだとわかった。M氏もすぐに気づいて「いい物を買ったな」と言った。踊りが始まった。ザルを使っての踊りはすぐに日本の「どじょうすくい」を思い出した。その言葉は近くの日本人からも漏れ聞こえてきた。ただ、日本のどじょうすくいと違ってテンポがとても早かった。ぬるぬるのどじょうをつかみ損ねる滑稽な踊りもなかった。踊りのテーマは若者の労働と初々しい恋だったようだ。
 この演目の最後は一組の男女だけが残って無言劇を演ずる趣向だ。男が娘をからかって借りたザルを返そうとしない。最初は何度も何度も哀願していた娘だが、やがてそっぽを向き拗ねた素振り。今度は男がごめんごめんとザルを返そうとする。しかし、娘は受け取らず知らんぷり。男は慌てて何とか機嫌を直して貰おうとする。それでも娘は応じない。すると、男は舞台の端に立つ木の所へ行った。そこから赤い花を取ってきて、優しく娘の髪に挿す。それでやっと娘の機嫌は直ってザルを受け取る。そこへ忍び寄っていた他の仲間達が祝福の歓声を上げる。恥ずかしがる若者と娘。とても面白い寸劇だった。
 そして、有名なバンブーダンスがあり、最後はもう一度アプサーラによる優雅で美しい「鳥の踊り」。これも最初は一人のアプサーラがゆっくりと登場。不死鳥をイメージして踊っているようだ。後に四人となって華やかに踊った。やはり指のそらせ方が常人離れしている。まねてみるが、とても痛くて出来ない。農民芸能の踊りは概してアップテンポだが、アプサーラの踊りはものすごく単調でゆるやか。眠くなることもあった。しかし、間違いなく民族の伝統芸能だろう。
 私は思った。これが観光客相手の表の顔だとするなら、裏はトンレサップ湖畔の家々と人々だなと。午前中に見たスラムのような掘っ建て小屋とそこで暮らす人々や子どもたち。今日一日を振り返ってみて、シェム・リアップ初日の印象は午前中の衝撃に尽きるなと思った。


→「ワットまた旅日記」 その5





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