プラサット・クラバン

ワット驚くアンコール

また旅日記


6 現地2日目午後

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※ 砦からアンコール本丸へ [ 28枚] 

   @ プラサット・クラヴァン 〜 タ・ケウ
   A アンコール・トム、勝利の門〜象のテラス
   B ピミヤナカス 〜 バプーオン
   C プノン・バケンの丘
   D 象に乗って王侯気分
   C 起こっていた偶然



@ プラサット・クラヴァン 〜 タ・ケウ

 今日も長いお昼寝タイムがあった。午後三時過ぎにホテルを出発。下痢を訴えた熟年女性はホテルでお休みらしい。みな心配したが回復を待つしかない。私は北京で同じ症状になったことがあるので、他人事ではなかった。自分の実体験をその連れの人に語ったりした。
 バスはまた北へ向かう。関所でパスポートを確認してさらに北上。王の沐浴場スラ・スランの手前二キロほどの所にプラサット・クラヴァンがある。赤茶色の建物はすぐに目につく。ここの物売りは娘が多かった。絵はがきだけでなく、テーブルクロスのような布を売っている。みなとても血色が良くアプサーラにしたいほどの美少女もいた。
 プラサット・クラヴァンはヒンドゥー教寺院で、一〇世紀初めの建築。赤いレンガ造りの塔が横に五基立っている。やはり中央の塔がやや高い。表から眺めると扉は固く閉じられているが、裏に行くと数段の階段上に扉のない入り口がある。赤レンガの上には漆喰も残っていた。中央棟ともう一つの塔の中に高さ数メートルの浮き彫りがある。レンガの壁にビシュヌ神や女神が浮き彫りされていた。このレリーフは修復後のもので、かなりくっきりと見ることができた。セィリーによると、塔の中にレリーフがあるのはここだけとのこと。ここでも塔の天井は穴が空いていた。昨日から見た塔の天井は全て大小の穴が開けられている。なぜ塔の頂上が閉じられていないのかセィリーに聞いてみた。しかし、彼女はわからないと言う。
プラサット・クラヴァン復元された女神像
 塔から出て建物背後にある二つの礎石跡を見学した。ここにも塔か経蔵が建っていたらしい。枯れ草が礎石跡を覆っていた。そのとき突然携帯電話の着メロが鳴った。一体外国に来て誰の携帯かと思った。添乗の山崎嬢を見たが、彼女ではない。すると、セィリーがバッグから携帯電話を取り出し、少し離れたところで電話に出た。それは日本でお馴染みの折り畳み式の携帯だった。私たちは少々驚嘆の体。二年前私が北京を訪ねたときも、現地ガイドが携帯電話を持っていた。いや、北京の繁華街では颯爽とした若者や娘達が携帯を多用していた。そのときも驚いたけれど、カンボジアは中国よりもっと貧しい国。失礼ながら、まさかカンボジアの現地ガイドが携帯電話、しかも折り畳み式を持っていようとは思いもしなかった。彼女は話を済ませると何気なく戻ってきた。
 私たちは彼女に質問を浴びせた。セィリーによると、仕事をしている若者は結構持っているとのことだ。彼女には兄が五人いて「みんな携帯を持っている」と言った。私たちは驚いた。彼女は日本語ぺらぺら、しかも喋れるだけでなく、こちらの言うことをしっかり理解できて受け答えできる。また、遺跡の説明内容を完全に暗記していて、あんちょこを見ることもない。かなり優秀で、家庭的にも中流レベル以上の娘さんだと思っていた。それにしても、携帯を持ち、しかもそれがカンボジア国内で普及しているとは夢にも思わなかった。M氏は国としても電話線を架設したり地中に埋めるよりは、アンテナ一本で済む携帯電話の方がいいのではないかと言った。確かにそういう面はありそうだ。
 この一件は発展途上国と言いながら、カンボジアが持つ別の顔を見せられたような気がした。

壮大なタ・ケウ
 午後の二番目は同じくヒンドゥー教寺院のタ・ケウ遺跡。十一世紀初頭の建築らしい。プラサット・クラヴァンから北へ行き、スラ・スラン先の三叉路を左折する。すると左側にバンティアイ・クディ遺跡の壁が延々と続く。それが切れると、今度は右側にタ・プロム僧院の外壁がこれまたしばらく続く(この二遺跡は明日見学の予定)。タ・プロム外壁の所々には高木が立ち、その根っこが外壁を覆うようにむき出しになっていた。そこからさらに北へ一キロほど行くと、タ・ケウ遺跡がある。一一世紀初頭に建てられたヒンドゥー教寺院だ。バスから眺めると崩れかけた小山のような石塔が三基建っている。高さ五、六十メートルはあるだろう。昨日午後見たバコン寺院をもっと大規模にしたような寺院だ。セィリーはここは遠くから眺めるだけで中には入らないと言う。いやだとは言えないので、私たちはバスを降りて写真タイムとなった。ここでも物売りは相変わらずのしつこさ。Tシャツを売ろうとする男の子がいる。Tシャツは二ドルのようだが、中には一ドルで買った人もいた。



A 勝利の門〜象のテラス

  バスはタ・ケウ遺跡を通り過ぎて西へ向かう。いよいよアンコール・トムへの入城だ。セィリーが名前の意味を説明した。「アンコールは町、トムは大きい。だから、アンコール・トムとは大きな町の意味です」と。また、ワットは寺だそうだ。つまり、アンコール・ワットは寺のある町という意味になる。ガイドブックはアンコールを都市とか都と翻訳していた。セィリーによると、周囲十二キロのアンコール・トム内部は王に関わる人々が住んでいただけで、一般人民は外壁の外で暮らしていたとのこと。してみると、町とは言い難いような気がした。少なくともその規模から考えれば、町と言うより都であり、むしろ巨大な城と言った方が適切かもしれない。
 右手にトムマノン遺跡を眺めた直後、アンコール・トム東からの入り口である勝利の門が見えてきた。門の上はやはり石塔になっていて高さ二十メートル、上部に観音様の巨大な顔が刻まれている。バスは高さ数メートルのトンネルをくぐり抜けた。
 アンコール・トムは一辺三キロの正方形の都城。一二世紀末にジャヤ・ヴァルマン七世が築造した都であり王宮所在地だ。幅百メートルの環濠と高さ数メートルの外壁を持つ。出入りの門は全部で五つある。東西南北の中央部に一つずつ。南が南大門。東だけ中央門は死者の門と呼び、その北五百メートルの所に、今くぐった勝利の門がある。いわば戦勝の凱旋(がいせん)軍は勝利の門から入城し、戦死者は死者の門から帰国と言うことだろうか。地図によると死者の門を一キロ半進むとバイヨン寺院がある。セィリーはアンコール・トムの本格的な見学は明日で、今日は王宮跡近くのピミヤナカスやバプーオン寺院だけを見学すると言う。何しろ今日の夕方はこの付近唯一と言っていいプノン・バケンの丘に登る。そこで夕陽や遠景のアンコール・ワットを眺めるので、のんびりトムを見学する余裕はなかった。

プラサート・スウル・プラット
 バスは象のテラス前に到着した。幅三五〇メートルに渡って、高さ数メートルのテラスがあり、テラス下の壁にほぼ実物大の象が多数彫られている。象の行進といった趣だ。私たちはバスを降りてテラスに上がった。そこから来た方向を振り返ると、道の両側巨木の狭間に六塔ずつ計十二の石塔が建っている。その背景はジャングルだ。石塔はプラサート・スウル・プラットと言い、当時の裁判所だったらしい。その迫力ある石造りの建物群にみんなから感嘆の声が漏れる。その手前は広大な緑の敷地。左の方に「このー木何の木、きになるきになる♪」の歌で有名な合歓(ねむ)の木がある。さすがに葉の生い茂った木陰は広くて車が数台留められていた。



B ピミヤナカス 〜 バプーオン

天空の城ピミアナカス
 象のテラスを歩いて暫く行くと、ピミヤナカスの石塔が見えてくる。高さ十数メートルくらいか、ヴィミヤン・アーカス神殿とも言われ、十世紀末から十一世紀初頭に建てられたそうだ。石造りの建物は頂上が回廊のようになっている。上がり口の石段は傾斜がきつく、なおかつかなり浸食されて登りにくそうだ。セィリーは反対側の方が登りやすいと言う。しかし、M氏始め男性陣はこちらから登ることにした。セィリーは腕時計を見て見学は十分程で済ませて欲しいという。そこで我々はM氏を先頭に大急ぎで登り始めた。女性も山崎嬢を初めとして何人かはこちらから登った。下から見上げたときは高く見えたけれど、数分で頂上まで登ることが出来た。慌てて登ったので、息は切れるし、どっと汗が吹き出した。頂上の回廊は一辺二、三メートルの小ささ。石組みがずれたり傾いたりしている。見回すと周囲はいずこも巨木のジャングルで、高さが高さなだけにそれほど見晴らしがいいわけではない。(この最上部で撮った写真は一見すると藪を背景にした平地にしか見えず、ちっとも高さが感じられなかった。)西側もジャングルだが、その中に王宮があったようだ。王や家臣らが暮らした王宮は木造だった。だから、石造りの寺院類と違って王宮の建築物は一切残っていないそうだ。
 私とM氏はすぐに反対側の石段を下りた。他の人たちはまだ頂上で記念写真撮影中。一人の男性が「絶景かな絶景かな」と言いながら、扇子をうち振っている。笑い声が高らかに流れる。このとき頂上から見下ろすのと、下から見上げるのはえらい違いだとわかった。地面から見上げると頂上の人がとても高く見えるのだ。なおかつ空中に浮かんでいるようにも見えるから不思議だった。「天上の宮殿」と呼ばれていたそうだが、確かにうなずける。宮崎アニメで言うなら、天空の城ラピュタだと思った。
 みんな下りてくるとしばし登山談議(?)に花が咲く。私はM氏に「ピミヤナカスは君を泣かすですね」とおやじギャグ。訪れた遺跡の名前をなかなか覚えられない。だから、そう言えば記憶できるかなと思ったからだ。M氏は白けていたが、同行のおばさんたちに受けていた。そう言えば、日本語のありがとうはカンボジア語では「オークン」と言う。私は出発前これを覚えてきた。そのときプロ野球ダイエーの王監督を君付けで呼ぶとイメージした。つまり、「オークン=王君」てわけだ。

☆ 君を泣かすピミアナカスは天空の空に浮かんだラピュタの城跡

 ピミヤナカスから歩いて数分でバプーオンに着く。ヒンドゥー教寺院で、十一世紀中頃ウダヤディチャ・ヴァルマン二世によって建立された。中央石塔は現在修復中なので中には入れない。入り口手前の壁に完成予想の模型図が貼ってあった。それを見てみな感嘆の声を上げた。あくまで想像らしいが、その通りに復元されれば、かなりの美しさだろうと思った。
 ここには高さ二メートル幅三メートル程の参道がある。長さは二百メートル。まるで橋のようだが、手すりや柵はない。さっきのピミヤナカス同様、遠くから見ると参詣者は空中を歩いて寺院へ向かうように見えるかもしれない。その左右には池があり、左側の池には水がたたえられていた。私たちはその参道を歩き、それから象のテラス前のバスへ戻った。
 この間も至る所で物売りに声をかけられた。ピミヤナカスの手前では、一人の少年が日本の百円硬貨を見せながら、「これを日本人から渡されたが、使えないので一ドルに替えてほしい」とたどたどしい日本語で言う。気の毒だったが、どこまで本当のことなのかわからない。みみっちいことながら、今一ドルは日本では一三六円。百円を一ドルに替えるとこちらの損になる。胴元がいてそのようにしろと教えているのではないかと言う人もいた。私は替えてあげなかった。他の人も半信半疑で結局誰もその逆両替に応じなかった。(しかし、これ以後他の遺跡でこのようなことを言われたことはなかった。)
 この日午後私はまだ何も買わず、また誰にも恵んでいなかった。カンボジアに来る前は「一ドル、一ドル」の絵はがきを毎日誰かから買ってあげようと思っていた。しかし、私は昨日ロレイ遺跡で絵はがきを買って以来その気がなくなってしまった。昨日買った絵はがきは中に二十枚もはがきが入っていた。一枚あたり数円の安さだ。しかし、ロレイ関係の絵柄はなく、二十枚中十九枚はアンコール・ワットばかりの写真だった。全く同じ絵柄さえ一組あった。いろいろな遺跡群が入っていると思っていただけに、それには正直がっかりさせられた。絵はがきの中身をいちいち確認してから買うのも煩わしい。いくら一ドル恵むつもりであっても、買う以上はきちんとした商品であって欲しい。あれ以後私は絵はがきを買う気が失せてしまったのだ。



C プノン・バケンの丘

 バスに乗り、象のテラス前の道を南下する。すぐに巨大な石塔廃墟バイヨン寺院がその姿を現す。バスはぐるりと半周する。観音像を刻み込んだ各石塔の四面像がちらちらと見える。バイヨン寺院は一辺三キロのアンコール・トムの正に中心部にある寺院だ。王宮はここからやや北に位置している。普通なら王宮を中心部に持ってきそうなものだが、ジャヤ・ヴァルマン七世はかなりの仏教信者だったらしい。都城の中心には寺院を建立したのだ。明日はここを探索予定だ。
 そこから、一キロ半進むと、南大門へ出る。やはり四面観音像が石塔上部に彫り込まれている。バスは南大門をくぐり長さ百メートルの橋を渡る。橋の両側には神の像とアスラーの像がずらりと並んでいる。有名な乳海撹拌(にゅうかいかくはん)の綱引き像だ。これは勝利の門の所にはなかった。ここも明日ゆっくり見学するとのこと。そして、すぐ右手にプノン・バケンへの登り口がある。プノン・バケンはこのあたり唯一の小高い山上に建立されたヒンドゥー教寺院だ。九百年創建とのことだが、寺院そのものはほとんど崩壊して残っていないらしい。
 バスの中でセィリーが象に乗って登るかどうか聞き始めた。ここの上り坂はかなり急とのこと。だから、象に乗って別のゆるやかな道を登ることができると言う。上りが十五ドルで下りは十ドル。我らが同行者は女性陣を中心に半数以上の人が上りで手をあげた。私とM氏は別に必要だとは思わなかった。しかし、象に乗るなんてめったにない機会だ。一度は乗ってみたいと思った。誰もが登りで使いたがるだろうが、本当は階段でも下りの方が筋肉を使う。だから、私は下りで象に乗らないかとM氏に提案した。彼は一も二もなく賛成。というわけで、我々二人だけが下りで象を使うことになった。メンバーでは最も若い男二人が下りで乗るので、一行はちょっといぶかしげな顔つきだった。
 バスを降りると、象が人を乗せてのっしのっしと歩いている。結構糞の匂いが漂っている。たくさんの観光客が象乗り場で待っていた。プノン・バケンへ登る坂は見上げると確かにかなりの急坂だ。石段があるようだが、ほとんど崩壊状態。そこを人がたくさん登っていく。セィリーが象乗り用の切符を購入、私とM氏に下り専用の切符をくれた。私はみなに「それじゃあ登るゾー」とおやじギャグ。M氏はずっこけ、山崎嬢だけが笑ってくれた。
 ここでもM氏を先頭に登ってゆく。私ははーはー言いつつ、休みつつ登る。坂の真ん中辺りまで来たとき、右の藪の中にいる男性の物乞いに気づいた。よく見ると両足の膝から先がない。地雷による切断だろうか。ひげは伸び放題、ざんばらの髪で貧しい身なりだ。私の前の白人男性が一ドル恵んだ。私もすぐに財布から一ドルを出して、彼が捧げるように持つ帽子の中に入れた。彼は「オークン」と言って頭を下げた。さらに坂を登る。十数分はかかっただろうか、やっと頂上に着いた。平原の中にたくさんの土産物屋が並び、その先に高さ十数メートルの石造建築物がある。それがプノン・バケン跡だ。中央部に崩壊した尖塔がある。そこに至る高さ二メートルほどの石段は奥行きが狭くとても急だった。足先を横向けにしながらよじ登る。やっとプノンバケンの頂上テラスにたどり着く。既にたくさんの観光客が集まっていた。おそらく百人以上はいただろう。
プノン・バケン山上より見たワットの塔
 ここからの眺めは最高だった。テラスを一周すると三六〇度全方向が見渡せるのだ。周囲は大多数がジャングル。雲海ならぬ樹海だ。その果てである空との境目はほぼ完璧な地平線だった。西の空は太陽が沈もうとしている。早くも雲は薄紅色。次第に赤く色づいてくる。その下には密林と広大な人造湖がある。北方向は一面のジャングル。東方向も同じような密林。東のやや北に富士山に似た形の小山がある。高さは地平線から少し飛び出た程度。そして、南方向は大木とゴルフ場ででもあるかのような平原があった。シェム・リアップの町はその先になる。高いビルがないから、建物は全く見えない。その南さらに遠くを見やれば、初日トンレサップ湖に行く途中見かけた小さな丘がある。これも地平線から少し頭を突き出した程度。さらに向こうにはトンレサップ湖があるはずだが、もちろん見えなかった。
 ガイドブックではここプノン・バケンからアンコール・ワットが見えるとあった。私たちはどこにあるのか探した。そして、東南の方角ジャングルの彼方に土筆(つくし)のようなとんがり帽子を見出した。それがアンコール・ワットの尖塔だった。私はM氏に言われて漸く気づいた。肉眼だと三つの石塔をかろうじて見ることができた。アンコール・ワットが密林に埋もれていたというのもうなずける。プノン・バケンからワットまでおそらく数キロも離れていないはず。だが、ぼんやりしていると見落としてしまいそうなほど、それはジャングルに埋もれていた。



D 象に乗って王侯気分

 他の人たちを待つがなかなかやって来ない。象は数頭いたようだが、全員登るまでかなり時間がかかりそうだ。テラス上は次第に観光客で芋洗い状態になってきた。待つ間日本人の若者から僧侶と一緒の写真を撮って欲しいと頼まれたりした。ふと見回せば、そこここに座っている人は日本人の顔かたち。聞き慣れた言葉に振り返るとそれも日本人。テラスにいる人の半数近くは日本人だったかもしれない。もっとも、韓国や台湾系の人たちも、言葉を聞くまでは日本人と区別が付かなかった。私の近くにいた短パン半袖の日本の若者は現地で購入したと思われるTシャツを着ていた。そして、たぶん一ドルか二ドルで買ったであろう、原色の布きれをマフラーやバンダナにして身につけている。結構おしゃれな感じ。白人系の外人さんの中にも同じような格好をしている人を見かけた。さすが旅慣れしているなと感心した。
 私とM氏はしばらくアンコール・ワットが見える所に座っていたが、早めに下りることにした。象乗り場へ行き、私とM氏は前の組で残された一人と三人並んで象に乗った。座るところはベンチのような(手すり付きの)板で絨毯が敷かれている。真ん中にM氏が座り、私は左、右に前の組の日本人女性が座った。象の頭の上に現地の若者が乗る。彼はしきりに象の耳の後ろを足でさする。それが進めの合図らしい。下りで象に乗ったのは私たちと前の二頭だけだった。その後夕陽が沈むと、観光客はどんどん下り始めた。象が通る道はゆるやかなので、私たちの後ろを人々がついて来る。象はとてもゆっくりとした速度で歩く。だが、道一杯を塞いでいるので、観光客は我々を追い越せない。結局、私たち二頭を先頭として、まるで家臣がつき従って行進するかのような大行列となった。私はM氏に「ちょっとした王侯気分ですね」と言った。後ろには同行ツアーのおばさん達もいて、私たちを見つけるとなぜか拍手が起こった。それから手を振ったり、最後は写真まで撮ってくれた。
 象使いの兄ちゃんは草笛がうまい。いろいろ現地の曲を吹いている。象の肌はごつごつして固い。かなりしわもあった。前の象はお尻の辺りが黒光りしていかにも若そう。M氏が「象は四、五十年生きるはずだが」などと言う。私とM氏はその他日本語でいろいろ話をしていた。すると、象使いの兄ちゃんが前を向いたまま「あなたたちは、日本人…ですか」と日本語で聞いてきた。それは習いたての日本語会話を復習するかのような、きちんとした話し方だった。私とM氏は「そうです」と答えた。いい機会だから私はもっと話をしてみようと思った。そこで「この象は…何歳ですか」と一語一語区切るように問いかけた。彼は「四十六歳です」と完璧な日本語で答えた。それから彼は草笛で何か聞いたことのあるメロディを吹き始めた。何と日本の「ぞうさん」の曲だった。私とM氏は彼の草笛に合わせて「ぞーォさん、ぞーォさん、おーはなが長いのね〜♪」と歌った。残念ながら右側の日本人女性は歌ってくれなかった。
 象はホントにのんびりゆっくりと歩く。とても乗り心地が良かった。下に着くと私は同行の人たちに「下僕を従えた気分で最高でしたよ」と言った。みんな笑っていた。私はたまたま下りを選択してラッキーだったと思った。
 これで、ほぼ前半の山場は終了。明日はいよいよアンコール・ワット内を見学することになる。



E 起こっていた偶然

 ホテルに戻り夕食を摂る。下痢症状を訴えていたおばさんは午後ずっと寝ていたようだ。まだ治らないのか食事にも現れなかった。連れのおばさんはおかゆをホテルに頼んだらしい。
 食事後部屋に戻ってお風呂タイム。今夜もM氏が先に入り、私はバスタブにお湯を溜めて後から入った。やはり昨夜同様お湯は次第に水状態になっていった。
 就寝前私はシェム・リアップに来てからの二日間を振り返った。昨日午前中はトンレサップ湖クルーズ。午後はロリュオス遺跡群の見学。そして、今日午前の目玉はバンティアイ・スレイ。こぢんまりとした赤レンガの寺院。克明に残されていたレリーフ。だが、東洋のモナリザを見ることはできなかった。午後はアンコール・トムに入城し、夕方はプノン・バケンの丘から大パノラマを眺めた。この間既に遺跡は十近く回った。古い時代から新しい時代、小さな遺跡から大規模なものへと周遊する。だから、時の王朝の拡大具合もよくわかった。
 しかし、まだこの二日間で感じ取れるような偶然は何も起こっていないなと思った。そして、最も印象に残っているものは何だろうと考えたとき、初日午前中に見たトンレサップ湖や、そこに至る道沿いのヤシ葺き掘っ建て小屋だったと思った。あの岸辺で赤ん坊を抱いた女の子は、土色に汚れた水の中に足を踏み入れてまで一ドルを求めた。あのときの切なげな瞳――結局あれだったなあと思った。その後は各遺跡を堪能すると同時に、金をせがんだり、物売りをする子供達をかなり注意深く眺めた。演技らしき子どもを見、ただ無邪気に金を乞う子を見た。概して遺跡付近の子はたくましくしたたかに生きているように思えた。だが、トンレサップ湖で赤ん坊を抱いた女の子だけは、ホントに困窮している眼差しだった。私はあの子に一ドルあげなかったことを後悔した。
 そのとき、あっと思った。そうかこれだったのか。これこそ偶然であり、私にとっての意味だったのだ。初日の旅程では朝がロリュオス遺跡群の観光、午後がトンレサップ湖クルーズだった。ところが、現地に来てそれはひっくり返されたのだ。それって私にとってはたまたまの出来事ではないか。ロリュオス遺跡群のバコン寺院跡では、午後の西日を前にしてカメラはもろ逆光となった。そのとき朝来ていればきれいに写真が撮れたのにと残念がった。だが、私にとって午前と午後が逆転することは重要なことだったのだ。このカンボジアの旅で、まずあの湖周辺の景色を見ること(見せられたこと)に大きな意味があったのだ。
 トンレサップ湖の岸辺は〈くさや〉に似たものすごい発酵臭や腐臭が漂っていた。午後になるともっとひどく臭う。添乗の山崎嬢は現地ガイドのセィリーと相談して午前と午後の行程を変更した。その偶然は私にとっては「まずシェム・リアップ最低層の暮らしを見つめなさい、そこの子供達の困窮を感じなさい」のメッセージとなったのだ。
 私はアンコール・ワットへの旅に出発する前、姪にメールを書き送った。「私は書くことで世界中の子供達を救いたい。それが自分の使命のような気がする」と。そして、シェム・リアップにやって来て、すぐに最低層の子供達とその暮らしを見せられた。その姿は(ある程度予想していたとは言え)自分にとってまざまざと見る外国の現実であり、やはりショックだった。もし予定通り初日の朝にロリュオス遺跡群を見学していたら、ショックなぞは感じなかったに違いない。六号線を西に向かうときの牧歌的風景、さらにロリュオス遺跡群の廃墟。初めて見る東南アジアの風景や遺跡に対して、ほおっと感嘆したとしても、それは別にショックではなかっただろう。
 最初にあの貧しい女の子の切なげな瞳を見ていたから、それ以後もずっと子供たちを注視できたのだ。偶然は起こっていた。そして、自分にとっての意味もわかった。明日から二日間、さらに自分を揺り動かすような出会いと出来事はあるのだろうか。私はそんなことを考えながら眠りに就いた。


→「ワットまた旅日記」 その7





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