アンコール・トム、バイヨン寺院

ワット驚くアンコール

また旅日記


7 現地3日目 午前

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※ ワットより、ものすごゥ感激したトムのバイヨン [18枚] 

   @ アンコール・トム 南大門
   A バイヨン寺院 〜 癩王のテラス
   B タ・プロム僧院……可憐なガジュマロの木?



@ アンコール・トム 南大門

 朝六時半にすっきりと目が覚めた。お腹の調子もいい。いよいよ今日午前は本格的にアンコール・トムの城内(特にバイヨン寺院)を散策し、午後は遠景から眺めるだけだったアンコール・ワットの中へ入る。言わば今回のツアーの目玉商品だ。時代的には共に十二世紀だが、ワットが古く、トムの方が新しい。また、大きさとしてもトムはワットの数倍の広さがある。なぜワットを先に見学しないかというと、ワットは西側に入り口がある。観光客は西側から東に向かって歩いていくことになる。午前中だと逆光になって写真写りが良くない。だから、ワット観光はほとんど午後に設定されるようだ。
 M氏は朝から少々興奮気味だ。今までずっとアンコール・ワットは遠景を眺めるばかりだった。いよいよ本丸突入、アンコール・ワット見学への期待はいやが上にも高まる感じだ。対して私はこれまでも充分満喫していたので、ワットやトムにさほどの期待感はない。とにかく何か今までと違うものが感じ取れればいいな、といった程度だった。
 朝はまたマイクロバスに乗ってホテルを出発する。体調を崩していた熟年女性は回復したようで、バスに乗ってきた。他人事ながらみんな良かった良かったと言って喜んだ。バスはホテルを出て左折、六号線を中心街へ向かう。ここを右折するときはシェム・リアップと別れ、空港へ行く道。明日夕刻にはもうそのときを迎える。
アンコール・トム南大門前
 まずはアンコール・トムの南大門を目指す。いつものパスポート関所を通過して二十分ほどでアンコール・トムの南大門に着く。アンコール・トムは十二世紀末ジャヤ・ヴァルマン七世が築造した巨大な都城だ。ジャヤ・ヴァルマン七世は仏教信者だったらしい。トムの全域は一辺三キロ、周囲十二キロの正方形をしている。石組みの遺跡周辺以外はいずこも密林に覆われたままだ。
 南大門前の堀にかかる広い橋上はもう観光客でうじゃうじゃ。すぐ手前が昨日登ったプノンバケンなので、象も観光客を乗せて仕事に励んでいる。橋上の参道はかなり広い。左右には五十四体の石像がある。右側は神さま、左側は阿修羅(セィリーはアスラーと呼ぶ)。一番手前には七つの頭を持つ蛇の像がある。蛇の像から南大門まで百メートルはあろうか。私たちはゆっくり歩いて神々やアスラーの顔を眺めながら、南大門に向かった。堀に水はなく密林状態だ。南大門のトンネルは高さ十メートルほど、道はちょうど一車線半ほどの幅がある。塔全体の高さは二十メートルはあろうか。やはり石塔で中央に観音様の巨大な顔が刻まれている。合計四つの観音像が前後左右にある。南大門をくぐり抜け、その先から振り返ってみれば、やはり中央に観音様の顔。その下には合掌する召使い達。さらにその下にほぼ等身大の巨象が四方をにらんでいる。頭が三つに鼻が三つ。鼻の下は蓮の花。アイラーワダと言って雨の神の乗り物らしい。



A バイヨン寺院 〜 癩王(らいおう)のテラス

 そこからちょうど一キロ半進むとバイヨン寺院がある。ジャヤ・ヴァルマン七世建立の仏教寺院で、アンコール・トムのど真ん中にある。言わば東西南北四つの門をくぐり抜けた人々は、全て平等に二十分ほど歩いて聖地にたどり着くわけだ。
バイヨン回廊のアプサラレリーフ
 私たちは南大門の所から再びバスに乗った。バスは数分でバイヨン寺院に着く。私たちは東側のテラスから入っていった。係員が遺跡用のパスポートを確認する。遠くから眺めると石造りの建物全体は完全に廃墟のように思える。だが、よく見るとまだかなり原形をとどめている。中央塔が最も高くて約六十メートル。その周囲にたくさんの尖塔がある。セィリーによると、石塔は全部で四十九塔あるそうだ。全ての塔の先端に四面の観音菩薩像が彫られている。回廊が三つあり、外側から内側へ第一、第二、第三回廊と小さく高くなってゆく。私たちはテラスから第一回廊へ入り、左へ進んだ。石柱にアプサーラのレリーフがある。とても美しい。甲側にそった指の形は一昨日の夜見た現代アプサーラと全く同じだ。つまり、現代のアプサーラたちは間違いなく昔からの伝統を受け継いでいることがわかる。       
 やがて第一回廊の壁に刻まれた一大歴史絵巻のレリーフが見え始める。高さ四メートルほどの石の壁にびっしりと彫られている。一番上と中央、下部の三つに分かれて、当時の人々の暮らしやジャングルでの戦争、軍船に乗っての海戦(湖上戦)の様子が描かれている。右側はクメール(カンボジア)軍、左側はベトナム軍。クメール軍の兵士は髪がオールバックで耳が長い。対してベトナム軍の兵士はおかっぱ風に髪を垂らしている(セィリーはちょんまげと説明した)。ともにたくましい身体、鋭い目つきで長槍を手に相対している。ジャングルの中で象に乗るのは将軍。馬に乗っているのは、このバイヨン寺院を造ったジャヤ・ヴァルマン七世。セィリーはレリーフを見ながらこと細かく解説してくれた。
 驚いたのは、この合戦レリーフが兵士の闘いだけでなく、その戦争に補給役として従軍した一般人民の姿も描いていることだ。牛を牽く者に、女連れの男。子どもや犬さえもいる。ぎっしりつまって歩いている人々。その中で後ろを向き口をとがらせている男。その様子はまるで「押すなよ」とでも言っているかのよう。後ろの者が抱えた亀(スッポン?)に噛まれたのか、振り向いて怒っている奴。踊っているようなアプサーラもいる。一人の女を巡って争っている二人の男。三角関係か不倫か。闘鶏があり闘犬がある。闘鶏の場面では鶏を闘わせる男二人の背後に、血走った目で金を賭けるやつがいる。船から投網をし、魚を捕る。宴会が行われ、祝宴が開かれている。酒を飲んだり料理をする場面も詳細に描かれている。木には猿がいて湖にはワニがいる。船に乗って闘う兵士、湖に落ちた兵士。ワニに食われている兵士……。
 私はもう大感激だった。これらはガイドブックの写真を見る限りでは全体像が全くわからなかったレリーフだ。これほどまでに精緻(せいち)に詳細に、戦争と人民の暮らしが描かれていようとは夢にも思わなかった。セィリーは解説しながらゆっくり歩くけれど、それでも私にとっては速かった。しかも、全面見ないうちに一行は第二回廊へ移動してしまった。名残惜しかったけれど、私もみんなの後に続いた。
 第二回廊にもレリーフがあるが、それは見ることなく、もう一つ上のテラスに出る。そこから各石塔の四面観音像がはっきりと見渡せた。顔の大きさは数メートルはある。観音菩薩像はみな男性的な顔立ち。穏やかな微笑みだった。テラスの上に第三回廊がある。その内部には仏像が置かれていた。おじいさん僧侶が仏像のそばに座っている。彼は私に線香を差し出した。私はロウソクから火を付け、線香をあげると合掌した。そして、仏像の前に置かれた壺の中に一ドルを入れた。彼に向かって「オークン(ありがとう)」と言うと、おじいさんはにこりと微笑んだ。そして、「オークン」と応じた。いい微笑みだと思った。おじいさんは角張った顔で何となく四面観音像に似ていた。さらにM氏と中央石塔内部に入り込んだ、中央塔真下から上を見上げる。ここも少しだけ穴が空いて、そこから太陽の光が射し込んでいる。線香の煙で塔内が煙っているので、その光の筋がくっきりと見える。M氏は塔に穴が空いているのは、夏至や冬至の太陽の位置と関係があるのではないかと推測していた。

☆ 湖の戦い描くバイヨンの回廊壁画に負けたばいよン

 バイヨン寺院には一時間はいただろうか。そこを出ると、歩いて十分ほどで昨日も訪れた象のテラス前の広場へ出た。端から中央へ進軍するかのような象の行進がテラス下の壁にたくさん彫られている。今日は全体をじっくり眺めた。昨日は気づかなかったが、中央部のテラス下に奇妙な像がある。全体は人間だが、顔や手足は鳥に似ている。両手を掲げてテラスを支えているかのようなレリーフだった。セィリーは半分鳥で半分人間のガルーダ像だと説明した。ヒンドゥー教の守り神でもあると。
象のテラス
 そこをさらに進むと、癩王のテラスがある。テラスを取り囲むような外壁にたくさんの石仏が彫られている。それはまるで五百羅漢のようだ。テラスの上には癩王の石像(レプリカ)があった。癩病は今は使用禁止の言葉。現在は業病と言われ、ハンセン氏病と呼ばれる。セィリーは、本当に癩病にかかった王様なので、そう呼ばれていると説明した。私はなぜ癩病とわかったのか聞いてみた。しかしセィリーは知らないと言う。癩王の石像を見ると、右手の指先が全て欠けている。セィリーは最初からそうなのか、それとも初めはちゃんとあってその後欠けたのかはっきりしないと言う。しかし、私はたぶんそれが業病の証拠なんだろうと思った。もしそれが制作当時からのものだったら、それでわかったのだろう。
 そこのテラスから下を見下ろすと、外側の外壁内部に一メートルほどの空間があった。その内側の壁にも五百羅漢が彫られている。外側のは修復後の石仏だったようだ。みんなテラスを下りてバスに向かって行った。私はM氏とその中に入った。昔の石像の方がくっきり彫刻されているように見えた。私たちはまるで迷路のような狭い通路を早足で進んだ。その途中通路の片隅に一人の物乞いがいた。年老いた男性で右の足首から先がない。私はすぐに一ドルを壺に入れた。そこを出ると大急ぎでバスへ戻った。
 これでアンコール・トムの見学は終わりだ。私はどこか物足りなさを感じた。もっとゆっくり見学したかった。特にバイヨン寺院はもっといたかった。しかし、団体旅行のツアーでは諦めるしかない。その後バスは午前のラスト、タ・プロム僧院遺跡へ向かった。



B タ・プロム僧院……可憐なガジュマロの木?

タ・プロム、ガジュマロの木
 アンコール・トム東側の勝利の門を出て二キロほど行くと二日目に見たタ・ケウ寺院がある。さらに一キロ行くとタ・プロム僧院の外壁が見えてくる。この外壁はとても長く、僧院全体の大きさが推し量られる。既に外壁の所々にむき出しになった大木の根っこが見られた。ここはガイドブックでガジュマロの木(これはセィリーの呼び方、一般的には「スポアンの木」)が建物や壁の石の間に根を下ろした写真で有名な所だ。
 セィリーはバスの中でタ・プロム僧院について解説した。カンボジアは、ヒンドゥー教、仏教、ヒンドゥー教、仏教と変遷してきた。現在は仏教国だそうだ。そして、タ・プロム僧院はアンコール・トムを造営したジャヤ・ヴァルマン七世が母の霊を祀(まつ)るために立てた仏教寺院であると。東西一キロ、南北六百メートルにも及ぶ広大な寺院らしい。内部は荒廃してガジュマロの木が至る所に生えている。この寺院の修復については専門家の間で意見が分かれているそうだ。このまま木々を取り除くことなく保存するのか、それとも建物を浸食した木々を取り払って修復するかだ。
 やがてバスはタ・プロム僧院外壁の正門に着いた。ここも同じような石塔の門だ。門を入り、しばらく密林の間の道を歩く。すると、遠くから太鼓や胡弓の音楽が聞こえてきた。やがて十人ほどのカンボジア人が演奏する場所へ出た。バイオリンをもっと繊細にしたようなきれいな音色。私たちは立ち止まって演奏を聞いた。全体的にもとてもうまい演奏だと思った。ツアー同行の女性陣がお金を集めている。セィリーに聞くと、彼らは地雷で重傷を負った人たちで、こうして演奏しながら恵みを乞うているとのことだ。最初はわからなかった。しかし、注意してみると確かに腕がなかったり、足がなかったりしている。ただ、今までに見かけた同じタイプの物乞いの人より、みなこざっぱりとした服装や髪型だし、何となく顔つきも明るいような気がした。女性陣はお金をまとめて真ん中辺りに置かれた帽子に入れた。私もこれは恵む気持ちではなく、うまい演奏への対価と思ってそこに一ドルを付け足した。その直後M氏といろいろ話した。私は「ああやって地雷を踏んで傷ついても、なお自立して働いている。素晴らしいですね。人の憐れみにすがるも人生、手や足を失ってなお自立して働くのも人生ですね」などと語った。
 暫く歩いてタ・プロム僧院の建物本体に着く。中は石組みが崩壊して石塊がごろごろ転がっている。すぐにガジュマロの高木が石造物の狭間(はざま)に白い根を伸ばす様に出くわす。日本で言うなら、岩を砕いて根を下ろした松の大木の雰囲気だ。木の幹は直径五十センチ以上はありそうだ。高さ二十メートルから三十メートル。樹齢数百年てところか。それは一カ所だけではなく、至る所で見かけられた。建物全体で一体何本あるのか。最低でも十本前後はありそうだ。ここはガジュマロの群生地なのかもしれない。数百年前のある日、種が石壁の上に落ち、そこで芽吹くと雨季や乾季の間、上へは枝葉を下へは根を伸ばしていった。ものすごい生命力だと思う。真っ直ぐ地面まで根を下ろしたもの。壁に沿って太い根っこが横数メートルに渡って貼りつき、そこから地面に伸びているもの。人型に交差した根もあった。むき出しの根っこはまるで石壁に貼り付くかのように見える。それは自然が長い年月をかけて人間の文明を覆い尽くし飲み込む証(あかし)でもある。ちょっと怖ろしくなるほど不気味な光景だ。
 だが、巨木を見上げれば、真っ直ぐ伸びた木の天辺部分に淡い緑色の葉らしきものが萌え出ている。地面を見れば、毛虫に似た十センチ前後の丸い濃緑色の葉がそこここに落ちている。私は拾ってセィリーにこれが葉っぱなのかと聞いた。すると、そうだと言う。セィリーはなお先端の小さな白い部分を指さしてそれが花だと言う。驚いた。とてもこの大木の花には見えない。既に枯れかけているので、本来はもう少し大きいとのこと。目をこらしてよく見ると、やっと白い花びらの見分けがついた。直径数ミリあるかないか。
 ガジュマロの巨木は石塊のすき間にたくましい根っこを下ろしている。その葉っぱや花がこんなに小さなものだとはちょっと意表を突かれた。ガイドブックでは石に根を下ろした部分だけがよく撮影されている。それは人間の営みを押し潰し破壊する自然の威力と怖さを感じさせる。だが、ここに来てガジュマロの巨木を見上げれば、緑色の葉が茂り、大木に似つかわしくない可憐な花を咲かせている。廃墟となり死んだ石造物の上でガジュマロの木は今でも確かに生きているのだ。
 私はタ・プロム僧院はこのままでいいのではないかと思った。人間の営みなんぞ大きな自然がすぐに覆い尽くし、その中に閉じこめて清浄にする。人間が上位ではなく、大いなる自然が上に立ち人間を包み込む。タ・プロム僧院跡はそれをはっきり教えてくれる廃墟だ。まるで「風の谷のナウシカ」の腐海の森のようだ。
 外に出て土産物屋で色鮮やかなテーブルクロスを見つけた。ワットの石塔や象などが描かれている。私とM氏、それに同行のおばさん三人が通りかかると、可愛い娘さんが「イチマイ、ゴドル」と日本語で声をかける。良い物なので、私は値切り交渉をしてみようと思った。私が指を三本出して「一枚三ドル」と言うと、娘は即座に「オッケー」と言う。意外とあっさりしている。私はそれで手を打とうと思った。だが、M氏が顔を横に振って「一枚二ドル」と言う。娘は「二ドル、ダメダメ」と手を振る。そこで私が「じゃあ、二枚で五ドル」と言っても娘はやはりしぶる。すると、同行のおばさんも入って、「三人で六ドル」と言う。娘はそれでもダメだと顔を横に振る。私たちが諦めて行きかけると、彼女はやっと「オッケー」と言った。とうとう大きなテーブルクロスを一枚あたり二ドルで買ってしまった。しかし、その後娘さんは口をとがらせてさすがに不快気な顔つき。逆に戦利品を手にして、やったやったと大喜びなのはM氏と同行のおばさんだった。私は正直やや心が痛んだ。それでも、その値段で売る以上、利益ゼロということはないだろうと思い直すことにした。
 タ・プロム僧院見学を終えると、中心街に戻りタイ料理の昼食を摂った。午後はお昼寝休憩の後いよいよ遠景からしか眺めていなかったアンコール・ワットに入城することになる。


→「ワットまた旅日記」 その8





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