『久保はてな作品集』21号

 付録「伏線、復習と補足」


○ 伏線を初読で指摘できるのは □□□で読んでいるから(^.^)

[漢字3文字]


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ゆうさんごちゃまぜHP「久保はてな作品集」   2026年02月11日(水)第21号


『 久保はてな作品集 』21号 付録「伏線、補足と復習」

 作品の伏線は初読から指摘できる   御影祐


 前20号にて『久保はてな作品集』は「終わり」としながら、舌の根も乾かぬうちに「付録」の追加(^_^;)。

 読者の「なんじゃそりゃ」の言葉と痛いほどの視線を感じつつ、しかし、これでジ・エンドとすると、残尿感と言うか残便感があってどうもすっきりしません。下世話な話でご勘弁。m(_ _)m

 というのは本号下書きは16号の次、17号候補として半分ほど書かれていました。
 16号は「はてなの遠い世界へ」の第一節が掲載され、「そこには伏線がある」と探してもらいました。

 そして、17号後記に以下の記述があった。覚えていますか。
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後記:なお、没にした17号は「伏線」についても詳しく書く予定でした。
 前節を読み終えたとき、読者から出た可能性があるつぶやきが以下。

1「あんたは作者だから、伏線が6つも8つもあると指摘できたんだろ」ぶつぶつ。
2「作品全体を読んでいないのに、冒頭1節の伏線を指摘できるわけなかろうが」ぶつくさ(^_^;)。
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 ところが、公開された17号は「あらすじ作成に苦しんだこと、解決したこと」が書かれ、「はてなの遠い世界へ」の第4節が掲載され(結局あらすじは書かれなかっ)た。

 そして、次の18号は「なぜあらすじ作成に苦労したか、なぜあらすじをやめることが解決につながったか」について「前号の補足と復習……謎解き編(^_^;)」と題して公開されました。

 その後19、20号は早くも最終回。結果17号後記に書き留めた「読者のぶつぶつ・ぶつくさ」に関して何も言及されないまま。
 もしも読者がハイレベルの一読法有段者なら、「17号の後記にあった二つの反論は答えられないままだな」とつぶやいていいところ。

 あのとき本来の17号をカットしたのは理由があります。
 この件――伏線について深入りすると、「『久保はてな作品集』が白内障の手術前に終わらないかもしれない」との不安があったからです。
 そこで伏線の件は棚上げして17、18と書き継ぎ、19、20を最終回としてなんとか2月第1週で終わらせることができました。

 しかし、伏線の件は単に小説上のテクニックだけでなく、かなり深いテーマを含んでおり、(この間書いてきた)「偶然の出来事から答えを得る」ことと密接な関係があります。

 特に上記1・2のつぶやきはもしかしたら読者の自力では解決できないかもしれない。
 それに目の手術までもう少し日があるので、当初構想通り「付録」として追加することにした次第です。

 再度伏線について読者の不満というか疑問点を短くまとめておくと、
1 作者だからたやすく伏線を指摘できる。
2 全体を読んでいなければ冒頭部の伏線なんぞ指摘できない。

 ちょっと考えてみますか(^_^)。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 伏線を初読で指摘できるのは □□□で読んでいるから(^.^)[漢字3文字]

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【 久保はてな作品集21 】付録「伏線、補足と復習」

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  作品の伏線は初読から指摘できる   御影祐 


 またも狂短歌穴埋めクイズ。
 □□□(3文字)が前置き末尾の「答え」です。

 言い換えると「□□□で読んでいるから、初読段階で伏線を指摘できる」のです。
 これは映画やテレビドラマも同じ。
 もっと言うと「□□□で読んでいなければ、初読の伏線は指摘できない」となります。

 もちろん我がメルマガ読者はすぐに埋められた(はず)。
 えっ、「いやーわからんかった」ですか?
 おやおや。

 以下「ざんねんないきもの事典」ならぬ残念な読者のための解説を。
 [ここ伏線ではありません。NHKアニメ「ざんねんないきもの事典」参照]

 16号本文末尾には以下の記述がありました。
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 以上6〜8ヶ所が伏線でした。2、3ヶくらい的中したのでは?
 えっ、「全くわからなかった」ですって?
 やれやれいまだ一読法初段に達していませんね(^.^)。

 学校は一読法の読み方を教えてくれません。
 再度『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』を読んで勉強してください。
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 このように16号では『一読法を学べ』を再度勉強するよう促していました。

 あそこで次のようにつぶやいた読者がいらっしゃるかもしれません。
伏線がわかることと一読法に何か関係があるのだろうか」と。

 一読法無段者はおそらくこの疑問に答えられない(でしょう)。
 が、有段者は答えられる(はず)。
 伏線に気付くことと一読法は「ものすごくカンケーがある」ことに。

 これでもわからない?
 あそこは御影祐『一読法を学べ』に「連れて行きたかっただけだろ」ですって?

 その程度の理解ですか?
 それじゃあ一読法の段位剥奪。
 残念ながら、ちっともわかっていなかったようです。

 伏線を探す――とはどういうことか。
 それは最初に読んだとき「あれっ!」とか「おやー?」とつぶやくこと。
 ある部分に来て「妙な表現だなあ」とか、「この部分の説明が前後にないな」と感じること。
 そこが大概伏線です。

 このつぶやき。私がこれまで機会ある毎に主張してきた「つぶやきながら読め!」という一読法のイロハではありませんか。

 たとえば、「はてなの遠い世界へ」冒頭「一九九九年一月三十一日が近づいている。あと二ヶ月。もう時間がない……」に続いて第1節が始まっている。
 だが、10行読んでもこの説明となる表現が出てこない。

 ということは「これ伏線か」と推理できる。
 すなわち、伏線に気付くかどうかは「一読法を実践しているかどうか」なのです。
 さーっと読んでいる読み手、立ち止まって考えることのない人は伏線に気付きません

 もう一つ指摘しておきたいこと。
 伏線を見つけられなかった人は「伏線なんか最後まで読まなきゃわからんだろ」と口を尖らせた(かも)。

 実際小説や映画など何度も読んだり見たりすれば、序盤・中盤で「ああ、ここは(後に出る部分の)伏線だったか」と気づくことが多い。
 小中高の国語教科書に載っている小説はほとんど短編だし、どの学校でも「まずさーっと全体を読みましょう」の三読法を実践している。よって、再読(=精読)すれば「ここは伏線だ」とわかりやすい。

 そして(悲しいことに)、この読み方に慣れた人はもう長編小説を読めない
 伏線に気付くことなく一度だけ通読してそれで終わり。
 味わってもいない。理解はたぶん良くて40パーセント。
 もちろんもう一度読めば、理解60〜80に達する可能性はある。
 でも、長編は(もの好きでない限り)二度読まないでしょう。

 この人に「小説を初めて読むときでも伏線がわかるんだよ」と言って信じてもらるかどうか。
 だから、2のように「最後まで読まないと伏線はわからない」との言葉が漏れる。

 ただ、さらなる反論も予想されます。それが1。
「そりゃああんたが作者だから、伏線を簡単に指摘できたんだろ」と。

 いえいえ、そんなことはありまっせん。
 私は初めて読む長編小説の伏線を初読から指摘できます。
 映画を見た一度目から「ここは伏線かも」とつぶやき、後になって「やっぱりあそこは伏線だったか」と振り返ることができます。二度見なくとも。

 なぜなら、読みつつ「あれっ!」とか「おやあ?」とつぶやいている。
「何かへんだぞ」とか「この部分の説明が前後にないなあ」とつぶやきながら読んでいるからです。
 映画やドラマを見るときも同じ(さすがに声に出すことはないけれど)。

 こうつぶやいているから、頭の中に強い記憶として残っています。
 だから、後になって似たようなこと、あるいは先の疑問の解決となる表現が出て来たときに、「ははあ。ここで解決したか」とつぶやける=「以前のあれは伏線だった」と気づく。
 要するに、文章でも映画でも伏線は初読、一度目の視聴から「わかる」のです。

 ゆえに、冒頭狂短歌が完成します。

 〇 伏線を初読で指摘できるのは 一読法で読んでいるから(^.^)


 最後にこれまで何度も繰り返してきた主張を今回も(^_^;)。

 もしも読者がこの読み方(映画やドラマの視聴)ができないなら、それは読者のせいではない。
 小中高の学校(特に国語科)で一読法の読み方を教わらなかったから。

 年寄りあるあるで恐縮ながら、私は何度も言わなければなりません。
 というのは特殊詐欺がいつまで経っても減らないからです。
 未来を担う子供達だけでなく、今を生きる大人にも一読法を学んでもらうことは喫緊の課題だと言いたい。

 泳ぎの練習、自転車に乗る練習。やらなければ泳げないし、自転車に乗れないのと同じ。
 日本人が学んできた国語三読法は最初さーっと読み、もう一度読んで考えるという読み方です。
 その読み方を人の話を聞くことにも応用している。だから、日本人は人の話をぼーっと聞く。話の最初(一度目)から相手の言葉を考えつつ聞くことができない

 通読の弊害は今一部の大人を苦しめています。オレオレ詐欺や投資・ロマンス詐欺で虎の子をだましとられる。毎年の詐欺被害は何百億にものぼって減ることを知らない。
 私は「一読法の読み方、人の話の聞き方を学ばなかったから」と思っています。

 二度読んで考えよう。後になって考えよう――はダメ。
 後になって出てくるのは「だまされた後悔」であり、「どうしてこんなことが起こったのか検証だ、検証だ」と空しく叫ぶことだけ。

 最初の読みの段階から立ち止まりつつ考える。人の話も聞きつつ同時に考える
 そのとき「あれっ!」とか「おやあ?」とつぶやく。「何かへんだぞ」とつぶやいて直ちにそれを指摘する。これでしか詐欺も誹謗中傷も、政治家の空約束も見抜くことはできません。

 学校は一読法の読み方を教えてくれません。
 どうか『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』を読んで勉強してください。



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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:以下執筆裏話。ちと長くなりました……。

 今節は「付録」ではなく「付録その1」としてさらに3回ほど追加するつもりでした。
 というのは「伏線の復習=一読法の復習」でもあり、また「偶然から答えを得る」件も、もう少し語っておきたいと思ったからです。

 というのは私が知人友人にこの件を話すと、相手から「よくあなたは気づいたね。私にはそういう偶然がないよ」と言われることが多い。以前から「なぜ私には珍しいたまたまがあるのか。そして、そこから答えを見い出せるのか」不思議に思っていました。

[ここで直ちに追加。私は無神論者で何かの宗教信者ではありません。ただ、偶然の出来事から答えを見い出せると、嬉しくて楽しくて仕方ないだけです。]

 とは言え伏線や一読法、偶然について新規に書く余裕・時間はない。
 そこで過去の作品を眺めていたら、昨年公開した『空海マオの青春』プレ後半の中にちょうどいいのを見つけました。
 具体的には→(空海論)プレ後半へ

 それを2、3…として再配信しようか、などと考えてコピーなぞ準備するうちひょいと気づきました。「これは空海論後半と(大いに)関係しているではないか」と。

 つまり、ちょうどいいとして見つけたところは伏線や一読法の復習になると同時に、『空海論』後半へのつなぎになっているのです。これは意外な発見。
 もっとも、考えてみれば「プレ後半」と題していたのだから、至極当然のことかも(^_^;)。

 しかし、私はこのことに気付いていませんでした。
 これを疑問形に転換すると次のようになります。
私は昨年空海論プレ後半を書きながら、なぜ途中に一読法の復習を挿入したのだろう?」と。

 あのとき私の考え(執筆意図)はこうでした。
 読者は一読法の読み方を忘れ、すぐにぼーっと読む通読に戻る(たぶん戻っているだろう)。
 だから、他の論文・エッセーを書いているときも「忘れないでね」と、その都度一読法を強調して罠を仕掛けたり、「復習と補足」を挿入していると。
 おそらく読者各位もこのように思って「またか」とつぶやいたのではないか(^_^;)と推測します。

 しかし、今回「空海論プレ後半」を再読して「違う」ことに気付きました。
 そして、これに気付いたとき、今年初め「はてなの遠い世界へ」のあらすじ作成に苦労したこと、しかし、たまたま見た『相棒24』第11話によって解決したことを思い出し、「これで空海論後半が書けそうだ」と(嬉しい)感覚がよみがえりました(^_^)。
 [このへん意味不明かも。なおしばらくお付き合いください。]

 どうしてこのようなことを書くかと言うと、『空海マオの青春』メルマガ読者への謝罪のためです。小説「空海マオの青春」と論文編前半(全55回)のメルマガ配信を終えたのが2019年2月10日。それから論文編後半の執筆、公開をしないまま、今年まできっちり7年経ちました。
 うーんこれは長い、長すぎる。

 この間他の書き物――特に『一読法を学べ』と『続狂短歌人生論』などを執筆した。それは必要なことだったし、もちろん書きたい作品だった。
 が、我が内心を告白すると「空海論後半を書きたくなかった」のです(^_^;)。

 さすがにこれは語弊ある表現なので、正確に言うと「書きづらかった、どう書けばいいか」方針が定まらなかった。だから、ぐずぐずして先延ばしにした……ということです。
 平謝り。m(_ _)m

 なぜそうなったかと言うと、理由はわかっています。
 たとえば前半・後半で書くべきことが10あるとします。すると前半は10のうち8〜9、根拠があった。根拠を発見できたし、論理的に証明できた。
 ところが、後半はそれが10のうち5ほどしかない。しかも、最後の1ヶは完全に「根拠なき推測」でしかない。

 もう少し書くと、空海論前半は学者・研究者の批判に耐えられる論文を書いた(書けた)。
 どんな感想・反論が来ても全て答えられる、びくともしない自信があった。
 もっとも、誰からも感想、反論は来ませんでしたが……(^_^;)。

 ところが、一転後半は……。
 論文後半の公開を始めれば、根拠を言えない部分がいろいろ出て来る。
 すると、「そこは創作上の虚構であり、あなたの推理でしかないね」と言われかねない。
 それが想像されるわけです。困った――というか、だからいじいじぐずぐずした(^_^;)。

 この問題を解決しない限り、「よーし書くぞお」との意欲が湧かないし、事実これまで湧きませんでした。
 昨年論文プレ後半を書いた後、10月から「久保はてな作品集」執筆・公開に入ったのは(再度必要ではあったけれど)半分は「空海論後半がまだ書きづらいなあ」との思いが続いていたのです。

 しかし、いよいよ追い詰められた(^.^)。というか自分を追い込みました。
 もういやだろうが何だろうが、「空海論後半」執筆に取りかかるしかないと。
 そんなとき(もう一度書きますが)、今年1月の執筆困難と偶然の出来事によって解決できる嬉しい「たまたま」があった。それは一読法、伏線と関わっていた。

 もう一つ。2月になってもっと驚くべき「たまたま」がありました。
 それは思いもしない、この上なく嬉しい、比類なき最上級のたまたまでした。
 別に競馬で特大万馬券が当たったわけではありません(^.^)。
 AIに関係した偶然であり、精神的なことです。

 さらに先ほど書いた、プレ後半の中の一読法復習は論文編後半とつながっていたとの発見。
 この3つが重なってようやく――ほんとにやっと、空海論後半の執筆方針が固まりました。

 そして、狂短歌をひとつ詠みました。

 〇 偶然の答えに気付くそのために 一読法の生き方必須

 この下の句、最初は「一読法の読み方必須」と書いていました。
 それを「一読法の生き方」に変えました。
 これが「空海論後半」執筆の基本方針です。
 一読法は単なる本の読み方(人の話の聞き方)ではない。
 生き方の指針にすべきだということ
です。

 以上、読者の「なんのこっちゃ?」のつぶやきを感じつつ、詳細は4月からといたします(^_^)。

 ただ、一読法有段者はこれが後記冒頭の「答えになっている」ことに気付かれたかも。
 実は後記冒頭は伏線であり、末尾はその回収となる答えです。
 もう一度「後記」冒頭を読めばわかるかも?(^_^)   →「後記」冒頭


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