○ 人生の終わりを意識するならば 昔を語るも「善哉善哉」(^_^)
ゆうさんごちゃまぜHP「久保はてな作品集」 2026年02月06日(金)第20号
『 久保はてな作品集 』20号 最終回(2)
「Y高文芸部久保はてなから御影祐へ」その2 御影祐
架空文芸部員久保はてなから御影祐への進化はある意味偶然のたまものであった――それを前号にて語りました。
あれでほぼ尽きているので、今号はY高文芸部のその後というか、御影祐の小説履歴を披露したいと思います。
特にあのころから30年近く経ってなぜ今久保はてな作品集を公開したのか。そのわけについて語ります。『Y高文芸部物語』と重なる部分がありますが、ご容赦ください。
その前に文芸部3年目の活動を紹介しておきます。
文芸部員2年10名は1999年無事3学年に進級して4月に新入生6名が加入。
新部員に対して1年時の課題が繰り返されたので、3年生は参加フリーとしました。
ただ、1999年文化祭『百八煩悩』の特集は「新聞記事の小説化」と決め、1年と3年全部員が書くことにしました。
1年にはもちろん時・所・人の「小説の三要素」や伏線など最低限の書き方を指導。新聞記事を小説にすることはすでにあらすじが決まっているので、さほど難しくありません。
この課題は同年2月にあったある事件が素材です。
それは「わが子二人を電車に乗せ置き去り」との見出しで新聞に記載されました。
大阪市在住の風俗従業員N(31歳女性)が自分の子供二人を、電車に乗せたまま置き去りにしたとして京都府警に逮捕された。子どもは長男(8つ)と長女(7つ)。
Nは二人を大阪駅に連れて行き、「おばあちゃんが迎えに来るから京都駅で降りなさい」とうそをついて放置した。二人は京都駅で誰も迎えに来ず、途方に暮れているところを保護された。子どもは学校にも通わせていなかったようです。
1学期末に提出された14作は合評を経てそのまま文化祭『百八煩悩』に掲載しました。屋上屋に近いし、本題から逸れるので、紹介は割愛したいと思います。
ただ、これを課題とした顧問の思いを「後記」に書いたので、それを引用します。
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後記「子どもが流す一粒の涙は地球より重い」(ケストナーの言葉より)
一つの新聞記事に、どれだけ想像力をふくらませるか。人の心の痛みと哀しみをどれだけ自分のものにできるか。数行の新聞記事は単純に事実の断片しか伝えてくれません。水商売の母親が二人の子どもを捨てた。わかることはそれだけ。
なぜ母は我が子を捨てたのか。子ども二人はそのことをどう思ったか。背景には何があったのか。どんな事情があったのか。それら一切はわからないまま。
そこで部員は想像力をふくらませて作品化していく。事実をそのまま書けば、経過と結果はわかっている。だから「表現力の勝負だよ」と顧問は言いました。
そうして完成した作が14編。部員は1・2・3に分けたことを不満に思うでしょう。しかし、読者に読んでいただきたいと思い、敢えて分けました。
1 オーソドックスに、そして人間のある部分をまだ信じたい――作品群
2 おそらく「怒り」を内に秘め、それをストレートに表現した――作品群
3 テーマを自己に引きつけ、課題にとらわれることなく自由に描いた――作品群
稚拙・未熟な作品はあります。ナイフが出るし、虐待、堕胎、殺しも出る。眉をひそめる方もいらっしゃるでしょう。しかし、これが現在の高校生(文芸部員)の「表現」だと思い、全て掲載することにしました。
破壊と殺意と怒り。そして、怒涛のエネルギーの表出は昔も今も同じかもしれません。ただ、人の心の痛みを感じ取り、想像力で表現した――そのことは信じていいような気がします。
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表題とした「子どもが流す一粒の涙は地球より重い」はドイツの児童文学者エーリッヒ・ケストナーの有名な言葉です。
当時は「よく知られているだろう」と思って説明を省略しました。今の人たちは知らないかもしれないので補足します。ケストナーの『飛ぶ教室』のプロローグにあります。
そこに描かれたのは父に捨てられた男の子のエピソード。アメリカの港で父親から「ドイツに着けばおばさんが待っている」と言われ、彼は一人で船旅をする。だが、ドイツの港で誰も現れない。夕方男の子は一粒だけ涙を流した……。
ドイツで『飛ぶ教室』が発表されたのは1933年(昭和8年)。当時は日本でも口減らしのために子どもを丁稚奉公に出したり、娘を女郎屋に売り渡すことがあった時代です。
20世紀前半の子捨てが1999年の日本で起こるとは、と思って課題としました。
そして、2025年現在に至るも日本と世界のどこか――至るところで、子どもは一粒涙を流している。あるいは、もっとひどいと言うべきか。
日本の子どもへの虐待は2023年に22万5500件余り。不登校は25年35万人。いじめの認知件数76万9022件。流された涙の総量はいかほどでしょう。
そして、もはや涙することさえない小中高生の自殺者数は532人(2024年比3人増)。内訳は小学生10人、中学生170人、高校生352人。2年連続で最多とのこと。日本の悲しい現実です。
総選挙立候補者は大人のことで忙しく、取り上げてもいない……ような。
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 人生の終わりを意識するならば 昔を語るも「善哉善哉」(^_^)
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皆さん方は作家個人の文学全集を読んだことがありますか。
明治大正時代の――たとえば夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、志賀直哉など小説家の全作品が含まれた作品集です。公開された小説や随筆等々だけでなく、非公開の日記や手紙類も網羅され、正に一作家の全執筆集です。だいたい10巻前後、多いと20巻超もあって重厚感ある表装でも有名。
昔大きな書店には一つか二つ、ときには近代や古典の岩波文学大系数十巻も置かれて文学少年、大学国文志望の少年に「いつか読みたい」と夢を抱かせました。
……って私のことですが(^_^;)。
どーでもいい私的話題だから、これは「伏線だな」とつぶやきたいところ。
もちろん伏線です。これまで語らなかった「Y高文芸部時代から30年近く経ってなぜ今「久保はてな作品集」を公開したか、その理由と関係があります。
さて、私が高校教員(国語科)になって3校目の赴任先が神奈川県S市にあるY東西高校でした。
その直前大学で卒論とした志賀直哉の『暗夜行路』成立過程をさらに研究、『わが青春の暗夜行路』と題して300部の冊子にしました。
もちろん純然たる学術論文。『志賀直哉全集』(1973年版)は全16巻。大学時代、隅から隅まで(?)唯一読み通した全集です。[「早速伏線回収か」とつぶやけるところ。]
ここでちょっと十代の創作活動について語っておきます。
田舎の中学校から大分高専に入学したのが1970年。60年代後半は安保闘争、大学紛争(象徴は69年東大入試の中止)、公害問題など騒然とした時代でした。
世界でもベトナム反戦運動、沖縄は依然アメリカの領土であり、返還に向けての交渉が行われていました。
そのような世相を背景に、朴訥な田舎少年が都市部に住むようになった。間違いなく新鮮で刺激的な「青春時代」のスタートだったと言えましょう。
高専は5年制ゆえ大学受験と無縁。私は毎週のように映画を見に行きました。
当時はGS(グループサウンズ)からフォークソングの時代で、私も中一からギターを始めていました。初めてジャズ喫茶に入ったのもこのころであり、2年から軽音楽部に入部。ジャズバンドのベーシストとして部活動を楽しみ、仲間とフォークバンドを組みました。
また、中学時代のマドンナと文通を始めたものの半年後に終了。相手から「理想化しているのでは?」と言われたことが原因でした。この体験を『はてなの遠い世界へ』に盛り込みました(^_^;)。
その後理系工学系の授業についていけず、3年終了時文系大学への進路変更を考えて中退。高卒資格は得られたので、福岡の予備校に1年通って翌年大学文系国文科に入学しました。
高専ではいわば落ちこぼれ生徒だったけれど、受験勉強をしなくて済んだ分、高専の3年間は自由気ままな日々でした。
余談ながら前置きに書いた『飛ぶ教室』は小学校時代毎年のように読んだ海外文学です。オールふり仮名付きだったので、小1でも読めました。
これとマーク・トゥエイン『トムソーヤーの冒険』の2作が「将来小説家になりたい」との思いを生んだ我がベストツーです。
えっ、「なぜ何度も読んだのか?」ですって?
家には(講談社『少年少女世界文学全集』のうち)この2冊しかなかったからです(^_^;)。
そして、私は本の虫ではなく(春夏秋は)外を駆けずり回って遊ぶことが好きな子どもでした。
以前書いたように、この2作の影響から「将来小説家になりたい」との夢を抱きました。
しかし、中一のとき父から「父ちゃんと母ちゃんの子に作家の才能はないからあきらめろ」と言われて封印(^_^;)。
ところが、高専入学によって環境一変。実家を離れた寮生活だから、私が何を考え、どう行動しているか親の知るところではない。
それもあって1年の夏には初の小説(処女作とも言える)『夏』(原稿用紙20枚ほど)を書きました。
主人公を十代の少女として夏休みに入った彼女が「今は夏。周囲の人は夏を感じ謳歌している。でも、私は夏を感じない」とつぶやかせる。彼女はどうやって夏を実感できるか、ひと夏の体験を描きました。
今となっては「ぎゃっ」と叫びたくなる(^_^;)ほどの習作で、事実(当時親しくなった)友人に読んでもらったら、みな噴飯ものといった顔をされたものです。
しかし、振り返ってみれば、それは自分の孤立・孤独、自然や周囲との異和感を描こうとしたのであり、今でも「処女作」だと思っています。
そして、高専2作目が3年の5月に書いた「一九七二・五・一五」です。
ストーリーは単純な私小説。高専3年の「ぼく」がデモに出ることを決意して沖縄返還日の午後友人二人と市内に出かける。
デモ隊と機動隊が対峙する場面で一般市民が続々とデモに入るのを見て「ぼく」はそばにいた友人に「行こう!」と声をかける。だが、彼は「やめときましょう」と言う。
それを聞いて「ぼく」は金縛りにあったかのように動けなくなり、デモに参加できないまま帰路に就く――という小説でした。
前著『夏』はバカにされたけれど、こちらは「『ぼく』の心理がよく書けている」と好評でした。
後者は『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』第54号に掲載しています。
おヒマならご一読ください。私自身「やっと小説らしい小説が書けた」と手ごたえを感じた作品でした。
高専ではこの2作以外小説を書いていません。2年になって軽音楽部に入部したこともあってそちらに集中するようになったことが一つ。もう一つは学校の勉強。2年時には「機構学」で0点を取り、さすがにやばい状況になっていました。
高専は大学のようにテストで60点を取れないと不可がつき、それが2ヶで即留年でした。
だから、夜は夜で留年しないための丸暗記勉強(^_^;)にあてざるを得なかったのです。
かと言って創作への思いは途切れていません。実作の代わりに何をしたかというと、基本読書でした。戦前戦後の小説はもちろん、意外なところでは「文学小説論、小説の書き方」をテーマとする評論をよく読みました。
この傾向は大学国文入学後も続きます。大学で書いた小説の件はいつかどこかということで、結局10年近く「文学小説論」関係の書物を読んでいたことになります。
どうしてこのようなことを書くかというと、教職に就いて十数年後、Y高文芸部で部員を指導する際、「課題→実作→合評」活動を提案した理由がここにあるからです。
結論を一言で言えば「文学小説論をいくら読んでも満足できる作品が書けなかった」となります(^_^;)。「おいおい」てか?
高校教員になって日々の生活に忙殺されながら、それでも春夏冬の休みには小説を書く時間と余裕があった。だが、それはしばしば未完に終わり、書き上げても文学賞に投稿しようと思えるような自信作はできなかった。
その理由に気付いたのが(過去2年間部員0の)Y高文芸部復活を考えたころです。
比喩的に言うなら、水泳で泳ぐ、自転車に乗るにはどうするか。私は「水泳論・泳ぎ方」という書物、「自転車とは何か。どうやって乗れるか」という本をたくさん読んだということです。再度「おいおい」(^_^;)。
そんなものをいくら読んでも泳げるようにならないし、自転車にも乗れない。まずは水に入り、自転車に乗る練習をして時には溺れかけたり、何度も転んでやっと泳げるし、自転車に乗れるようになる。この単純な理屈をなぜか小説訓練に適用しなかったのです。
ここで「そんなこと自明の理じゃないか」と言われそう。
もちろん私だって自転車や水泳に関してはそのような練習を積みました。
しかし、小説に関しては「文学・小説論や書き方の本を読んだら小説が書けるようになる」と信じて疑わなかったようです。
かくして文芸部員には理論より実作と考え、しかも勝手に書くのではなく、課題を与え、提出作品をみなで批評し合う「課題→実作→合評」活動を提案したのです。
それからほぼ30年。この間久保はてな作品は土に埋もれた遺跡として公開するつもりはありませんでした。
なぜなら、私にとって久保はてな作品は全て《習作》だからです。いわば文箱(ふばこ)の中に仕舞われた文書類。昔の言葉で言うなら、ふすまの裏紙。
よって、2001年の退職後書籍化したり、メルマガやホームページに公開した作品が(私の死後?)御影祐の正式遺作ということになります。
ちなみに、これまで御影祐名義で書いてきた作品を列挙すると以下のとおり。
1 少年ケンジの魂の成長を描く『ケンジとマーヤのフラクタル時空』
2 その続編(完結作)の『時空ストレイシープ』
3 人生・教育論エッセー『狂短歌人生論』
この3冊は出版するも初版撃沈(^_^;)。
4 空海前半生の歴史小説『空海マオの青春』
5 教育評論『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』
6 3の続編『続狂短歌人生論』
7 空海小説編の根拠を語る『空海論』前編
8 (目下中断している)『空海論』後編の「プレ後半」
これ以外に帰郷後地域限定の「九州芸術祭文学賞」に投稿すべく60枚ほどの短編小説を6編書きました。そのうち2編が大分首席と次席になったけれど、全体の最優秀作になることはありませんでした。なれば『文学界』にデビューできたのですが(^_^;)。
笑ってしまうのは主席となった作がY高時代の課題「源信の『往生要集』を参考に地獄物語をつくる」の提出作品だったこと。久保はてな君唯一の成果(?)と言えるかもしれません(この6編は全て未公開)。
それからメルマガエッセー『狂歌今日行くジンセー論』は2025年末までに275号。そして、競馬GI予想と回顧のメルマガ『ほぞ噛み競馬予想』は昨年有馬記念で総計1114号となりました。
みな(読者の迷惑かえりみない)力作長文ばかり(^_^;)。
しかし、ふと考えました。早期退職して25年。そろそろ人生の終わりが見えてきて「自分の全集をつくるとしたらどうなるだろう」と。
無名作家に書物版の全集なぞあり得ない。だが、電子書籍としての全集なら可能。「御影祐のホームページ」は正にそれ。
[ここで「伏線の回収か!」と叫びたいところ(^_^)。]
公開した作品群は当然全集に入る。その他では日記・手紙などあるにはあれど、さすがに全集に入れるほどの価値はない。が、Y高文芸部時代の習作はどうだろう。
文芸部OBの遠野喬志君から「文学フリマに参加を」と呼びかけられ、当時の作品を30年ぶりに読み返した。自画自賛で恐縮ながら「結構しっかり書いているじゃないか」と愛着を覚える小品もありました。
かくして、これら習作を「御影祐全集に入れても良いではないか」と思った。
これが埋もれていた久保はてなの作品をメルマガ・ホームページに公開した最大の理由です。
〇 人生の終わりを意識するならば 昔を語るも「善哉善哉」(^_^)
以上です。
これにて「久保はてな作品集」を終了。
2月3月は休刊して4月より『空海論』後半を開始します。
ところで、善哉(ぜんざい)は小見出しに書いた通り「善きかな」という意味。またも「空海マオの青春」読者への罠となる伏線です。
気づきましたか。
これは空海が入唐後師事した青龍寺住職「恵果」がよく使った言葉です。
4月以降のメルマガ『空海論』後編は「空海マオの青春」読者以外には「つまらない、興味関心のない」読み物かもしれません。
そこで「読んでみようか」との意欲を書きたてるため、「なぜ空海を研究して小説化し、さらに論文まで書いているのか」その理由を書きたいと思います。
それは前2号にて書いた「偶然の出来事から悩みの答えを得る」――この生き方を空海に見出したからであり、私自身もそれを体験したからです。
私は大学入学後すぐ学生運動に飛び込み、その渦中で挫折を体験しました。1年後期は4畳半一間の部屋に閉じこもる「引きこもり」生活も送った。そのトラウマもあって2年のころは自殺願望にとりつかれました。しかし、臆病な人間だったので決行できなかった。
その後ある程度立ち直って高校教員になったけれど、先生業に自信なく、小説家になりたいとの夢も実現できそうになく、かといって奥さん子どもを得てフツーの人生を歩むこともできそうになかった。
そのころ悩みの答えを偶然の出来事から見出せると知り、Y高文芸部で実践し体験できた。この下地の上に空海がいました。
空海には最も有名な逸話があります。
入唐後ある儀式で空海は諸仏が描かれた曼荼羅図に目隠しをして花一輪を投げる。落ちたところの仏が投げた人の有縁(うえん)となる。守り神のような感じです。
この儀式を「投華得仏(とうげとくぶつ)」と言い、通常胎蔵界、翌月金剛界と二度行われる。
空海は一度目の投華で密教最高位の大日如来に当たった。周僧は驚き、恵果和尚も「不可思議、不可思議」と言った。
これだけでも驚きなのに、空海は二度目の投華得仏でまたも大日如来の上に花を落とした(目隠しをして)。恵果も周僧もさらに目を見張った。
この恵果和尚と空海が初めて会って入門を許したときの言葉が「大好、大好(大いに良し、大いに良し)」であり、もう一つの口癖(?)が「善哉、善哉」でした。
この逸話を知ったのは退職前後だと思います。
その後調べて空海には多くの偶然があり、それによって悩みを解決し、夢に向かって突き進む人生だったことを確認できました。
これはもう書くしかない(^_^)。
何より「失意と絶望に沈んでいた自分の二十代にこの生き方を教えたい」
――そう思って空海伝を書いた次第です。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:2月下旬に白内障の手術を受けます。初めてのことだし、まず左目、一週間後右目と両眼なので、どの程度静養すればいいのか、とんと見当つきません。
日本では突然のように(国民生活より党利党略の)解散総選挙があり、世界でも困難な課題が目白押し。書きたいこと多々あれど、しばらく休養します。
よって、今まで選挙後検証していた「比例代表による正しい議員数」は配信をやめます。与党が過半数となれば、衆議院1割削減案が「支持を得た」として実施されるでしょう。多く減らそうとしているのは比例代表のようで、ますます民意が反映されない各党議員数となる。やれやれ。
ところで、最近たまたま井上陽水の「傘がない」を聞きました。
井上陽水と忌野清志郎のコラボ動画で、清志郎の歌唱と高中正義のギターが絶妙。
高専2年のときラジオから流れる陽水の「シャウト」に衝撃を受けた記憶があります。
1番と2番の冒頭部が以下。
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1都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない
……
2テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
だけども問題は今日の雨 傘がない
……
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最近の世相と私個人のことを語る本節を終えるにふさわしい歌と思って掲載します。
鮮やかに視界が開けることを期待して4月の再会を楽しみに……。m(_ _)m
御影祐
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以下は競馬「ほぞ噛みメルマガ」読者各位へ。
今年のGI第1弾フェブラリーSは2月22日(日)の開催です。
たぶんデータ集約、予想メルマガ執筆不可能と思われるので、本年メルマガ配信は3月29日(日)の高松宮記念からとします。
で一言。2025年年度代表馬がなんと世界ダートGI2勝の坂井瑠星フォーエバーヤングになりました。ダート馬初の年度代表馬です。
素晴らしい(^_^)。おめでとうございます。
芝GI馬に抜けた活躍馬がいなかったとは言え、マスコミ投票者にこのような英断が下せるとは、と思って驚きました。
ただ、「だったらどうして無敗の3冠馬福永コントレイルを年度代表馬にせんかったんや!」と私ゃ言いたい。ずっと言い続けるぞ!(^.^)
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