本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。
最近一読法の復習をやっていないので、もしかしたら「ぼーっと読んでるかも(^.^)」と思って警告風確認問題を一つ。
とにかく読みつつ「あれっ!」とか「おやあ?」とつぶやくこと。一読法はそれに尽きます。
前々号において今後8回分の見出しを掲載しました。
以下2、3の見出しを読んだとき……
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2 南都仏教――僧侶個人への失望
3 学問仏教、大寺院の経済活動への異和感
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「おやあ2は失望なのに、3は異和感とある。3も失望で良さそうだが、何か違いがあるんだろうか」とつぶやいたかどうか。
つぶやいていれば、そして前節(2)を読み終えて「確かに僧侶個人の問題と失望が書かれていた」とまとめれば、今回読みつつ「なるほど、だから失望じゃないのか」と異和感にした理由を発見できるはず。
疑問を持ちつつ読む。それによって文章の焦点が明確になる。つぶやきながら読むことで、理解度3は6に上昇するのです。
もう一つ。前節(2)の途中(か読み終えたところで)「真ん中へんに余計な話題が入っていたなあ。だから、長くなるんだよ」とつぶやいたか(これは批判的つぶやき)。
余計な話題とは「百八十度大転換するような大きな進路変更をしたとき、それまでやったことが無駄になったと思うか、役に立ったか。成功ならいいけれど、失敗に終わった人はもう一度進路変更を勧める」のところ。
空海マオの仏教転進に絡んでいるものの、短くまとめるつもりなら、なくて構わない部分。「だから長くなるんだよ」と文句の一つも言いたくなる(^_^;)。
では、なぜ原本の該当部を、再度そのまま掲載したのか。
理由は私が書いてきた『空海論』前半はいろいろ余談雑談、研究の姿勢とか卒論『暗夜行路』のことなどを書き込んでおり、読者に「そこもじっくり読んでほしい」との気持ちがこめられています。研究論文を読み慣れていない人への配慮でもあります。
プレ後半を執筆するにあたって多くの余談雑談はカットしました。だが、「ここは入れよう」と再度掲載した。
これがしばしば「『論文編前半』を読んでほしい」と書いた理由であり、1の前置きに「昨年末再読して『短くするのは至難の業やなあ』と感じ、正直『全てそのまま再配信したい』誘惑に駆られた(^_^;)」理由なのです。
私は十代のころ、学校の授業で「先生の雑談」が好きな生徒でした。雑談から人生や生きる姿勢について学んだり、先生が語る書物の感想など大いに啓発されました。
私も高校教員になってから、同じような授業を心がけました。つまり、本稿もそれに似て余談雑談の多い論文なのです。
「なるほど……要するに、長くなることの言い訳だな」とつぶやいて結構です(^_^;)。
というわけで、今節は南都仏教が陥った「学問仏教」と大寺院の経済活動=「出挙」(すいこ)を取り上げます。
前号は主として僧侶個人に対する失望でした。今回は失望とは言いづらい。ゆえに「異和感」とまとめました。
なお、本節の詳細は空海論前半第24節〜25節にあります。
さらに、二つに分けていいほど長くなりましたが、予定通り1節とします。
二回に分けて読むことを勧めます。
『空海論』前半のまとめ(三) その3
1 仏教入門後の大まかな流れと九つの謎 1月22日
2 南都仏教――僧侶個人への失望 1月29日
3 学問仏教、大寺院の経済活動への異和感 2月05日
4 山岳修験道進出、道教発見
5 神仙思想への失望から仏教回帰、『聾瞽指帰』執筆
6 新しい仏教を求めて一度目の求聞持法百万遍修行
7 室戸岬にて二度目の百万遍修行、改題『三教指帰』公開
8 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について
学問仏教、大寺院の経済活動への異和感
何度も書いているように、南都仏教界が陥った学問仏教や大寺院の経済活動について、空海マオの直接の言及はありません。もちろん間接的言及もない。
しかし(大げさなことを書くと)、私は人間世界とは「社会全体の感情と、それに賛同したり反発する個人の感情から成り立っている」と考えています。
なので、個人の事実が発見されなくとも、社会全体の事実、そして感情さえわかれば、個人の感情を突き止めることができると思います。
それゆえ、史書の中から当時の仏教界の実情をながめ、その反照としてマオの内心を探ろうと試みているわけです。
前節は僧侶個人への失望について桓武朝廷が発出したもろもろの詔勅を取り上げました。マオの見方はかなり朝廷に近かっただろうと推理しています。
というのはマオは知識・技能を何も持つことなく、仏教界に飛び込んだわけではありません。
彼には10年間にわたる儒教習得、関連した漢籍の勉強、優れた漢文読書術がある。なおかつ藤原南家伊予親王の家庭教師であった叔父阿刀の大足の薫陶を受けている。
叔父とどの程度会話があったか不明ながら、叔父の言葉には政治の現況、歴史的知識、南都仏教への批判があったに違いありません。なおかつマオは新仏教創始の気持ちをもって入門した。その観点から旧仏教界を眺めれば、彼が批判的見方を持った可能性は高いと思います。
そこで今節は僧侶個人への批判に続いて南都仏教が陥った学問仏教、さらに大寺院の経済活動の問題を眺めます。なぜこれを「失望」ではなく「異和感」としたのか、そのわけを感じつつお読みください。
前節にて触れたように、桓武天皇前後の史実は『続日本紀』と『日本後紀』にあります。
私は二著を1年間一読法で読みました。これによって時代の感情――現代とさほど変わらない社会と個人の感情が読みとれました。当時の天皇、朝廷、人民の姿がイメージできるようになっただけでなく、南都仏教の実態もかなりわかりました。
創作に当たって六宗に分かれていた南都仏教をどう描くか、どこまで描くかという悩みもあっさり解決しました。史書には朝廷が南都仏教をどう見ていたか、その記述があってそれを使えばいいと気づいたからです。
さて、奈良時代の南都仏教は六つの宗派と言うより、むしろ有力どころは二つでした。それが「法相宗」と「三論宗」です(法相宗、三論宗、その他の宗派、仏教語の詳細はネット事典をご覧下さい)。
法相宗の代表は興福寺、三論宗の代表は大安寺。マオは大安寺に入門したので、三論派の一員としてスタートしたことになります。
法相、三論二宗についての詔は延暦十七(798)年(マオ24歳)九月十六日の条に出てきます。(以下引用は談社学術文庫『続日本紀』と『日本後紀』より)
・「法相宗は、諸法のあり方を究明して万有が唯識の変化であると説き、三論宗は空の立場で一切が本質的な存在ではないと論じている。共に教説は異なるが、真理をめざしている点で相違しない。両宗により仏教の知恵は松明のごとく明るく、悟りの教えはますます盛んになっているのである。
しかし、最近の仏教者はもっぱら法相につき、三論を学習することを止めてしまっている。法相の所依である世親(四、五世紀頃のインドの仏教哲学者)の学説は伝わるものの、三論の所依である竜樹(二、三世紀頃のインドの仏教哲学者)の論説は絶えようとしている。僧綱の指導が欠如しているので、このような事態になってしまったのである。
そこで僧綱が適切な指導を行い、法相・三論両宗を学習させ、空・有すなわち三論、法相の教えが永く頽(すた)れないようにし、大乗・小乗の教説が、地形が変化するほどの長期にわたり廃絶しないようにせよ。このことを広く僧侶に告知して、朕の意とするところを周知させよ」とあります。
他に「いま聞くところによると三論・法相の両宗はお互いに争い、両宗を学ぶ者はそれぞれ一宗のみを研鑽している」とか、「三論・法相両宗の僧侶は相手を目にすると、論争を始めている。〜諸寺において仏教を学ぶ学生は、三論を学ぶ者は少数で法相宗に所属する者が多く、宗勢の強弱を見て有力な宗派につく学生により教界が汚され、仏教の真理の追究が疎かになっている」ともあります。
ここからわかることが三点。
ア 法相と三論は大乗仏教の認識論であること
イ 出会うと論争をしていること
ウ 今は法相宗が有力で、三論派が少なくなっていること
これまで毎年の新規得度者は(欠員を除いて)10名。法相5、三論5とされ、三論派が定員5に達しないとき法相派で補っていた。が、今後は「定員に達せずとも、他宗で補充してはならない」とあります。これはマオ30歳のときの勅令ですが、南都仏教界の問題点としてとらえられていたようです。
ここで注意したいのは他の勅令に「諸々の論疏(ろんしょ)を読んでも経典を読んでいない者は、得度を許さない」との文言があること。「論疏」とは仏教解説書のことで漢文で書かれています。
言い換えれば、仏教解説書は読んでいるけれど、経典そのものを読んでいない僧がいたことを意味します。史書には『法華経』・『華厳経』などが挙げられています。仏教に入門した以上、当然これらの仏典が読まれ、教義を勉強するべきでしょう。
ところが、入門後渡された仏典は「論疏」だった、あるいは、『法華経』や『華厳経』が渡されたとしても、僧侶はそれを読まず、論疏ばかり読んでいる。「それっておかしくね?」てな感じです(^.^)。
当時南都仏教では「論疏」が仏典と同じように読誦され、その内容について考え、研究されていました。結果、論疏は読んでいるけれど、『法華経』や『華厳経』などは読んだことがない僧侶がいたというのです。
これは僧侶個人の問題と言うより、南都仏教を指導した人たちの姿勢と言うべきでしょう。極端に言えば、南都仏教は仏教解説書を読むことで信仰を深め、解説書を研究することで仏教を理解しようとした――とも言えます。
マオは入門後三論派と法相派が議論を交わす現場に連れていかれたでしょう。そして、口角泡を飛ばす激論を見て「はて、このようなやり方で仏教は理解できるのか。新しい仏教は生み出せるだろうか」と疑問を抱いたのではないかと思います。
なぜ法相派が多く三論派が少ないのか。その理由については「前半」第24節を参照ください。
次に大寺院が陥った経済活動「出挙(すいこ)」について。
詳細は前半第25節をお読みいただくとしてまとめると以下の通り。
出挙とは百姓に種もみを貸し出し、稲が実った秋に[元本+利息]として収穫の一部を受け取る制度です。利息は最大5割、最少3割で変遷しています。
出挙は当初国司などが行い、租税(三パーセント)で足りない分を補っていました。たとえば、春に種もみ百俵を貸し出せば、秋には百三十俵から百五十俵の米が返済される勘定になります。半年で利息5割とは正に「高利貸し」と思えます。
しかし、これは種もみと収穫されるお米の関係であって現金の利息5割と違います。
現在田植え後の田んぼを見れば、だいたい苗2、3本か4、5本しか植わっていない(すなわち種もみ数粒)。ところが、秋の田んぼは(自然災害がなければ)一株4、5本から7、8本になってその一本一本に数十粒のお米が実っています。聞けば稲1本から60粒ほど玄米が収穫できるそうです。
昔のことだから、そこまで収穫できないとしても、種もみ100粒に対して(50倍なら)、玄米5000粒が収穫できる計算になります。対して返済は利息5割だから、お米150粒(^.^)。収穫量の1パーセントにも達しない。収穫15倍なら返済は1パーセント。ちっとも高利ではありません。
これをわかりやすく現代のサラ金に置き換えると、半年前10万借りても、それを元手に半年で最低200万、最高500万にできる。だが、返済は10万1000円でいいってこと。正に低金利の現代日本みたい(もっとひどくて100万貯金しても1年後の利息1000円!)。
貸す側にしてみれば、儲けの少ない善意の貸し出しであり、無利子借金みたいなものです。出挙は当初勧農とか災害などで種もみを失った百姓救済のために生まれたというのもよくわかります。
もちろん奈良、平安時代は「租庸調」と言って租税以外に特産品を国に納め、様々な労役(六十日間)に無報酬で参加せねばなりません。また、東国には防人、すなわち兵役もありました。それらも大きく見て《税》と考えるなら、人民の負担をお米で換算すると収穫物の3分の1、場合によっては半分くらい取られていたと見なすことができます。いわゆる五公五民です(江戸時代が有名ですが、現代だって国民負担率は公称5割弱だから大差ありません)。
閑話休題。それらを勘案しても、出挙の返済が種もみ1俵に対して1俵半で良いなら、国司や郡司が出挙を行おうが、大寺院がやろうが、大した問題ではないように思えます。
大寺院は得度層、修行僧を含めて数百人の僧侶が居住している。マオの大安寺は末寺を含めて800人と言われます。
得度僧はもちろん官僧だから、桓武朝廷から生活費が支給される。しかし、多くの修行僧は無給です。日々の托鉢などは行われたでしょうが、それだけでやっていけるとは到底思えません。そこで大寺院は運営費として「出挙」に頼ったのです。
ところが、桓武朝廷は以下のように国司や南都七大寺の出挙が大問題だと指摘します。
・「在外の国司は利潤をはかろうとして隠した稲を出挙して利息を取っている。(略)無知の人民は争って全部借りて食糧に充てる。その元利を徴収されるにあたって償うものがないから、ついには家を売り田を売り、他郷に浮浪・逃亡してしまう。人民が弊害を受けること、これより甚だしいものはない」として、「今後このような行為は断罪して懲らしめよ」とあります。
出挙の量は国ごとに上限が定められているのに、守れていない。結果人民が出挙による借金に苦しんでいるとの指摘です。
また、延暦二年(マオ九歳)の条では平城京諸寺の出挙について触れています。
・「豊かな人民による出挙は禁止されている。先に(個人的な出挙を禁ずる)令を出したが、未だ懲りずに改めようとしない。いま京内の諸寺は利潤を貪り求め、家を質に取ったり、利子を元本に繰り入れたりしている。どうしてこうも官吏の道がたやすく国法に違反し、出家したはずの僧侶の輩が再び俗世間と結びつこうとするのか」と寺院の出挙を痛烈に批判しています。
「利潤を貪り求め」とはずいぶんな言葉で、口語訳著者の誇張した表現のように思われるかもしれません。しかし、原文はちゃんと「貪求利潤」となっています。
また、「僧侶の輩」も原文は「出塵之輩」だから「やから」と訳されます。ちりあくたの世界を離れ、清らかな身となったはずなのに、「なんという奴らだ」と、桓武朝廷のお怒りがうかがえる表現です。
そして12年後の延暦十四年。21歳のマオは大安寺に入門しています。
この年朝廷は再び出挙について勅を出します。これは家臣から天皇への奏上という形式で書かれていました。
・「諸国で出挙する七大寺の稲は、施入されて以来、年月を経ており、年々の出挙による収益は莫大なものになっていますが、(略)革めることがなく、往時の出挙数を維持したまま、今日の疲弊した人民に貸し付けています。このため国司は出挙行政が円滑にいかず百姓は返済できない状態となり、家業を失い、家を滅ぼす人が続出しています」とあります。
ここで貸す方の収益が莫大になるとの指摘は理解できます。
たとえば、三割の利息として最初に一千俵を出挙に当てれば、毎年三百俵ずつ増えていく計算です。単利でも十年間で三千俵の利益、元本が四倍になります。
よって、貸す方は確かに「莫大な収益」をあげるでしょう。しかし、種もみが五十倍、控えめに見て四十倍、もっと控えめに見て三十倍としても、種もみ一俵に対して三十俵の収穫があるなら(この場合税と出挙返済は約二俵半〜四俵半)、借りる方にとってそれほど苦しいように思えません。
史書に言う大寺院の出挙によって「百姓は返済できない状態となり、家業を失い、家を滅ぼす人が続出」しているとの記述、どうにも理解し辛いところです。
別資料として(ネット事典の孫引きながら)、平安時代初期の作品『日本霊異記』には「出挙によって金銭亡者となったり返済に苦悩する都市住民の様子がまざまざと描かれている」そうです。
これを理解するには先ほどのサラ金の例で説明できます。
半年前10万借りても、それを元手に半年で最低200万、最高500万にできる。で、返済は10万1000円でいい――。
今なら10万の元手で半年200万にできる正業はなく、せいぜい競馬競輪、競艇パチンコなどのギャンブルでしょう。それでもなかなか20倍にはできない。
ところが、当時の百姓がやるのは米作。種もみ撒いて手入れをしっかりやれば、1俵借りても半年後20俵から50俵の収穫がある。ならば、5俵借りてもいい。今なら50万借りて確実に200万稼げるなら、50万5000円返しても150万の儲けがあるってことでしょう(^.^)。
しかし、日照り、干害、長雨などの自然災害、天変地異もあります。収穫が予定の半分、もしくは1俵の種もみに対して5、6俵の収穫しかなければ大変です。
1俵半の返済は必ずしなければならない。慈悲の大寺院のことだから「では来年まとめて」と待ってくれたとしても、来年また同じように種もみ1俵を借りれば、返済は2年分の3俵。2連連続の不作となれば、ますます借金生活にはまります。朝廷はそれを問題としたのです。
以上です。空海マオがこれら学問仏教と大寺院の「出挙」についてどう思ったか。
私は「異和感」とまとめましたが、みなさんはどうでしょう。
来週まで考えてみてください。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
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