『続狂短歌人生論』45「人はみな愛されないと感じる生き物」


○ 人はみな愛されてると思うより 愛されないと感じて生きる


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年02月21日(水)第44号


 『続狂短歌人生論』45 人はみな愛されないと感じる生き物

 以前第30号「なぜ変えられないのか その3 愛してほしいから」の狂短歌として

 〇 幼子は人を愛することよりも 愛してほしいと思う生き物

 ――を掲げて語りました。

 そのとき「今回の狂短歌…最後に『生き物』とつけるなんてどうでしょう。非文学的です」と自己批評しました。今号も懲りずにひどい表題です(^_^;)。

 しかし、おそらくあらゆる生き物の中でひとり人間だけが「自分は愛されていない」と感じやすいのではないか。幼い頃だけでなく、少年少女時代も、大人になっても、年を食って老境になっても、「自分は愛されなかった、今も愛されていない」と感じる。棺桶に入っても(^.^)?

 だからこそ、これを逆転した以下の狂短歌を詠み、第27号「愛エネルギーがほしい」で論じました。

 ○ 愛されたい 認められたい 誉められたい 心に秘めて人と付き合う

 内容はすっかりお忘れでしょうから、おヒマなら再読してください。
 私たちは人を愛することより、愛されたい、認められたい、誉められたいと思う。
 それを心の奥に隠して生きている……。
 言われて「図星!」と思ったか、「そんなことはない」とつぶやいたか。

 今号はこれについて深掘りします。
 そうかもしれない、と思った方は表題をもう一度読んでください。
 人はみな愛されないと感じる生き物……。
 つまり「愛されていないのは別にあんただけじゃないよ!」ってことです。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 人はみな愛されてると思うより 愛されないと感じて生きる

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』45「人はみな愛されないと感じる生き物」 】

 ちょっと大きな理屈を語ると、人は自分にないもの、持たないものにあこがれ、欲しいと思うものです。
 都会で暮らせば、田舎暮らしにあこがれる。
 田舎で暮らせば、都市に住みたいと思う。
 一人で暮らしていると、恋人やパートナーと一緒の生活がうらやましい。
 なのに、二人で暮らし始めると、一人暮らしに戻りたいと思う(人もいる)。

 めでたく男女二人で同居し始めたものの、子どもが生まれないと、子どもと楽しそうに暮らす家族を見て「いいなあ」と感じる。
 だが、外出すれば幼子がむずがったり泣きわめくのを見かける。親は困っている。
 テレビや新聞では若者が犯罪に手を染めたと毎日のように報道される。親って大変だと思い、「子がいなくて良かった」と安心する(?)。

 もっと単純なところでは、金が乏しければ「お金が欲しい」と思う
 これまた全ての人に共通した感情ではないか。まれに「別に」という奇特な方がいるかもしれませんが。

 この逆はビミョー。お金が余って仕方ない人が「金の無い状態に戻りたい」と思うかどうか。「お金は別になくて構わない」と言うのはこの人たちでしょうか。「お金より大切なものがある」と語るのも金に困っていない人かもしれません。
 貧乏人から見ると羨望極まりないお話ながら、「やっぱり金だよ」と言い切れるかどうか。

 もちろんお金と命だったら命を取る。でも、誰かに(心から)愛されることとお金だったらどちらを取るか。これはビミョー。
 あるいは、健康とお金、若さとお金。年を取って病気になって寝たきりになれば、100億のお金を持っていたしても、「健康と若さがほしい」と思うのではないか。それは若くて元気で、でも金はなかった時代に戻ること(^.^)。

 日本人ならよくご存じ、芥川龍之介の小説『杜子春』。中国洛陽に暮らす貧乏な若者杜子春は仙人から「あそこを掘ればお金がざくざく」と言われ、一夜にして大金持ちになる。
 彼は豪邸に住み、おいしいものをたらふく食べ、友人知人が集まって毎日どんちゃん騒ぎ。だが、金が尽きると、波が退くように友人たちは彼の元を離れ、杜子春は一文無しに戻ってまた街角にたたずむ。

 すると、奇特な(?)仙人がまた現れて大金を手にする。そして、同じようにぜいたくな生活を送り、三年後また一文無しになり、途方に暮れて街角にたたずむ。
 三度目に現れた仙人が同じことを言ったとき、杜子春は「お金はもういりません。あなたの弟子にしてください」と言って仙人を目指す……。

 読んだことのない人は読んでほしい。読んだ人は再読してほしい小説の一つです。
 私は10年ほど前再読して涙を流しました。両親が健在だった子どもの頃読むのと、亡くなった後また読むのは感じ方が違うようです。「青空文庫」にて無料で読めます。短編なのでじっくり読んでも1時間くらいでしょう。
 難読漢字にはふりがなもついています。以下現代仮名遣いの方を紹介します。
 →青空文庫『杜子春』

 一読法を学んだ読者なら、以前はさーっと読んでいた冒頭の情景描写を丁寧にじっくり読むでしょう。すると「こんなに目に見えるように描かれていたのか」と驚くはずです。
 その読み方で最後まで読んでください。きっと違う読み、違う感じ方ができると思います。

[一読法の立ち止まり、その1。なぜ『杜子春』を例に出したのか。「金が乏しければお金が欲しい」例として取り上げたことは明らかだが、ずいぶんくどく「読んでほしい」と強調している。何か理由があるのだろうか?]

 閑話休題。
 人間は人から愛されることがないと感じれば、「誰か愛してほしい」と思う生き物でしょう。
 ところが、この逆もビミョー。自分は愛されている、とても幸せだと思う人は「愛されなかったころに戻りたい」と思うかどうか。

 さすがにこれは「思うわけないだろうが」と口とがらせて反論されそうです。
 が、こうした二項対立の「右か左か」の議論は注意が肝心。真ん中もあるとか、どちらも違うんじゃないか、と(ちょっと)考えてみることです。

 たとえば、冒頭にあげた都市と田舎の例にしても、田舎で暮らしている人全てが「都会に住みたい」と言うわけではない。「東京に行ったけんど、二度と行きてえち思わんかった」とつぶやく田舎人だっている(^.^)。

 逆もまた真なり。田舎に移住してみたけれど、後悔する人もいる。やめて都市に戻る人だっている。今ない、持たないからと言ってみんながみんなそれを欲しがるわけではありません。

 親に愛されなかったという記憶は事実に基づいていることがあるし、もしかしたら「思い込み」かもしれない。二親が健在なら「父さん、母さんはぼく(わたし)のこと愛していたの?」と真正面から聞けば、「もちろん愛していたよ」と答えるでしょう。だが、子どもは心の中でその言葉を疑っている。
 このようなトラウマというか嫌な感情。これは克服される必要があると思います。

 とは言え、克服は容易ではない。なぜなら、私たちは生まれたときから「愛された」ことより、「愛されなかった」気持ちの方をよく覚えているから。愛された経験より、愛されなかった経験の方が(はるかに?)多いとも言えます。

 あらゆる子どもはいつかどこかで必ず「愛されなかった」経験をもって成長する――これは普遍的真実ではないでしょうか。
 一人っ子は一人っ子なりに、兄弟姉妹がいれば「親は自分以外の同胞(きょうだい)をひいきして自分に冷たかった」と感じる。

 やがて保育所・幼稚園、学校に通い始めれば、「先生は自分を愛してくれない」と感じやすい。さらに大きくなると、友人から、上司・同僚から、恋人から、(結婚すれば)伴侶から、(子どもが生まれれば)子どもから、「愛されていないかもしれない。嫌われているんじゃないか」と疑いを抱く。
 仕事がうまくいかない、事故や病気が起こると《運命》から愛されていないと感じる……。

 ここで前号末尾で取り上げたテーマに戻ります。

 つまるところ、私たちは「愛されていると感じられない」生き物である。
 だから、大切なことはどうやったら愛されていると感じられるか
 この流れの最後には「ではどうするか」がある――と問題提起しました。

 以前コップと水のたとえを出して語っています。
 人を愛するためにはコップから水があふれ出すように、愛という水が心のコップになみなみとたたえられている必要がある。
 それが半分しかなければ、人は「私を愛してよ、もっともっと愛してよ」と(愛という)水をほしがる。身近の人に対して、世の中に対して、運命に対して。

 では、心のコップに愛という水が半分しかたまっていなければ、私たちは人を愛することができないのだろうか――と問うなら、私は「そんなことはない。実は愛されている、愛されていたと感じることができる方法がある」と答えます。

 その方法とはいたって単純で「愛されなかった事実と思い込みを見つめた後、愛された過去の事実を探し出す」ことです。

 子ども時代、親子間において、大人や学校の先生、友人、初恋の人、片思い、恋人…その交流の中で「自分は愛されなかった、裏切られた、傷ついた」事実と記憶がある。
 がその一方、「自分は確かに愛されていた」と感じる事実もある――あるはず。
 それを「思い出そう」ということです。

 ここで狂短歌を詠むなら、

〇 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた

 これが心のコップに水をためる方法です。

 この考えと具体例は前著に書かれていません。なぜって?
 書かなかった最大の理由は「すぐに続編を出してその中に入れる」予定だったから(^_^;)。

 それがオゼゼが尽き、続編執筆の気力が萎えました。
 いや、厳密に言うと出版費用がいずれ尽きることはわかっていた。だが、それまでに出版した3冊(『ケンマヤ』前・後編と『狂短歌人生論』)が売れれば、4冊目を出せる……と皮算用してつぶれた。これが真相です。

 それから昨2023年『続編』執筆再開、メルマガ公開まで16年経過しました。
 長う(なごう)ございました。が、私にとってはあっという間。

 そして、不思議なのは2000年に教員退職後書いていた前著『狂短歌人生論』と本稿『続編』の下書きがほぼそのまま現代に置き換えられたことです。筆者にとって底に流れている感じ方、考え方に何の修正も求められなかった

 つまり、21世紀初頭の20年間。日本も世界も(人の感情は)変わっていない。いや、むしろ「悪くなっている」と言えるかもしれません。
 世界や日本における貧富の差、地球規模の温暖化に一丸となって立ち向かえない。社会・共産主義の崩壊とともに民主主義の春がやって来るかと思われた。が、逆に独裁国家が過半数を占め、隣の国や民族・宗教間で対立して紛争・戦争にエスカレートする。
 日本の狭いところを見ても子どもへの虐待、親殺し子殺し、恋愛におけるストーカー、凶悪犯罪、バイト感覚の強盗、オレオレ詐欺……。

 これをたった一言にまとめてしまうと炎上必至ながら、私にはみんな「自分は愛されていない、もっと愛してくれ」という叫びのように感じられます。
 それも「他人(他国)はどうでもいい。オレだけを愛してくれ」という感情です。愛されないから愛を奪いに行く悲しい姿です。

[一読法の立ち止まり、その2。この部分流れからは「他人(他国)はどうでもいい。自分(自国)だけを愛してくれ」となるべきです。なぜ「オレだけ」と書いているか。わかりますか、立ち止まりましたか?]

 そうなると、世界も日本も原始時代、文明開闢の初期から変わっていないのかもしれません。[「開闢」読めず意味不明の方はここで検索を]

 変わっていない感情こそ「愛するよりも愛されたい」であり、佐々木良さんが超口語訳したように、『万葉集』の中にたくさん告白されていたということです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:文中「一読法の立ち止まり」2点について。
 その1
[なぜ『杜子春』を例に出したのか。金が乏しければ「お金が欲しい」例として取り上げたことは明らかだが、ずいぶんくどく「読んでほしい」と強調している。何か理由があるのだろうか?]
 この答えは本文にはありません。『杜子春』を読めば、答えに気づくかもしれないし、気づかないかもしれません。答えは次号にて。

 その2
[この部分流れからは「他人(他国)はどうでもいい。自分(自国)だけを愛してくれ」となるべきです。なぜ「オレだけ」と書いているか。わかりますか、立ち止まりましたか?]

 この答えは難しかったと思います。英語だとどちらも「only me(only my country)」だから違いがありません。日本語ならでは、ですね。
 アメリカ次期大統領に再選されそうな花札大統領がとなえる「アメリカファースト」ってこれですね。やれやれ。
 答えは『続編』ラストの後記に。ここは引っ張るので考えてみてください(^.^)。


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