『続狂短歌人生論』52 『杜子春』を一読法で読む 後半 その1


○ かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年03月25日(月)第52号


 『続狂短歌人生論』52 『杜子春』を一読法で読む 後半 その1

 クレームは参っておりませんが、前置きが「長すぎる」異常事態なので今号はちょっと短く(^_^;)。
 これより『杜子春』後半を読み解いていきます。一読法の読みがいかに深いか鋭いか、ご堪能ください。

 本文の前に第四節を再読してほしいなと思います。
 第四節でつぶやくであろう疑問・感想について考えてほしいからです。

 仙人・鉄冠子から「決して声を出すな」と言われた杜子春の前には、次から次に試練が現れます。
 最初は猛虎と大蛇に襲われ、次に天変地異の脅威。そして、身の丈【三丈】、【三又】の戟(ほこ)を持った巨大な神将が出現して「どうしてここにいるんだ。喋らないと殺すぞ」と脅されて…死ぬ。これ一、二、三ですね。

 ところが、作品には「神将が空を埋め尽くすほどの配下を呼び寄せて」杜子春に見せつける場面があります。「そうか。これが三度目か」と思えば、神将が杜子春を殺すのが四度目となって(我らには)了解できます。

 しかし、普通は神将が空を埋め尽くすほどの手下を招くところで、次のようにつぶやくでしょう。
「おいおい。杜子春一人殺すのに、兵隊そんなにいらんやろ」と。
 事実、その後神将は杜子春を串刺しのようにあっさり殺しています。

 そうなると、次の「作者なぜ?」が生まれます。
芥川龍之介はなぜ空を埋め尽くすほどの神兵を描いたのだろうか」と。
「これってなくていいんじゃない?」とも言いたくなる。

 これはとても難解な「作者なぜ?」です。
 私はこの謎をある推理で解きました。
 読者は読まれて「そりゃ推理のし過ぎだよ」と言うかもしれません。
 しかし、根拠はあります。もちろん第四節の中に。
 この謎解き、本文を読む前に試みてください。

 青空文庫『杜子春』は→こちら

 なお、これまでは生徒との想定問答もずいぶん入れましたが、今後は問答の詳細や生徒の答えとなる部分は割愛したいと思います。


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
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3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1―――――本号
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』51 『杜子春』を一読法で読む 前半 その5 】

 第四節の冒頭は以下。
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 二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞いおりました。
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 杜子春は仙人と峨眉山に行きます。深い谷、断崖絶壁の一枚岩、北斗の星が「茶碗程の大きさに光って」いるところ。ものすごい高さであることが強調されています。
 そこは人跡未踏の地で「あたりはしんと静まり返って…曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけ」が聞こえる。
 このあたり、山水画のような描写をじっくり噛みしめたいところです。

 その場で鉄冠子は「たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言って去ります。

 ここからは仙人になることを固く決意した杜子春が描かれます。
 試練は三度。四度目に命を失いかけます。

 最初に現れたのは「爛々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上って、杜子春の姿をにら」む。そして「四斗樽程の白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来」た。四斗樽の直径65センチ。
 だが、杜子春は恐怖を覚えながらも「平然と、眉毛も動かさずに坐って」いる。

 虎と大蛇は杜子春にとびかかった瞬間消え失せた。「杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました」とあります。
 これは幻覚だ、現実ではないと知った。だから、「心待ちに待つ」と言えた。
 仙人が「おれがいなくなると、いろいろな魔性(ましょう)が現れて、お前をたぶらかそうとするだろう」と語っていましたからね。

 次に起こったのはすさまじい「雷鳴、稲妻、滝のような雨」――いわば自然の脅威。「その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました」……が、これも幻影だった。
 杜子春は思う。「鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯(いたずら)に違いありません」と。「杜子春は漸く安心して、額の冷汗を拭いながら、又岩の上に坐り直し」ます。

 次に現れたのが「金の鎧(よろい)を着下(きくだ)した、身の丈三丈もあろうという、厳かな神将」「神将は手に三叉の戟(ほこ)を持っていましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸(むな)もとへ向けながら、眼を嗔(いか)らせて叱りつけ」ます。
 一丈は3メートルほどだから、三丈って約9メートル。これは恐怖です。
 ちなみに、東京の等身大ガンダムの身長はほぼ20メートルとか。これが意思を持って目の前に現れたら、きっと絶叫して逃げ回るでしょうね(^_^;)。

 それはさておき、神将は「その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住居(すまい)をしている所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもやただの人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言う。

 そして、配下の眷属たちが空を埋め尽くすほどにやって来る。これが三度目
 結果杜子春はあっさり神将に突き刺されて死ぬ。これが四度目。

 神兵襲来の場面は次のように描かれます。
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 驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満(みちみち)て、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」
 神将はこう喚(わめ)くが早いか、三叉の戟(ほこ)を閃かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。
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 神将は「怒ったの怒らないのではありません」とあるが、「どっちだ?」と聞けば「わかりません」と答える生徒はいないでしょう。

 この部分前置きに書いた通り、かなり違和感を覚える表現です。

 まず神将側の「なぜ?」。一突きで殺せたのに、どうして配下の神兵、それも空が埋まるほどの数を呼び寄せたのか?
「おいおい。そんなに必要ないだろ」と言いたくなります。
 一読法なら余白にそう書き込みます。

 次に杜子春はあっさり殺されてしまいます。
 なぜ彼は三度目にあたる神兵を見て「あっと叫びそうに」なりながら黙ったのか。
 これは簡単でしょう。が、大きな理由が追加されたので、重視しなければならない問いです。

 これらは「作者なぜ?」に関係するつぶやきでもあってしっかり[?]マークをつけて考えたいところ。
 ここにおける「作者なぜ?」とは「神将が現れたのは試練の三度目にあたる。そのまま黙り続ける杜子春を殺せばいい。別に空を埋め尽くすほどの神兵を登場させる必要はないだろうに」との疑問です。
 神将が怒鳴って脅して「三又の戟(ほこ)」を杜子春に突き付けて「どうしても喋らないなら殺してやる」と描いて突き殺せばいい。そう思えます。

 ちなみに、なぜ普通の「槍」ではなく「三又の戟(=これも槍)」なのか。
 日本の戦国時代で「槍」と来れば先端は尖った一本。なぜ三又の戟は使われなかったのか。
 答えは「三又の戟」が重いから。ひ弱な足軽ではとても使いこなせない。相当の豪傑でなければ無理。身の丈9メートルの神将だからこそ三又の戟なのでしょう。人間が戦って到底勝てると思えません。

 まず杜子春が殺されそうになりかけても口を閉ざしたわけ。これは単純。
 もちろん答えは杜子春が仙人との誓いを守ろうとしたから。が、ここで新たな、もっと大きな理由が生まれたことも気づきます。さらりと読んではいけない部分です。

 それは《これまでの虎も大蛇も、恐ろしい天変地異もみな幻覚だった。魔性のいたずらであり現実ではなかった。ゆえに無数の神兵も神将も、神将が言った「返事をしなければ命を取るぞ」も全て幻想にすぎないと思った》からでしょう。

 だが、ここで杜子春に問わねばならない。三度と四度の違いを明瞭にした一読法読者なら次のように聞く(はず)。
「確かに今までは幻想だった。だが、四度目は本物かもしれないではないか。なぜ同じことが繰り返されると決めつけたのか」と。

 同時に《そもそも》論も語らねばなりません。
「もしも神将の言葉が本物で命をなくしたなら、仙人になりたいという夢はかなわないではないか。杜子春、あなたは命より夢の方が大切なのか」と。

 第四節の杜子春は前半同様「変わらない」姿を見せます。
 ただ、今度はやさしさでも善良ゆえでもない。ある決意に従って変わらない姿です。目的は仙人になること。この夢は杜子春を強くした。天変地異が起ころうと、野獣に襲われようとへこたれない強さ、屈しない強さを杜子春は身に着けた。それは「絶対仙人になるぞ」との決意です。

 となると、作者芥川龍之介が無数の神兵を描いたわけがわかります。
 それは杜子春の決意が半端でないことを示そうとしたと考えられます。

 みなさん方は神兵の実数、どのくらいと思いますか。テレビなどで時折空を固まって飛ぶ野鳥の大群を見たことがあると思います。あれってせいぜい数千から一万。空を埋め尽くすには数十万どころか数百万、数千万必要かもしれません。「それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしている」のです(ここは「槍」ですね)。

 神将はなぜそれほどの部下を呼び寄せたのか
 理由は杜子春の強さに恐怖を感じたから(としか思えません)。天下無敵の神将でさえ杜子春を恐れた。
 たとえば「なんだ、こいつは。この強さは何ゆえだ。もしかしたら孫悟空のようなとてつもない能力を秘めているのか。あるいは、強大な援軍がどこかに隠れて戦い始めると攻撃されるのか」と考えた。

 この推理もちろん根拠があります。神将が「よもやただの人間ではあるまい」と言うところです。「よもや」とは「まさか、万が一にも」という意味。
 神将にとっては見かけた最初から「こいつは普通の人間ではない」と決めつけているのです。

 私はここから孫悟空を思い出し、惑星の陰から巨大戦艦(型宇宙船)が登場する、あの名作SF映画を思い浮かべたわけです。
 [ちなみに孫悟空を出したのは急逝した漫画家へのリスペクトもあります]

 だから、神将は配下を呼び寄せた。空を埋め尽くすほどの神兵たちを。
 作者芥川龍之介は杜子春の決意がそれに匹敵するほど固く強いことを描いたのです(お見事)。

 だが、杜子春は空を埋め尽くすほどの神兵を見せても怯えたように黙ったまま。どうやら援軍も現れそうにない。神将は怒った怒った。
 私なら生徒に「神将の怒りは杜子春に対してだけだろうか」と聞きます。

 彼の怒りは杜子春と言うよりむしろ「こんなやつを俺は恐れたのか。情けない」という自分への怒りだったのではないか。だから、神将はあっさりひと突きで杜子春を殺し、「からからと高く笑」うのです。

 [授業ではこの解説の後「どんな笑いか」生徒にやってもらうでしょう。どのような擬音語が出るか楽しみ。「わっはっはっ」・「あっはっはっ」・「かっかっかっ」……私「じゃあ、その笑いに照れくささか恥ずかしさをこめたら?」]

 ここまで読み取ると、直ちに未来予想に入ります。

 次の五節冒頭に「魂が地獄に堕ちた」と出て来るので、無意味に思えるけれど、「杜子春は神将に突き刺されて心臓が止まるまでの数秒から数十秒何を考えただろうか」と。
 選択肢は次の四つ。
A 三又の戟が突き刺さる前に、戟も神将も全て消えているはずと思った。
B 本当に死んでしまうのか。口を利けばよかったと後悔する。
C この後目が覚めて仙人から「よくぞ黙りとおした。お前の決意は固いことが明らかになった。これから仙人の修行に入るぞ」と言ってくれるだろうと期待する。
D その他(^.^)。

 ちなみに「地獄に堕ちてさらなる試練がやって来るかもしれない」はその他に入ります。
 現在死後の地獄・天国を信じる人はかなり少ないでしょう。でも、それが信じられた時代もあるし、現代だって「天国に行きたければ献金しろ、壺を買え」と言われて信じる人もいますね。

 以上が第四節の全体です。

 さて前半の杜子春について、読んだ人の多くは「三度大金を得たのに全て失うとは。なんて愚かな」と思った。第四節にも前半同様愚かな人間杜子春がいます。
 私なら「強くなった杜子春の愚かさはどこからわかるか」と問います。

 答えは「神将の戟(ほこ)に突き刺されて死ぬ」ところ。
 仙人になる夢は人間であってこそ、生きてこそ意味を持つ。死んでしまっては仙人になりたいとの夢は果たせない

 そして、次の例を語るでしょう。
 これは「狂歌教育ジンセー論」57号「死に神と闘う」で触れています。おヒマなら一読を。

 あなた方は「歌手になりたい、俳優や声優になりたい、スターになりたい、アイドルになりたい。オリンピックに出てメダルを獲りたい」などの夢や目標を持つかもしれない。素晴らしいことだ。
 だが、もしも命を取るか、夢の実現をとるか二者択一を迫られたらどうだろう。命が亡くなったら、夢の実現なんぞない。だから、命を選ばねばならない。

 たとえば、ある陸上選手がいるとしよう。オリンピックに出ればメダル級の選手だ。
 だが、オリンピック直前に重大な病気が発覚、もしくは脚が壊疽(えそ)になって手術をしたり、切断しなければ、命が失われると宣告された。そりゃあ苦しい。脚を失うくらいだったら、死んだほうがましと思うかもしれない。

 そのとき手術や脚の切断をせずに死ぬことを選ぶか。オリンピックの夢は生きてこそ意味がある。死ねば夢の実現はない。もちろん脚を失えば、オリンピックそのものに出られない。だが、生きてさえいればまた別の道が開ける。パラリンピックという選択だってある。
 だから、どんなに苦しんでも人は手術と脚の切断を選ぶ。そちらを選ばなければ愚かと言わざるを得ない。

 杜子春もまた殺されることより声を発して生き延びる道を選ぶべきだった。
 もっとも杜子春がそちらを選ばなかったのは理由がある。
 それは自分を襲う試練はみな幻覚であり、現実ではないと思ったから。

 これを称して次のように言うと、読者はかなり違和感を覚えるかもしれません。
 これこそ「マインドコントロール」ではないかと。

 杜子春の未来はDに進む。 「えっ、地獄に堕ちるの?」と思ったかもしれません。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:五節冒頭を先取る質問を。
 地獄に堕ちた杜子春に対して閻魔大王は「喋らなければ地獄の責めを味わわせるぞ」と言う。もちろん杜子春は黙り続ける。
 では、もしも杜子春がここで「実は…」と喋っていたら、杜子春は地獄に堕ちたか天国に行けたか。ちょっと考えてみてください。


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