『続狂短歌人生論』57 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-1


○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年04月05日(金)第57号


 『続狂短歌人生論』57 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-1

 『杜子春』を一読法で読む――後半の5回目。これをもって最後です。
 が、前号までで作品一通りの読みは終えています。よって、今号より『続編』本線に戻って最終章を書き進めていいところ。

 ところが、「どうしよう。前号で終わりとするか。もう一号書くか」(一週間ほど)迷った……あげく「作品後半の読みとしてもう1号書こう」と決めました。

 迷った理由は本号が芥川龍之介『杜子春』について語るのではなく、自作『鉄冠子の独白』について語ろうとするものだからです(^_^;)。

「おいおい。それじゃあ『後半その5』と言えんやろ」とのご批判甘んじて受けます。

 しかし、『鉄冠子の独白』について語ることは『杜子春』の読みをさらに深めることになり、特に(これまで語ってこなかった)別の解釈の紹介でもあります。
 一例をあげれば、仙人・鉄冠子が杜子春に近づいた理由。それは後継者(弟子)を探すためだった、と推理して描いています。この解釈これまで全く語っていません。

 ここで一つクイズ。もしも鉄冠子が後継者を探していたとすれば、仙人になるためには何が必要か。逆に何が必要でないか。仙人の立場になってしばし考えてみてください。
 私は二つあるかなと思います(答えは本論冒頭にて)。

 もう一つの理由は(失礼ながら)読者は「『鉄冠子の独白』を一読法で読んだだろうか。たぶん読んでいないだろうなあ」との思いがあります。
 さーっと読むと、おそらく「何これ。意味ワカンネ」となりかねない。じっくり読めば「なるほどそう来たか」との感想が出る(かもしれない)。どちらでしょう。

 というのは芥川龍之介の向こうを張って私も「短編」にするためかなり説明を省いたからです。「意味不明」派が多いかもしれないと危惧します。
 ここはやはり自作を解説しておきたい。このような気持ちから本号を追加することにした次第です。
 なお、またも長くなったので、配信は「その5-1、2」として分割します。

 青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3
 〇 [狂短歌は本文末尾に掲載]

4月01日(月) 55号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-1
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月03日(水) 56号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-2
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月05日(金) 57号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-1―――本号
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

4月10日(水) 58号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-2
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』57 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-1 】

 まず「仙人は後継者を求めていた」との解釈。これは未来人であるなしに関係ないので、この件から片付けます。
 こう考えると、二つの疑問が解決され、同時に読者が「杜子春はせっかく手に入れた大金を三度も失う。なんて愚かな」とつぶやいた――その初読の感想が全く違う意味合いを持つことに気づくでしょう。

 仙人・鉄冠子が後継者を探していたと考えると、以下の描写が納得できます。
 それは杜子春と二度目、三度目に会った時、仙人が最初と全く同じことを言うところです。あのとき「あれっ仙人は相手が杜子春だと気づいていないんじゃない?」と思わせました。この感想的中です。

 仙人は後継者選定に当たっていくつかの都市で何人かの若者に大金のありかを教えた。杜子春はその一人であった。そう考えた方が筋が通ります。

 条件は二つ。みすぼらしく金がなくて困っていそうな若者。
 そして親戚縁者のいない天涯孤独の若者。

 鉄冠子は大きな都で貧しそうに見える若者何人かに、同じように金銀財宝のありかを教えた。少なくとも四大古都と呼ばれる洛陽、長安、南京、大都(北京)に降り立って各都市一人ずつ金銀財宝のありかを教えた。それも三年おきに三度と決めていた。

 だから、三度とも(相手に関係なく)「お前は何を考えているのだ」と同じ声かけから始まり、金を失っていれば「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを」と頭、胸、腹が違うだけで全く同じ内容を語った。もちろん若者が大金を失っていなければ再会はなく、失っていれば三年後もう一度教えた。

 何のため? それこそ仙人修行最初の試験です(^_^)。

 仙人になるためには何が必要か、逆に何が必要でないか
 これを考えれば彼の行動がうなづけます。
 私の考えは以下のとおり。
 1 人間の欲望から超越していること
 2 人間の情愛から超越していること

 言い換えると、人の欲望は必要ない。情愛もない方がいい

 この世で生きる人間にとって最大の欲望とは何でしょうか。
 それはお金であり愛です。お金は誰でもうなずける。14歳の少年でさえ見切っている(15号後記N少年の卒業文集)。「金の無い者は生きていけない…いくら綺麗事を言っても、実際の社会では金が全ての面においてモノを言う…逆に言えば、金さえあれば何でもできる」と。

 一方、愛に関する欲望とはもちろん人を愛することではない。人から愛されること、自然や運命から愛されることである(と私は思います)。
 本稿の一貫したテーマであり、以下の狂短歌で示しました。

 〇 愛されたい 認められたい 誉められたい 心に秘めて人と付き合う

 想像してみてください。たくさんのお金を得てそれを自由に使える。惚れた相手にコクれば「私もあなたを愛しています」と言ってくれる。結果結ばれ、子どもを得て家族から尊敬され愛される。お金で苦労することはなく、家族問題で悩むこともない。

 住む家を突然の地震や津波で失うこともない。いや、自然災害で家を失ったとしても、家族が全員無事であればいい。たらふくあるお金で直ちに家を再建できる。
 そして、病気になることもなく寿命を迎え、家族に看取られて死ぬ……この上なく幸せな人生だったと思う(でしょう)。

 私たちは『杜子春』前半を読んだとき、次のように(ほぼ全員が)つぶやきました。
せっかくの大金を三度も失うとは。なんて愚かな」と。

 この感想に全く別の照明が当たります。「せっかく得た大金を全く同じことをやって三度も失うとは……あなたはどこか違う。大物かもしれない」と(^_^;)。

 実はこれが仙人になれるかどうか、最初の試しだとしたら。
 杜子春を愚かと言う我ら市井の一般人――常識的人間は決して仙人になれないでしょうね。

 以前宝くじで1等(前後賞あわせて)9億円当たったら、と想像しました。
 もしもどんな理由であれ、それを3年で全て使い切ったとしたらどうか。
 途方に暮れた3年目の夕暮れ、たまたま以前と同じ宝くじ店の前にいる自分に気づく。懐には3000円入っている。使えば晩飯も食えない。でも、「ないだろうけど買ってみるか」と宝くじを10枚購入した。すると、まさかの1等当選! またも歓喜の9億を得た。

 もうこれだけで、私たちはその9億を後生大事に使う――というより、ちびちび使って多くを貯金か投信に回す。値上がりを期待して金や不動産を買う。
 もちろん知人友人に「宝くじがまた当たった」と知らせることなく、ひっそり余生を送る(でしょう)。「木を隠すなら森に」のたとえどおり、都心のタワーマンションか、お金持ちが多く暮らす一角に豪邸を買い、(借金の肩代わりをしなきゃならないような)親友はつくることなく日々を送る。

 だが、そのうち一人はまたも9億を使い切ってしまう。それが杜子春であった。
 仙人の腹積もりとしてはもう一度金塊を与えるつもりだった。だが、杜子春は生まれついての貧乏ではなく、金持ちの息子だったから、これが三度目となった。

 この流れが『杜子春』ですが、『鉄冠子の独白』では以下のように変えました。

 杜子春は元貧乏な家の生まれで、仙人から(想定通り)三度黄金のありかを教えてもらう
 そして、三度失って「もう金はいい。仙人になりたい」と申し出た。仙人(先代鉄冠子)は「最初の試験に合格したが、決意のほどを試すべく」峨眉山と地獄の責めを体験させた。

 先ほど仙人になるには何が必要か考えました。人間の欲望や情愛から超越している必要があると書きました。なぜか。

 理由は単純です。もしもさまざまな欲望を持っていたら、仙人になれば何でもかないます。そこに情愛が絡めば、愛する誰かのために仙人の能力をフル活用するでしょう。
 それは必ずしも正しいこと、良いことに使われるとは限らない。正しくないこと、悪いことに使われるかもしれない。すると人間界はとんでもないことになる。
 ゆえに、仙人になる資格はそれら欲望や情愛から超越していること。親戚縁者のいない若者、恋愛に無縁な一人ぼっちの若者こそ有資格者と言える。

 であるなら、両親や係累のない、知人友人から見放された杜子春は格好の若者である。
 彼はさまざまな三度の試練に耐え、地獄で鞭打たれる両親を見ても声を発しなかった
 欲望を超越し、情愛にも心を動かされない人間。これなら仙人になれる。
 杜子春は目が覚めると、先代鉄冠子から「よくぞ黙り通した。わしの弟子にしてやる」と言われた。この流れは充分あり得ると思います。

 創作『鉄冠子の独白』はこの発想と構想の元に書かれました。
 結果、杜子春は仙人修行に入って数十年の厳しい修業に耐え、見事仙人になった。

 ところが、いざ仙人になってみたら……。

 私はここに仙人=未来タイムトラベラー説を絡ませました。
 前号を読まれた読者の感想は「あまりに突飛な空想であり、勝手な構想に基づくスピンオフ小説だ。論評するほどでもない。どうぞご自由に」とつぶやいて終わりにしたのではないかと推察します。「芥川龍之介への冒涜だ」と怒り出す人さえいたかもしれません(^_^;)。

 しかし、以前第三節読了時杜子春が「仙人になれるかどうか」未来予想をしました。その中に次の予想があります。
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 杜子春は見事仙人になって自分で黄金を見つける。四度目どころかなくなればまた黄金を掘り出し、都一の大金持ちになる。もはや貧乏になることはなく豪華な邸宅で妻子を得て死ぬまで幸せに暮らした。めでたしめでたし(^.^)。これは楽観的未来。
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 この言い方、すでに「違うだろ」とつぶやく内容になっています。なぜなら、杜子春は三度大金持ちになって三度それを失ってうんざりした人。それが仙人になれたとして「これでいくらでも金銀財宝を掘り出せる」と豪邸で友人たちと遊び暮らす――なんてあり得ません。

 ただ、この未来予想を一言でまとめれば「仙人になれる」ということです。
 これをもっとふくらませるとどうなるか。

 仙人になれて「めでたしめでたし」と思う楽観的未来予想があるなら、この反対地点に「仙人になれたが、あまり良くなかった。むしろならない方が良かった」との悲観的・失望の境地がある――それに気づきます。これはふくらませていい未来予想です。

 [ここで「そうか。『鉄冠子の独白』はそれを描いたのか!」と膝を叩いてほしいところです(^.^)]

 私は仙人に次のように語らせました。
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 しかし、仙人となって自分は一体何をやっているだろうか……海上を歩き、空を自由に飛び回れる。地面のどこに黄金が埋まっているか透視できる。それがなんだと言うのだ……先代を失くした今、おれのことを知る者はいない。愛してくれる人もいない。愛する人もいない。それはおれがもはや人間ではないから。仙人だから。
 おれは仙人になるためこの数十年を犠牲にした。そして、年老いて夢をかなえた。
 だが、この数十年に意味があるのか。夢をかなえても、おれは一人ぼっちで死にゆくばかりだ……
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 これは私が勝手に想像した言葉ではありません。根拠はもちろん『杜子春』にある。
 杜子春は「人間というものに愛想を尽かした」人です。知人友人、男も女も金があればお世辞と追従を言ってちやほやしてくれる。だが、金がなくなれば冷たく扱う――結果、彼には親友がいない、恋人もいない。そのような人間が仙人になって年を取れば《考え、感じるであろう》姿です。

 杜子春には仙人になって「何かをしたい」というのがない。帝王になりたい、友人のため、恋人のため、子どものために仙人になりたいわけでもない。だって人間――人間界に愛想が尽きているのだから。

 杜子春は黙り通して仙人となる資格を得た。だが、仙人になってみて後悔しているかもしれない。いや、空しさと絶望さえ感じているなら、自死の誘惑に駆られても不思議ではありません

 これらをまとめて以下のように読み取った人はかなりの読書力だと思います。

 杜子春は作品冒頭で「春の日暮れ…財産を費(つか)い尽くして」ぼんやりしているとき「いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」と考える。彼は二度目に大金を得てそれを失い、三度目にまた失ったときも同じことを考えたのではないか。

 仙人になる夢をかなえたとしても、誰のために使うか、何のために使うか――それがない人は空しさを感じる。二十代で自死の思いにとらわれた人は夢をかなえても、年をとっても同じ空しさを感じ、自死の思いを否定できない。
 創作『鉄冠子の独白』はそれを描きました。そして、どうやってこの思いが克服されるか――それも書きました(^_^)。

 閑話休題。
 もう一つ膝を叩いてほしいこと。
 それがタイムトラベル理論を使ったA・B時空の構想です。

A=杜子春が見事仙人になった世界。彼は全ての試練に合格して仙人になった。だが、夢を達成して後悔している。これをA時空とする。

B=これに対して「昔の自分に変わってほしい、仙人になる夢をあきらめてほしい。それができなければ殺してしまおう」と考えて鉄冠子は過去に飛び込んだ。その瞬間始まった時空がB時空。
 『鉄冠子の独白』はA時空とB時空を交差して描いています

 ここがわかりづらいところなので、解説が必要だろうと思いました。

 A時空をまとめると、
 杜子春は仙人から教わった大金を三度得て三度使い切る試験に合格し、さらに峨眉山の試練、地獄の拷問と両親への責めを見て黙り通す試練に耐えた。これを受けて先代鉄冠子の弟子となり、厳しい修業の末仙人になることができた。

 B時空をまとめると、
 元杜子春の鉄冠子は過去の自分を変えようと思って未来から現代にタイムトラベルする。その瞬間新しい時空が始まった。彼は昔と違う出来事が起こることにとまどう。だが、それは望むことでもあり、先代鉄冠子と同じ流れに乗って杜子春に対する。

 A時空の杜子春はなぜ両親が鞭打たれる責めを見ても黙り通したのか
 そのわけは「B時空の反対だった」と考えることで導かれます。
 B時空の杜子春が「お母(っか)さん」の声を発したのは母の言葉を聞いたから。父が何も言わずに黙っていたから。

 この逆となるA時空では閻魔大王が杜子春を責める。「この親不孝者め」と。そして、父も同じ言葉を吐き、「お前は畜生以下だ、けだものだ」とののしる。母は黙って何も言わない――そのように構想したわけです。

 以前杜子春が峨眉山や地獄で黙り続ける理由として次の二つをあげました。
 1 仙人になりたいという強い決意があるから
 2 鉄冠子の言葉を信じて心を操られているから

 これによって杜子春は自分を犠牲にしても我慢し続ける。他人を――父と母を――犠牲にしても黙り続けるわけです。私はここにもう一つ付け加えたい。それが「杜子春は誰からも愛されなかった」との思いです。

 3 杜子春は父と母から愛されたと感じていないから

 杜子春は父と母から「愛された」と感じていない。愛されたと感じていないから、両親が鉄の鞭で拷問を受けても見ないふりをして黙り通す、と言えるわけです。
 たとえば、そこに杜子春の友人100人を並べて鉄の鞭を叩かせたらどうか。貧乏になったら冷たくされた友人たちに、杜子春は何の義理も恩も感じることはない。
 彼らから「オレはお前の親友だったじゃないか。助けてくれよ。何か言ってくれよ」と哀願されたって杜子春は心の中で「お前はひと椀の水さえめぐんでくれなかったじゃないか」とつぶやくでしょう。つまり、黙り続ける。
 両親もまた愛されたと感じなければ、友人たちと同じ集団の一員に過ぎない。特別な存在ではないってことです。

 作品に両親と杜子春との関係は描かれていません。どのように育てられ、いつごろ亡くなったのか全く不明。ただ、一つだけわかっているのは杜子春が両親の死後受け継いだ財産をぜいたくをして使い切ったこと。
 たとえば、それに3年かかったとして20歳の春仙人に出会ったなら、両親は17歳までに亡くなっている。思うに母が先で父が後ではないか。すると二度目に仙人と会うのは23歳、三度目は26歳の春となります。

 私は以前金持ちの子として生まれた杜子春について以下のように書きました(49号「後記」)。
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 幼いころから食事はいつも出てきた。欲しいものは親が何でも買ってくれた――か、(厳しい親なら)「贅沢は厳禁」と言われ、ちょっとしか買ってくれなかった。
 本稿との関連で語れば、前者なら親の愛は空気になってありがたみを感じない。後者なら「うちは金持ちなのに冷たい親だ」と思って親の愛を疑う。
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 ここにもう一つ追加できます。
 たとえば、黒田三郎の詩です。詩集『小さなユリと』を参考に「子捨て」について語りました。幼いユリちゃんにとってお母さんが病気で入院することは《自分が捨てられた》ことを意味すると。
 親としては「仕方がないじゃないか。そんなふうに感じるのは良くない」と言いたいところ。だが、自分が困っているとき頼りたくても母は駆け付けてくれない。理屈では助けに来られないとわかっていても、「自分なんかどうでもいいんだ、捨てられた」と感じる。

 この最大のものが親の死でしょうか。母もなく父もいなくなれば、自分は完全に見捨てられたと感じてしまう。ならば、自分も父や母を見殺しにする。一体何が悪いんだ――そう感じるのも人間ではないでしょうか。
 これもまた拷問を受ける両親を助けに行かない=黙り続ける理由になるかもしれません。

 私は『続編』第22号「見捨てて当然の親」の中で以下の狂短歌を詠みました。

 ○ 四タイプ それをあらわにする親は 捨てるしかない 捨てて当然

 四タイプに固執する親の子は「愛されている」と感じられない。「見捨てて当然の親だ」と書きました。してみると、私は地獄で馬となって鞭打たれる両親を見て声を発しない人間と見なされそうです。

 杜子春は父と母から愛されたと感じていない。実のところ愛されていたと感じることはあったかもしれない。だが、人間は忘却の生き物であり、父母の死とともにどんどん忘れられる
 大金を得て友人知人からちやほやされれば、そのときは「愛されている」と思うだろう。
 だが、金がなくなって冷たくされれば「愛されていない」と感じる。杜子春は三度体験して人間に愛想が尽きた。
 ゆえに、杜子春は夢のためには自分を、人を犠牲にして構わないと考える。『杜子春』の仙人・鉄冠子はそれを良くないことと考えたので、「黙り通せば殺そうと思った」と言う。

 しかし、人間の欲望と情愛を超越することが仙人になる条件なら、この対極には固く口を閉ざす杜子春がいるはず。目覚めたら仙人から「よくぞ黙り通した」と言われて仙人になることに成功する。私はそれをA時空として『鉄冠子の独白』を書きました。

 ただ、この構想だけなら、仙人となった杜子春の数十年後を描く必要はないし、彼をタイムトラベラーとする必要もない。この構想には別の理由と言うか意図があります。

 この構想によって私が描こうとしたのは何か。
 過去の杜子春に変わってほしいと思う時、それは同時に仙人となった(数十年後の)杜子春が変わることも意味する、ということです。
 創作『鉄冠子の独白』において仙人は未来の杜子春であり、仙人になった杜子春とする必要があったのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:おそらく読者は末尾を読んで「えっ、どーいうこと?」とつぶやくでしょう。
 冒頭の狂短歌
 ○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

 ――この意味も今号だけでは意味フメーと思います。
 さらなる解説は次号にて……(^_^)。なお、次回より週一に戻って配信は10日(水)です。


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