『続狂短歌人生論』58 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-2


○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった


|本文 | 『続狂短歌人生論』トップ |HPトップ|



ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年04月10日(水)第58号


 『続狂短歌人生論』58 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-2

 『杜子春』を一読法で読む――その5の2。
 これをもって杜子春読解終了です。

 前号にて仙人・鉄冠子が後継者を探していたなら、大金を三度も使い切る杜子春は「愚かどころか大物かもしれない」と書きました。

 仙人になるには人間の欲望と情愛から超越している必要がある。天涯孤独の杜子春はぴったりであり、ならばあらゆる試練に耐えて仙人になっても不思議ではない。
 杜子春が仙人になった数十年後、泰山の麓のぼろ屋でひっそり暮らす世界をA時空とするなら、彼に満足はあるだろうか。充実した仙人生活を送っているだろうか。

 いやいや、さにあらず。お金に超越したから自ら金銀財宝を掘り起こすことはない。それを掘り出して貧しい人のために使えばいいじゃないか、と思うのは我ら凡人。彼はまたお世辞と追従の人間たちに振り回されると考える。王臣に仕えれば、密偵か暗殺者として便利使いされるのが関の山。

 仙人の力を空中飛行くらいしか使っていないとしたら、なんと皮肉なことか。「おれは一体何をやっているのだろう」と空しさにとらわれ、「仙人修行に費やされた数十年に意味はあったのだろうか」と思う……。中にはこのような仙人だっていたかもしれません。

 私がこの構想を思いついたのは2月半ばころのことです。あるニュースを知って鉄冠子に投影させました。
 鉄冠子(=仙人となった杜子春)は老いさらばえて空しさにとらわれ、仙人になるための数十年は無駄だったと思って自死を決行しようとする。それも過去の自分を抹消するという形で。

 では、鉄冠子はどうやってこの感情を克服したか――創作『鉄冠子の独白』はそれを描きました。
「えっ、そんなことが書かれていたの?」とつぶやいた方のために、今号があります(^_^)。

 青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす
------------------------------------------

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3
 〇 [狂短歌は本文末尾に掲載]

4月01日(月) 55号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-1
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月03日(水) 56号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-2
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月05日(金) 57号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-1
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

4月10日(水) 58号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-2―――本号
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
===================================
****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』58 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-2 】

 本論の前にちょっと文学研究的な話題を少々。読者にとっては面白くないお話かもしれず、「タイムトラベル理論」同様さーっと通読されて結構です(^_^;)。

 これまで私は『杜子春』の読解について――初読のつぶやきや「作者なぜ?」の疑問を提示して解釈や推理を語って来ました。
 これらの疑問について『杜子春』単独を丁寧に何度も読むことであれこれ考えました。あくまで作品の説明・描写を元に推理を組み立てた。それが一読法だからです。

 が、世の中――特に大学で行われている文学研究では、作品のみの考察はほとんど評価されません。特異な解釈であればあるほど「根拠」が求められます。
 そして、根拠は作者の伝記的読み解き(?)から導き出される。すなわち、作者の生い立ち、人となり、家族・友人関係、文壇の交友等々。それが作品にどう反映されたか。それら作家研究を経てようやく「この解釈は正しい」と言えるわけです。

 また、作品に原典がある場合はそれとの比較対照で作品の解釈がなされる。これも文学研究の常套手段です。
 ちょっと回りくどい言い方で恐縮です。簡単に言うと、芥川龍之介の短編は昔の作品を元にして書かれていることが多い。たとえば、禅智内供の『鼻』は日本の古典である『今昔物語』・『宇治拾遺物語』に原典があります。それを「現代の小説としてよみがえらせた」として高い評価を受けました。

 同じことは『杜子春』にも起こっています。作品は中国の古典である伝奇小説『杜子春』を元にして書かれた。芥川龍之介の知人宛書簡に「唐の小説杜子春伝の主人公を」用いたが、3分の2以上は「創作」だと打ち明けています(ウィキペディアの孫引きです)。

 もう一つ。『杜子春』は1920(大正9)年雑誌『赤い鳥』に発表されました。『赤い鳥』は童話・童謡が掲載された児童向けの雑誌です。

 ということは前者を重視すれば、「作品のさまざまな疑問は原典との対比によって説明できる」ことになります。また、後者を意識すれば「作品に《そこまで》描かれていると言えないだろう」との批判が生まれます。「そこまで」とは私が提起したもろもろの推理・解釈のことです。

 実際「『杜子春』を一読法で読む」を書きつつ、授業風景も取り入れつつ、「これを小中の国語授業でやるのは厳しいかもしれない」と感じました。

 特に鉄冠子が杜子春を「殺すつもりだった」理由について考えるところなど、小学校児童にはちと難しすぎる。やるとすれば高校でしょうか。
 しかし、高校の教科書に『杜子春』は掲載されていない(だろう)し、自主教材としてやることも今では難しそうです。

 私は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は小中高全ての国語教科書に掲載されて授業でやるといいのに、と思います。今回そこに『杜子春』も追加されました。
 が、このような提案が文科省・教科書会社に取り上げられることはなく、自主教材として読まれることもない……まー無職無名の有識者(?)の発言は黙殺される運命です(^_^;)。

 それはさておき、私の解釈に原典『杜子春伝』との対比は全く取り入れていません
 が、ネットにあった研究成果はいくつか読みました。もしも読者の中に「そんなものがあるなら読んでみたい」と考えるなら、以下のサイトを紹介します。某大学研究者による精緻な対比が書かれています。
 →『『日本と中国、二つの「杜子春」――唐代伝奇「杜子春伝」と芥川龍之介「杜子春」の比較』

 お名前はトップページにあるので記載していいのですが、以下の2点で批判したいので控えます。
 一つは杜子春が「お母(っか)さん」と叫ぶところ。
***************************************
原典:杜子春が「ああ」と声を出したのは、母が子を思う「愛」の気持ちから。
芥川:杜子春が「お母さん!」と声を出したのは、子が母を思う「孝」の気持ちから。
***************************************
 とありました。私は杜子春が「お母(っか)さん」と叫んだのは「母はこれほどまでに自分を愛してくれていたのかわかったから」と解釈しました。

 もう一つ。仙人・鉄冠子が杜子春を「殺すつもりだった」と言うところ。
***************************************
原典:テーマは「信義」。杜子春は自分が約束を守れなかったことを深く恥じる。
芥川:「嘘も方便」。杜子春は約束を守れなかったが「反つて嬉しい気がするのです」と幸せな表情を浮かべ、 仙人も「もしお前が黙つていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思つていたのだ」と、とんでもないことを言う。
***************************************
 「嘘も方便」は意味不明。もしかしたら「仙人は最初から杜子春を殺すつもりで、《弟子にする(=仙人になれる)》との言葉は嘘だった」と解釈しているのかもしれません。よって「とんでもないことを言う」と、仙人の理不尽ぶりを指摘することになります。その感想は当然出ていい。問題は仙人がなぜそう言ったのか。どうもその解説はなさそうです。

 私の解釈は「その三・四」で語ったとおりです。杜子春が自分を犠牲にするだけでなく、人を犠牲にして構わないと思うような人間なら、仙人にするわけにいかないと思ったから。これは途中から「気持ちが変わった」との解釈です。

 前号では「仙人は後継者を求めて各都市の若者何人かに大金のありかを教える試験を課した。大金を三度使い切るような人間なら仙人になる資格があると考えていた」との推理を新たに提示しました。これも試練の途中から「ここまで黙り通すようではかえって仙人にするわけにはいかない」と考えが変わった――と解釈できます。

 もう一つはもしも仙人が未来からやって来た杜子春なら、彼は自分を抹消しようと思っていた。だから「実は殺すつもりだった」と言う。
 こちらは「杜子春が黙り通して仙人になるとすればどうか」との未来予想に基づいた別建ての構想です。
 前号、今号は最後の突飛な「杜子春タイムトラベラー説」について解説しています。


 さて、ここから本論。
 前号に続いて創作『鉄冠子の独白』について語ります。

 この発想は2月半ばころひらめきました。
 今年1月末かつて革命の志に燃えた(であろう)男が一人逮捕されました。
 1974年に企業爆破事件を起こして指名手配され、50年間逃亡生活を送った男です。

 1月26日のネットには「逃亡50年…連続企業爆破事件のK容疑者(70)の身柄を確保 神奈川県の病院に入院中」との見出しが躍りました(報道は実名でしたが、イニシャルとします)。末期がんを患い偽名を使って入院していた男性が突然「実は」と自分のことを明かしたのです。

 これまでなぜ逮捕されなかったのか。その理由が驚きでした。「木を隠すなら森の中」のたとえを忠実に実践していた。自分の身の上、思想を全く明かすことなく、妻子も得ず、親しい友人もつくらず、ひっそりバイトをして暮らし続けた。健康保険証や免許証も持っていない。事件を起こしたときが20歳ころで、自分を明かしたのが今年古稀を迎える50年後。
 [このへんまで読めば、彼のことを『鉄冠子の独白』に投影したとの経緯がわかるでしょう]

 私はもしも彼がタイムマシンに乗って過去の自分に会いに行ったらどうだろう、と考えました。彼は十代後半の自分に何を語るだろう。逃亡生活の中ひっそり暮らす三十代、四十代の自分にも何を語るだろうかと。
 もしかしたら「最初の段階で変わってほしい」と思ったかもしれない……このように考えたとき「鉄冠子タイムトラベラー」説が生まれました。

 もしも仙人が過去の自分、数十年にわたる仙人修行と現在の自分を肯定しているなら、彼から仙人になったことを後悔する述懐は出ないでしょう。時間旅行の秘術を学ぶ必要はないし、過去の自分に会いに行くこともない。
 いわんや、昔の自分を変えようと思うことはなく、変わらなければ「殺してしまおう」という――形を変えた自殺を選ぶこともないでしょう。

 今年1月浮上した元革命戦士の思いを推察するなら……。
 彼は黙って死に「行旅死亡人」として無縁仏になる道を選ばなかった。これはどっちだろうと考えました。ほんとは自分の過去を抹殺したかったのか。「自分の半世紀は無意味ではない。オレは死ぬまで黙り続けたぞ。すごいだろう」と訴えたかったのか

 あるいは、指名手配犯の写真を外してほしかったのか。考えてみれば、逮捕されない限り、あの顔写真は全国に掲載され続ける。さらに50年後「死亡したと思われる」としてようやく写真は外される。そのときまで――自分の死後も指名手配犯であることに耐えきれなくなったか……。

 そこで私の『鉄冠子の独白』は過去の自分を殺そうと思って時間旅行をしたけれど、実は《変えるべきは現在の自分である》との構想に基づいて書かれました。
 元杜子春の鉄冠子は仙人になったことを心から受け入れていない。肯定できていない
 そのように構想するなら、どんな小説ができあがるだろうか。

 最近テレビドラマなどで、過去にタイムリープして昔の自分をやり直すお話が盛んです。
 失恋や仕事の失敗など、過去と違うことをやることによって不如意・不祥事を消すことができるというのでしょう。

 SFの空想物語としてわからなくないけれど、私は悲しい構想(空想?)だと思います。
 なぜなら過去の自分――成功も失敗も、歓喜も挫折も全て受け入れて今の自分がある。それを成功だけの現在にしたいとは。
 それってつまり《現在にちっとも満足していない》ことを表明しているではありませんか。私はそのようなSF小説・脚本を書きたいと思わない。

 これらを受けて創作『鉄冠子の独白』を書きました。
 タイムトラベル理論で語ったように、鉄冠子が過去に飛び込んだ瞬間、彼が知る過去と違う時空が始まった。もはや時空はA時空からB時空に変わっている
 目の前の杜子春は貧乏ではなく金持ちの子だった。だから、金持ちから貧乏となる三度目は鉄冠子が知る二度目であり、二度で今の杜子春は「仙人になりたい」と申し出た。

 しかし、その後は「夢に固執する杜子春」が続く。そして、地獄で馬となった父母を鞭打つ場面に来る。
 かつてA時空で鉄冠子は一切喋らずに目が覚め、先代鉄冠子から「よくぞ黙り通した」と言われた。

 今閻魔大王に変化(へんげ)した鉄冠子は思う。
------------------------------
 不思議なことだ。このときおれの心には目の前の杜子春が自分だと思えなかった。
 両親を鞭打てと命令したことも、やむを得ぬこととは言え、心の痛みを感じなかった。
 馬は――畜生になった父母は苦しそうに身を悶え、眼には血の涙を浮べたまま見てもいられない程嘶(いなな)いた。
 杜子春は必死に目をつぶっている。閻魔大王のおれは辛い場面を見ている
------------------------------
 ここで一読法読者に考えてほしかったことがあります。

 閻魔大王(鉄冠子)は父母が鉄の鞭で打たれ苦しむ様子を見てなぜ黙って見ていられたのか。鬼どもに「親を鞭打て」と命令したとき、なぜ心の痛みを感じなかったのか。

 前号で考えたように、A時空における杜子春は「親の愛を感じていなかった」から。
 自分の過去で馬となった父親は鞭打たれながら杜子春をののしっていた。
「この不孝者め。お前は親がひどい目にあっても見て見ぬふりをするのか。お前を育てた恩を忘れたか。お前のような奴は人間ではない。畜生以下のけだものだ」と。
 そして、母は何も言わず黙っていた。そのときかつての杜子春=鉄冠子が母の内心を思いやることはなかった。

 ここでまとめるなら、私たちは人に責められ、非難されて変わろうと思わないでしょう。
 北風と太陽の話がいい例です。旅人は北風がいくら吹き募っても決してマントを脱がない。逆に太陽が暖かい日差しを浴びせるだけで自らマントを脱ぐ。

 また、何も言ってくれない人から愛を感じ取ることは難しい
 かつて杜子春が黙り通して仙人修行に入れたのは父の愛も母の愛も感じられなかったから――と私は描きました。それがA時空です。

 敢えて言うなら、先代鉄冠子も「仙人になるには親子の情愛など不要」と感じるような人であり、(もっと言えば)そのような人間らしい感情を持たない人間だったから仙人になれたとも言えます。

 結果、以前の杜子春は黙り通して仙人になれた。だが、彼自身はこの数十年を肯定できない。空しさにとらわれ自死の思いを消せない。ならば、過去の自分と現在の自分を同時に抹消してしまおう、と過去に出かけることにしたわけです。

 ところが、鉄冠子が飛び込んだB時空において最大の(A時空と違う)出来事が始まります。
------------------------------
 だが、今父に言葉はなく、黙って責めに耐えている。そして、母からは声とは呼べないくらいかすかな声が伝わって来た。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」と。

 おれはそれを聞いて目に涙が浮かんだ。閻魔大王であることを忘れ、吹上(ふきあげ)のように涙があふれ出た。
 母はこれほどまでに私を愛してくれていたのか。知らなかった。もしもこの言葉を聞いていたら……。
------------------------------
 我が子を責めることなく黙っている父。そして、母の子を思いやる言葉。
 この言葉は目の前の杜子春を変えた。それだけでなく、年老いた鉄冠子自身の氷のような感情も溶かされた瞬間だったと思います。

 以前「我慢の限度は三度まで」の話をしました。弱みを握られ強請られたとしても三度までは何とか我慢する。だが、三度目に生まれた殺意は次にやって来たとき実行されると。

 また、杜子春は冷たくされた知人友人に「愛想が尽きた」と感じた。だが、彼も知人友人に「今夜泊めてくれ」と頼っただろう。それが三度を超えて四度目になったとき「もう来ないでくれ」と言われ、一杯の水さえ恵んでくれなくなった。いかに善良な友人も限度を超えれば杜子春に愛想を尽かす。

 だが、母だけは三度を超えても、鉄の鞭を何度打たれても我慢できる。杜子春に愛想を尽かすことはない。「私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはない」と言う。
 息子がしたいように、やりたいように生きなさいと言ってくれる。それが若い杜子春を変えたなら、仙人となった杜子春も「母だけは自分を愛してくれた」と感じられる言葉になった――それを表しています。

 私は45号46号に以下の狂短歌をアップしました。

 〇 人はみな愛されてると思うより 愛されないと感じて生きる
 〇 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた

 今愛されていないと感じて生きる辛さ、さみしさ。それを認めたくないと強がりを見せる。虚勢を張って素直になれない。それだけでなく、愛し合っているかに見える人たちを見て羨望と嫉妬を覚え、人に対して攻撃的になる。

 しかし、あの親だけは愛してくれた、あの人だけは愛してくれたとわかったとき、このいやな感情が溶かされる。過去の自分、今の自分を心から受け入れ、認めることができる――私は『杜子春』をそのように理解したし、さらにその補助として『鉄冠子の独白』を創作しました。

 芥川龍之介『杜子春』が二十代の終わり、そのことに気づく杜子春を描いたとするなら、創作『鉄冠子の独白』は古稀目前になって気づく仙人を描いた。
 思うに「あの親だけど愛してくれた、あの人だけは愛してくれた」と気づくことは年齢を問わない。いくつになっても過去の記憶をたどってよみがえらせればいい、と思うのです。

 もしも「そのような物語だったのか。気づかなかった」と思われるなら、もう一度、そして最後に『杜子春』と『鉄冠子の独白』を味わって読み直すことを勧めます(^_^)。


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:ひと月前には書き上げているはずの前号と今号、脱稿したのは先週です。
 配信の間隔を短くしたためですが、本線に戻るにあたって執筆時間が必要となりました。
 なのでちょいと休刊して本稿最終章は4月24日(水)より週一に戻って再開します。が、17日(水)に37号「変えることに失敗――あなたを襲う悲喜劇と絶望」を再配信します。理由はその前置きにて。


次 59号 へ
ページトップ

 以下のサイトよりメルマガ登録ができます(無料)。↓

  『ゆうさんの狂短歌ジンセー論』メルマガ登録



『続狂短歌人生論』トップ | 6 狂短歌ジンセー論トップ | HPトップ|




Copyright(C) 2024 MIKAGEYUU.All rights reserved.