ある躁鬱競馬鹿(けいばか) H氏 行状(ぎょうじょう)


○ 「バカヤロー! なんでもう死にさらすんや」心に秘めて棺をのぞく



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ゆうさんごちゃ混ぜHP「狂歌教育人生論」        2004年12月 3日 第41号

 (^_^)今週の狂短歌(^_^)

41 「バカヤロー! なんでもう死にさらすんや」心に秘めて棺をのぞく

(^O^)ゆとりある人のための10分エッセー(^O^)  

ある躁鬱競馬鹿H氏行状伝

 先週日曜は競馬のGIジャパンカップがありました。
 競馬終了後競馬友達のH氏から「生まれて初めて3連複・3連単を的中させた!」と歓喜の電話がありました。今日は突然ですが、このH氏についてお話ししたいと思います。

 彼とは高校教員新採用以来二十数年にわたって付き合いがある、ある意味腐れ縁と言っていい間柄の友人です。
 高校教員に成り立ての頃、私は彼から競馬を学びました。数値中心の競馬専門紙「トータライザー」を教えてくれたのも彼でした。
 その後私はトータライザーの諸数値を研究(^_^;)することで、万馬券をかなり的中させるようになりました。ところが、H氏の方は獲ったり獲られたり、また獲られたりとなかなか上達しない感じでした。
 しかも、彼は二十数年前鬱病を発症して以来、欝が治ったときには激しい躁(そう)となり、また一、二年後には欝に戻り……といったように、ずっと躁と鬱を繰り返していました。

 たとえば、躁の時にはいつも元気で気力一杯、むしろ抑えがきかずにしばしば爆発、暴走する。けんか腰で、学校内外でいろいろなトラブルを引き起こしました。
 逆に欝の時にはいつ自殺するかわからないほどの落ち込みようとなります。出勤できず、授業に穴を開け、ひどいときにはテストの採点もできない。療養休暇を取ったり、休職したり、躁で復職するともめ事を起こし、また欝になり……と問題教師の典型のような人でした。
 また、私生活でも「片づけられない男」の典型でした。競馬以外にステレオ・オーディオ関係が趣味で、躁の時には近くの家電量販店から出たオーディオ廃棄物を集めまくる。しかし、欝になると何もせず、物は捨てられず、片づけられない。私と友人がその部屋を立ち退くとき片づけに行きましたが、部屋の中は高さ1メートルのゴミの山でした。

 しかし、私にとって彼は憎めない存在でした。頑固で融通(ゆうずう)の利かない不器用な人間だが、根はいい人だとわかっていたからです。ずっと独身のままで、数年前には二十歳過ぎのフィリピン娘に本気で恋をし、結婚すると言いながら、あっさり振られた……そんな人生でもありました。

 H氏は数年前腎臓や心臓の病気も併発して健康状態も良くありませんでした。もうこれ以上教職は続けられないと、定年まで数年を残して勧奨退職を申し込む予定になっていました。
 先月私と仲間四人で飲んだときも、みな彼の退職に賛成でした。そのとき彼は通院先の血圧検査票を見せてくれました。血圧は高く、脈拍が平静時なのに100もありました。
 それを見て私たちは「これは異常な値だから、やはり辞めた方がいい」で一致したのです。

 H氏は今年4月からまた何度目かの鬱病休職に入り、田舎の実家で療養していました。
 鬱状態はずっと続いていましたが、10月の新潟中越地震で「突如目覚めて」元気を回復。今度は上昇カーブの躁状態に入りました。こうなると元気でいろいろなことをやります。ネットオークションでスピーカーやらアンプを買い求め、それが実家の二階の二部屋を占拠してしまう。その部屋には彼が買った犬が五頭もいる。年老いた両親がやめろと言っても聞かず、先週金曜日は親子で大げんかをしたそうです。もう自分の部屋には誰も入れないと、彼は階段にでっかい物を置いてふさいでしまった。

 ――と、日曜の夕方H氏は語っていました。彼は親が悪く自分が正しいと主張するのですが、どちらに非があるかは明らかでした。
 私は「それじゃあ閉じこもりか引きこもりじゃないか」と言いました。すでに五十代半ばだというのに、彼の言動は正に子どもでした。
 そして、ジャパンカップで「生まれて初めて3連複、3連単を的中させた。1万ほど使って7万も払い戻しがあった」と大喜びしていたのです。
 私は彼に「当たった金で両親に何か買ってやったら?」と言いました。
 しかし、彼は「親父は俺が何かあげてもちっとも喜ばないんだ」と答えました。
 私は彼のご両親と面識があり、厳しくて頑固そうな親父さんだと思っていただけに、なんとなくH氏のさみしい気持ちがわかるような気がしました。

 彼から電話を受けた翌日、月曜日の昼過ぎでした。帰宅後留守電にメッセージが入っていました。
 それはH氏のお父さんからで、「息子のHが昨夜亡くなりました……」というのです。
 がーんと来ました。冗談ではないかと思いました。
 しかし、親父さんは淡々と息子の死を語っていました。

 私はすぐ彼の実家に電話して状況を確認しました。親父さんによると、「深夜パソコンの前で倒れたようだ。階段の荷物を取り払って家内が朝起こしに行ったら、すでに冷たくなっていた」と言います。
 医師によると心不全による急死だとのことです。

 その前日元気いっぱいに「3連単万シューが当たった!」という声を聞いていただけに、信じられない思いでした。親父さんは息子が「俺は60まで生きない」と言っていたことも語っていました。
 電話を切った後も私はショックが抜け切れませんでした。

 そして昨日、友人二人と彼の田舎まで車で出かけ、通夜に参列しました。実家が遠いので、彼の教員仲間で参列したのは数名でした。
 上州の空っ風が吹く当地は肌寒く、完成したばかりなのかきれいな葬祭場で、H氏の名が看板に掲げられていました。
 通夜の前両親といろいろ話しました。両親は自分たちが階下で寝ていながら、息子の異変を気づかなかったことを責めていました。しかし、仕方のないことだと思いました。

 私は通夜に一冊の冊子を持っていきました。それは私が十数年前に自費出版した『我が青春の暗夜行路』という研究論文です。先週H氏と電話で話したとき、「ケンジとマーヤ〜」は読んだから、ぜひそれを送ってくれと言われていたのです。私はそれを棺に入れてもらおうと思いました。
 お母さんに事情を話し、係の人に棺のふたを開けてもらいました。
 H氏が横たわっていました。顔の周りを白布で囲っているので、顔がとても小さく見えました。鬱血しているのか妙に赤ら顔でした。穏やかではないが、苦痛でゆがんだ顔でもなかった。少し苦しげで怒っているような顔でした。そして、もう二度と喋ることはない顔でした。
 十年ほど前私の母親が亡くなったとき、私はその死に目に会えず、実家に到着してから母の額を撫でました。そのとき「まだ暖かい」とつぶやいた記憶があります。
 私はそれを思い出し、右手でH氏の額を撫でました。だが、H氏の額はぞっとするほど冷たかった。そのとき涙が噴き出して止まらなかったのです。
 私は「本当に死んじゃったんですね」と言いました。お母さんも泣きながらうなずいていました。

 通夜が終わって帰路に就く車中、友人三人でいろいろ語り合いました。もっと早く辞めさせておけば良かったとか、心臓に病気があるのに、もう二月以来通院していなかったこととか……聞けばもっと関わるべきだったと悔やむ事柄が多かった。しかし、全て後の祭りです。
 「やっぱりやりたいことをやって生きるべきだよな。いつ死ぬかわからないんだから」の言葉も印象的でした。

 私は『ケンジとマーヤのフラクタル時空』でも書きましたが、「人は身近の人の死からいろいろなことを学べる」――H氏の突然の訃報(ふほう)は正にそれにあたると思いました。
 そして、死に逝く人は生ある人にさまざまなメッセージを遺す。私の場合は『我が青春の暗夜行路』をどうにかしろ――というメッセージと受け取りました。

 そして、こういう言い方が許されるなら――私は二十数年間教員生活を続け、五年前退職して作家を目指すことを決意しました。それはもう心身ぼろぼろで、そのまま続けていたら、十年後五十代半ばにぶっ倒れて死ぬだろうと思ったからです。
 私はH氏の突然死を見て自分の決断は間違っていなかったかもしれない。そう思いました。

 長々と私事を書きましたことご容赦下さい。私にとっては良き競馬友達の突然の訃報でした。

 最後に友の冥福を祈って、狂短歌十三首を捧げます。


   愛すべき競馬鹿(けいばか)教師に捧げる狂短歌13首


 ○ 「3連単万シューとった!」と歓喜の電話 今日は親から訃報の知らせ

 ○ 30年(そう)で半分欝半分 生きた実感2分の1か

 ○ 躁鬱(そううつ)の病の果ての突然死 それも人生これも人生

 ○ まっとうだが融通(ゆうずう)きかぬ競馬鹿(けいばか)教師 迷惑かけてあげくのぽっくり

 ○ 「バカヤロー! なんでもう死にさらすんや」心に秘めて棺をのぞく

 ○ 年老いた両親思う心なく わがままし放題森の石松

 ○ 心臓の異常を知っていながらも 通院やめた森の石松

 ○ 石松を誰が育てた親ならば この哀しみも育ての結末

 ○ 彼もまた少年のまま大きくなり 少年のまま死にはらはった

 ○ 友としてもっとやれることありや されど最後は本人の意思

 ○ 友の死は十年後の我が姿 まざまざといま見せてくれた

 ○ 親よりも先に死ぬとは親不孝 されどぽっくり死んで親孝行

 ○ ののしり合い親子げんかをしてもなお 生きていくべき生きてあるべき


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:亡き友の冥福を祈って……合掌。(御影祐)

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☆ 次の42号は「四国明星の旅 (32号から44号)」になります。
 この連載をご覧になる場合は「旅に学ぶ―四国明星の旅 トップページ 」へどうぞ。
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