198「W杯日本サッカーの活躍と防衛費倍増」


○ 世の中は一喜一憂ばかりなり するが凡人 せぬが賢人


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ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」        2023年1月27日(金)第 198号

 年をまたいで3号連続の狂短歌ジンセー論。
 3回目の本号、見出しは「W杯日本サッカーの活躍と防衛費倍増」でした。
 が、わけあって前半のみの公開とし、後半は「いつかまた」といたします。
 理由は後記に書きました。

 さて、本稿の見出しと狂短歌を読んで、その内容を予想できる人はほぼいないと思われます。
 もちろんどちらもサッカーワールドカップに関係しています。

 一読法でものごとを眺めている人は「一喜一憂の言葉は日本が初戦のドイツに勝ったとき、監督が言っていた言葉だな」と気づいたかもしれません。
 私はあのとき「おやー妙な言葉だなあ」とつぶやきました。

 また、第二戦コスタリカ戦の前には、ワイドショーなどで相手国のことが紹介されていました。
 私はその内容を知り、誰もが勝利を予想したコスタリカに敗れたとき、
「なるほどそういうことか」と負けた意味を考え納得したのです。
 さらに意味不明?

 どうぞお読みください。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 世の中は一喜一憂ばかりなり するが凡人 せぬが賢人

 (^_^) ゆとりある人のための10分エッセー (^_^)

 【 W杯日本サッカーの活躍と防衛費倍増 】

 中東カタールで開催されたサッカーW杯に世界が熱狂しました。
 特に日本は「ドイツとスペインが入った予選リーグは死の組、敗退必至」と思われたのに、まさかの(?)2勝1敗でトップ通過。世界を驚かせ、熱狂が日本国中を駆け回った感じです。

 なんとなく暗く沈んだ世情(感情)が久しぶりに明るく、爽快感を取り戻したような気がします。もちろん私もその一人。

 ロシアによるウクライナ侵攻(戦争)はいまだ続いており、核使用とか第三次世界大戦の不安が世界と日本の人々を委縮させている。
 また、世界の異常気象、世界の人権抑圧、強権国家の繁栄(?)、異様な宗教観の発露も続いている。繁栄はむしろ跳梁跋扈と呼ぶべきでしょう。
 [読めない、意味不明の方はネット検索してください]

 ご存じかどうか。世界から昆虫が激減しています。また、海ではプラスチックが爆発的に増加していずれ魚貝類の絶滅まで進むかもしれません。
 その後やって来るのは小動物の絶滅であり、最後は人類の滅亡でしょう。

 ほんとうは世界がまとまって宇宙船「地球号」の危機に対応しなければならない。なのに、自国・自民族の利益しか考えない。
 それがニンゲンさ、と達観したようなことは言いたくない。「今楽しく生きられりゃそれでいいのさ」も違う気が。
 かと言って不安と絶望感から「こんな世界とは早くおさらばしたい」と自死の道を選ぶのもビミョー。

 なんにせよ気持ちは暗く沈みがち。特に日本は世界の経済成長からひとり取り残され、昨年とうとう円安・物価高に襲われました。
 なのに賃金は上がらない。悪い物価高であり、暗くどんよりした雲に覆われているかのよう。
 サッカーW杯への熱狂は「つかの間この雲を吹き飛ばしてくれた」ことにありそうです。

 さて、日本チームの初戦前、大方の予想は「1勝2敗で予選敗退」か「1勝1敗1分け」なら、他チームの結果次第で敗退か突破――だったでしょう。
 私も表は1分け2敗。ウラ2勝1敗で予選突破と予想しました。
 しかし、ウラ予想はほとんど願望(^_^;)であり、内心は「1勝すればいいところかなあ」でした。

 それが初戦のドイツで勝った。2対1の逆転勝ち。それがW杯初なら、過去の優勝国を破ったのも初。大金星、番狂わせ、ジャイアントキリングと呼ばれました。
 掛け値なしに日本国中大熱狂。

 そのとき終了直後の円陣で森保監督が言われた言葉が「一喜一憂するな」でした。

 私は一読法を実践しているので、この言葉を聞いて「あれっ」と思いました。
 使い方を間違えているなと。

 選手は歓喜にあふれ大喜びしている(現場や日本で観戦した人たちも)。
 少なくともこの試合において「一憂」はないはず。ミスはあったとしても、最終的に勝ったのだから憂いはない(はず)。

 よって、ここで使うべき故事成語としては「油断大敵」とか「勝って兜の諸をしめよ」ではなかろうか。だが、監督は「一喜一憂するな」と言った。
 目の前の選手たち誰もが「一喜」どころか「全喜」しているとき、「一憂するな」とは……はて?

 私はそのとき考えました。
もしもこの言葉が次戦の負けを予想しているなら相当の言葉だな」と。

 ほんとです。ほんとにそのとき考えました。
 2戦目コスタリカ戦に敗れた結果論としてこのことを語るのではなく、(私は)初戦を終えた段階で思ったのです。

 そして、2戦目コスタリカ戦。
 世界ランクは格下だし「勝っていち早く予選突破を決めてほしい、決めるだろう」との願いと期待。だが、予想に反して0対1の敗戦
 次の強豪スペインに勝つか引き分けねばならないところに追い込まれました。

 コスタリカ戦後、監督が「一喜一憂するな」と言ったかどうか。
 どうも言っていないようですが、ここでこそ使うに最適の言葉です。

 一方、日本では格下コスタリカに負けたことで、非難や誹謗中傷がネットにあふれたとか。「これで予選突破はできなくなった」と悲観的な見方が蔓延しました。
 もちろん願望としてはスペインに勝ってほしい。だが、スペインも2010年の優勝国。現実は厳しく「勝率10パーセントくらいかな」みたいな。
 一度はジャイキリがあった。だが、二度の「まさか」はないだろうと。

 私はそのときメルマガに書きました。
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 しかし、別にあわてることはない。
 最終節でスペインに勝てばいいのです(^_^)。
 もう一度ジャイアントキリング・大金星・大番狂わせを起こす。
 いや、起こしてほしい。
 そもそもそれくらいでなければ、ベスト8なんぞ夢のまた夢。
 ここは大物をもう一度「食って」ほしいものです(^_^)。
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 さて、この言葉、皆さん方はどう思われたでしょうか。

 実はこれ一喜一憂していない言葉です。
 そして、初戦後「一喜一憂」の言葉を使った森保監督も2戦を終えて同じことを思ったでしょう。
 だって勝ったときでさえ「一喜一憂するな」と言った人です。
 負けたときだって同じことを思い、同じ言葉を使っているはずです。

 先ほど初戦を終えたときの「一喜一憂」は使い方を間違えていると書きました。
 だが、2戦目に負けてみると、この使い方は「未来を見通した言葉となっている」ことがわかります。つまり、あの言葉は正しかったのです。

 失礼ながら、凡人は日本チームが初戦ドイツに勝ったとき、大喜びしてそれが次も続くと思う。ところが、2戦目コスタリカに負けるや、失望して絶望して「もう終わった。日本の予選敗退が決まった」と落胆する。

 そして、3戦目まさかのスペイン戦に勝った。すると初戦以上の大喜び。
 トップで予選通過となったので、ベスト16の相手は他リーグの2位チーム(具体的にはクロアチア)。棚からぼたもちとは言わないけれど、「これでベスト8は決まった」みたいな言葉が吐かれたようです。

 目の前の結果に振り回されて一喜一憂する。とても安易な未来予想。
 が、賢人はその都度その都度一喜一憂し過ぎることはない――そう読み取ることができます。

[ここらで一読法実践者は本稿の展開予想に入るべきです。そして、「おやーもしかしたら有名なことわざ《□□が馬》について語るつもりなのかな」と予想されたなら、花丸を差し上げます。]

 こんなことを語るのはたぶん私くらいのもんでしょう。
 では、私はどうしてこの流れを語ることができるのか。
 私も「賢人である」なぞと言うつもりはありません(^_^;)。

 それは元国語教師として中国の故事成語「塞翁が馬」を知っているからです。
 このことわざ「人間万事塞翁が馬」などとして使われます。「禍福はあざなえる縄のごとし」も同じ。
[これら故事成語が読めない、意味不明の方はネット検索してください]

 「塞翁が馬」は高校の漢文教科書に出ていることがあるから、読んだことがあるかもしれません。
 中国北方の要塞で暮らすおじいさんのお話です。

 おじいさんは馬を飼っていた。ところが、あるとき馬が逃げてしまった。
 近隣の人は「残念でしたね」とおじいさんを慰めた。
 だが、おじいさんは「なーに。これが良いことをもたらすかもしれない」と言った。
 すると、数か月後その馬が北方の駿馬を連れて帰って来た。
 [「しゅんば」と読んだ人は検索を]
 近隣の人は「良かったですねえ」と喜びを伝えた。
 だが、おじいさんは「いやいや、これが災いの元となるかもしれない」と言った。
 すると、馬に乗った彼の息子が落馬して足の骨を折った。
 近隣の人はまた慰めを言った。
 だが、おじいさんは「これが良いことをもたらすかもしれない」と言って気にしなかった。すると……(後はネットで)

 このように「塞翁が馬」とは「一喜一憂」しない賢明さを表しています。
 未来を見通して物事を眺めると言えるかもしれません。
 悪いことが起こってもそれが続くとは限らない。
 逆に良いことが起こっても、それが続くとは言えない。

 ところが、凡人は悪いことが起こると、次も悪いことが起こりそうだと感じる。
 良いことが起こると、次も良いことが起こるだろうと考える。

 つまり、目の前の一喜一憂に振り回され、良いことがあると逆のことが起こるかもしれないなどと考えもせず浮かれ騒ぐ。
 反対現象が起こると、必要以上に落ち込み「あいつが悪い、あいつのせいだ」と誰かを責め立て、あげく自身の運命まで呪う……。おやおや(^.^)。

 げに、サッカー日本代表がドイツに勝ったとき、監督が「一喜一憂するな」と言ったことは正に賢明な言葉遣いだった、と言えると思います。

 さて、次なるテーマは日本が第2戦コスタリカに負けた意味です。

 これは漢文や故事成語に一切関係なく、(おそらく)私しか書かない見解だと思います。
 ただ、長くなったので、この件は「いつかまた」として、ここでは「凡人・賢人」についてもう少し深掘りしたいと思います。

 本稿を読まれ、日本サッカーの勝ち負けに一喜一憂した人は「自分は凡人だなあ」と感じたでしょうか。そして「まー所詮その程度だ」と開き直ったか(^.^)。あるいは「自分も賢人にならなきゃ」と(控えめに)決意したか

 失礼ながら、前者はこの次同じような出来事が起こったとき、やっぱり凡人ぶりを発揮して事態に一喜一憂するであろうと予測します。
 けれど、後者だって難しい問題に直面します。
 それは時間が経つとこの決意が薄れ、やがて元の木阿弥となり、ある出来事に対してやはり一喜一憂している自身に気づくことです。なぜか。

 私は「塞翁が馬」を漢文授業でやったとき、(私自身二、三十代の若さだったこともあって)次のように語ったものです。
「これは年寄りの発想だ。君らはまだ若い。だから、悟りすましたような面をして悲しいことや喜びを押さえつける必要はないと思う。悲しいことがあったら大いに悲しめばいい。楽しいこと、うれしいことがあったら、身体全体で喜びを表現した方がいいと思うんだ」と。
 ただ「今の悲しみ、今の喜びがずっと続くわけじゃない。どんなに悲しくても辛くても次にいいことが起こる。そう思っているだけでいいんだ」と付け足しました。

 これは凡人ぶりを発揮する人への助言ですが、後者の「賢人を目指そう」と思いながら、いつの間にかその思いが消え失せ、気づくとまた一喜一憂し(過ぎ)ている自分に気づく――方々に対しては次のようなアドバイスがあります。
 これは若者を過ぎて壮年、中高年になった方々への助言と言えます。

 塞翁が馬のことわざは聞いたことがある。「一喜一憂するな」の言葉も知っている。なのに、一喜一憂して事態に振り回される……。
 ということは、いずれの言葉も《自分のこととして実践できない》ことを意味します。

 若いうちは大いに一喜一憂していい。だが、ある程度の年齢になったら、一喜一憂を抑える賢明さがほしい。なのに、なぜ一喜一憂し過ぎるのか。

 最大の理由は《理屈と感情》が一致していないことです。

 つまり、「塞翁が馬」も「一喜一憂」も言葉にすぎず、理屈にすぎず、頭に入っていても感情を伴って身についていない。
 だから、すぐに忘れ、元の木阿弥となり、やがてまた一喜一憂している自分に気づく……羽目になる。

 言葉とは理屈であり、理屈は言葉で語られます。
 しかし、感情に言葉はない
 ――などと書くと「そんなことはない」と反論されるかもしれません。が、ちょっと振り返れば納得されると思います。

 感情は一人一人違います。だが、言葉とは(抽象だから)一人一人の気持ちを正確に表現できないのです。

 たとえば、友人、同僚、夫婦、恋人。先生対自分、親対自分、自分対子供などなど、我々は日々様々な場面で様々な《感情》を感じます。
 そのとき自分が感じている《感情》を言葉にしようとする。あるいは、実際言葉にする。
 すると「どこか違う」と感じることが多いはず。「この言葉は自分の感情を的確に表現していない」と。

 特にマイナス面の感情に対してそう思います。今感じているのは悲しみか、怒りか、辛さか。不快か腹立ちか。
 いざ言葉にしてみると、なんとなく違うと感じるのです。

 たとえば、自分の言動に対して周囲から「そんなに怒らないで」と言われることがあります。
 そのとき「怒っているんじゃない」と言いたくなり、実際「怒っていない」と口にするのもこれを表しています。内心は悲しいのかもしれません。

 以前も書いたことがあります。「戦争は良くない、平和が大切だ」とか「人の命はかけがえがない。いじめてはいけない」は《理屈》に過ぎないんだと。

 戦場に行って友人や敵兵の死を眺めて帰国した人、子どもを戦争で亡くした父母が言う「戦争は良くない、平和が大切だ」には(痛切な)感情が伴っています。この人にとって理屈と感情は一致しています。

 だが、戦争の体験がない人にとって「戦争は良くない、平和が大切だ」の言葉に苦しく辛い感情は入っていない。理屈だけで物事をとらえ考えているから、ある議員なんぞは「隣の国との領土争いは戦争によって解決するしかない」などと平気で言えるのです。

 ここでも人は大きく二つに分かれます。

 A かたや体験なんぞなくても構わないと言って事態を眺めたり考える人。
 B かたや体験できないからこそ、書物を読んだり、人の話を聞いて補おうとする人。

 敢えて言います。
 前者こそ真の(?)凡人であり、いやそれ以上の愚民――愚かな人間と言わざるを得ないと。

 そして、後者こそ真の賢人であり、賢人を目指す生き方だと思います。

[ここらで「おやーこの主張は以前『一読法を学べ』などで言っていたことだな」とつぶやかれたなら、再度花丸を献呈します。よくぞ読んでくださいました(^_^)。]
 (再読しようと思うなら、こちら↓
 『一読法を学べ』 第5号 理論編4「結論が大切か途中が大切か」
 『一読法を学べ』 第7号 理論編6「まとめ(その一)」)

 我々は何でもかんでも体験できるわけではない。いまや日本で生きている人の9割超は戦争の実体験を持ちません。
 我々は大国ロシアが小国ウクライナに侵攻して国を焦土にしている状況を見てきました。
 ひとりひとり不安や恐怖にとらわれ、さまざまなことを考えています。
 ここで必要なことは「一憂」し過ぎない賢明さだと思うのです。

 将来隣国の侵攻が始まるかもしれない。何もしないとミサイルが飛んで来るかもしれない。
 そのような不安に一憂して「敵基地攻撃だ・核シェアだ・核武装だ」ととなえる。それこそ愚かな結論と言わざるを得ません。

 もう一つ「敢えて」言います。
 いくら論文を読んでも賢人にはなれません。小説や詩や短歌俳句を読み、人の感情を学ぶ人こそ真の賢人になれる。理屈と感情が一致してこそ、一喜一憂し過ぎない生き方が可能になる。私はそう思います。


 〇 世の中は一喜一憂ばかりなり するが凡人 せぬが賢人


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:見出しの後半にある「防衛費倍増」に関して思うことは前号にかなり書きました。
 今号の後半に書こうと思ったのはW杯日本チームの「予選リーグ唯一の敗戦(格下コスタリカに0対1で負けたこと)に関して。そこから何をくみ取るか。
 本号が長くなったので「次号」にするつもりでしたが、気が変わって「いつかまた」とします(^_^;)。

 理由は新たに設定した次の見出しと狂短歌を読めば想像できるかもしれません。
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 見出し【 W杯日本チームが負けたコスタリカは軍隊のない国 】

 ○ コスタリカ徹底守備のチームでも1対0で日本に勝てる

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 今年(2023年)後半か来年「防衛費倍増・少子化対策の増税負担」を争点に衆院選が行われるでしょう。この配信はそのときにしたいと思います。

 なお、(メルマガでは)次回から「狂短歌人生論」拾遺集の配信を開始します。




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