カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 42号

一読法からの提言T

 12「人は昔も今も目標(ノルマ)と他者との優劣によって評価される」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第42号

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           原則隔週 配信 2020年6月12日(金)



 学校の成績づけは21世紀に入って相対評価から「絶対評価+観点別評価」に変わった。それは企業の人事評価が相対評価から絶対評価に変わったことと時期を同じくしている。
 前節を受けて今号は絶対評価と言いつつ、つまるところ人と比べて優劣を評価している「絶対的相対評価である」ことについてもっと語ります。

 ところで、これまで成績評価についていろいろ書いてきましたが、私の結論は「相対評価であろうが、絶対評価であろうが、子どもたちに成績をつけるのはやめませんか」です。
 そろそろなぜこんな愚論とも思える主張をするのか、わかってもらえるのではないでしょうか。

 なお、成績評価改変の根底に吹き荒れた世界史的大転換の解説は次号に回しました。呆れることなくお読みいただけると幸いです。

 [以下今号
  なぜ相対評価は絶対的観点別評価に変わったのか
 [ 12 人は昔も今も目標(ノルマ)と他者との優劣によって評価される

 以下次号
 [13] グローバル化と〇〇〇〇〇〇〇の進化が相対評価を終わらせた


 本号の難読漢字
・携(たずさ)わる・煎(せん)じて・耽(ふけ)る・叱咤(しった)・軌(き)を一(いつ)にする・轍(わだち)をたどる・終焉(しゅうえん)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』42 一読法からの提言T

 12 なぜ相対評価は絶対的観点別評価に変わったのか

[12] 人は昔も今も目標(ノルマ)と他者との優劣によって評価される

 本題の前に、二つ三つ前節の補足的復習です。
 前節のある部分にはおかしなところがありました。「あれっ、何かへんだぞ」とつぶやかれたでしょうか。
 私は企業も学校も成績評価は「相対評価」と「絶対評価」だけでなく、ノルマが課される「絶対的相対評価」があるとして次の3種に分けました。
 [企業・学校の成績評価]
 1 相対評価
 2 絶対評価
 3 絶対的相対評価(絶対的観点別評価)

 ただし、2002年小中高が「相対評価から絶対評価に変わった」とされたとき、2の「絶対評価」のみの時代はない。正しくは「相対評価から[絶対評価+観点別評価]に変わったのだ」と明らかにしました。
 おっと、これも正確さを欠く表現です。「明らかにした」のではなく、関係者なら、誰でも知っている事実です。私が明らかにしたのは「絶対評価+観点別評価」とは「絶対的相対評価である」ことです。

 これに関しては特に文科省から「そんなことはない。観点別評価も絶対評価だ」との反論が出されるでしょう……が、私の結論は揺らぎません。
 なぜなら、「小中高の先生方に絶対評価はできない→できなくても教えて構わない」からであり、そもそも「人は人を絶対評価なんぞできない。経験・思想信条・人生観によって相対評価できるだけ」と考えるからです(詳細は「人は正しい評価などできない」37号参照)。

 それに文科省もそこんとこ追及されないよう、ちゃんと逃げています。相対評価を「集団に準拠した評価」、絶対評価を「目標に準拠した評価」と呼んでいます。これは「絶対」と言いたくないので、作った言葉だと思います。矛(ほこ)と盾(たて)の昔から、人間界に「絶対できる」などという現象はあり得ないからです。私はそこを突いて「先生方に絶対評価なんぞできないでしょう」と言ったわけです。

 もう一つ、そもそも論からいちゃもんつけると、「相対評価から目標に準拠した評価に変わった」もおかしな表現です。それではかつての「相対評価」がまるで「目標に準拠していない評価であった」かのように聞こえるではありませんか。

 いえいえ、相対評価だった時代、各教科の目標、学ぶべき最低基準はしっかり定められていました。それが「学習指導要領」です。教師個人、教科、各学校で勝手に目標や教科の内容を決めていたわけではありません。日本国が「この学年は……この教科は……この内容を教えなさい」と決めていました(もちろん日本以外の国もそう)。
 先生方は授業でそれを教え、筆記試験や実技試験によって「その目標に到達したか」評価していたのです。だから、かつて相対評価だった時代も「目標に準拠した評価」をつけていたのです。

 ただ、クラスの半数が目標に到達したとしても、「そんなにたくさんの生徒に『5』をつけてはいかん。『5』は学年の7パーセントだ」と決められていた。
 あるいは、教科の目標に到達した生徒が一人もいないので「5」はつけられない。だが、「『4』をつけた生徒のうち学年7パーセント分を『5』にしなさい」と決められていた。
 さらに、「『1』の子どもがいるはず(?!)だから、学年7パーセント分は必ず『1』にしなさい。いなけりゃ『2』の生徒のうち7パーセント分を『1』にしなさい」と……。

 すなわち、「目標の到達度より集団内の(度数分布付き)相対評価を優先する」と法律で決められていたので、先生方は法律に従って成績を出さざるを得なかったのです。相対評価の時代とは「目標に準拠した評価と、集団に準拠した相対評価が行われていた」――これが正しい表現です。

 ゆえに、「相対評価から目標に準拠した評価に変わった」とは「集団に準拠する相対評価」が抜かれただけで、「目標に準拠した評価と(さらに厳密に?)目標に準拠した評価」に変わったということです。

 いいたとえが思いつかないので、ウィスキーの水割りを例にすると、かつては「水割りシングル」だった。それが「ダブル」になったってところでしょうか。ウィスキー自体に違いはありません。
 さすがに「目標に準拠した評価を倍増した」とは「なんのこっちゃ」という改定なので、後半を「観点別評価に変えた」と言うこともできます。

 それはさておき、私は成績評価を車の販売を例として次のように解説しました。この中に異和感を覚えてほしい表現が二箇所あります。
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1 相対評価……目標はないので、トップが20台の月があれば、10台の月もある。基本給は同じで、各自の売り上げ台数によって歩合給をもらう。
2 絶対評価……月10台の販売目標(ノルマ)が決められたとき、達成したらあとは遊んでもいい。未達成の者はがんばるが、基本給に関係なければ、できなかったとあきらめる。
3 絶対的相対評価……月10台の販売目標を達成しても、さらに懸命に働いてトップを目指す。かたや目標を達成できないと、低い基本給しかもらえないので、懸命に働かねばならない。ときには詐欺師のようなことをしてでも、ノルマを達成する……。
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 「へんだぞ」とつぶやいてほしい一つ目は「1相対評価」の「目標はない」のところ。もう一つは「2絶対評価」で、企業・会社においてこのような意味での「絶対評価」はないだろうということ。ノルマを達成したら後は遊んでいいなんて職場はまずないでしょう。
 であれば勤務評価とは「1相対評価」と「3絶対的相対評価」の二つだけではないか、ということです。

 私は退職までの二十数年間高校教員一筋だったので、一般企業の経験はありません。それでも「目標を達成したら、あとは遊んでいい」奇特な会社があるとは思えません。そのときは目標(ノルマ)が高く設定し直されるでしょう。
 よって、ここは「相対評価」と「絶対的相対評価」の二つに分ければ充分でした。
 先程言及したように、学校においても「相対評価から絶対的観点別評価に変わった」ので、絶対評価のみの時代はありません。

 ちなみに、この部分を三つに分けたのは「相対評価」と「絶対評価」を字義どおり適用したときの意味を確認するためです。本来「相対評価」に目標はいらないし、絶対評価とは「目標を達成したら、あとは遊んでいい」評価制度なのです。

 前節にて「絶対評価最大の弱点は目標を達成したら、それ以上をやろうとしないことだ」と指摘しました。実のところ、これは相対評価の弱点でもあります。
 集団の中でトップに立って5段階の最高評価「5」を得たとき、どうしてそれ以上をやる必要がありますか。車の営業で毎月20台を売っていつもトップなら、絶対評価であろうが、相対評価であろうが、目標を半月で達成した時点で会社には適度にばらけるよう操作して報告する。そして、残りの10日は喫茶店でコーヒー飲みつつ、テーブルのテレビゲームに耽れば良いではありませんか(1980・・・・年代の喫茶店風景です。今ならスマホゲームでしょう)。

 閑話休題。まず「1相対評価」の解説について再度《解説》いたします。
 この中で「目標はないので」と説明したところがおかしく、相対評価においても目標はある。「あしたのチーム」さんも以下のように解説していました。

 相対評価は「例え自分の目標を達成しても、他にそれを超える結果を出した社員がいれば」評価は下がり、「逆に、未達成でも周りの結果がそれよりも悪ければ」相対的に評価が上がる――と。ちゃんと「目標の達成・未達成」と書かれています。
 では、相対評価における「自分の目標」とは何か。車の販売なら「ひと月10台売ること」と決めれば、それこそ目標であり、ノルマではありませんか。要するに、現実の相対評価においては「目標・ノルマがある」ということです。

 先程書いたように、私の勤労体験は高校教諭一つだけで、ノルマが課される販売に携わった経験はありません。それでも想像力を駆使すれば、相対評価とノルマの関係について、かたや冷めた人間関係の職場と、ちょっと感動的なドラマが生み出される職場の様子を描くことができます。
 と言うのはノルマが個人一人一人に課されるか、集団全体に課されるのか――それによってかなり違いがあるからです。個人に課されるノルマは結構辛い。しかし、全体に課されるなら、必ずしも辛いとは限らない(そのようなドラマです)。

 たとえば、営業一課の社員が20人として一人一人にひと月10台の目標が立てられる(とします)。
 基本給が一律20万、1台につき1万の歩合給がつくとすれば、10台売れば30万の給料がもらえる。20台売れば40万、5台だと25万。社員は自身の目標を達成しようとがんばり、壁には日々売り上げの棒グラフが貼り出される。最高20台、中間10台、最低4台……となり、販売台数は今月200台に達した。
 課長は月末にトップの優秀社員A君を表彰し、ブービーを争っていた劣等社員のC君、D君に対して「会社は君たちにタダ飯食わせるためにあるんじゃないぞ」とか、「A君の爪のあかでも煎じて飲みなさい」と叱咤激励する……。

 これが相対評価であろうが、絶対的相対評価であろうが、ある営業課ひと月の状況でしょう。このときA君やC、D君、平均の10台だったB君の心のうちを想像してみてください。
 A君はトップになって賞賛されたし、給料としても跳ね返ってくるので充実感と自信にあふれ、他の連中に対して優越感を覚える。B君は取りあえず平均に達したし、劣等社員に落ちなかったことにほっとする。C君は「自分はこの職業合っているんだろうか」と悩み、D君は「まーオレはこの程度の人間だ。月に20万ちょっともらって、土日好きな事ができればいいや」とつぶやいたりする……。
 彼らの感想を一言でまとめれば、「興味関心があるのは自分の成績」です。

 ところが、相対評価ながら、一課全体にひと月200台の目標が立てられたとします。各自の歩合などは変わらないけれど、達成すれば全員一律総売上0.2パーセントのボーナスが出る。1台100万平均なら売り上げは月2億、1台200万平均なら4億。間を取って月の総売上3億なら、0.2パーセントは60万。20人で分け合うと一人プラス3万円のボーナスとなります。これはおいしいでしょう。

 かくして、各自順調に、またはC君D君は相変わらず毎日0台、たまーに1台が続きつつ、販売数を積み上げ、月末20日目の金曜日。前日までの売り上げは計198台。あと2台で目標を達成するので、みな張り切って外商に出ます。
 そして、夕刻。社員が続々と帰社して上司にこの日の結果を報告する。だが、一人として「1台売れました」の声が聞こえない。今月20台売ったベテラン社員も手ぶらで帰ってきた。退勤時刻になっても198台のまま。

 まだ二人戻っていないが、ともに前日まで3台、4台しか売れなかった劣等社員のC、D君。みな「今月の目標達成は無理だったか」とあきらめムードが漂う。
 ところが、最後の最後に逆転ドラマがあった。帰ってきたC君、D君がともに「1台売れました」と報告してぎりぎり200台の目標達成。
 そのときその場にいれば、みな拍手して二人の劣等社員に「よくやった!」と言わないでしょうか。不思議なことに月に4台、5台の売り上げしかない社員に、称賛の言葉がかけられるのです。そのとき二人はどう感じるか、想像してみてください。
 どうでしょう。個人にノルマはあるけれど、全体に一体感がある。つまり、「ワンチーム」。このように全体に目標が設定される相対評価、「捨てたもんじゃないぞ」と思いませんか?

 これに対して個人一人一人にノルマが課されるだけの絶対評価の場合、各自が自分の目標やノルマを果たすのに必死で、全体のこととか隣のことはどうでもよくなります。つまり、月の全体売り上げが200台であろうが、150台であろうが、自分にとってはどうでもいい。あくまで自分が目標を達成するかどうか――それだけです。

 余談ながら、会社は全体売り上げ150台では満足できない。なんとか200台を達成させたい。だが、社員に一律0.2パーセントのボーナスはつけたくない。60万をケチる経営陣はもっとうまい方法を考えます。
 それは全体目標200台に関してマイナスのボーナス(?)をつけること。全体目標が達成できなかったら、1台1万の歩合を9000円にすると告知する。
 先程はプラス0.2パーセントの報償でした。こちらは達成しないと、全員一律のペナルティが課されるのです。

 こうなると、月に数台しか売れない劣等社員にとっては辛いものがあります。のんびりやっていたら、自分だけでなく中等・優秀社員に迷惑がかかるからです。そして、もしも優秀、中等社員が「あいつらがいるから全体目標が達成されないんだ」と思うとしたら……。

 読者各位はそんな会社で働こうと思いますか。あるいは、「自分はいつも平均以上を売り上げる能力があるから大丈夫」とつぶやきますか。そして、劣等社員を会社から追い出す動きに加担したり、上司のパワハラを傍観しますか。

 これは相対的絶対評価にもう一つ「集団主義」が混入した例です。軍隊が得意であり、特に日本の軍隊の新兵教育で多用されました。個人のミスや目標の未達成は「班全体の責任である」と怒鳴って全員にビンタを張ったり、腕立て伏せをさせるのです。
 もしもみなさんの子や孫が通う小学校において班同士を競争させているようなら――たとえば、忘れ物を点数化して班の優劣を壁に貼り出すようなこと――直ちに「それは軍隊教育だからやめなさい」と言うべきです。

 それから前号においてもう一箇所、「突っ込みを入れてほしかった」ところがあります。絶対評価について「経験や職種において差があるから、全員に同じ目標を設定することは難しい」と書きました。
 あしたのチームさんも「目標設定は社員それぞれに対して行われなければなりません。所属する部門や職種、勤続年数やポジションによって求められる要素やレベルは異なります。技術部門1年目の社員と営業部門の10年目の社員では、越えるべきハードルが違うのは当然」と書いています。

 私はそれを受けて以下のようにまとめました。
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 優秀な者には高い目標、劣っている者には低い目標が設定されるとどうでしょう。
 劣等社員にとってはありがたいけれど、優秀社員は心穏やかでないと思います。「オレが車10台を売るのと、あいつが車5台を売ることが、どうして同じ評価なんだ?」と不満が漏れること間違いありません。
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 ここもおかしいですね。絶対評価なら、優秀社員は不満を漏らさない(だろう)し、会社側も二人を同評価にする理由があります。

 なぜなら優秀社員には車20台を売ることが求められており、劣等社員は車10台でいいということで、最初から給料や歩合に差が付けられているからです。よって、前者が10台、後者が5台なら、二人はともに目標の半分しか達成していないという点で同評価です。
 もしも優秀社員、劣等社員がともに20台の同数なら、評価は目標の2倍を売り上げた劣等社員の方が高くなるはずです。

 これはプロ野球選手の年俸を考えれば、よくわかります。年俸5億の4番バッターと年俸5千万の7番バッターには求められる目標・ノルマが違います。前者には打率3割、打点100が求められている。そのために他の選手の2倍、5倍、10倍の年俸が与えられています。
 よって、シーズンを終えた契約更改で、4番バッターが打率3割を達成しても、打点50だと来季の年俸は大幅に下がるでしょう。年俸5000万の7番バッターが打率3割、打点50なら、来季の年俸は倍増すると思います。

 ただ、4番バッターがこの評価に対して全く反論しないかと言えば、そんなことはないでしょう。
 なぜ彼の打点は目標の半分しかいかなかったのか。それは「123番の出塁率が悪かったからだ。彼らがしっかり塁に出ていれば、私の打点はもっと増えていた」と言います。
 会社側も「確かにその傾向はあった」と応じて年俸は微減にとどまるかもしれません。そのときは123番の年俸が下げられるでしょう。

 だが、123番打者にとっても言い分があります。四死球0、打率0だったわけではない(そうならレギュラーとして出場できない)。前年に比べると低いけれど、そこそこ塁に出ていた。だが、「4番バッターは勝負弱いではないか」と指摘する。
 確かに彼は2、3塁上に走者がいるときあまり打てず、誰もいないときによく打っていた。その結果の3割であった。
 たとえば、9回裏1点負けてツーアウト、2、3塁上に走者がいて逆転のチャンス。だが、4番バッターはヒットを打てなかった。翌日9対1で勝っている試合の8回裏に、彼はソロホームランを放つ。ファンは「昨日打てよ」と思う。結局、この4番バッター、打率は3割だが得点圏打率は2割ちょっとで低い。
 球団側はもちろんそれを指摘して「君はチームの勝利にあまり貢献していない」と言う。そうなると、4番バッターの年俸大幅減は避けられないと思います。

 車の販売において目標を達成したかどうかは数字で判定できます。しかし、野球のような場合は目標・ノルマと結果の判定に当たって難しさが発生する。
 個人が目標を達成しても、チームが優勝争いをしているか最下位争い(?)をしているかによってもずいぶん違うでしょう。
 そして、絶対評価にこだわっていると、選手に「足の引っ張り合い」が起こります。チームが負けたり、最終的に最下位だったのは「あいつが悪い」というわけです。「あしたのチーム」さんも「1990年代に多くの企業がアメリカ式成果主義を導入した際、社員が自身の業績を重視するあまり部下の育成に消極的になるなど、間違った個人主義が横行(した)」と書いています。
 先程述べたように、個人の成績評価が重視されすぎると、「人はどうでもいい、全体の成績なんぞ自分にはカンケーない」となりがちです。「ワンチーム」の逆現象ですね。

 さて、そろそろお気づきでしょうか。ここまでを読まれて「どうも妙だ。純然たる相対評価、厳密な絶対評価はあるのだろうか」と感じませんか。
 相対評価に目標・ノルマが課されたら、それは果たされるべき最低限の課題となる。すなわち絶対評価が入っています。
 また、絶対評価とは個人に課された目標であり、その到達・未達が評価されるはずなのに、他との比較における優劣が付けられれば、それはまごうことなき相対評価。その上全体の目標も付加されれば、集団主義によって個人の能力以上に働くことが求められます。

 おやおや、2の「絶対評価」はもはや存在しない――だけでなく、「1相対評価」と「3絶対的相対評価」にも分けられない。あるのは「絶対的相対評価」と「相対的絶対評価」の二つだけではないか。

 いやいや、もはやこの二つは同じものであり、成績評価とは絶対的であり相対的である。すなわち、目標・ノルマの達成が求められ、その到達度が評価される絶対評価であり、集団内の一人一人を他との比較において優劣をつける相対評価である――このように定義するのが正しいのではないでしょうか。

 一周回ってなんとやら。私は企業人事課の解説をまとめて以下のように書きました。
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 あしたのチームさんの解説において注目すべきは、相対評価であろうが、絶対評価であろうが、《成績評価とは社員に優劣をつけること》とある点です。絶対評価では「高評価と低評価」、相対評価では「順位を決めることで優劣をつける」と書かれています。言い方を変えると、「社員に優劣をつけることが成績評価の目的」なのです。
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 ここにおいてようやく成績評価の本質が見えてきました。
 成績評価には相対評価と絶対評価。まるで二種類あるかのように思われているけれど、どちらも目標があり、ノルマがあるという点では同じ。ただ、相対評価(と呼ばれる時代)は目標・ノルマが低かったのであり、逆に絶対評価(に変わったと言われる時代)は目標・ノルマが高くなった――ということです。

 オリンピック選考が最もわかりやすい例です。
 かつて水泳の選考は「日本人選手のトップ」であれば良かった。このときの目標・ノルマは(失礼ながら)とても低かった。だが、本番で決勝に出られる、メダル争いできる「派遣標準記録」という高い目標・ノルマが設定された。日本人選手から一人(か二人)が選出されるという点では昔も今も相対評価。ただ、昔は絶対値が低く、今は絶対値が高くなった。

 もっと簡単に言うと、昔は世界レベルだと75点でも(日本人選手トップなら)オリンピックに出られた。だが、今は世界レベル90点を取って日本人選手トップにならなければ、オリンピックに出られない。
 要するに、昔も今も優劣は相対評価でつけられる。今は高い目標をクリアしないと、優秀とは認めてもらえない――そういう時代になったということです。

 よって、前置きに書いた「企業の勤務評価が相対評価からノルマ付き絶対評価に変わった」との記述も正確さを欠きます。「企業の勤務評価は昔も今も相対評価で優劣がつけられた。ただ、かつては目標・ノルマが低かった。だが、ある時代からそれが高くなった」――このようにまとめるべきです。

 では、「ある時代」とはいつか。それが「ここ数十年に起こった世界史的大転換」の時代です。具体的には二十世紀末の十年間に起こった激変です。

 そのことについて解説する前に、企業の勤務評価から学校の成績評価に戻ります。
 日本には「軌を一にする」なることわざがあります。企業が勤務評価の目標・ノルマを上げ、オリンピック選考が高い目標を掲げたのと軌を一にして小中高も相対評価をやめました。「変える必要がある」との議論が行われたのが二十世紀末の十年間です。正に[世界の変化→日本の(企業・組織の)変化→子どもたちの教育の変化]といったように、同じわだち[轍]をたどっているのです。

 ここで文科省の「Q&A」にあった次の解説を読み直してください。
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Q 子どもの成績を「観点別学習状況の評価」と「評定」で評価していると聞きましたが、どのようなものなのでしょうか。
A これからの社会を生きる児童生徒にとって身に付ける必要がある学力は、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力です。
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 文科省は「これからの社会」とは何か、なぜ「幅広い学力」が必要なのか、説明してくれません。まるで「そんなこたーわかりきっているだろ」と言わんばかりです。
 私たちはこのような途中経過を省いた結論だけの言葉に「なるほど」とうなずいてはいけない。「なぜ、どうして?」とつぶやいて立ち止まるべきです。
 一読法なら、必ずこの部分に傍線を引いて[?]を付けます。
「すみません。『これからの社会』ってどんな社会ですか。なぜそのような『幅広い学力』が必要なんですか。説明してください」と、さらに質問を浴びせます。

 お偉方が答えてくれないので、以下は私の答えであり解釈です。

 かつて相対評価と呼ばれた時代は「知識・技能」を学べばそれで充分だった。知識と技能の目標を定めたのが「学習指導要領」であり、その習得具合は集団内の優劣――相対評価によって判定された。
 だが、ある時代から目標・ノルマが変わった。知識と技能の習得だけでは不充分であり、「学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力」が目標に追加された。すなわち、子どもたち全員に対して「より高い能力」が求められるようになった
 その能力を「観点別評価」によって判定することにした。成績評価することによって、子どもたちをその方向に駆り立てた、走らせた、と言えます。

 そろそろ二十世紀末の十年間に起こった激変とは何か。思い当たる言葉が浮かんできましたか。私が思うに以下の3点です。○の中を埋めてください。

 [二十世紀末の世界史的激変]
 1 〇〇主義・〇〇主義の崩壊
 2 修正〇〇主義の終焉とグローバル化
 3 〇〇〇〇〇〇〇の発明・進化

 この詳細は次号に回したいと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:一読法立ち止まり箇所の質問をもう一つ。文中「車の営業で毎月20台を売っていつもトップなら…目標を半月で達成した時点で…残りの10日は喫茶店でコーヒー飲みつつ、テーブルのテレビゲームに耽れば良いではありませんか(1980年代の喫茶店風景です。今ならスマホゲームでしょう)」とありました。
 ここで「おやー、スマホゲームだけでいいのに、なぜ1980年代の例まで書いたのか」とつぶやきましたか。傍線を引いて[?]をつけてほしいところです。

 もちろん本節末尾「二十世紀末の十年間」につながる伏線です。間にあった「1990年代に多くの企業がアメリカ式成果主義を導入した」のところで、「なるほど、だから1980年代の例が書かれていたのか」とつぶやけるようになったら、一読法免許皆伝は近いと思います(^_^)。
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「一読法を学べ」  第 43 へ (6月26日発行)

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