室戸岬ビシャゴ岩

  四国明星の旅



明星の旅8 「室戸の昔」


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【第8回】   狂短歌


☆ クジラ肉珍味を味わいふと思う 室戸岬のかつてのにぎわい



 明星の旅8 「室戸の昔」

 室 戸 の 昔 [画像6枚]


 双子洞窟を探検した(^_^;)後、私は洞窟手前の案内所に座っていた熟年婦人と言葉を交わした。そこでは朱印帳を受け付けているようだ。

☆ 双子洞窟前の案内所
双子洞窟前の案内所

 私は舎心が嶽(しゃしんがだけ)山頂と双子洞窟がともに「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」とあったことに驚いていた。
 舎心が嶽には神武天皇東征の折云々の解説があった。ということは舎心が嶽のあの景勝地は、空海以前から知られていたと考えられる。そうなると、この室戸岬の双子洞窟も修験道(しゅげんどう)の聖地としてすでに知られていたのではないか――私はその疑問を女性にぶつけてみた。空海が双子洞窟を発見する前から、この地は有名だったのではないかと。
 すると彼女は洞窟は空海が発見したものであり、天照大神や鳥居は後の世に設けられたのであろう。今でこそみくろど窟には仏像が祀られているが、以前は賽(さい)の河原だったという。その話も興味深かった。
 それから、空海修行からすでに1200年が経ち、洞窟付近の形状はかなり変わっただろうともいった。地震などで海岸が盛り上がり、1200年前は洞窟すぐ近くまで海だったのではないかと。
 また、土地の郷土史家が書いたと思われる「随行(ずいこう)者説」について書かれたプリントも見せてくれた。
 それによると、空海の求聞持法(ぐもんじほう)修行には、随行者がいたのではないかとあった。これも面白い説だと思った。
 さらに婦人は現代でも洞窟の中で真言百万遍の修行をした僧がいること、神社と最御崎(ほつみさき)寺の対立で、柵が設けられて洞窟内へ入れない時期があったことなども語ってくれた。
 私は婦人に、今年6月に起こった金星日面通過のことと、明日未明は130年ぶりの明けの明星最大光輝の日であることを話した。そして、午前3時頃ここへ来て実際に明星を見るつもりであるとうち明けた。
 彼女は感動の面もちで「いいことを聞いた。私も家で見てみたい」と言った。

☆ 大師行水の池
大師行水の池

☆ エボシ岩より太平洋を見る
エボシ岩より太平洋を見る

☆ ビシャゴ岩
室戸岬ビシャゴ岩

 その後私は海岸の遊歩道を散策しつつホテルへ戻った。エボシ岩とかビシャゴ岩の奇岩、大師行水の池など奇勝はあった。しかし、思った通り、この付近で「聖地」としてふさわしい場所を一つだけあげるとすれば、あの双子洞窟以外にないと思った。空海が生きた時代、もし朝廷――天皇家から「美しい名勝地を差し出せ」と命じられたなら、私は迷うことなく双子洞窟を選ぶだろう。
 京都、奈良周辺や紀伊半島には歌枕に読まれ、天皇の離宮に指定されたところがある。そこへ行ってみると、今でもはっと驚くほど美しい場所である。たとえば、東大寺お水取りの聖地として有名な若狭の「鵜の瀬(うのせ)」など、ごくごく普通の遠敷川(おにゅうがわ)数キロの中で、その場所だけにとても美しい岩肌が見られ、きれいな流れの瀬になっているのである。毎年3月2日には、そこで盛大に松明(たいまつ)や護摩(ごま)がたかれ、お水送りの神事が行われている。
 琵琶湖西岸の滋賀の辛崎(からさき)しかり、吉野の宮滝離宮近くの宮滝川しかり。それらは全て美しい場所であり、厳かな神さびた聖地の雰囲気を持っている。

 天皇家にとって天照大神(あまてらすおおみかみ)より続く神々に祈りを捧げるとき、その祈りの場所としてふさわしい所――聖地を各国に差し出させる。天皇は各地を行幸し、宮廷歌人はその景勝地を歌に詠んだ。
 聖武天皇の時代全国に造営された国分寺――。奈良には総国分寺としての東大寺があった。空海が生きた少年時代、国分寺とは壮大な文明建造物だったはずだ。各地の国分寺から集められた情報は総国分寺としての東大寺へ集まるだろう。国分寺とは仏教による祈りの聖地でもあった。

 人がもし自然の中で宗教的な修行を行うなら、霊験(れいげん)あらたかな所――聖地を選び、そこで修行をするだろう。空海に先立つこと数十年から百年前には、二人の偉大な山岳修行者がいた。一人は吉野大峰(おおみね)の「役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おづぬ)」であり、もう一人は越後白山の「泰澄(たいちょう)」である。
 役行者小角は、金峯山(きんぷせん)山上で一千日の籠山(ろうざん―山ごもり―)修行をして蔵王権現(ざおうごんげん)を感得した。かたや泰澄(たいちょう)は白山山頂で祈りの末に、十一面観世音の姿を見た――と伝えられている。
 ほぼ同時代を生きた空海の耳に二人の逸話は届いていたはずだ。山林修行に乗りだした空海が、聖地こそ祈りを成就させると考えたとしても、なんら不思議はない。

☆ 舎心が嶽磐座(いわくら)
舎心が嶽磐座

☆ 双子洞窟磐座(いわくら)
双子洞窟磐座

 求聞持法(ぐもんじほう)真言百万遍の修行は、部屋の中で行われる場合、南に丸い穴を開け、明けの明星を見ながら行われるという。しかし、空海は部屋の中での真言百万遍修行に、何も感得するものがなかった。
 彼はその修行を自然の中で行いたいと考えた。だが、修行はどこでもいいわけではない。人がたやすく行けないような所、そして神さびた場所、聖地である必要がある。現代の修験者達の山行登拝(さんこうとうはい)を見ても、修行は聖地で行われる――あるいは、修行の地は聖地と目されている。
 空海の場合はなおかつその地が東か南に開けていなければならない。さらに、真言百万遍を実行するには、その地に数ヶ月とどまらねばならないから、人家がある程度近くにある必要もある(食糧は喜捨(きしゃ)――乞食(こつじき)で求めると思われるから)。
 条件はかなり厳しい(^.^)。

 これらのことを考え合わせれば、空海はただやみくもに山林に分け入って聖地を探し求めたとは思えない。彼は東か南に開けた聖地を探したはずだ。そして、そのような聖地がないかと尋ねたとき、南の舎心が嶽、さらには東に開けた室戸の双子洞窟の話を聞いた。ともに磐座(いわくら)を持つ聖地でもある。人里に適度に近く、適度に離れている。

 南の舎心が嶽の方は神武東征伝説もあり、聖地として広く知られていただろう。一方、室戸の双子洞窟は未だ聖地として知られていなかったかもしれない。しかし、二つの洞窟が南に開け、そこに磐座(いわくら)があるとわかれば、それは聖地として最適な場所である。

 若き空海――真魚(まお)が「そこには洞窟が二つあるだけなのか」と問えば、相手は「いえ、その上部に巨大なむき出しの岩があります」と答える。
 空海はきっと目を輝かせて「いわくらがあるのか!」と叫んだに違いない。
 空海はそれらの情報を修験道の先達、もしくは東大寺に集まる国分寺の僧達から得たのではないだろうか。
 つまり、南の舎心が嶽と室戸岬双子洞窟は、求聞持法(ぐもんじほう)の修行を行える聖地として、空海がピンポイントで選んだと思えるのである。
 ――私はそのようなことを考えながらホテルに戻った。

 ホテルに入るとすぐ風呂に入った。海洋深層水の露天風呂に浸かってゆったり太平洋を眺めた(^o^)。
 宿の夕食には珍味が出た。黒い薄皮のついた白っぽい刺身だ。酢みそを付けて食べる。とろりとした舌触りでおいしい(^o^)。一口でこれは珍味と思ったが、脂肪そのものを食べている感じでもあった。
 ウェイトレスにこれは何かと尋ねた。鯨の舌の刺身だという。一般には「さえずり」と言って、めったに食べられない珍味である。また、すき焼き風の鍋の肉も鯨肉だった。
 現在鯨は調査捕鯨しかなされていない。だから、こちらも珍らしいと言っていい。鯨料理は特注したわけでもなかったので、ちょっと驚いた。そして、ここ室戸では日常的に鯨肉が食べられるのかと思った。

 そのときふと思った。この地は決して人跡未踏の地ではなかったのではないかと。双子洞窟前の案内所にいた婦人は、昔室戸は人が住んでいなかっただろうと言った。確かに室戸岬突端は海岸の上がすぐ山で、人が住めそうな環境ではない。しかし、西側の海岸線は港があり、狭いながらも平坦な土地がある。かつてそこには漁師が住んでいただろう。そのとき漁師は鯨漁をしていたのではないか。
 最御崎(ほつみさき)寺、津照(しんしょう)寺、金剛頂(こんごうちょう)寺の室戸三山は昔かなりの伽藍(がらん)だったという。寺領・荘園の寄進があったにしても、地元にもその建設を可とする力があったのではないか。それは鯨漁のおかげだったかもしれない。そして、漁師は鯨の肉を初めとする魚貝類を、船を使って西は高知、東は日和佐(ひわさ)まで運んだであろう。となると、空海が日和佐あたりから船で室戸まで来たことは充分想像できる。
 空海はたまたま室戸岬へ来たのではない。聖地双子洞窟のことを聞き、真言百万遍修行を目的としてこの地を訪れたに違いない。(続)



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