御影祐のおヤジとキタぞー東北道中膝栗毛 その1

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||初めに ||1 東北名所・資料館巡り ||2 縄文遺跡… ||3 宿と温泉… ||4 偶然の… ||


おヤジとキタぞー東北道中膝栗毛1


 目次 事伝体項目

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  初めに −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−《本頁
1 東北名所・資料館巡り(俳聖芭蕉をパロってみました)−−−−−−−−−−−−−《本頁
 鼠ヶ関弁天島〜羽黒山神社〜土門拳写真記念館〜象潟蚶満寺〜秋田県立博物館〜
 平泉中 尊寺・毛越寺〜松島五大堂・瑞巌寺〜仙台国分寺跡・瑞鳳殿・青葉城跡・
 大崎八幡宮

2 縄文遺跡見学詳細(三内丸山で出会ったチョー意外な団体さん)−−−−−−−−《次頁》
 伊勢堂岱遺跡〜三内丸山遺跡〜小牧野遺跡〜大湯環状列石〜千貫森山・一貫森山

3 宿と温泉とおヤジさん−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 山形酒田簡保の宿〜大鰐温泉国民宿舎〜盛岡つなぎ温泉ホテル大観〜仙台メルパルク
 SENDAI〜福島岳温泉ヘルシーパーク

4 偶然の出会いと出来事−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 三内丸山、同姓同名の最優秀写真作品・自衛隊との遭遇

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 初めに

 去る10月28(月)から11月2日(土)まで、私は父と東北一周の旅に出ました。
 私にとっては三度目の東北で、目下執筆中のSF作品の取材を兼ね、青森秋田の縄文遺跡を見学することが目的でした。大分の田舎で一人暮らしをする父は、東北を訪ねたことがありませんでした。私が一緒に行かないかと誘ったとき、父は最初ぐずっていました。しかし、父も喜寿プラス1の78歳となり、「東北もこれで最後かもしれないな」と一念発起、旅の道連れヤジさんとなることに同意したのです。

 ところで、東北みちのくとくれば俳聖芭蕉。芭蕉の有名な紀行文『奥の細道』は、「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」の書き出しで始まります。その芭蕉が曾良(そら)とともにたどったルートは、江戸から太平洋側を北上、岩手平泉まで行きそこで左折、山形出羽を抜け日本海側へ出て、象潟(きさかた)から南へ下る道程でした。
 かの古典名著はみちのくの旅と言いながら、東北最深部(?)の秋田、青森へは行っていないのでありました。(このことは今回平泉中尊寺で買った、奥の細道ルートを染め込んだハンカチを見て初めて知りました)

 愛車ウィンダム十万キロオーバー車に乗り、はるばるやってキタ私とおヤジは、この旅で図らずも新潟から逆回りで奥の細道ルートをたどっていました。
 私たちは東京から新潟へ向かい日本海沿岸を北上、象潟(きさかた)を通りさらに北上して秋田へ入りました。そして能代(のしろ)で右折すると青森三内丸山遺跡を見学。その後青森から岩手平泉を通って東北自動車道を南下したのです。それは全く意識していないもので、結果的に奥の細道逆回りルートとなったのでした。

 せっかく奥の細道ルートを(一部とは言え)たどったのだから、遊び心で俳聖芭蕉を茶化してみようと思いました。そこで今回の「おヤジとキタぞー東北道中膝栗毛」は、単純な旅日記ではなく、「事伝体」(紀伝体のまね)で項目毎に詳述しました。
 読んでいただければ幸いです。全部読んでほしいのですが、取りあえずは面白そうな所から読んでみて下さい。何? みんな面白くなさそうだ? まあ読んでもらえなくともまたやむなし。何しろこっちで勝手に送り出す読者限定メール作品ですから。

 最後にはこの旅であった「偶然」についても考察しています。今回の東北周遊では偶然の出会いや出来事を全く期待していなかっただけに、それがあったときは感激感動ものでした。
 ほんとに旅って面白いです。思いもかけない偶然が起こるからです。たまたまやって来たその偶然に意味を見出すのがまた愉快です。答えが見つかるともう嬉しくって仕方ありません。
 なお、各項単独で読めるよういくつか同じような表現が重なっています。その点ご容赦下さい。
 また、[  ]内の数字は原稿用紙換算枚数です


||初めに ||1 東北名所・資料館巡り[40] ||2 縄文遺跡…[40] ||3 宿と温泉…[20] ||4 偶然の…[20] ||


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1 東北名所・資料館巡り  (俳聖芭蕉をパロってみました)

 鼠ヶ関弁天島〜羽黒山神社〜土門拳記念館〜象潟蚶満寺〜秋田県立博物館〜平泉中尊寺・
 毛越寺〜松島五大堂・瑞巌寺〜仙台国分寺跡・瑞鳳殿・青葉城跡・大崎八幡宮

 鼠ヶ関(ねずがせき)弁天島

 10月28日初日。朝8時半頃父とともに愛車ウィンダムに乗って家を出発。天気は快晴。いい旅立ちだと思った。しかし、早速ハプニング発生。東京町田市の自宅から外環自動車道の終点あきる野市のインターチェンジに行こうとして道を間違え、結局入間市まで行ってしまう。やばい、今日は関越自動車道から山形の酒田まで行くのに――そう思ってやや焦った。それでも何とか一時間ほどで外環の高速に乗ることができた。
 父は昨日九州から飛行機でやって来た。昨夜は近くの回転寿司に連れていった。そこはおいしいと評判の所で、日曜日だったこともあってずらりと行列。席に着くのに二十分ほどかかり、私たちは小一時間ほどいたけれど、その間も行列の絶えることがなかった。父はさっそく驚いて「この行列は土産話になる」などと言っていた。
 ウィンダムは数年前中古で購入した。既に新車登録から十年十万キロを超えている。買い換えたいけれど換えられないでいた。何しろ私は教員退職、作家志望にして未だ作品ゼロの身。本人は働いているつもりだけれど、実質無職徒労の身。かくして維持費のかかる大型セダンに相変わらず乗らざるを得なかった。

 今回は東北一周というかなりの長旅ドライビングとなる。だから、父にも車を運転してもらうつもりでいる。ところが、父は実家でマツダの小型車しか運転したことがない。既に免許取得後三十年近くなるのに、他人の車は一度も運転したことがないと言う。私の車はロングボディ3000tの大型セダン。かなり危なっかしい。まずは広い高速でと思い、外環道入間インターから関越道まで約一時間ほど運転して貰った。父はおっかなびっくりの運転。私もひやひやひやりの助手席。外環自動車道はまだ車が少ないから良かった。しかし、関越道に入ると車がどっと増えた。それでも何とか無事故で、父は一時間ほど運転した。
 外環から関越へ入って暫くしてから私が運転を代わった。長さ10キロの関越トンネルをくぐると越後へ入る。途端に天気が下り坂。やがて雨も降り出す。風もかなり強い。正午過ぎ新潟インターを降りて一般道へ出る。昼食を摂る頃はざーざー降り。何だよこりゃあ……の気分。しかし、お天道様には文句を言えない。雨の中国道7号線を北上した。7号線は片道一車線だが、道幅が広いので結構飛ばせた。
 やがて日本海が見え始めた。空はどんより曇って強風と荒波。どこか殺伐とした景色に父も感嘆の声。時折白い波が凝り固まった波の花も見かけた。この頃になると雨は小降りになった。一般道の練習ということでまた父に一時間ほど運転して貰った。やっぱり危なっかしい。しかし、私は慣れるまではと我慢我慢――の心境だった。その後私が運転して鼠ヶ関(ねずがせき)がある弁天島に立ち寄る。岬突端の厳島(いつくしま)神社まで行った。ようやく雨は上がったが、空は相変わらずの曇天。堤防から見る日本海の荒波はど迫力だった。遊歩道として「芭蕉の道」なるものが造られていた。その案内看板の前でぱちりと記念写真。
 ここで芭蕉は「文月や六日も常の夜には似ず」の句を詠んでいる。七夕前夜の句だろう。今は神無月末、どんより曇った冬間近の日本海だ。
 そこで私も俳聖芭蕉をパロって詠んでみた。

 ――七号線父の運転よう見れず――(……?)(^_^;)

 羽黒山(はぐろさん)神社

 鼠ヶ関(ねずがせき)から暫く行くと鶴岡市に入る。
 もう夕方の4時過ぎで辺りはかなり薄暗くなってきた。酒田の宿まであと30分ほどで着ける。当初の予定では羽黒山神社は時間があれば行くつもりだった。日没も早そうで立ち寄るにはちょっと厳しい。しかし、今日は鼠ヶ関を見学しただけで、実質どこも見ていない。出羽三山で有名な羽黒山にはぜひ父を連れていきたい。それに明日行くとなると道を引き返すことになるので、その先がまたきつくなる。やはりこの機会しかない。父に「宿に着くのが遅くなるけど」と言うと「構わない」との返事。そこで羽黒山へ行くことにした。しかし、ここでミス。予定した交差点より手前で右折してしまい、鶴岡市街地の中に入り込んでしまったのだ。そこをうろちょろ迷って漸く羽黒山へ行く路線を見つけたときはもう四時半。雨がまた降り始め、宵闇がどんどん迫る。猛スピードで羽黒山へ突っ走った。

 羽黒山神社下の料金所へ到着したのが5時少し前。山に登り頂上の駐車場へ車を停めたときはもはやほとんど真っ暗。土産物屋は店を閉じようとしていた。その明かりがやけにこうこうと輝いている。私と父は道を照らす電灯の明かりを頼りに神社本殿へ行った。三山神社の前で父の記念撮影。しかし、インスタントカメラのフラッシュ操作がよくわからない。説明書きは暗すぎて読めない。仕方なくそのままパチリ。フラッシュはたかれないまま。三山神社には、「羽黒山」「湯殿山(ゆどのさん)」「月山(がっさん)」の看板が三枚掲げられている。父にそのことを説明したときは、辛うじて三山の文字を読みとることができた。私は父に一千段はあろうかと言う石段のことも説明した。

 私は十数年前の秋ここに一人で来てやはり雨の中石段を下って行った。そのときは途中の茶店でおばあちゃんといろいろ話を交わした。そして、その後月山へ行き、燃えるような紅葉に大感激したのだった。その後十数年、私は教員を辞めまた羽黒山へやって来た。この旅のトップ見学地としてここへ来るのも何かの縁かもしれない――私はそんなことを思った。

 羽黒山での芭蕉の句は「涼しさやほの三日月の羽黒山」

 私もパロって一句――宵闇やほのとも見えぬ羽黒山――(これはまずまず?)(^.^)

 土門拳(どもんけん)記念館

 10月29日、旅に出て二日目。朝9時頃酒田市にある簡保の宿を出発した。
 エレベーターを降り一階のロビーへ出たとき、私は壁に飾られたパネル大の写真にまた目が行った。それは文楽人形の写真で顔だけが大きく写されていた。たぶん女形の顔だろう。前日宿に着いてから夕食や風呂でロビーを通るたびに、なぜか目に留まった写真だった。壁には他に絵も飾られていた。だが、遠くから見てもその写真だけが一際目立っていた。どこかもの悲しげで憂いを帯びた表情。単なる浄瑠璃人形の顔写真なのに、どうしてそんなにも魅力的に見えるのか、私は不思議な写真だなあと思っていた。しかし、単なる写真だから、近づいて撮影者の名を確認しようという気にはならなかった。
 外は小雨が降っていたが、空は明るく晴れ間も出ていた。宿のすぐ近くには「土門拳記念館」がある。写真家土門拳のことは古寺巡礼の写真や三池炭坑の人たちを撮影した写真でその名を知っていた。今日青森まで行かないことにしたので、ちょっと寄っていこうと思った。
 記念館の前には大きな池があり、そこに鴨のような渡り鳥がいた。それが池の水面全てを埋め尽くすかのような多さ。何千どころか、かるく一万羽は超えているだろう。係りの人がエサを与えていた。

 暫く鴨の大群を眺めた後記念館へ入った。入ってすぐ左の壁に大判のポスターが貼られていた。見た途端にがーんと衝撃が走った。それは千手観音の(右か左の)千手を、やや斜め上から撮影したポスターだった。千手観音の手は通常、衆生を救うため、たくさんの仏具や法具、草花などを持っている。ところが、この写真の千手はほとんど何も待っていなかった。たくさんの小さな手が画面全てに地から湧き出るように差し伸べられていた。その中に他の手の数倍はある太い腕が四本あり、そのうち二本の手に法具と刀が握られていた。

 私はこのアングルから撮影した写真を初めて見た。見れば見るほど怖ろしい迫力に満ちていた。それは人間を救う観音の手ではなく、救いを求める人間の手のように思えた。まるで地獄でひしめき合う罪人たちのうめき声が聞こえて来るかのような手ののばし方だった。もちろん土門拳撮影の写真だろう。私は暫く千手の写真を眺めた。この観音様を彫刻した作者もすごいけれど、このアングルから仏像を撮影した土門拳もすごいと思った。

 そして、そのすぐそばには同じく大判ポスターで文楽人形の顔写真があった。簡保の宿の壁に飾られていたのと同じものだ。そうかあれは土門拳の作品だったのか――とこれもちょっとした衝撃が走った。  昨夜から今朝にかけて宿で文楽の顔写真を見ていたとき何となく気になった。しかし、誰の作だろうとか、近寄って見ることまではしなかった。ところが、同じものがここにある。まるでその写真に導かれるようにして土門拳記念館へ来たかのようだ。もしかしたらこの記念館は自分にとって重要な場所なのかもしれない。私はそう思った。
 入館前父には「まあ写真だから30分も見ればいいでしょう」と言った。しかし、この二枚のポスターを発見して、私はじっくりこの写真館を見学しようと思った。

 展示室の最初は「東京−上海」と題されたシリーズもの。東京と中国上海を対比しながら写している。何かの賞を獲得したらしいが、私にはあまり迫ってくるものがなかった。(私はこの展示写真を土門拳のものだと勘違いしていた。後でパンフレットを読み、土門拳を記念した写真コンクールでの入賞作だと知った。)

 それからすぐ隣に展示された古寺巡礼の大判写真コーナーへ移動した。
 これはもう一目で素晴らしい写真だとわかった。これも何か賞を獲得したはず。京都、奈良だけでなく、中部地方や鳥取まで幅広く古寺の姿を映しだしている。それがアップの仕方、寺本体の切り取り方等々、一枚一枚全て違う。ある寺では全体が画面にきっちり納まっている。別の五重塔では各層の屋根の先端がカットされて撮影されている。寺がでんと中央にあるもの、背景の自然の中に溶け込むように小さなもの。また、寺の本堂から見た雪景色などもあった。
 宇治のある寺を撮った写真は、黒い影となった橋の欄干がでかでかと左前面に出て、その向こうに寺が見える。ドングリ頭の欄干がものすごく効いている。同じく宇治平等院では、黒々と宵闇に沈む大屋根の上に真っ赤なすじ雲のような夕焼け。屋根の両端に鳳凰がすっくと立っている。真っ赤な夕空がとても印象的である。
 これには土門拳本人の解説もある。彼がスタテイック(静的)なものと思っていた寺が、夕焼けの下で初めて動きを感じたときの一枚だとある。その解説によると、宇治の平等院を撮影し終えた夕方、茜色の空の下で平等院が流れるように動き始めた。それはまるで寺が時空を超えて飛行しているかのように感じられた瞬間だったらしい。私はその文章を読んだとき、即座に三島由紀夫の『金閣寺』の一節を思い出した。そこにも金閣が闇の中で時空を超えて漂う船のイメージとして描かれていた。
 この古寺巡礼の写真には明瞭なカラー写真があるかと思えば、まるで(カラーなのに)水墨画のように淡いモノクロ系の写真もあった。全体が青っぽかったり、薄い水色のものもある。たとえば、石畳の一枚のアップには色鮮やかに紅葉した葉っぱが一枚だけ写されている。
 父と「偶然撮ったのでしょうけど、置いたとしたら作りすぎだよね」などと話した。少しだけ感じたマイナス点はそれだけで、あとは全て文句の付けようのない素晴らしさだった。

 その後別室で「子どもたち」と題された展示も見た。昭和25年頃から30年頃までの東京江東区の子どもたちを撮影した写真だ。着衣の粗末さ、おかっぱ頭の女の子たち、男の子はピストルを持ったりちゃんばらごっこをしている。正に自分の幼年時代そのままだった。懐かしいと同時に感動した。
 土門拳が子ども達の写真を撮ったのはこの前後だけで、それ以後は全く撮らなくなったらしい。無邪気に目を輝かせていた子ども達はもういなくなったと彼の一文があった。

 結局、土門拳記念館では30分の予定が50分になり、私はその上、千手観音のポスターまで買ってしまった。それに添付されていた解説文によると、この千手観音は奈良唐招提寺金堂の仏像らしい。唐招提寺なら私も行ったことがある。しかし、あのアングルから見ることはなかったろう。また、文楽人形の顔は「伽羅(めいぼく)先代萩」の「政岡」とあった。

 酒田で芭蕉は「暑き日を海に入れたり最上川」の句を詠んだ。

 私は――観音のポスター手に入れもう感動――と詠んでみた(……むむむ?)。(*_*)

 象潟(きさかた)蚶満(かんまん )

 土門拳記念館を出ると酒田市街地を素通りしてまた7号線を北上する。海岸沿いの道を暫く行くと右手に鳥海山(ちょうかいざん)がその勇姿を現す。
 この辺に来ると雨もなく山腹の黄葉が色鮮やかに眺められた。父も感嘆の声。鳥海山は鳥海ブルーラインという道を登っていける。しかし、寄り道しているとあとがきついので、そのまま7号線を走った。
 それから40分ほどで象潟(きさかた)に着いた。ここは友人O氏推薦の蚶満(かんまん)寺へ行った。初め入り口がわからず、狭い田舎道をうろちょろした挙げ句寺の裏口から入ってしまった。親鸞(しんらん)聖人が腰掛けたらしい「親鸞聖人御腰の石」というのがあった。他にもいろいろ名づけられた石碑やら桜の木やらがあった。どこまで本物なのかわからなかった。また「三界万霊」の石碑があって父とその意味を話し合ったりした。
 その後先ほどの7号線へ出ようとして羽越線沿いの細い道を進むと、蚶満(かんまん)寺の表門と駐車場を発見。そこはかなり広くて芭蕉の句碑やブロンズ像があった。危うく気づかないまま行きすぎるところだった。しかも、線路を隔てた先は7号線の道。つまり、余計なところを曲がらずそのまま7号線を進んでいれば、何の苦もなく蚶満寺の表門前へ来られたのだ。
 何じゃこりゃと思いながらも、ラッキーだったと芭蕉像の前でパチリ、写真を撮った。
 ここでの芭蕉の句は「象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」

 私のパロ句――ねぶけまなこ余計な裏道蚶満(かんまん)――(-_-)

 秋田県立博物館

 その後は父が運転して秋田を目指す。7号線は道幅が広いし、父も運転に慣れてきたようで、漸く安心して見ていることができた。助手席で身体をのばすとさすがにくつろげるし、仮眠も取れる。秋田を過ぎ八郎潟の途中でふと思い立って県立博物館に立ち寄った。縄文時代の展示資料を見たかったからだ。ところが、古代の展示スペースは工事中で、見学できるのは近世以降の人物展示だけだった。菅江真澄(すがえますみ)という江戸時代の紀行家や明治以降の秋田先覚者たちが展示紹介されていた。正直がっかりしたけれど、受付や各階の案内女性は秋田美人だったし、とても親切だったので良しとした。

 平泉中尊寺・毛越(もうつう)

 東北周遊の旅、三日目は青森秋田の縄文遺跡を見学。
 今回の旅の目玉でもあったので、じっくり探索した。また三内丸山では自衛隊の一団と出会う面白い偶然も体験できた。
 四日目は盛岡市近郊の繋(つなぎ)温泉の宿から盛岡インターへ戻り平泉へ向かった。快晴だった。
 平泉インターで降りるとまずは中尊寺へ。だらだら坂の月見坂を歩いて本堂から金色堂を見学する。観光客が多く、中高の修学旅行生も数校見かけた。光堂は修学旅行生や一般観光客でうじゃうじゃ状態だった。私は既に三度目の訪問になるのでさほどの感動はない。ただ、月見坂の両脇に立つ紅く色づき始めたモミジは良かった。まだ緑が多かったけれど、日の光を受けて一際美しかった。丹精された菊も展示されていて、それも感嘆の出来映えだった。東北では今が菊のシーズンらしい。
 その後毛越(もうつう)寺へ行く。内陣にも入った。広大な敷地を巡り金堂、講堂跡を歩き回る。私は父に、ここが「つわものどもが夢の跡」の場所だと説明した。父は「ほう」と言っただけだった。大泉(おおいずみ)が池も以前来たときと変わりない印象だった。
 正午近かったので、境内にある茶店であんころもちを食べた。父は小豆で私はクルミのからみもち。なかなかうまかった。
 平泉では芭蕉の有名な句がある。
 「五月雨(さみだれ)の降り残してや光堂」
 「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」
 気乗りはしなかったけれど、私のパロ句は以下の通り。

 ――さみだれの人にうんざり光堂――(これはまずまず?)(^o^)
 ――夢の跡あんころもちの舌鼓――(パロってないでェ!)(-_-メ)

 松島五大堂(ごだいどう)瑞巌(ずいがん)

 平泉を後にして一関インターから東北道へ乗り一路松島へ。松島も私は一度来たことがある。そのときは遊覧船に乗って海に浮かぶ松島の眺めを堪能した。しかし、瑞巌寺(ずいがんじ)には行かないままだった。
 午後1時頃松島に到着した。五大堂近くまで行き、無料駐車場があるようなので、私たちはそこへ入ろうとした。するとおばさんが呼び止めて昼飯は食べたかと聞く。昼食は毛越寺のあんころもちで終えたつもりだったので、済ましたと答えると右手のゲートがある駐車場へ案内する。そこが無料駐車場かと思ったら有料駐車場だった。どうやら無料駐車場へ停めるには昼飯を食べるのが条件だったようだ。そのおばさんは車だけでなく、通行人に対しても盛んに昼食の客引き(?)をしていた。父は「そこまでしないといかんのか」と不況の実態をまざまざと感じたようだ。
 時間はたっぷりあったので、私は遊覧船に乗らないかと誘った。しかし、父はいいと言う。
 そこで五大堂から海の中橋を見学。その福浦橋まで歩いて行ってぱちり。その後瑞巌寺を見学するか、伊達政宗のロウ人形館を見学するか迷った。父が瑞巌寺へ行こうと言うので、そちらへ行くことにした。
 私は瑞巌寺は小さな寺だろうと思っていた。ところが、行ってそこが国宝だと初めて知った。寺域もものすごくでかい。なぜ以前行かなかったのだろうと思って、自分の不明が恥ずかしくなった。しかも瑞巌寺には岩山をくり抜いた修行の場があった。一枚岩がきれいにくり抜かれ、大きな部屋となっていたり、岩壁には小さな磨崖仏(まがいぶつ)も多数彫られていた。杉並木も良かったし本堂内部のふすま絵など素晴らしく、確かに国宝級だと思った。
 ここでも三内丸山同様ボランティアガイドのおばさんたちが、観光客を引き連れていろいろ語りながら歩いていた。
 松島に芭蕉の句はない。嘘かホントか、俳聖芭蕉でさえ松島は「松島やああ松島や松島や」と感嘆するしかなかったと聞いたことがある。
 曽良の句で「松島や鶴に身を借れほととぎす」がある。

 一応パロってみた。――松島や食えば無料の駐車場――(-_-;)
 も一つおまけに――松島や車停めたきゃ飯を食え――(……汗)(^_^;)

 仙台国分寺跡

 松島見学後は早めに仙台市内の宿へ入った。翌11月1日は旅に出て早五日目となる。
 いままで二人とも朝は7時前に目覚めていたが、この日は疲れもあったせいか7時半過ぎまで目覚めなかった。結果9時頃宿を出てまずは陸奥(むつ)の国、国分寺跡へ向かう。国分寺マニアの友人O氏に土産話をする以上、この日本最北端の国分寺跡を見に行かないわけにはいかない。 そして、私はここで思いがけないものを発見した。

 国分寺跡に着く前私は父にクイズを出した。日本最北端の国分寺がどうして青森秋田ではなく仙台にあるのかと。父は考えていたがわからないと言う。ヒントは奥州征伐の征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)と関係がある――と言ったけれど、やはり「?」だった。答えは……聖武天皇が国分寺造営の詔(みことのり)を出したのが740年頃。対して坂上田村麻呂の征夷大将軍任命は800年頃。つまり、国分寺造営の頃はまだみちのく奥州は征圧されていなかったのである。朝廷の権勢が及ぶ北限が多賀城のあった仙台ということになる――と解説をぶったところ、父は「ほう……」と感嘆の言葉を発した。しかし、あまり興味なさそうだった。

 国分寺跡には現在(伊達政宗建築による)薬師堂が残っている。その他の堂宇(どうう)はもちろん礎石だけ。薬師堂はこぢんまりとしたお堂だった。それを見るだけでいいかなと思ったけれど、私は(O氏の影響もあって)ぐるりを見て回ることにした。
 薬師堂前を左に進むと道を隔ててまたお堂があり、その近くには芭蕉やその他の俳人の句を刻んだ石碑があった。
 芭蕉の句は「あやめ草足に結ばん草鞋(わらじ)の緒(お)」
 変体仮名で書かれていたので、父と一生懸命読み解いた。
 パロ句を考えてみたが、いいのが浮かばない。仕方なくその先の公園を回り込んでまた薬師堂まで戻った。さらに進むと杉木立の中に回廊の礎石や堂宇跡がある。金堂跡には石畳が全面残っていてこれは珍しいと思った。そこから入り口の方へ帰路に就くと桜の古木があった。直径7、80センチ。たけは数メートルしかないがかなりの大木だ。
 私はそこを過ぎて何気なく振り返った。そして、驚くべきものをその幹の途中に見出した。

 何と地面から1メートルほどの幹の中に、先ほどから歩いていた石畳の一つが埋め込まれているのである。それは縦横数十センチはありそうな直方体の石だった。
 私は父にそのことを告げた。父もびっくりして眺めた。
 自然なのか人工なのか。私は反対側に回って見た。先ほど何も気づかなかったくらいだから、そちらから眺めても石が幹の中にあるとはわからない。もう一度前に回ってよく見、触ってみた。確かに本物の石だ。石はちょうど一面だけ顔をのぞかせている。木は石の表面でめり込むように覆っているから、人工とはとても思えなかった。
 一体どうやったら桜の樹が幹の中に石畳の石を取り込めるのだろうか。しかも既に一メートル近くも持ち上げているのだ。
 私は今年3月アンコール・ワットを訪ねたときのことを思い出した。
 そこで廃墟寺院の石壁の上に直立するガジュマロの巨木を見た。その根っこは石壁の中や側面に入り込み、太い幹をしっかりと上空に伸ばしていた。
 しかし、この桜の古木は石畳の上に芽生え根を張って成長したのではない。石を取り込んだ部分は根ではなく明らかに幹の部分だ。しかも見上げれば枯れ始めた葉がしっかり生い茂っている。たぶん桜の樹は生きているだろう。
 合理的な説明を考えるなら、ある程度の太さだった桜の樹が切断され、その切り株の上に何らかの事情でこの石畳の石が置かれた。それが何十年何百年を経過するうち、桜の外側の皮の部分が伸び始め、やがて石を取り込みその上部で幹が合体してさらに大きく成長した――ということだろうか。それにしても桜の生命力と言うか包容力というか、これまた信じられないような情景だった。
 そこで一句詠んだ。

 ――枯れ桜幹の内なる石畳――(現物を見ない限り信じてくれないだろうなあ……)(・o・)

 瑞鳳殿(ずいほうでん)・青葉城跡・崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)

 その後は伊達政宗の墓地である国宝瑞鳳殿、そして青葉城跡、これも国宝大崎八幡宮を見学した。青葉城に城はなく、瑞鳳殿は国宝指定後焼失、現在の建物は復元後のもの。えらくけばけばしかった。そして、大崎八幡宮は現在修復中で巨大テントの中だった。ガイドで知っていたけれど、行ってみた。これで仙台とはお別れ。最大の印象は陸奥の国国分寺跡の石畳を飲み込んだ桜だろうか。 (2へ続く……)


膝栗毛その2




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