御影祐のおヤジとキタぞー東北道中膝栗毛 その2

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||1 東北名所… ||2 縄文遺跡見学詳細 ||3 宿と温泉… ||4 偶然の… ||

おヤジとキタぞー東北道中膝栗毛2

 目次 事伝体項目

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2 縄文遺跡見学詳細(三内丸山で出会ったチョー意外な団体さん)−−−−−−−《本頁
 伊勢堂岱遺跡〜三内丸山遺跡〜小牧野遺跡〜大湯環状列石〜千貫森山・一貫森山

3 宿と温泉とおヤジさん−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−《次頁》
 山形酒田簡保の宿〜大鰐温泉国民宿舎〜盛岡つなぎ温泉ホテル大観〜仙台メルパルク
 SENDAI〜福島岳温泉ヘルシーパーク

4 偶然の出会いと出来事−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 三内丸山、同姓同名の最優秀写真作品・自衛隊との遭遇

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2 縄文遺跡見学詳細  (三内丸山で出会ったチョー意外な団体さん)

 伊勢堂岱遺跡〜三内丸山遺跡〜小牧野遺跡〜大湯環状列石〜千貫森山・一貫森山

 伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡

 東北周遊の旅二日目、10月29日の夕刻私と父は秋田北空港近くを走っていた。10月末だと言うのに早くも冬の寒さ。しかし、車の中はぽっかぽか。私と父は午後4時前、秋田北空港西部にあるストーンサークルの「伊勢堂岱遺跡」に到着した。
 田んぼの中ダート一車線の道を少し行くと「伊勢堂岱遺跡」の看板があった。その辺りは小高い丘で、そばを小さな川が流れている。車を下りると外はかなりの寒さ。私と父は小雨の中を歩いて行った。看板があったところを少し登ると太い木で組まれた門がある。ところが、門は閉じられ「本日見学終了」の立て看板が出ている。ええっ、もう終了、せっかく来たのに……とがっかり。
 しかし、よく見ると門と言っても太木が枠組みになったもの。隙間が開いているし、誰もいなかったので私たちはそのまま中へ入った。
 坂道を登ると左側の斜面に配石遺跡があるとの看板。だが、シートがかけられていて現物は見ることができない。立て看板の写真では石が円形に組まれ、明らかに小型ストーンサークルとわかる。この先にあるはずのもっと大型のストーンサークルに期待感が高まる。

 さらに数分歩いて漸く環状列石に到着した。右側にA列石、真ん中が通路で左側にC、D列石があるようだ。遺跡の周囲は広葉樹や杉林で囲まれている。通路には掘立柱建物跡があり、看板の説明によると35棟はあったらしい。それをはさんで左右に環状列石が配置されていることになる。右のA列石はとてもはっきりとした円形である。大小の川原石がぽつぽつと並べられ、大きサークルを形成している。中央部には石が数ヶあるのみ。直径は25メートルから30メートルくらい。石は全体で1500個はあるそうだ。形は「蔓の付いたメロンのような形状」とあり、確かに全体的にそう見えた。

 私はストーンサークルの中央に立ってみた。地面はまだシートが敷かれ、発掘途上のようだ。そのせいか何となく古代の気のようなものを感じた。
 数千年前ここに縄文人が集まって川原石をせっせと運んだ。そして、何かを意図して円形に組んでいった。一体何に使われたのか。墓地か聖なる祈りの場所か。古代文明のエジプトピラミッドやインカ帝国、あるいはアンコール・ワット石造物のような雄大さはない。しかし、建物跡がすぐ近くにあることからすると、何らかの意図のもとに造営されたストーンサークルであることは間違いあるまい。私はここに立っていたであろう縄文人の思いを感じ取ろうと暫く立ち尽くしていた。
 その間にも父はあちこち歩き回っている。私も後を追った。通路を隔てた左側のC、D列石はまだまだ発掘中で、はっきりした円形を感じられない。至る所に杉の木の切り株があった。これから整地してきれいにするのだろう。全体的にはかなりの広さがあった。私と父はしばらくその付近を歩き回った。真冬のような寒さだった。

 三内丸山(さんないまるやま)遺跡

 青森の「三内丸山遺跡」に着いたのは三日目の朝。この日も寒く小雨が降ったりやんだりの天候だった。ここではボランティアガイドが案内してくれる。私と父は広い土産物屋兼ガイド受付所でガイドを頼んだ。すると責任者らしい男性がもうすぐ団体さんが来るので、その人達と一緒に回って欲しいと言う。時間はたっぷりあるので、私たちに異存はない。
待つ間壁に掲げられた三内丸山遺跡のパネル写真を見て回った。何かのコンクールらしく、春夏秋冬の遺跡風景がとてもきれいに撮影されていた。左端に「縄文の静寂」と題された最優秀作品があった。作者名を見ると何とカタカナで六文字、私の名がある。私はそこに自分の名を見出して驚いた。父も「同姓同名とは面白い偶然だな」と言った。私はおやあこの偶然は一体どんな意味があるのだろうと思った。

 それから十分ほどして「来ましたよ」の声で外へ出る。見るとバスから団体さんがぞろぞろ降りてくる。一見してあれっと思った。バスから降りたのは上下濃いグリーンの作業服(?)を着た集団だった。ほぼ全員編上靴と同色の帽子をかぶっている。何と団体さんとは自衛隊の一団だったのだ。私はびっくりしてしまった。自衛隊員は若い人から年輩の人まで、その数三十数名ほど。私はめったにないこの偶然の出会いに、思わず「答えがやって来た!」とつぶやいていた。

 それからガイドの熟年女性と一緒に出発。何だか奇妙な集団がぞろぞろ移動し始めた。一般見学者は私と父だけで、私たちは自衛隊の一団に紛れ込んだ民間人(?)二名となってしまった。
 なだらかな坂を登っていくと、有名な六本木柱が見え始めた。そして、その向こうには横長のロングハウスがある。左側にはドーム型の建築物が二棟見える。おそらく何かの遺跡をじかに展示しているのだろう。
 私は六本木柱が近づいて来るにつれ、何か感ずるものがあるだろうと期待していた。
 ところが、それは想像していたものよりかなり小さく感じた。高さ十数メートルはあるはずなのに、その高さを感じ取れない。言わば迫ってくるものがなく、古代の気を何も感じなかった。直径1メートルという柱もそれほど太いと思えない。それでも六本木柱の真下に行ってやっと大木の迫力が感じられるようになった。見上げると確かに高い。上部は床がしつらえられ、最上部には屋根が付けられていた。直径1メートルの栗の巨木は日本になく、「この大木はソ連から持ち運んだものです」とガイドおばちゃんが説明してくれる。そのでかさも何となく実感できた。
 それでも私が感じた第一印象の小ささは払拭(ふっしょく)されなかった。
 ガイドさんが言うには、この巨大建築物が何に使われたのかまだわかっていない。小学生を案内したとき、何に使われたんでしょうねと尋ねると、小学生は突飛な返事をしてくれる。
「中には洗濯物の物干しに使われたんだと言う子供さんもいました」と言うと、(私も笑ったけれど)自衛官らから笑い声が上がった。だが、それは一部だったしすぐにやんだ。
 私には何となく「ここは笑うべき時だから善意で笑って上げよう」と言うような笑いに思えた。もちろん邪推だが、民間人である私の違和感は続いていた。

 それからすぐ近くのドームへ移動する。私はガイドさんのすぐそばを歩いた。ガイドさんは小さな声で、「自衛隊の人は30分ほどしかいることができません。あなたがた二人はその後また案内します」と言った。私は「そうですか。私たちはヒマなのでよろしくお願いします」と答えた。
 ドームにはまずガイドさんが入り、私と父が続いた。中に入った途端私はがーんと来る衝撃に襲われた。地面に巨大な六つの穴が穿(うが)たれていたのだ。手前四穴には木柱跡が見え、奥の二穴は水に埋もれている。水を抜き取るホースが一つの穴に差し込まれていた。
 一目で《本物の》六本木柱跡だとわかった。その木柱跡は何より巨大だった。思い描いていた穴よりもっともっと大きかった。背筋がぞくっとした。外はかなり寒い。ドームの中は暖かいはずなのに、そこにはひやりと来る空気があった。何よりすぐに遠い太古のもろもろ――それを立てた縄文人の息づかいや何やらが、私の頭の中を駆け抜けていった。
 ガイドさんは「手前四本の穴に見える樹木の痕跡はレプリカです」と言った。奥の二穴は掘り出したときのままで、この地下一帯には水脈が流れている。だから、あのように水没するのだと解説した。見えている柱の跡がレプリカだと言われても、私の印象はちっとも崩れなかった。私は古代の六つの穴に大感激していた。

 次に案内されたのは縄文人の子どもの墓跡だった。これは私にはさほど感じるものがなかった。その後縄文人のゴミ捨て場であった遺跡を通り、そこの説明を受けた。それから三棟の高床式掘立(ほったて)小屋のそばを通ってロングハウスへ移動した。自衛官らが小さな入り口から次々に吸い込まれ、私は最後になった。
 ここでも入った途端に、私は背筋がぞくっとした。外から見るより内部はずっとずっと広かった。至る所に柱があり、天井(茅葺きが露出している)は相当高く感じられる。地面は踏み固められ、こちんこちんになってひび割れていた。この場所は本物だとすぐに感じ取った。
 ガイドさんもこの下にロングハウス跡があり、この家屋は柱から何までその真上に立てられていると説明した。そして彼女はその他もろもろを含めていろいろなことを語り始めた。解説は5分以上かかったろうか。やがて彼女は名残惜しそうに「もう時間もないそうですから、これで三内丸山遺跡の説明は終了致します」と言った。自衛隊員の何人かが拍手して「ありがとうございます」と言った。そして先ほどとは別の小さな入り口からさあっと消えていった。さすが軍隊だ、撤退が早い――などと私はバカなことを思った。

 私と父はその後ガイドさんといろいろ語り合った。ガイドさんは「三内丸山が国の特別史跡になったことは縄文の国宝ということです」と自信に満ちて言う。父が「佐賀の吉野ヶ里遺跡は特別史跡じゃったかな」と呟くと、彼女は「あれは弥生時代のものですから……それに私も吉野ヶ里に行きましたが、あそこまで作りすぎるとどうでしょうか。ここはできるだけそのままの形での公開を目指しています」などと言った。
 この発言も面白いと思った。ふっと彼女の自信に満ちた口調から、私は全く逆のことを思い起こした。それは青森出身だった太宰治や寺山修司のコンプレックスだ。歴史や文化の原点に連なっているとわかったとき、人は自分に自信を持つのかもしれない、などと考えた。
 私はストーンサークルに興味があり、これから小牧野(こまきの)遺跡にも行くつもりだと言った。すると彼女はそれなら富山の桜町遺跡に行くといいと教えてくれた。さらに福井の鳥浜貝塚も素晴らしいと言った。私はつい先日富山を通ったのに……と残念がった。そして、私が「三内丸山遺跡でもストーンサークルが発見されたはずですが」と聞くと、彼女はその近くまで案内してくれた。そこは現在埋め戻されているけれど、近い将来入り口のトンネルを抜けて敷地内に入ると、そのストーンサークルが見られるはずだと言う。彼女はそれを環状配石墓と呼んでいた。

 資料館前でガイドさんと別れ、私と父はしばらく資料館を見学した。約20分の遺跡紹介映画も見た。面白かったのは、この映画で三内丸山を最初に発見したのは江戸時代の紀行家菅江真澄(すがえますみ)とあったことだ。私はあれっと思った。秋田の博物館で菅江真澄の名を知っていなかったら、その名を聞いても何も感じなかっただろう。菅江真澄はその当時三内村で発見された縄文土器の破片を丁寧に描き残していたと解説されていた。

 小牧野(こまきの)遺跡

 三内丸山遺跡を見学すると、私たちは「小牧野遺跡」へ向かった。三内丸山から車で30分ほど行くと道がどんどん狭くなる。小学校のそばを過ぎると道はとうとう林道のようになり、ゆるやかに登っていく。両脇には紅葉の樹木。なお道は小さく狭くなり案内板に従って脇道に入る。畑の中の一車線道路を進むと、漸く小牧野遺跡の駐車場に着いた。
 車はなく人もいない。相変わらず小雨が降ったりやんだりであった。道を歩いていくと巨大なストーンサークルがその姿を現した。真ん中は車が通れるよう通路状態で発掘されていないが、その両側は数十センチ掘り下げられて大小の石がむき出しになっている。フェンス等はなく、そのままサークル内へ入れた。
 全体としては二重の輪になっている。中心部には小さな円もある。右側の石組みは相当の数で立石があり横になったのがある。それがごちゃごちゃと重なっている。残りの石は間隔が開き、全体として大きな円になっていた。円の外にもかなり明瞭な小サークルがあり、そのそばには半円で切れ切れのサークルもあった。右側の多数重ねられた石組みは祭壇のようにも見えた。私は左側の半円の中で何かしら古代の気を感じた。
 父はサークルを離れ左側の斜面を降りていった。そして、ここにも発掘中の跡があると言う。行ってみると斜面にはつい最近発掘されたらしい遺跡があった。これもサークルなのか、いくつかそれらしい河原石が置かれていた。その後先ほどのサークルに戻ると、私は石の様子などをスケッチした。一体縄文人はここで何を思い、何を考えながら佇(たたず)んでいたのだろうなどと想像した。

 この場所でずーずー弁丸出しのおっさんからいろいろ質問されたことも印象深い。私たちから十分ほど遅れてやって来た男性二人連れのうちの一人だ。私はストーンサークルの中心部で周囲の状況などをノートに書き留めていた。だから、彼は私を遺跡の関係者だと思ったのかもしれない。熟年でやや強面(こわもて)の顔立ちだった。
 彼は私に近づいてずーずー弁丸出しで「○×△……こごには人は…×▲*▽○……?」と来た。私「はあっ?」と聞き直す。言葉が全くと言っていいほど聞き取れないのだ。
 彼は再度何か言った。どうやらこのサークル内に住居跡はあるのかと聞いている感じだった。
 私は知る限りのことを話した。その後も彼はいろいろ質問してくる。しかし、やはり半分以上聞き取れなかった。
 これも面白い出会いであり出来事だった。かたや三内丸山でガイドをしてくれた熟年女性。青森の人でありながら彼女はきれいなNHKアナウンサー言葉を喋り続け、全く方言臭さを感じさせなかった。対して(やはりアナウンサー言葉の)私に対して完全な青森方言で話しかけてきたこのおっさん。面白い対照だった。

 大湯(おおゆ)環状列石

 青森インターから東北自動車道を50分ほど走って十和田湖インターに到着した。
 インターを降りて一般道を十和田湖方面へ進むと、約20分で鹿角(かづの)町の大湯(おおゆ)環状列石(かんじょうれっせき)に着いた。ここは秋田県になる。
 この日も午後4時近くで、車を下りるとかなり寒かった。資料館は既に閉館後で資料の見学は出来なかった。
 私と父は広い敷地内の遊歩道を歩き始めた。遊歩道は石畳が敷かれ、敷地全体は芝が整備され公園となっていた。一目で広大な敷地だとわかる。植樹されたナラやクルミ、モミジなどの広葉樹の中を進む。石畳の道を暫く行くと左手遠くの方に高床式建物が7棟見えてきた。
 さらに進むと道の右側に小サークルが二つ現れた。左側の円は直径数メートルほど。円の中に柱のような木が4本立っている。木の高さは数十センチくらい。右のストーンサークルはもう少し大きく、こちらの円の中には中央にさらに小円のサークルがある。その右上にも一個ある。右側のサークルはいくつか石がタテに立っていた。そして面白いことに、どちらの円も外側の一部2、3メートルの範囲で、たくさんの石がほぼ正方形の形で敷き詰められていた。
 中に立ってみると(石はあまり盛り上がってはいないものの)祭壇のように見える。円の前に方形があるから、土を盛り上げれば、前方後円墳と見えなくもない。方形の位置は北か北西の方角になるようだ。サークルの中心に立ってみると何となく感ずるものがある。私は暫くそこに立ちつくした。
 父が「この石は昔のままかな」と聞くから、私は「作ったとは思えないから昔のままじゃないの」と答えた。(その後家に戻ってから資料館に問い合わせたところ、この小サークルは復元されたものだとわかった。)
 また、この近くには半円のストーンサークルや、円形で中にたくさん木が立てられたサークルもあった。立てられた柱のような木は現在の復元だから、おそらく柱穴跡があったのだろう。ストーンサークルは竪穴住居跡とは明らかに違う。それなのに柱穴跡があったとなると、それが一体どういう役割を持っていたか気になった。
 それから私と父は7棟の高床式建物の方へ向かった。高床式建物はもう何度も見たことのある形式だから、さほど感ずるものはなかった。しかし、私も父もそこに近づくに従って感嘆の声をもらした。7棟の建物に囲まれるような状態で、巨大なストーンサークルが出現したからだ。
とにかくそのサークルは広くて大きい。直径数十メートルはあるだろう。しかも、石の数も半端ではない。確か数千個と聞いていたが、相当数の石がサークル状――と言うよりごちゃごちゃに配置されていた。全体を囲む石組みの円。その中心部にもはっきりとしたサークルがある。その中間にまたたくさんの小サークル。石の配列も様々で、タテに置かれた石、横に組まれた石また石。大小の石が一応円を形作っている。そして、周囲には高床式建物。その合間にも三つの小サークルがあった。
 大サークルの中に入りたかったが、残念ながらロープで囲まれて入れなかった。立て看板などはないが、これが万座遺跡だろうと思った。

 それから石畳の道を進むと小さな栗林があって道路にぶつかる。その先に野中堂(のなかどう)遺跡がある。車の往来はかなり激しい。道を渡ると書物やインターネットのホームページでお馴染みの野中堂遺跡が見えてきた。その周囲遠くの方ではブルドーザーが盛んに整地している。どうやら何かの工事を行っているようだ。
 私と父は野中堂遺跡のサークル外に立った。これもかなりの大きさで円形だとはっきりわかる。中心部に小サークルがあり、そこには石が三本タテに立っている。そして、中心部小サークルの右側に日時計組石と呼ばれる立石がある。中心部の石は高さ一メートルほどで、周囲の石組みと合わせて面白い形だと思った。
 ホームページの説明ではサークル全体はフェンスで囲まれているとのことだったが、フェンスはなかった。細いひもが張られているだけで、しかも一部はなくなっていた。私は入ってはいけないだろうと思っていたが、父がずんずん中へ入っていく。周囲に見物客や関係者もいないので、私もサークルの中へ入っていった。そして、日時計組石の所で記念写真を撮った。
 するとその直後ブルドーザーの方から男性がやって来て「おーい、入っちゃダメだ!」と言われた。私と父は「すみませーん!」と謝って大慌てで外へ出た。やはり立ち入り禁止だったかと思いながら、日時計組石の場所で写真が撮れるなんて千載一遇のラッキーだと思った。

 千貫森山(せんがんもりやま)一貫森山(いっかんもりやま)

 旅に出て五日目の朝、仙台市内を見学したあと最後の目的地である福島の「千貫森山」へ向かった。千貫森山は単なる自然の山だから縄文遺跡というわけではない。しかし、千貫森山とそのすぐそばにあるミニチュアの一貫森山はかなり不思議な雰囲気を持つ山である。
 二つの山がある飯野町は縄文集落遺跡があり、奇妙な形の巨石が数多く散在している。それにUFOの目撃談が多いということで、その筋のマニアにはよく知られた山だった。
 私は執筆中のSF作品で、主人公たちが青森秋田の縄文遺跡を巡る旅を構想した。
 なぜそんな所を旅するかと言うと、日本の東経140度の線上に縄文レイライン――レイラインとは魂の道という意味――があり、最後は千貫森山で記憶喪失状態から魂を甦らせるストーリーを考えたのである。だから、千貫森山はどうしても登って見ておく必要があった。

 高速で昼食を済ませ福島西インターで降りると、阿武隈川沿いの道を20分ほど走る。飯野町を示す標識が見えた後、突然左手に千貫森山が見え始めた。思い描いていたよりもっときれいな円錐形をしていた。そして、千貫森山の右側に同じく円錐形の一貫森山も見える。なだらかなカーブを持つ二つの山が仲良く並んでいた。しかし、この位置からだと二つともほぼ同じ大きさに見えたから不思議である。

 やがて道は左にカーブして手前が一貫森山、向こうが千貫森山となる。その後案内板に従って二つの山の狭間(はざま)を進んだ。道は急な上りとなる。千貫森山の山腹を登っていく感じだった。
 やがて道の左にUFO記念館、右に物産館が現れ、その先が駐車場だった。駐車場そばのトイレはUFOの円盤のような形をしている。そこから見下ろすと飯野町の田んぼや家々、小さな山々がたくさん見えた。かなり登った感じだった。しかし、仰ぎ見ても頂上は見えない。この辺りは千貫森山公園と呼ばれているようだ。案内板によると頂上まで道が整備されていた。
 どのくらい時間がかかるかわからなかったが、私と父は取りあえず登ることにした。
 アスファルトの道はすぐに終わり、土や石ころの多い登山道に変わった。初めは右手に福島南部の山々が見渡せた。180度カーブして今度は左手に同じ山々を見る。その後は雑木林に入り込み、曲がりくねった山道を登っていく。
 私と父は今年3月大分の猪群(いのむれ)山に登った。そのときはかなりの勾配(こうばい)でひーこら言いながら登ったものだが、ここはそれほどの勾配ではなかった。
 残り距離を示す標識がユニークだった。宇宙人を意識した石造りの像が置かれ、みな名前が付いている。残り360メートル地点でチーミー、260でゴモラ、180でカメレオー、110でデカタン。そして、頂上まで残り50メートルの位置にモリタンとあった。

 登り始めてから約20分。途中休憩したにしては意外と早く頂上に着いた。頂上の石造宇宙人にはユータンと名があり、看板に「登頂おめでとう」と記されていた。
 私は友人からよくユーサンと呼ばれる。この登りつめた所での「ユータン」はこれまた面白い符丁だなと思った。
 頂上は狭くてなおかつコンクリート製の展望台があった。その周囲にベンチもある。展望台は一辺数メートルで二階建てだ。私たちは二階に上って周囲を見回した。ここからだと東西南北全てを見渡せる。説明書きもあって東側が太平洋、南が東京方面、西に安達太良山や吾妻小富士、北は山形仙台方面とある。蔵王も見えるようだ。
 上空は晴天だが、あいにく地上線の辺りは曇って山々はうっすらとしか見えなかった。北側山上にある第二電電の無線塔だけははっきり見えた。西側を見下ろすと、すぐ近くに一貫森山が見える。千貫森山の頂上から見ると、一貫森山は確かに一貫と呼ばれるだけあってとても小ぶりの山である。千分の一とは言わなくても百分の一程度の感じだった。

 展望台の周辺には松が生えており、東側にはコンクリ製の小さな祠(ほこら)がある。その祠近くには金属製の半球が三つ、石造りの同じものが一つあった。ここ飯野町ではUFO目撃談も多いという。それでUFO記念館や宇宙人とのコンタクト用としてこの展望台施設が作られたようだ。金属製の半球もそれを意識しているのだろう。
 その近くに「三等三角点」があった。数値を見ると、「北緯37度41分870、東経140度32分19秒806、標高462.28メートル」とある。やはり千貫森山はほぼ東経140度の線上にあった。私は作品に取り上げたことを確認できて嬉しかった。
 頂上には30分ほどいた。それから同じ道を通って下山した。
 私は隣の一貫森山にも登ってみたかった。物産館の人に登れるかと聞くと頂上まで階段があると言う。
 私と父は車で登り口まで行った。確かに石段が一直線に頂上へ伸びている。数百段程度だろうか。しかし、石段は両側から伸びた草や蔓で塞がれたようになっている。父はもういいと言うし、私も少し登りかけて結局諦めた。

 その後は周辺の巨石群を探索しようと辺りを走り回った。
 まず一円寺境内にあるという方位石を探した。寺は見つかり境内にも入れたが、方位石を発見できない。案内板はなく尋ねようにも寺には誰もいなかった。
 諦めて走っていると道の傍らに鯨石(くじらいし)を発見できた。長さ7、8メートル。背中に石の帆が立っている。確かに鯨に似た巨石だった。
 その後は南下して白山竪穴住居跡を探した。大人に聞き、小学生に聞き、うろちょろしたが見つからない。ガソリンスタンドのあんちゃんがかなり丁寧に教えてくれた。しかし、それでも発見できない。案内標識が全くないのである。  漸く遺跡のすぐ近くで、通行中のおじいちゃんが「あれだよあれ」と近くの丘の辺りを指さして教えてくれた。ところが、細い一車線道路を進み、指さされた辺りへ到達したけれど、それでも見つからない。その直後小さな小さな案内板を発見してやっと車を下りた。そして、小高い丘の上に竪穴住居を発見した。
 ところが復元竪穴住居はたった一棟だけ。周囲は畑と藪のままである。
 父が「何だこの程度か」と呆れたような声を発した。私も同様の気持ちだった。
 とうとうこれ以上の巨石探索を諦め、飯野町をあとにした。

 これで予定していた縄文遺跡関係の見学は全て終了した。やはり書物やホームページ等で知った遺跡の知識と、現物はずいぶん印象が違うと思った。作品に取り込むこともうまくいくように思えて私は大満足だった。

 帰宅後この文章を書きながら、ふっとひらめいたことがある。
 それはストーンサークルの役割と《本来の形状》についてである。縄文ストーンサークルは、通常祭祀(さいし)か墓地の跡として考えられている。三内丸山や小牧野遺跡からは、墓地説を裏付ける発見もなされたようだ。しかし、墓地だとしてもストーンサークルは不思議な形だと言わざるを得ない。いくつかのサークルは円の中に小円があり、垂直に立った石の回りを横並びの石が取り囲んでいた。それは墓碑とか日時計組石とか呼ばれている。
 普通それらはむき出しのまま何かに使われたと考えられている。しかし、万座遺跡のサークルなぞはとてもごちゃごちゃしていた。一番外側の円はかなりきれいに描かれているのに、内部に置かれた石はあまりにも雑然としている。きれいに敷き詰められていないし、何らかの規則的配列でもない。言うならば大小の川原石の置かれ方はどう見ても美意識に欠ける。

 私は縄文人はかなり美的センスを持っていたのではないかと推測している。
 縄文時代の土器や土偶、住居、建物などは素朴で美しい。三内丸山の巨大六本木柱などは、柱から柱の中心点の距離がぴったり4.2メートルだという。何らかの美的センスがなければ、そのようにきっちりと築造しないだろう。実際各地のストーンサークルでも、小サークルはとてもきれいな円形だった。それゆえ、大サークルにしても何らかの美的モニュメントとして造られたのではないかと思えるのである。

 そのとき私の頭に千貫森山と一貫森山の相似円錐形が浮かんだ。
 二つ並んだ大きな円錐と小さな円錐の山。それはとても整然としてきれいだった。さらに古墳時代の円墳や方墳、前方後円墳などを思い描いた。田舎の墓地では昔土饅頭(どまんじゅう)の粗末な墓があった。土を盛り上げその上に川原石が一個ぽつんと置かれていた。
 私はそのときふっとひらめいた。それは青森秋田のストーンサークルがそのままむき出しで祭祀等に使われたのではなく、その上に土が盛られて円錐形の小山となっていたのではないか――そんなひらめきだった。つまり、あれら川原石は土盛りを頑丈にするための骨組みのようなものではないかと。
 一番大きな外側の円が聖なる場所を示す境界線で、内部の小サークルは土が盛られて円錐形になっていた――そのように想像すると、かなり美しい墓地または聖地が誕生する。
 大湯環状列石には柱穴跡を持つ小サークルがあった。それは明らかに住居用の穴ではない。だとするとその柱も一定の高さで土盛りを頑丈にするための骨組みだったと考えることができる。
 この土盛りの残骸が残っていないのは、それがこちんこちんに踏み固められたものではないからだと思う。円を意識した外環以外の川原石が雑然と置かれていたことも、その上に土を盛るからと思えば説明がつく。土盛り内の骨組みや頑丈な底面用として石を置こうとしたなら、石はばらまいておけばすむことだ。だから、外円として築かれた石以外の部分は雑然とした置き方になったのではないだろうか。要するに、ストーンサークルの本来の形状は、川原石で囲まれた大円の中に一ヶから数ヶの円錐形土盛りがあったのではないだろうか。

 私には縄文人がサークル内にとてもきれいな円錐形を盛り土したのではないかと思える。それが縄文人の美意識であり、またこのサークルと円錐形の盛り土は墓地にせよ何にせよ、縄文人の何らかの信仰対象であり聖地であった。福島飯野町の千貫森山と一貫森山は(自然にできた)円錐形の最大のものと考えることもできる。
 千貫森山周辺には奇妙な形の巨石がたくさんあった。それはかなりの巨石で、地上にむき出しになって散在している。
 壮大な空想だが、飯野町縄文人達がその巨石で一貫森山の周囲を囲おうとしたと考えるとかなり愉快だ。いかに小さな一貫森山とは言え、その山裾を囲むには川原石では小さすぎる。
 彼らは近在の巨石を探し求め、掘り起こして一貫森山の山裾に持ち運ぼうとしたのではないだろうか。巨石のいくつかは切断されたような断面を見せている。その大作業には相当の人力と権力を必要としただろう。飯野町縄文人はそれを試みた。しかし、あまりの大作業に結局諦めたのではないか。その残骸が飯野町内に散らばっている巨石なのかもしれない。だから、田んぼや道のかたわらに捨てられたように巨石が存在しているのではないか。
 千貫森山・一貫森山を縄文遺跡ととらえることはあながち間違いではないかもしれない。
 私は、こりゃあこの件はSFに採用すべきだな――とそんなことを思った。(3へ続く……)



膝栗毛その3




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