『般若心経』講話 後書きとお願い      御影祐

 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。後書きと言うより読者各位へのお願いです。
 本稿をお読みになって取り立てて感じることがなかった人は(ここに到着しただけでも奇跡ですが)本稿を人に勧めようとは思わないでしょう(もちろん肯定します)。

 もしも「いいね↑」と思われたなら、本稿を身近の人――特に悩み苦しんでいる人に紹介しよう、ツイッターやブログで取り上げようと思われたかもしれません。
 それは作者にとってとても嬉しいことです。しかし、もしそうなさるようでしたら、次のお願いをぜひ聞いてください。
1 一つは『清浄般若心経』の全文、《空無清浄観》を解説した全文をコピーして紹介しないでほしいこと。
2 二つ目はその中のある一頁だけを切り取って貼り付けることもしないでほしいこと。
3 最後に『般若心経』の裏には「清浄」があるという「清浄」の言葉を使用しないでほしいこと。
 以上三点、理由は以下の通りです(著作権の問題ではありません)。

 まず『清浄般若心経』全文や「空無清浄観」の解説ページはたくさんあるので、全部コピーしてまとめるのはめんどうだと思います。さすがにそれはやらないでしょうが、結論がないから、どこか気に入った一頁、ないし数ページをコピーしてブログなどで紹介なさるかもしれません。

 それは絵画で言うなら、素晴らしい作品とたたえつつ、その一部を切り取って人に紹介するのと同じではないでしょうか。作品全体を紹介したことにはならないと思います。
 なおかつ、そのブログで本稿の《一部》を読んだ人は「それが全体か」と思う可能性があります。その部分だけを読んで「ひどいことを書いている」と思われる可能性さえあります。
 私は本稿を読むなら、全部を、最初から、少しずつ、考えながら、味わいながら、ゆっくり読んでほしいのです。
 みなさん方は好きな歌謡曲や、30分あるいは1時間かかるクラシックを聞くとき、その一部だけを切り取ったり、早送りして聞くでしょうか。
 文章は音楽に似ています。途中を切り取って紹介しても、全体は伝わらないと思います。

 そして、3番目のお願い――「清浄」は本稿の要です。推理小説で言うなら犯人であり、純文学で言うなら主人公の秘密です。みなさん方は小説を知人友人に紹介するとき、犯人の名や謎解きの言葉を打ち明けるでしょうか。
 それゆえ、「『般若心経』は空無と清浄、二つの意味があった。あらゆることをないものと見なそう、清らかだと見なして全て肯定しようという意味だった」などと書いて紹介してほしくないのです(これは全体の《まとめ》にもなっており、そこだけ読んでも「ふーん」で終わりでしょう)。

 この三条件をクリアして本稿を紹介するのはかなり難しいと思います。よって、紹介してくださるのはとてもありがたいことながら、たとえば、「【いいね↑】と思った。以下のサイトに行ってみたら」など、一番最初の「般若心経講話導入部」を紹介する程度にとどめていただけたらと思います。

    『般若心経講話』全体入口
  URL→  https://flier-mikageyuu.ssl-lolipop.jp/hannyasingyo/hannyasingyo-top.html

 もちろん導入部に書かれている「般若心経は数字のないコインの表だから難解だった、裏の意味がある」とか「仏教の通説で『般若心経』を理解することは誤りだった」など、あそこで書かれていることはいくら紹介下さっても構いません。よろしくお願いします。

 ただ、すでに『般若心経』をとなえている人は『清浄般若心経』もとなえてみたい、と思われたかもしれません。その人たちのために『清浄般若心経』の全文は作成しました。以下PDFファイルとして作成したので、ご覧下さい。
『清浄般若心経』PDFファィル

 なお、この資料で『般若心経』は(『清浄般若心経』と対応させるため)『空無般若心経』と書いています。『空無般若心経』の裏に『清浄般若心経』があると気づかせてくれたのは空海が唐より持ち帰った『理趣経』のおかげです。
 空海密教とは《全肯定》であり、最終境は「即身成仏」と言われます。本稿は「なぜ真言宗で朝晩『理趣経』と『般若心経』が読誦されるのか」――その答えにもなっていると思います。『理趣経』と『般若心経』は表裏一体の根本経なのです。ならば、なぜ『理趣経』は男女の恋と交わりをことさら取り上げたのか。その意味は目下メルマガ連載中の「空海論文編」で明らかにする予定です。興味ある方はそちらもご覧下さい。

 最後に、改めてここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 途中でも書いたように、『般若心経』の「空無と見なそう、清浄と見なそう」とは実際の所「無とはできない現実、清らかとはとても思えない現実がある」ことを意味します。それを「空無だ、清浄だと見なす」とは《想像力をふくらませよう》と同じです。
 現実は厳しく、辛く苦しいことが多い。それを無と見なすのは想像力であり、清らかと見なすことも想像力です。いじめられることは悲しい。自分がもしその立場になったらとても悲しいだろうと思う――それも想像力です。全肯定の実現は想像力にかかっているのかもしれません。

 私は狂短歌エッセーの創刊号に「四喜八喜」を書きました。「四苦八苦」のパロディーです。生老病死の人生を苦しみばかりと見れば四苦八苦だけれど、喜びを見れば四喜八喜です。それは砂漠でコップ半分の水を手にしたときの心と同じでしょう。
 「もうこれだけしかない」と感じて絶望するか。
 「まだこんなにある」と思って希望を抱くか。
 元気なじいちゃんばあちゃんの「まだ八十じゃ」にも似ています。

 本稿が『般若心経』と「空無清浄観=全肯定」の理解につながり、その見方を実践する支えになればと思います。どうか苦しみ多きこの世を気持ちよく生き抜いて今を充実させ、悔いのない人生を歩んでください。

 御影祐 2014年12月26日 擱筆


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