『続狂短歌人生論』20「繰り返される子捨て、親捨てのドラマ」


○ 捨てられたドラマは次に子育てで 祖父母頼れず また捨てられる


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年7月19日(水)第20号


 『続狂短歌人生論』20 繰り返される子捨て、親捨てのドラマ

 前号《後記》を再掲します。
 ――私たちは30代5億人の先祖を語ることはできません。せいぜい父と母、父方母方四人の祖父母を語れるくらい。本節末尾の「思い出を語って子どもに伝えることで『親捨て』ではないつながりを生み出せるのかもしれない」について次節にてもう少し解説します。

 よって、今節はこの件の補足です。前著下書きにはなく、今回追加しました。
 実は書き終えて今回も「うーん、どうしよう。公開やめようか」と悩みました(^_^;)。
 表題を読み、以下の狂短歌を読めば、内容を予想できるかもしれません。
 そして、この考えが図星とすれば――すなわち日本の世相を的確に描いていると思えば、ちょっと暗い気持ちになるであろう内容だからです。
 もちろんここで立ち止まって「そんなことはない」と反論を考えるのは立派な一読法です。

 20 繰り返される子捨て、親捨てのドラマ

[1] 繰り返される子捨て、親捨て

〇 捨てられたドラマは次に子育てで 祖父母頼れず また捨てられる

[2] 二度目の子捨て、親捨て

[3] 克服するには――ちちとははを語り、自分を語る

○ 語るべき 親は我が子に語るべき 祖父母と親を 我が子の生まれを



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 捨てられたドラマは次に子育てで 祖父母頼れず また捨てられる

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****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』20 繰り返される子捨て、親捨てのドラマ 】

[1] 繰り返される子捨て、親捨てのドラマ 

 まずは一読法復習を兼ねた執筆ウラ話から。

 6月28日より連載を始めた「子捨て、親捨てのドラマ」。四編の詩を紹介しつつ、その1からその5まで三回にわたって公開しました。見出しは以下の通り。

17号 子捨て、親捨てのドラマ その1「詩『夕方の30分』」
    子捨て、親捨てのドラマ その2「詩『9月の風』」
18号 子捨て、親捨てのドラマ その3「詩『僕を責めるものは』」
19号 子捨て、親捨てのドラマ その4「親捨て」
    子捨て、親捨てのドラマ その5「詩『伝説』」

 これ、各号の前置きに狂短歌とともに毎回掲載しています。
 何かつぶやきましたか
 くどいほどにある先頭の言葉(^_^;)。いやでも目につきます。
 一読法実践者なら、読みつつ次のような疑問と抗議(?)を発するべきです。

・その1、その2は父母と幼い娘のありふれた日常、弱弱しいお父さんと健気な幼子の様子が描かれた詩が紹介されている。母親が入院するなんてよくあることだ。その見出しとして「子捨て」とつけるなんて作者はちょっとおかしいんじゃないか
・その3が「子捨てのドラマ」というのはわからなくもない。だが、123に「親捨て」の件は全く書かれていない。結局、親捨てについて語られていたのは4だけだな――等々。

 私(筆者)は1〜5全てに「子捨て、親捨てのドラマ」と見出しをつけました。
 見出しとは内容の全体的なまとめです。確かに1と2を「子捨てのドラマ」とするのはいかがなものか。むしろ「父と子二人だけの日常」とでもまとめるべきでしょう。
 例えば、4の「親捨て」だけを残して以下のように変えてみます。

 1 父と子二人だけの日常 2 お母さんの入院 3 子捨てのドラマ
 4 親捨てについて 5 子育てと老いと死(または「子捨て親捨ての克服」)

 5は親捨てでも子捨てでもない、「子育て」というか原初的「人生」物語です。親は子育てを終え年老いたら、「痩せほそったちいさなからだを/かるく かるく/湖にすてにゆく」その姿が描かれています。
 5の見出しは難しいけれど、敢えてつければ「子育てと老いと死」とか、そのものずばり「子捨て親捨ての克服」でしょうか。

 ここで「えっ、5って子捨て親捨ての克服が書かれていたの?」とつぶやいた方はもう一度前号を再読してほしい……けれど、たぶんそうつぶやくだろうと思って今号を追加しています(^_^)。
 貧しい山奥の村に生まれ、育てられ、成長して誰かと結ばれ、子を産み育てる。「ちちははの思い出を/くりかえし/くりかえし/わたくしたちのこどもにつたえる」とありました。それがどうして子捨て、親捨ての克服になるのか。ちょっと説明が必要ですよね。

 このようにもっと的確な見出しをつけるべきなのに、一括して「子捨て、親捨てのドラマ」だなんて「ちょっといいかげんじゃないか」と文句の一つも言いたくなる。少なくとも123に「親捨て」に関する言及はない(ように思えます)。

 当然、作者はこれらのつぶやきに対して答えなければならない。
 そこで今節がある――というわけです(^_^)。

 なぜ123にも「親捨て」なる言葉をつけたのか

 先走って結論を書くと、子捨てと親捨ては別のものではない。ある家族で子捨てが起こり、別の家族で親捨てが起こるといった類のものでもない。子捨て・親捨ては核家族と共稼ぎによって起こる。そして、子捨てが親捨てにつながっている――そう言いたいのです。

 ここで以前も書いたように、「だから共稼ぎをするな」とか「親と一緒に暮らしなさい」と言いたいわけではないことを強調しておきます。
 そもそもどちらも日本国政府の大方針です(隣の大国が一人っ子政策をとったのと同じように)。結果、大家族は滅亡寸前であり、子どものいる核家族世帯は全体の8割。世帯の7割は共稼ぎ世帯です。もはや昔に戻ることはできません。

 詩集『小さなユリと』のユリちゃんは母の入院で「お母さんに捨てられた」と思っている。そこへお父さんさえも自分を幼稚園に置き去りにしてしまうのではと感じた。その不安と恐怖からユリちゃんはお父さんの名を呼んで泣く。
 もしもお父さんが引き返さなければ、ユリちゃんの心には大きな穴が開く。 傷ついた心は簡単には修復しません。

 あるいは他の例をあげるなら、子どもにとって辛いことは親が夫婦喧嘩をすることです。それが激しくなればなるほど、子どもは不安にとらわれる。あげく離婚が成立して父か母どちらかに引き取られたとき「自分は捨てられた」と思う……。

 ここも「だから離婚するな」と言いたいわけではありません。口げんかばかりの夫婦、内心を隠して上辺だけ取り繕う仮面夫婦より、いっそ別れた方がいい場合もあるでしょう。
 ただ、子どもの心には引き裂かれた傷が残る。大きな穴が開く。離婚の原因は自分じゃないかと思って罪悪感を引きずる子どももいる。それをわかってあげてほしい、ということです。「それがわかったからと言ってどうしようもない」とあきらめないでほしい。あきらめないで「やることがある」と言いたいのです。

 親に捨てられたと思ういやな感情は克服され、溶かされる必要があります
 いじめに関してよく言われる言葉があります。いじめた方は「そんなことあったの」とつぶやくほど簡単に忘れてしまう。だが、いじめられた方は決して忘れない。パワハラ・セクハラもそうです。

 親に捨てられたとの思いはこれより深刻です。それは成長するにつれて無理矢理忘れることです。心の奥に閉じ込めて自分で「そんなことあった?」とつぶやく。
 いやな記憶、思い出したくない記憶だから、心が「忘れてしまえ」と命令する。そして、そのうち本当に忘れてしまう。

 今も例にあげた両親が離婚してどちらかと一緒に暮らすとき、片親は元伴侶の話題を避けるでしょう。子どもにとってもそれはタブーとなり、心の底に閉じ込められる。
 だが、親に捨てられたとの思いはブラックホールの穴として、あるいは、固くどす黒いしこりとなって心の隅に残っている。でも、そんなことは大したことではないと思う。思い込もうとしている。

 では、この気持ちは大きくなってどのような症状として噴出するか
 友人関係、仕事、恋愛などなぜか悩み事が絶えない。素直になれない。自分の心を打ち明けられない。孤独を感じる。人の喜び事を心から良かったねと言えず、人の不幸を内心いい気味だと思う。何より人に甘えることができない――このような症状としてちらちら現れる(と思います)。

 もしも読者が思い当たるなら、自身の子ども時代、親との関係を振り返り、探求することを勧めます。

 以前一人っ子について語ったところ(→13号)で、「一人っ子はわがまま以上に、父と母への不満や反発も結構あると聞く。その奥には『自分一人しか産んでくれなかった』恨みが潜んでいるかもしれない」と書きました。

 それにならって言うなら、幼いころ親に捨てられたとの思いを抱いた子どもは親を恨み、やがて親に報復するということです。「かつてあなたは私を捨てた。あのとき私は悲しい気持ちに耐えた。あなたは私が泣き叫んでも助けてくれなかった。今あなたは年老いて助けを求めている。だが、私を捨てたような人を助けに行く気にはなれせん」と。
 それが親捨てです。親に捨てられたから子どもも親を捨てる、そう言わざるを得ないのです。


[2] 二度目の子捨て、親捨て

 そして、今回気づいたことが冒頭の狂短歌に記した、親からまた捨てられる「二度目の子捨て」です。

 〇 捨てられたドラマは次に子育てで 祖父母頼れず また捨てられる

 捨てられた思いを抱いた子どもが成長して結婚適齢期となる。伴侶かパートナーを得て子どもを産んだとき、祖父母となった親(特に母)からまた捨てられるという意味です。

 我が子――特に娘が子育てに苦しんでいるとき、高齢の入り口に差し掛かった父と母は我が子を助けに行くだろうか。祖父母の住むところが田舎ならそれは難しい。お金に余裕がなければ駆けつけることはできない。

 同じ都市に暮らしていても、お互い核家族で行き来が少なければ、やはり助けに行けないし、行かない。
 娘夫婦が若く核家族かつ共稼ぎなら、親夫婦も核家族かつ共稼ぎである。産休・育休を取った娘(もしくは息子)が子育てに苦労していても、物理的に助けに行けない。

 あるいは、核家族二世、三世の祖父母(特に母親)が「私は親の助けなく子どもを育てた。甘えるんじゃない!」と思えば、やはり助けに行かない。これが「繰り返される子捨てのドラマ」です。

 私の田舎には「遠くのきょうだいより近くのいとこ」なる言葉(ことわざ?)があります。
 都会に出ていった兄弟姉妹とは疎遠となる。むしろ近くにいるいとこの方が親密になり、いざというとき頼りになるという意味です。
 さらに長年付き合っている「友人」も仕事上のこと、家族の悩みなど酒酌み交わしながら親しく交流する。同胞以上、いとこ以上に親密になることさえある。彼らは互いに助け合っています。

 ちょっと考えればわかるのではないでしょうか。実の父母とは言え、自分が困っているときに助けてくれなかった人です。今度はその人が年老いて困っている、助けてほしいと思っているとして、どうして助けに行けましょう。

 今中年となった子どもはこう思う。「かつて私は自力で立ち直った。助けを求めなかった。求めてもあなたは助けてくれなかった。どうぞ自分で自分を助けてください。お互い《自己責任》でやりましょう」と。
 核家族と共稼ぎによって子捨てのドラマが始まり、同時にそれは親捨てのドラマの開始である。二度目の子捨てもやがて(老父老母の)親捨てとなる。
 なので、この章の大見出しとして『子捨て、親捨てのドラマ』と記しました。

 そして、この事態は祖父祖母がもらす「子どもはあてにできない」との言葉につながっています。
 私はもう一つ以下のような狂短歌もつくりました。

〇 子をあてにできぬともらす祖父母たち 捨てた報いを感じているか

 核家族の子はやがて独立して他所(よそ)に核家族をつくる。祖父母は二人となって時折孫との交流を楽しむ。だが、祖父母のどちらかが病を得たとき、老々介護が始まる。子どもはあてにできない。そもそも若夫婦は共稼ぎだから子育てで精一杯。親を構う余裕はない。
 やがて祖父母は一人になる。動けるうちは一人暮らしを満喫する(か、さみしさに耐えて生きる)。動けなくなったら施設に入る……しかない。

 為政者の誤算は「田舎の親と一緒に暮らそうと思う子が一人もいなくなるとは思いもしなかった」でしょうか。
 農業、漁業に携わる人は地方にいます。親の仕事を引き継ぐ子どもがいなければ、地方の人口が激減するのは当然の帰結。そもそも農家を減らすことも国の政策だったから、未来が現在になっただけです。

 その4で書いたように、子どもは親とともに暮らすより都市の核家族を選択する。親と一緒に暮らしたいと思っても、親の仕事は継ぎたくない。だが、田舎に他の仕事はない。だから、都市に出るしかない。都市では共稼ぎをしないと、中流生活を営むことができない。

 地方の過疎化、人口減少とは核家族によって生み出された。核家族は親とのつながりを絶つだけでなく、先祖とのつながりも絶った。墓仕舞いとはその象徴と言わざるを得ません。

 再度繰り返します。核家族と共稼ぎは国策です。ならば、為政者は制度新設、施設の拡充、人的支援、金銭的支援を構築しなければならない。子育てが子捨てとならないよう。親が二人、そして一人となった時、親捨てにならないように。

 だが……保育所が足りないとさんざん騒がれた。なのに、次は学童保育が足りない。子どもが病気になった時あずけるところがない。突発休を取れば勤務先に迷惑がかかる。全て「自己責任で解決してください」と言われる。なんとしんどい子育てでしょう。

 ごく当たり前の未来さえ読めない為政者たち。みなさん有名大学出身なんだから、さぞかし優秀な方々でしょう。だが(私に言わせれば)、彼らは事態をぼーっと眺める通読実践者である。ゆえに、終わらなければ、検証も次の施策も生み出せない。
 彼らは一読法を学んでいない。途中で立ち止まって未来を読む訓練を積んでいない。だから、後手後手になるのもこれまた当然の帰結です。

 日々の生活と子育てにあっぷあっぷで、ため息をつく両親を見て子どもは思います。「自分のせいで父さん母さんは苦しんでいる。生まれてこない方が良かった」と。
 子どもにこのような思いをさせるようでは、大人になったときどうして我が子を産んで育てようと思いましょう。支援なきこの国では自分ひとり生きていくだけで精一杯ではありませんか。

 親ガチャを愚痴る前に国ガチャを問題にしたいところだけれど、世界はもっとひどい国が多々あります。
 飢餓の中で子育てをするしかない、病院にも連れて行けない国。平和に生きたい願いさえ踏みつけられる国。リーダーの命令に従って隣国を破壊しないと処罰される国。(私のように)国を批判する文章を書けば、当局にマークされ刑務所に叩き込まれる大国。いつ拳銃で撃ち殺されるかわからない大国……。

 それに、国の支援を待っていても時間はただ流れるばかり。
 生まれてこない方が良かったと思っても、生まれてきちゃいました(^_^;)。

 核家族と共稼ぎによって子捨て親捨てのドラマが繰り返される。
 では、どうするか。子捨てと親捨ては克服される必要があります。
 世界の大問題に比べたら、小さな些細な問題だ、などと言わないでほしい。
 個人にとっては大きな、時として背負いきれないほどの大問題です。「子どもが流す一粒の涙は地球より重い」という言葉もあります。

 なぜなら、生まれてきた以上、小さな幸せを求め、人生を充実させて生きたいから。
 子どもを産んで育てるのは大変だなあと感じても、自分の子を産んでみたい、育ててみたいと思う。それもまた自然な感情だから。この気持ちを子捨て、親捨ての感情が邪魔している。「大変だからやめた方がいいぞ」と。

 先ほど書いたように、この世は生きづらい。人を信じられない、自分を信じられない。誰も助けてくれないと感じる……なら、それは子ども時代の捨てられた気持ち、愛されなかった気持ちが尾を引いていることが多い。だからこそ、子捨て親捨てのいやな感情は溶かされ、克服される必要があるのです。

 それに関しては次節で語ることにして、一つ提起されるかもしれない反論(疑問?)について触れておきます。
 それは核家族というのは何も現代に限った話ではない。江戸時代の都市である江戸や大阪には地方出身者、その次男次女以下が多数集まった。明治・大正から昭和(戦前)もそうだった。彼らは都市で結婚した。一世帯は夫婦二人と子どもが数人の核家族だった。
 昔からあったのだから、目くじら立てることはあるまい。そう言われるかもしれません。これと現代の核家族は何が違うのか。

 私はこう考えます。最大の違いは江戸時代なら武家と商家、農林漁業の家(長男が引き継いだ)は大家族だった。都市の平民は核家族であり貧しかったけれど、江戸時代の長屋が象徴するように、隣近所が助け合っていた。そして、働いて生活費を稼ぐのは夫であり、妻は子育てと内職程度、(良くも悪くも)共稼ぎではなかった。

 出産は自宅で産婆さんが介助したし、近くの人は無事に生まれてほしいと祈り手伝った。長屋の中には年寄りも暮らしていた。子どもは集って遊び、年上の子や大人が見守った。夫婦喧嘩があれば(大概男親に非があることが多く)大家さんが「そんなことじゃだめだぞ」と諭してくれた。

 この状態は明治以降戦前も続き、戦後も昭和30年代ころまで続いていただろうと思います。
 私は昭和30年代が子ども時代です。そのころ病院での出産は少なく、産婆さんによる自宅出産が多かった。母親は多くが専業主婦で、隣の家と「醤油や味噌、砂糖」の貸し借りをしていた。煮物は隣に持っていき、数軒で餅つきをやった。年齢の違う子ども同士が集まって遊んだし、夏休みなど友達の家で昼飯を食べることもあった。つまり、核家族であっても孤立していなかった
 だが、現代の核家族は……書くまでもないでしょう。


[3] 克服するには――ちちとははを語り、自分を語る

 では、どうするか。解決策は子どもの側にはありません。
 親が我が子に語るしかない。そう思って掲載したのが吉増剛造『伝説』の詩です。
 親は自分のちちとははを語る。自分のことを語る。誰と結ばれたか、どうやって子育てをしたか語る。それを苦労話と言う名の自慢話ではなく、淡々と事実を語る。『伝説』をもう一度読んでみてください。詩の中に「お前たちを育てるのに苦労した」との言葉はありません。

 離婚したならば、「一度は惚れた、お前を産んだ。だが、離婚してしまった」ことを語る。
 そんなこと語りたくないでしょう。だが、語る。親が語ることによって子どもは自分の心の中に閉じ込めなくていいんだと知る
 親が語れば、子どもも語っていいんだと思う。心の中のいやなことを語る。それが克服する第一歩です。

 そのようなことを考えているとき、ふとあることを思い出しました。
「はて。どこかでこの件を書いたことがあるような……」と。
 そして、発見したと言うか思い出しました。2005年『狂歌今日行くジンセー論』のエッセーです。「子どもに語る、わが家を語る」と題して7月29日(第58号)に公開していました。
 本節を締めくくる最後としてこの狂短歌エッセーを再掲いたします。

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【 子どもに語る、我が家を語る 】

 (^_^)今週の狂短歌(^_^)

○ 語るべき 親は我が子に語るべき 祖父母と親を 我が子の生まれを

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 突然の結論で恐縮だが(^_^;)、人は子ども時代の先天的境遇(生まれと環境)に一生とらわれ続けるのかもしれない。

 例えば一人っ子として生まれたなら、その子は一人っ子としての利益(周囲の愛)を最大限享受できるだろう。おもちゃやお菓子、着る物など全てはその子のためだけにある。多人数のきょうだいから見ると、うらやましくて仕方ない愛され方である。

 だが、その子は兄弟姉妹がいたらなあと、いつかどこかでふっと思う。おそらく死ぬまで思い続けるのではないか。それは乗りこえられないと、その一人っ子をおかしくするかもしれない

 あるいは、二人きょうだいで弟妹の立場なら、自分にも弟か妹がいたらなあと思う。
 たぶん子どもはどこかの段階でその思いに気づく。そして、母親にそれをねだることもあろう。
 子供時代のある年齢までは、弟か妹が産まれることを期待できる。しかし、ある年齢を過ぎると、もはや決して果たされない願望だと知らされる。

 私が思うに、そのあこがれはきょうだいでは下の方がより強いのではないだろうか。
 自分は一生「お兄ちゃん、お姉ちゃん」と呼ばれることはないのである。
 上の方がその思いが強いことはないと思う。なぜかと言うと、兄弟姉妹を呼び合う言葉としては「お兄ちゃん、お姉ちゃん」という言葉しか存在しないからである。

 兄や姉は弟妹や両親から「お兄ちゃん、お姉ちゃん」と呼ばれるけれど、弟や妹は兄姉や両親家族から「弟ちゃん、妹ちゃん」と呼ばれることはなく、「何々、何々」と名前を呼ばれるのみである(^_^;)。だから、弟妹は「自分に弟か妹がいれば、お兄ちゃん・お姉ちゃんと呼ばれるのにな」と思う。

 もちろん上の方でも自分に兄か姉がいたらなあと思うことはあるだろう。そして、三人以上の真ん中は真ん中で、狭間(はざま)の苦しみにとらわれ続ける。親の愛は上と下に行って自分にはやって来ないと……。

 たぶん多くの人にとってその思いはどこかで乗り越えられるし、あるいは(幸いなことに?)、気づくことなく大きくなるのかも知れない。だが、とらわれ続けると心の穴になるような気がする。

 我が家は二人兄弟で、私には四つ違いの兄がいる。
 自分をふり返ってみて、あまり弟か妹がいたらなあと思ったことはない。兄がいたおかげで良かったと思うことはいくらもある。けんかのときは助けてくれたし、金がないときは小遣いをくれた。二人兄弟の弟としてその利益を存分に味わった気がする(^.^)。

 そして、成人後もプレッシャーなき自由気ままな弟の立場だったと思う。両親は兄には期待しているが、自分にはあまり期待していないと思ったり……(それがわかることは気楽であると同時に、さみしいことでもあったが)。

 小学校低学年の頃、下村湖人の「次郎物語」がテレビであり、その小説も読んだ。
 私は次郎にとても共感して、三人兄弟の真ん中は大変だと思ったことがある。もし自分の下に弟か妹が生まれていたら、自分はその次郎の立場になる。そう思って弟妹がいないことに感謝する気持ちさえあったかもしれない。

 ところが、数年前父からあることをうち明けられた。それによると、私には弟妹がいた可能性があったので、とてもびっくりした

 それは病気で入院した伯父(父の長兄)を二人で見舞ったときのことだった。なぜ父が突然そんな話をし始めたのかよくわからない。父は今は亡き母が、私と兄を産むときのことを語り始めたのである。
 母は兄を産み、四年後私を産んだ後二度妊娠したが、二度とも中絶したという。しかもその後父はパイプカットまでしたそうだ。

 父によると、二人で話し合ってそれを決めた。土地も財産もない自分たちには二人しか子どもを育てられない。だから、中絶したという。だが、母はずっと女の子をほしがっていた。母が果たして納得して堕胎したのか、私には疑わしかった。
 後に兄に確認してみると、兄もそれは初耳の話であった。母はこの秘密を私たちにうち明けることなく逝ったのである。

 それを聞いたときはちょっとしたショックがあった。もしも中絶がなければ、自分には弟か妹がいて自分は次郎になっていたわけで、その後の人生は全く違うものになっていただろう。

 私の小説『ケンジとマーヤ〜』や『時空ストレイシープ』で言うなら、そのときふっと他次元の自分を感じたってやつだ。
 無限時空のどこかには兄だけでなく弟妹のいる自分が生きており、日々暮らしているのかもしれない。その思いは今の自分という存在を、くっきり際だたせてくれた

 最後に、再度飛躍した結論だが(^_^;)、やはり両親は子どもに自分を語るべきだと思う。自分の親について語り、出自や生い立ちを語る。そして「お前を」――わが子を生んだときの様々な状況を語るべきだと思う。
 私の好きな吉増剛造(よしますごうぞう)の現代詩『伝説』にあるが、親が子に「くりかえし/くりかえし/ちちははの思い出を語る」ように。

 それは子どもにとって自分という存在が決して突然出現したものではないことを教えてくれる。自分が親、さらにその上の親と連なっていることを教えてくれるからだ。ときにはそれによって、自分という存在のかけがえのなさを実感できるかもしれない(^_^)。


○ 語るべき 親は我が子に語るべき 祖父母と親を 我が子の生まれを


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:後半は2005年の狂短歌エッセーです。再読して「なんだ、このころすでに前著下書きの中身をかなり取り入れて書いていたんだ」と驚きました。兄弟姉妹、一人っ子のこととか、『伝説』の詩さえ触れていたのです。今回詩の全文を紹介したことになります。すっかり忘れていたからあきれます(^_^;)。

 さて、そろそろ学校は一学期の終業式。そして子どもにとっては嬉しい楽しい夏休み。
 私も夏休みに入ってメルマガはお休みです。9月より再開します。

 先日の線状降水帯による豪雨、特別警報などまたも災害が発生しました。私が住むところも特別警報の渦中でしたが、3年前に比べたら穏やかな方でした。
 いつも書いていることながら、日本の場合はいつどこで自然災害が起こるか予想できません。
 まだ四季は残っているけれど、夏だけは亜熱帯気候になったと言うべきでしょう。
 猛暑の夏、豪雨や台風を生き延びて秋を迎えようではありませんか。

 最後にもう一言。本稿は先週完成していました。しかし、数日前思い立ってあることを加筆したせいで、さらに長くなってしまいました。「生まれてこない方が良かったと思っても、生まれてきちゃいました(^_^;)」の前後です。

 書き足そうと思ったわけはある若者の突然死を知ったからです。自死と報道されていますが、私は「他殺じゃないだろうな」と疑っています。もしも自死だとしたら「生まれてきた以上は自然の死が訪れるまで生き抜こうよ」と言いたい気持ちです。
 御影祐

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