『続狂短歌人生論』44「最終章の前にもう一章(^_^;)」


○ 再読し終わりの前にもう一章 はさみたいとはちと情けない


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年02月21日(水)第44号


 『続狂短歌人生論』44 最終章の前にもう一章(^_^;)

 執筆意欲も復活したことだし、いよいよ今号から『続編』の結論である最終章の執筆に取り掛かる……予定でした。
 が、ちと困った事態が発生しました。執筆意欲喪失中にやっていたことが新たな問題と言うか課題となって私の前に立ちふさがったのです。「このことも書いておくべきだった」と思うテーマがありました。あるいは、これまで「この件はいつかまた」と書いて保留にしていたことが少なからずあり、このままだと言及がないまま終わる可能性がある。
 どうしようか迷った挙句、最終章の前に何号か発行することにしました。今号はその「言い訳」です(^_^;)。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 再読し 終わりの前にもう一章 はさみたいとはちと情けない

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』44「最終章の前にもう一章(^_^;)」 】

 全体構想ができていないと「こうなる」見本のような事態です。
 学生が書いたへたくそな卒論みたいなもんです。いじいじ。
 まー以前も書いた通り「生みの苦しみ」でしょうか。

 それに本稿は研究論文ではありません。エッセーです。
 学会ではエッセーは論文と認められていません。もう言い訳? 開き直り?

 兼好法師の昔から「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」な随筆です。敢えて言うなら、論文的随筆。
 徒然草冒頭を超口語訳すれば、「特にやることねえし、ヒマだからスマホにあることないこと打ちまくったんだ。そしたらくらくらしてめまいがした」って程度の書き物です。

[一読法立ち止まり、その1。兼好法師『徒然草』の冒頭を出したのは言い訳だとわかるでしょう。現代語訳は「えらい大雑把だな。超なんかつけて何か意図がありそう」とつぶやきましたか。]

 1月後半になって執筆意欲を取り戻したのは「過去のメルマガを読んだから」と書きました。06年の父の死、11年の東日本大震災。

 そのころ同時にもう一つ過去の作品を読んでいました。それはこの『続編』そのものです。最初から前号まで読み直しました。
 これは年末に「『前著』結論」(36号)を書き上げたころ考えていた作業です。『続編』最終章を書く前に全体を再読しておこうと。

 書く意欲が消えると読む気持ちも萎えがちですが、自作を読む場合それほどひどくありません。
 休刊を決めたので「ちょうどいいや」と『続編』を最初から読み返しました。自分で「なかなかいいこと書いているじゃないか」とつぶやきながら(^_^;)。

 そのときやったことが各節を章にまとめること。
 『続編』は前著の拾遺がスタートだったので、章分けがされていません。
 取りあえず全43節を章分けしようと、まとめたのが以下(末尾の半角数字は各号)。

 ※  前置き 1号
第1章 再度四タイプの特徴、心の基地と武器 2-4
第2章 国の独裁、家庭の独裁 5-6
第3章 三角関係の愛 7-8
第4章 愛の獲得競争 9-14
第5章 かけがえのない個人 15-16
第6章 子捨て親捨てのドラマ 17-22
第7章 隠された原感情 23-25
 ※  迷路の整理 26
第8章 変えられない理由 27-33
第9章 出産子育てと消費税 34
第10章 変えることに成功(前著結論) 35-36
第11章 変えることに失敗 37
第12章 日本的カーストの絶望 38-41
 ※  執筆意欲が失われ、復活した1月 42-43

 拾遺集が出発点なだけに、えれえ長かったり、わずか1節だったりと、かなりいびつです(^_^;)。しょんなかですね。このままでいくか、最終稿で改定するか、完成後に考えます。

 以前も書いたように執筆意欲復活直後に構想した最終章が以下。
 そのままつなげると「第13章」になります。

第13章 続編結論――山頂のご来光
  なぜ変えることに失敗したのか    44号
  四タイプ統合の人格を目指す     45号
第14章 どんでん返しの結論
  その1 変えることを〇〇〇     46号
  その2 □□□の訓練を積め(^_^;)  47号

 この空欄クイズ、わかりましたか。
 どんでん返しが大きなヒントだし、本稿をじっくり読んできたなら、答えられたのではないでしょうか。
 その1は「変えることを《やめる》」であり、
 その2は「《一読法》の訓練を積め」です。

 これが99パーセントの絶望に対して1パーセントの希望となる最終結論です。
 答えはそれかもしれないと予感しつつ、「まさかなあ」と思ったかも。
 正直「ふざけんな」と言いたくなる結論ですね(^_^;)。

 詳細は当該号として今少しだけ一端を書いておきます。

 四タイプの性格を自ら変えることに失敗。周囲の人を変えようとすることにも失敗。結果絶望的になるくらいなら、「変えることはやめよう、放棄しよう」との結論なのです。

 そもそもなぜ変えたいと思うのか。それは欠点であり、短所であり、悪いところだから。
 それゆえ、自分を変えたい、変えようと思うし、身近の人に変わってほしいと思う。

 しかし、学校の勉強において有名な言葉があります。「苦手教科を克服しようとがんばるより、得意教科を伸ばした方がいい」と。
 つまり、欠点や短所を矯正しようと苦労するより、自分(と身近の人)の長所――良いところを伸ばそうということです。そのため「四タイプの長所」をたくさん書きました。

 ここで読者の声が聞こえます。「たくさんと言うほど多くなかったぞ」と。
 前著に続いて続編も四タイプの性格は周囲を不幸にする。だから「変えなさい、変わるべきだ」とさんざん書いてきた。
 それが最後に来て《変えなくていい》なんて「何それ?」の結論でしょう。
 ゆえに、どんでん返し、ちゃぶ台返しです。

 ただし、変える必要はないというのは「根本的に」と条件が付きます。
 根本的に変えるなんてあまりに難しい。不可能かもしれない。そのことを『なぜ変えられないのか』その1から5(27〜33号)まで、これまたさんざん書きました。だから、変えるなんて大それた望みは放棄しようではないか。

 だが、日々の生活で「(自分は)変わらなきゃ」と思ったり、「(身近の人に対して)変わってほしい」と感じることはしばしば。

 すなわち、人はついつい悪癖を出す。脅迫者は閻魔顔で暴力的威嚇的になり、批判者はしかめっ面でくどくど批判する。つい悪口が出る。傍観者は無関心無感動に傍観し、受容者は何でも受け入れて反抗することができない。

 それはいざというとき出る、ちょっとしたことで噴出する。脅迫者・批判者は待つことができず、直ちに「変われ」と言う。かたや傍観者・受容者はぼーっと眺めて待ち過ぎる。言うべきときに言わない。

 そして、四タイプ全てに共通しているのは人を誉めたりねぎらったりする愛エネルギーを与えることがへたくそであること。脅迫者・批判者はそれをお世辞と思っている。傍観者はぼーっと眺めて誉め損なう。受容者は(嫌われたくないから)いつも誉めまくる。受容者の誉め言葉はやがて空気になる。

 そのとき身近の人はそれを見過ごす。あるいは「この程度ならいいだろう」と忠告やアドバイスを控える。これこそ堤防におけるアリの一穴を意味します。

 大切なことは最初の段階で近くの人が「あなたは言い過ぎです、やり過ぎですよ」と忠告すること。自分に対しては「言い過ぎたかもしれない、やり過ぎたかもしれない」と反省すること。これが必要。人に対しては一発目から言う。誉めてほしければ「誉めてよ」とねだる。
 アリの一穴は気づきさえすれば、塞ぐことはたやすいのです。

 それができるためには「あれっ」とか「おやっ?」とつぶやいて「おかしいぞ」と思う必要がある。このまま見過ごしていると、「事態がもっとひどくなるかもしれない」と予想する必要がある。

 おわかりですね。この二つこそ一読法です。
 三読法はまず通読する。小学校から高校まで12年間三読法を学んだ人はこの《つぶやきと未来予想》ができない。途中で立ち止まらない、立ち止まって考える訓練を積んでいないから。

 事態をぼーっと眺めてある種の結論が出てから考え始める。するとコメンテーターや有識者は「検証だ、検証だ」と叫ぶ。つまり、堤防が決壊してからようやく考える悪癖がいつまで経っても続きます。

 かくして自動車メーカーの検査不正は34年間続き、派閥のウラ金も同じように続いた。「悪いと思ったけど言えなかった」社員や議員ばかりとなる。
 敢えて言います。諸悪の根源はまず通読の三読法にある。通読とは傍観の勧めであり、通読によって「おかしいと思ったけど言えない」日本人が累々と(?)生み出されているのです。
 [「累々と」読めない人は検索を。「ここで使ったのは皮肉だな」と思った人は意味と使われ方を知っている人です。]

 なので「どんでん返しの結論 その2」として「一読法の訓練を積め」を追加しました。

 以前も書いた通り、子どもの頃水泳を学んでいないと大人になっても泳げない。自転車が乗れないと大きくなっても乗れない。だから、子どもの頃訓練する。
 とは言え、泳げなくとも自転車に乗れなくても、大人になってからその訓練を始めたっていい。出産を控えた女性が水泳と自転車の練習を始めるなら、それは我が子のためでしょう。
 読者の99.9パーセントは学校時代一読法を学んでいません。今から始めれば良いのです。
 →『一読法を学べ』目 次

 以上が最終章となる内容です。

[一読法立ち止まり、その2。「あれっ、最終章の内容をなぜここで明かすんだ。いいのかな?」とつぶやきましたか。「作者なぜ?」の疑問です。]

 もう一つ1月にやったことで「最終章の前にまだ書いておくことがあった」と気づいた決定的な事情があります。
 執筆意欲喪失中に自作を読むだけでなく、もう一つやっていた――と言うか、注意深く見ていたものから気づかされました
 テレビです。ニュースや日々の話題、特集の中に「何か自分を奮い立たせてくれるような話題はないだろうか」と思いながら見るのです。

 これは別に私だけのことではなく、たとえば2011年東日本大震災後女子サッカーなでしこジャパンがワールドカップで世界一となりました。あれを見て多くの人が励まされ、元気を取り戻したと言います。その個人版を探そうってことです。

 このときたまたま見た朝のテレビで、ある話題にひょいと目が留まりました。
 ただし、私を元気にさせてくれる内容ではなく、「しまった。このテーマは別に語っておくべきだった」と感じさせるものでした。
 すでに最終章の目次まで公開したのに、まるで「まだ早い。もっと書き込め」と言われたような気がしました。

 それはNHK朝のニュースで「万葉集を現代語訳した本が売れている」との話題です。
 それもギャル語と奈良弁、さらにSNS風に超意訳されているとのこと。それが珍しくて面白いと、当初自費出版だった数百部が今や10万部を突破したというのです。

 これ当初は「ふーん」てなもんでした。古典作品を現代語訳する際、かなり極端な口語訳をして話題となることはこれまでもありました。最も有名なのは1987年『桃尻語訳 枕草子』(橋本治)でしょう。当時一世を風靡しました。

 余談ながら、私もあの頃「面白古文」と題した「詞華集」をつくろうと計画したことがあります(^_^;)。[「詞華集」意味不明の方は検索を]

 これは教科書に載っている上品な古文ではなく、下世話な通俗小説のような(でも面白い)古文を集めた本です。よって口語訳に特徴はなく普通の現代語訳。
 たとえば、「日本最初のセックス描写―古事記国産みの段」とか、「パロディーのものすごさ―仁勢(にせ)物語」、「変態医師が登場する―落窪(おちくぼ)物語」などなど。万葉集も山上憶良の「今も昔も生きるは辛い―貧窮問答歌」を取り上げました。
 古典の自主教材として授業でやったこともあります(今はもう無理でしょう)。書籍化の試みは全10作ほど集めて挫折しました(^.^)。

 それはさておき、くだんの「万葉集ギャル語訳」、正式な題名は『愛するよりも愛されたい』(佐々木良)です。解説に「万葉集を令和のギャル語と奈良弁で超口語訳した」とありました。

[一読法、その1の答え。冒頭徒然草の現代語訳が超大雑把だったことがここにつながります。つまり、あそこは伏線でした。]

 本の表題を知って「なにっ!」と叫んだものです(^_^;)。「愛するより愛されたい」なんて私が前著と続編でさんざん取り上げたテーマそのものではないですか。

 直ちにネット検索してこの本が2022年10月に出版されたこと、さらに本のタイトルが奈良県出身タレント、堂本剛さんが所属する「KinKi Kids」のヒット曲にちなんでいることを知ります。

「キンキキッズのヒット曲ってなんじゃ?」とさらに検索して1997年に「愛されるより愛したい」なる歌を出していたことがわかりました。
 がーん、てなもんです。全くの初耳でしたから(^.^)。

 私が2007年に出版した『狂短歌人生論』の巻頭には次の狂短歌を置いています。

 〇 本当は愛することより大切な 愛されてると感じられるか

 2000年の退職から数年、この下書きを書いていたころ、キンキキッズの「愛されるより愛したい」を一度も聞いたことがなかったとは……と恥ずかしくなりました。

 同時に、万葉集のギャル語訳の表題『愛するよりも愛されたい』を知った以上、「この件を書かないわけにはいかない」との考えに至りました。これは大いなる執筆意欲の再燃……を超えて燃え上がったと言うべきでしょう。

 言葉の流れを(時系列を無視して)並べると以下。

 キンキキッズ…「愛されるより愛したい」
 佐々木良氏……「愛するよりも愛されたい」
 御影祐前著……「愛されてると感じられるか」

 もちろんこの前に「愛することこそ大切だ」があります。最も有名なのは愛の宗教でもあるキリストの教え。
 私の狂短歌はそれに対するアンチテーゼでした。「愛することよりもっと大切なことがある。それは愛されていると感じられるかどうかだ」と。

 そして、私が『続編』で書いてきたのは幼子から始まる『愛の獲得競争』(08〜14)であり、恋愛や親となっても相手から10全て愛されたいと感じるのが人間であること(27〜33)。
 そもそも脅迫・批判・傍観・受容の四タイプとは「認められたい、誉められたい、愛されたい」気持ちから生み出された姿であることを『隠された原感情』(22〜25)や『変えられない理由』(27〜33)などで語ってきました。

 これらをまとめると、私たちはなかなか愛されていると感じられない
 だから、大切なことはどうやったら愛されていると感じるか
 この流れの最後には「ではどうするか」があります。

 かくして、どうしよう。まだ続編に入れておきたいことがあった。ここで入れるか、はたまた『続編拾遺集』を構想してそちらに移すか。
 そうなると『続々狂短歌人生論』になるかもなあ……などと考え、「ええい。最終章の前にも一つ入れちまえ(^_^;)」と決意しました。

 この心理の流れをもう少し解説します。
 実は昨年12月には「ではどうするか」は続編「後記」の中に入れる構想でした。それも結論部分だけを。具体的なお話はあまり書かない。
 も一つ「実は」前著と続編の下書きには「ではどうするか」は具体例を含めてかなりの分量があります。というのは下書き後半の大きなテーマだから。

 この具体例は私自身の過去を語ることでした。ある時期まで「自分は親から愛されていない」と感じていた。それがあることをきっかけに兄、母、父が私を心配し、愛してくれているとわかった。それが下書きには書いてあります。

 が、この部分の問題点は……長いことです(^_^;)。一編の私小説のように。
 そして、一部はすでに公開されています。『一読法を学べ』52号「小説『高専一年生の秋』」として。その後大学5年目のこと、神奈川の高校教員となった数年後の「事件」が(下書きには)書かれています。

 三つ目の「実は」昨年初め『続編』をメルマガ公開したときから、このことはずっと考えていました。
 そして、12月になって「続編は充分書いてきた。『ではどうするか』を入れ、自分の具体例を取り入れたらさらに長くなる。もう最終章を提示してこの件は短く済まそう」と決めました。

 ところが、1月になっての執筆意欲減退、回復の中「短く済ませるな。だが、お前の体験を具体例として書くのは控えろ」とのご宣託が下されたかのような事態発生。
 かくして先ほどの結語。「ええい。最終章の前にも一つ入れちまえ(^_^;)」と決意することになった次第です。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:またまた長くなって恐縮です。執筆ウラ事情であり、恥ずかしながらの言い訳でした。

 一読法の立ち止まり、1、2について振り返ります。
 その1は後段の伏線だと明かしました。万葉集ギャル語訳の『愛するよりも愛されたい』について触れる。ならば、冒頭に伏線入れておこうと。徒然草を「《超》口語訳」したとあるところがヒントです。

 その2[「あれっ、最終章の内容をなぜここで明かすんだ。いいのかな?」とつぶやきましたか。「作者なぜ?」の疑問です。]
 これは読者へのサービスです(^_^)。すでに最終章の表題を出してしまったし、「何が書かれるのだろう」と引っ張り過ぎるのも考えものだから。それに穴埋めクイズは次の週くらいには答えを明かすべきだと思っています。


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