カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 41号

一読法からの提言T

 11「観点別成績評価=絶対的相対評価が子どもを苦しめる」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第41号

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           原則隔週 配信 2020年5月29日(金)



 前号文科省と、ある企業人事課による「相対評価と絶対評価」についての解説、いかがでしたか。
「なるほど、だから絶対評価に変わったのか」と納得できましたか。
 思うに「うーん、読んでもよくわからなかった」との感想が漏れたかもしれません。特に文科省のアンサーは答えのようで答えになっていない。「煙に巻かれた」って感じでしょうか。

 今号では二つの解説をまとめつつ、足りない点を補い、前号前置きで書いたように、「ここ数十年の世界史的大転換から、なぜ相対評価は絶対評価に変わったのか」、私の見解を(後半として)披露する……つもりでした。
 ところが、またも長くなったので、全体を三つに分け、文科省と企業人事課の解説を、より深く、よりわかりやすく「解説」します。
 キモは二つの解説から相対評価、絶対評価だけでなく、もう一つ「第三の成績評価」を発見したことです。

 [以下今号
 「なぜ相対評価は絶対的観点別評価に変わったのか」
 [ 11 観点別成績評価=絶対的相対評価が子どもを苦しめる

 以下次号
 [12]「人は昔も今も目標(ノルマ)と他者との優劣によって評価される」
 以下次々号
 [13]「グローバル化と〇〇〇〇〇〇〇の進化が相対評価を終わらせた」


 本号の難読漢字
・煙(けむ)に巻く・育(はぐく)む・云々(うんぬん)・摩訶(まか)不思議・多寡(たか)・過重(かじゅう)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』41 一読法からの提言T

 11 なぜ相対評価は絶対的観点別評価に変わったのか

[11] 観点別成績評価=絶対的相対評価が子どもを苦しめる

 前号では「相対評価と絶対評価」について文科省と企業人事課の文章を参考資料として読んでもらいました。教育に関わっている教員、児童生徒、保護者にとって評価・評定は学校だけのことと思いがちです。が、会社員、公務員も働いている限り「勤務評定」という形でみな労働実績を評価されている。その優劣に応じて給料に差が付けられることもある。つまり、「成績評価」とは決して子どもたち、学校だけの問題ではない。それが改めてわかったのではないかと思います。

 まずは文科省の解説について。
 そもそも論からスタートすると、為政者である政治家・官僚、ブレーンの有識者たちは「今の日本の教育・学校・子どもたち」に何かしら問題があると感じている。議論はそこからスタートします。
 どのような点が問題なのか、現状認識を明らかにする。次いで原因・理由を探り、最後に解決法を見出し、法律化したり、現場に指示・命令を下す。そのような流れをたどります。

 最初の認識は「子どもたちの学力が低下している」との思いです。文科省は「学力面での課題」として4点列挙していました。
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1 暗記や計算は得意だが、判断力や表現力が身についていない
2 勉強は大切だと思っているが必ずしも好きだと思っていないなど、子どもの学習意欲が低い
3 学校の授業以外に勉強を全く又はほとんどしない子どもがかなりいるなど、子どもに学習習慣が身に付いていない
4 子どもたちの学びを支える自然体験、社会体験、生活体験が不足し、人やものとかかわる力が低下していることなどがわかっています。
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 この現状認識は教育関係者だけの感想ではありません。別のところに「大学や企業の人事担当者も、今の子どもについて論理的思考力や問題発見力、行動力・実行力などについて課題があると指摘(している)」と書かれています。これは子どもと言うより、若者への感想でしょう。

 何にせよ、これら現状認識をものすごく乱暴な言葉でまとめると、
「子どもが悪い、情けない。もっと勉強しろ!」となりましょうか。
 また、「学校の授業以外に勉強を……しない」のところからは、
「親が悪い、家庭が悪い。どうしてもっと家で勉強させないんだ!」と言っている感じです。

 さらに別の所では「各学校で創意工夫を生かした『わかる授業』を行い、子どもたちに思考力・判断力・表現力や学ぶ意欲などの『確かな学力』を育むことが必要」とあるので、
「学校は、教員は、創意工夫を生かした『わかる授業』を行っていない。学校が悪い、先生が悪い。お前ら何やってんだ!」との認識であることがわかります。

 要するに、「子どもが悪い、親が悪い、教員が悪い。教員を管理できない校長が悪い。校長を指導できない教育委員会が悪い」と言いたいようです。

 おっと、口がすべりました。最後の「教育委員会」云々はさすがに「質問・回答」コーナーに書かれていません。しかし、ある種の知事たちは「教育委員会・委員長はオレの言うことを聞け」と叫んでいるので、この認識であることは間違いないでしょう。
 ある種の政治家たちも「子どもも親も教員も、国民はオレの言うことを忠実に実行すれば、あらゆる問題は解決し、この国は良くなるのだ」と考えているようです。
 この根底には「お前たちは余計なことは考えなくていいんだ」があると思います。

 閑話休題。では、なぜこうした状況になったのか。
 文科省・専門家各位が槍玉にあげたのが「相対評価」です。子どもが悪い、親が悪い、教員が悪いとあからさまに言うわけにはいかないから、理由を考えた。で、思いついたのが「相対評価」である。だから、「悪しき相対評価を絶対評価に変える必要がある」との結論に至ったわけです。

 かくして、文科省が相対評価を絶対評価に変えた理由として取り上げたのが、(ア)から(オ)までの5点でした(前号参照)
 趣旨はまとめると「絶対評価が相対評価より優れている」に尽きます。

 なお、文科省は絶対評価を「目標に準拠した評価」、相対評価を「集団に準拠した評価」と呼んでいます。「準拠」とはよりどころとか基準という意味です。
 その文末を見ると、
 ア 目標に準拠した評価が適当である。
 イ 目標に準拠した評価が優れている。
 ウ 上級の学校段階の教育との円滑な接続に資する観点から、重要となっている。
 エ 目標に準拠した評価を常に行うことが重要となる。
 オ 集団に準拠した評価によるよりも、目標に準拠した評価の客観性を高める努力をし、それへの転換を図ることが必要となっている。

 このように、《絶対評価》が「適当である・優れている・重要である・必要である」と書かれています。
 この結語から相対評価を照射し直すと、相対評価は「適当ではない・優れていない・重要ではない・必要ではない」と読みとれます。だから「絶対評価に変えたのだ」と。

 おやおや、戦後五十年の長きに渡って行われた制度を、かくも簡単に全否定するとは。
 現場の先生方はずっと「相対評価をやめよう」と言い続けていました。ところが、政治家と官僚、有識者は聞く耳を持たず、決して変えようとしなかった。
 なのに、いざ変えるとなったら、かくまで極端な全否定です。相対評価制度を決めた彼らの先輩諸氏――政治家・官僚・有識者に対して、
「お前たちは一体何をやっていたんだ、その頭はお飾りか」とバカにしている……かのような文言ではありませんか。

 では、なぜこうまで激変したのか。その理由も(ア)から(オ)に書かれています。それを私なりにまとめると、以下のようになります。

 児童生徒が学習指導要領の内容を確実に身につけていない、教師は児童生徒が身につけていないことを的確に把握していない、身につけるようしっかり指導していない。つまり、悪いのは子どもであり、教師であると。
 そして、その元凶は「相対評価制度」にある。なぜなら(具体例を一つだけあげると)、跳び箱6段が学習指導要領の目的なら、6段を跳べないのに、評定(五段階の)「5」を付けるのはおかしい。それは相対評価だからだ――と言いたいようです。

 これは企業人事課の解説にあった「(目標が)未達成でも周りの結果がそれよりも悪ければ、相対的に評価が上がります」と同じ見解です。
 跳び箱6段を跳べることが全員の目標なのに、誰も6段を跳べない。しかし、相対評価だから、5段を(とてもきれいに跳べた)数人に「5」を付けている。「それはおかしいじゃないか」と言うのです。まことにもっともなご意見です。

 ただ、現場の見方はちょっと違います。先生方はむしろクラスの多くが跳び箱6段を跳べている。そちらを問題視したのです。
 クラスの半数が目標を達成している。それなのに、相対評価制度によって「5」の人数が決められ、「5をたくさんつけてはいけない」とされている。だから、相対評価制度は「愚劣だ、理不尽だ」と言い続けていた。児童生徒の努力を正当に評価するべきだ。それこそ「目標に準じた評価をする必要がある」と長年(!)主張していたのです。

 かくして2002年、文科省は「相対評価はダメだ。絶対に絶対評価がいい」と言って小中(高)を絶対評価に変えました。ようやく先生方の意見を採り入れて「目標に準拠した評価」に変えてくれたわけです。めでたし、めでたし……と言いたいところです。

 ところが、ここで摩訶不思議なことが起こります。絶対評価に変えたのだから「跳び箱6段を跳べること」が目的で、クラス・学年の全員が6段を跳べたら、この一事に関しては全員に評価「5」をつけていいことになります。
 逆にもしも誰一人跳び箱6段を跳べる者がいない場合は、「5」が一人もいないはずです。それが「目標に準拠する」絶対評価の厳密な適用でしょう。
 ところが、学校の現実は全員「5」とか、一人も「5」がいない――ようになっていません。

 そのわけが絶対評価と同時に導入された「観点別評価」です。
 この解説として「アンサー」は以下のように書いています(全文再掲載します)。
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Q 子どもの成績を「観点別学習状況の評価」と「評定」で評価していると聞きましたが、どのようなものなのでしょうか。
A これからの社会を生きる児童生徒にとって身に付ける必要がある学力は、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力です。このような学力がどの程度身に付いているかを的確に把握するため、学校においては、従来(筆者注、2002年度)から、「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」の4つの観点から見た学習状況の評価(観点別学習状況の評価)を基本としています。(観点の数は教科によって異なっているものもありますが、観点別学習状況の評価の考え方は各教科共通です。)

 「観点別学習状況の評価」は、各教科の学習状況を分析的に評価するものであり、学習指導要領に示す目標に照らして、その実現状況を観点ごとにA、B、Cの3段階で評価するものです。
 「評定」は、観点別学習状況を基本として、各教科の学習状況を総括的に評価するものであり、小学校(第3学年以上)では3、2、1の3段階、中学校では5、4、3、2、1の5段階で評価するものです。従来は、「集団に準拠した評価」によっていましたが、今回の指導要録の改善により、評定についても「目標に準拠した評価」を行うこととなったところです。
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 文科省は「これからの社会を生きる児童生徒にとって身に付ける必要がある学力は、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力」だと言います。
 だが、なぜその学力が必要なのか。「これからの社会を生きる」には「知識・技能」だけではダメなのか。その点については説明していません。

 別の「確かな学力」について解説したところでも、「これからの子どもたちには、基礎的・基本的な『知識や技能』はもちろんですが、これに加えて、『学ぶ意欲』や『思考力・判断力・表現力など』を含めた幅広い学力を育てることが必要です」とあり、そのために「論理的思考力や問題発見力、行動力・実行力〜学ぶ意欲や判断力、表現力(が必要だ)」と結論を言うばかりで――すなわち「必要である・重要である」と言うけれど――「これからの子どもたちになぜ必要なのか、なぜそれが重要なのか」説明してくれません
 一読法読者なら、必ず傍線を引いて余白に「なぜそう思うのか?」と疑問を記すところです。

 私はひねくれ者だから、次のような質問をしたくなります。
「これからの社会と書いていますが、相対評価だった時代に『学ぶ意欲』や『思考力・判断力・表現力は必要なかったのですか。その時代の人々は論理的思考力や問題発見力、行動力・実行力を持たなかったのですか」と。
 いやいや、そんなことはないでしょう。相対評価の時代(約50年間)であっても、そのような力を学んだし、実践してきたはずです。学校において、先生や友人たちとのディスカッションなどを通じて。

 ところが、文科省は「これからの時代に必要である」理由を説明しないまま、小中高において知識と技能の習得だけでなく「関心・意欲・態度」や「思考・判断」などを習得する必要がある。だから、相対評価を「絶対評価」に変えるだけでなく「観点別評価」も導入した――というのです。

 再度素朴な疑問を書いておきます。
どうしてこれからの社会を生きる力として知識・技能だけではダメなんですか。どうして『学ぶ意欲』や『思考力・判断力・表現力』が必要なんですか?」と。

 この答えがないから、文科省のアンサーを読んでも「なるほどよくわかった」とのつぶやきが出てこないのです。
 失礼ながら、「文科省の文章を読んで、よくわからないのは自分の頭が悪いからだろう」と思う人さえいるでしょう。そんなことはありません。
 文科省の文章は「結論だけ書かれて途中が省略されている」からわかりづらいのです。

 このことは2020年新型コロナ騒動の中でも起きていました。国民に「37.5度4日」とか、「8割外出自粛」など結論だけ「要請」して、なぜその結論が出たのか、途中経過が明かされません。まるで「下々の者は途中経過を言っても理解できん連中ばかりだ。お前たちは余計なことは考えず、オレ様の言うことに従っていればいいのだ」と言わんばかりでした。

 余談ながら、私(御影)は頭が悪いから、しばしば「あなたの言うことはよくわかりません。もっとわかるように説明してください」と言います。読者各位もわからないときには「わかりません」と正直に言った方が良いと思います。

 なんにせよ、相対評価を絶対評価に変えるだけでなく、そこに観点別評価が付け加えられた。私はこれを「絶対的観点別評価」と呼びました。

 そうなると、この絶対的観点別評価とは一体何なのか。その意味するところを明らかにしなければなりません。
 そこで、私はとある企業人事課の解説を採り上げることにしました(たまたまネットで見つけたものを引用しただけだろう、と思われたかもしれません。いえいえ、深く考えた上で最適なものを一つ掲載したのです)。
 それが相対評価と絶対評価の違いについて説明された「あしたのチーム」さんの文章です。これを読んだとき、「そうだったのか!」とひらめきました。

 この解説によると、絶対評価とは「設定された目標をどの程度達成できたか」であり、「目標をクリアすれば高評価がつき、未達成だと低評価」がつく。
 対して相対評価とは「他者との比較により評価する方法」であり、「集団の中で順位を決めることで優劣(をつける)」とあります。
 これは文科省の説明「絶対評価とは目標に準拠した評価であり、相対評価とは集団に準拠した評価である」との説明と同じです。

 ただ、文科省が絶対評価を絶賛し、相対評価を全否定したのと比べると、さすがに企業は冷静です。「どちらにも一長一短あります」と、さらりと言ってのけます。
 そして、「現在の経営環境をふまえると絶対評価を推す声が多い」とか、「人事においては、絶対評価を取り入れるべきだという考えが主流になってきています」とあるように、企業においてもかつては相対評価が中心だった、それが絶対評価に変わったことがわかります。

 ここんとこ、頭にしっかり入れておくべきです。学校が相対評価から絶対評価に変わったように、企業も同様の流れをたどったのです。一読法読者なら、ここも「なぜ?」と記すでしょう。
 念のため「なぜ?」の内容を書いておくと、企業が勤務評定を相対評価から絶対評価に変えたころと時期を合わせるかのように、学校も相対評価から絶対評価に変わった。これはたまたまなのか、それとも「何か深〜い理由があるのか」という疑問です。
 時期は1990年代半ばくらい。企業は絶対評価に変わり始め、学校でも相対評価から絶対評価に変えようという検討が始まったのです。

 そして、2002年小中の成績評価は相対評価から絶対評価に変わった。
 それだけでなく学校の場合は絶対評価に変わった際、(なぜか)観点別評価なるものがくっついてきた。対して企業の成績評価は「絶対評価」一本だったようです。

 企業では高評価か低評価、社員に順位をつけ、優劣をつける。それによって優秀な者は歩合給を得たり、給料が上がる。さらに、優秀な者は係長、課長、部長と役職が上がり、これによっても給料袋が分厚くなる(もちろん昔の話)。
 私は優劣だけでなく、「平均的、真ん中へんの成績の社員」を入れたいと思いました。何度も書いているように、集団を優劣によって三つ(ABC)に分ければ、度数分布はA、Cが少なくBが多い。54321の5段階なら、3が最も多い。

 この解説において注目すべきは、相対評価であろうが、絶対評価であろうが、《成績評価とは社員に優劣をつけること》とある点です。絶対評価では「高評価と低評価」、相対評価では「順位を決めることで優劣をつける」と書かれています。
 言い方を変えると、「社員に優劣をつけることが成績評価の目的」なのです。
 ただ、これは若干きつい表現なので、「社員の優劣を発見するための制度」と言った方が波風立たないかもしれません。

 学校でも児童生徒に成績をつけています。なぜ成績をつけるのか。この答えとして「子どもたちに優劣をつけるためである」と言われたら、相当の異和感を覚えるし、関係者の反発必至。穏やかな表現としては「子どもたちの現状を知らしめ、彼らの意欲や向上心を刺激するためである」といったところでしょう。
 文科省の回答でも、成績をつけるのは「学力がどの程度身に付いているかを的確に把握するため」とありました。それは児童生徒本人にとって、教える教員にとって大切なことであり、優劣をつけることが目的ではない――というわけです。

 しかし、結果的にクラスは優秀なグループ、中間グループ、劣ったグループに分かれます。ABCです。そして、友達関係もほぼこのグループ内でできあがります。同じ匂いをかぎ分けると言うか、話題や感性が似通っているから、友達になりやすいのです。

 ちなみに、子どもたちはなぜ部活動が好きなのか、わかりますか。部活動にはクラスの(成績による)身分差がない。つまり、平等だからです。
 あるクラスの優等生、別のクラスの普通生、さらに別のクラスの劣等生が部活動に集まる。ここでの友人関係は成績に関係ない。むしろ成績劣等生が部活では「優等生」として認知されたりしている。だから、部活が好きなのです。

 もちろん部活にも先輩後輩のカーストがある。ただ、こちらのカーストは学年進行によって上がいなくなります。
 たとえば、野球とか卓球、テニスなど新入生は球拾いからスタートする。球を打てるのはせいぜい上級生が休んでいるときくらい。しかし、数ヶ月我慢すれば3年生が引退してたくさんやれるようになる。さらに、1年経って2年の夏から秋に部活の最上級生となり、思うがままに活動できる……。

 クラスにはオオカミのように、一人か二人群れに属さない生徒もいます(この子は他のクラスに友達がいます)。遠足とか修学旅行などで「数人の班を作りなさい」と言うと、やはりABCの中で固まり、その中で二つに分かれたりします。
 この班分けは大概男女別々です。私は一度だけ男女混合の班分けをしたことがあります。それを提案すると、最初はいやがっていたけれど、修学旅行を終えてみると結構好評でした。それがきっかけだったかどうか、その後一組だけカップルとなり、卒業後何年か経って結婚しました。
 面白いのは男女混合にしたら、A−A、B−B、C−Cとならなかったことです。

 余談が過ぎました。学校の成績評価がホンネを隠しているように思われるのに対し、企業は正直で明快です。絶対であろうが、相対であろうが、勤務状態や仕事の成果に応じて成績をつける。それは社員を優秀、普通、劣等に分けるためであり、給料に差を付け、優秀な者を選び出し、長と名の付く役職に取り立てることである――と言わんばかりです。

 ここで先を読み進めることなく、立ち止まる余裕のある方は「なぜ企業・会社組織は社員に優劣をつけるのか」、そのわけを考えてみてください。
 現役・リタイアの方々、会社員の経験者ならもちろんおわかりですよね。

 それはさておき、相対評価・絶対評価について「あしたのチーム」さんの解説をさらに読み解きます。

 絶対評価は社員同士を比較することはない。「評価基準に従って一人一人を客観(絶対)的に評価するので、周囲の成績に左右されることがない」と言います。よって、こちらの方が優れているように思えます。

 一方、相対評価の方はかなり問題がある。「例え自分の目標を達成しても、他にそれを超える結果を出した社員がいれば」評価は下がり、「逆に、未達成でも周りの結果がそれよりも悪ければ」相対的に評価が上がる。
 もっとも、これを「問題」と見るかどうかはビミョーです。会社側に立つ上司か、あるいは部下の社員か。立場によって感想が変わるからです。

 会社にとって前者の状況に不満はない。目標達成者が多いのだから。予想外の結果に、嬉しい悲鳴をあげるかもしれません。
 しかし、後者は「未達成なのに高い評価をつけねばならない」点で大いに不満でしょう。ちょっと汚い言葉を使うと、上司は「なんで目標も達成していないやつらに高い評価をつけなきゃならないんだ。あいつらちゃんと働いていないじゃないか」と言いたくなるでしょう。

 逆に一社員にとって後者は「しめしめ」とほくそ笑むはずです。目標が達成できなかったのに、「意外と高評価じゃないか。これなら給料がアップするぞ。遊びに行けるぞ」と思えるからです。しかし、前者だと「これだけがんばって目標を達成したのに、なんで評価されないんだ。給料が上がらないんだ」と不満を抱え、居酒屋で「ふざけんじゃねえよ」とぼやきたくなるでしょう。

 相対評価のデメリットについて書かれたところに、「部下の給与を上げるために甘めの評価になる」とありました。
 そこを読んだとき「おやっ?」と思いましたか。「上司が部下の給料を上げるために甘めの評価をつけるわけないだろう」とつぶやかれたかもしれません。

 いえいえ、そんなことはありません。上司だって人間です。部下をしっかり見ている人なら、「今回彼は目標を達成できなかったが、働きぶりを見ると評価は高い。給料を上げる価値はある」と考える人だっているでしょう。
 目標を達成したA君と達成できなかったC君を比べたとき、熱意と努力はC君の方により多く見られた。絶対評価ではC君の給料は上がらない。だが、相対評価なら「C君の給与も上げましょう」と提言できるのです。
 これがさらに上の上司から見ると、「君の評価は甘い」と言われるわけです。

 では、絶対評価なら、上司にとって部下にとって不満となる問題は起きないのか。すなわち、会社側も社員もウインウインの関係で、「めでたしめでたし」となるのでしょうか。

 ここでまた二つ目の立ち止まりです。絶対評価とは一人一人が他の社員に関係なく目標を達成したかどうかが評価される。達成すれば高評価となり、達成できなければ低評価である。自分のせいだから社員に不満は生まれず、会社にとっても正当な評価を下しているとして「全く問題ない」――そう言えるでしょうか。
 さー現役・元の会社員の方々、自分を振り返ってください。「我が社は絶対評価だったから、私に不満などなく、会社の勤務評価に充分満足している(満足していた)」と笑顔で言えますか?

 これも私の考察は後述として話を元に戻します。
 あしたのチームさんの解説では具体例もとてもわかりやすかったと思います。
 言わく絶対評価を「スポーツに例えると、42.195キロを〇時間〇分以内に走ればオリンピック出場資格を与える」。対して「オリンピック資格は上位5人に与える」というのが相対評価であると。

 この例を読んだとき、「なるほど確かに」とつぶやきましたか。それで終わりですか。
 私はちょっと違います。マラソンや他の競技をいくつか思い浮かべ、「水泳はこれにあてはまらないのではないか」とつぶやいたのです。
 少々自慢げな言葉で恐縮ながら、私は論理的思考力を駆使して「第三の成績評価がある」ことに気づきました。

 たとえば、柔道とかレスリングなどは日本人同士で試合を行い、優勝した選手がオリンピックに出場する。水泳も昔はそうでした。
 ところが、近年の水泳選考は「日本選手の中でトップに立つ」だけではオリンピックに行けません。派遣標準記録というのがあって「それを超えていなければならない」と決められているからです。

 はて、この選考方法は相対評価なのか、絶対評価なのか
 相対評価なら、日本選手でトップになれば出場資格を得る。もしも二人まで出場可なら、2位の人も出られる。だが、ある基準を超えなければ、2位はおろか1位でも出場できないというのだから、相対評価ではない。
 それなら基準を超えたら何人でも出場できるかと言うと、一人とか二人に限られる。人数制限がある以上、単純な絶対評価でもない。

 おお、これこそ正に「絶対的相対評価」ではありませんか。「相対的絶対評価」と言ってもいいでしょう。両者が合体しているのです。ある基準(目標値)をクリアし、なおかつ日本選手の中でトップ(か2位)でなければなりません。
 要するに、成績評価は相対評価と絶対評価の二つだけではない。もう一つ「絶対的相対評価」もあるのです(この言葉、これまでに一度出ています。覚えていますか)。

 ここでしつこく三つ目の立ち止まりとなる「なぜ?」です。

 なぜ水泳はこのようなオリンピック選考方法を採用したのか。相対評価ではない。絶対評価でもない。絶対評価であり、相対評価でもある。この評価制度は「一体何なんだ?」と疑問が湧きます。「派遣人数が一人か二人に限られているからでしょ」と簡単に答えないでいただきたい。もっと深い意味があります。

 そして、どこに出ていたかと言うと、第35号「高校の成績評価は絶対的相対評価である」と解説したところです。
 思わぬところで、その復活です。「内容なんかもう忘れちゃったよ」と言う方はそちらをさらりと読み返してください。果たして水泳の例は高校の絶対的相対評価と同じなのかどうか。

 もったいぶらずに、三つ目の「なぜ?」について私の見解です。
 水泳の絶対的相対評価は高校の絶対的相対評価と本質は同じだけれど、似て非なるものです。高校の「絶対値」はとても低い。テストの平均が60なら、最低20は超えなさい。「超えないと単位を取得できず、やがて留年しますよ」という意味の絶対値=目標です。
 対して水泳の選考方法における絶対値はめちゃ高い。オリンピックで最低でも準決勝、決勝に進出できるレベルであることが求められている。テストで言うなら、90点以上を取れることが目標であり、最低レベルである。

 ここで思い出すのが「オリンピックは参加することに意義がある」の言葉です。いつからかこの言葉は死語になったようです。
 参加することに意義があるなら、日本人最高成績の人がオリンピックに出ればいい。つまり、相対評価でよく、記録の良し悪しは問わない。だが、派遣標準記録という絶対評価も求められるようになった。
 では、派遣標準記録とは何か。それはオリンピックで決勝に進出できる、メダル争いができるレベルの記録です。参加するだけじゃなく「ベスト8に入れ。メダルを獲れる実力を持て」というわけです。

 もちろんいまだ「参加する」に意義がある国もあるでしょう。だが、日本はもはや「参加するだけではダメ」という国になった。近年日本代表選手から「金メダルじゃなきゃ意味がない」とか「最低でもメダル」なる言葉がよく聞かれます。
 これはメダル争いできるだけの「猛烈な練習をした」との自信・自負を表す言葉であると同時に、本当に「参加するだけでは意味がない。メダルを獲らなきゃ」という気持ちの発露でもありましょう。

 この言葉を聞いて「痛々しい」と感じるのは、きっと私が年食ったからでしょうね。
 そして、「参加するだけでは意味がない」との思いは選手と関係組織が持っているだけではない。国民全体の感情でもあると思います。言わば「税金使ってオリンピックに出て予選敗退で帰ってくるようなら、オリンピックに行くな」とでもなりましょうか。

 このようにまとめてみると、2020東京オリンピックを目指したマラソン選考も「絶対的相対評価」であったことがおわかりいただけると思います。
 日本の出場人数は3人。その選考においていくつかのマラソン大会を走り、順位(1位や3位〜6位内)と設定タイムをクリアした選手が「MGC(最終選考レース)」に出場できる。最後にMGCで2位以内に入った選手がオリンピック出場資格を獲得する。もう一人は日本人最高タイム更新者かMGC3位の選手。
 すなわち、単純に日本人トップクラスであるだけでなく、設定タイムを超えなければならないという点で、マラソンも「絶対的相対評価」による選考になりました。

 残念ながら、あしたのチームさんはこの「絶対的相対評価」について説明していません。そこで私は「企業・会社組織における絶対的相対評価とはなんだろう」と考えました。

 思いつく答えはこうです。それは最低限到達すべき目標として一人一人に課される「ノルマ」ではないか。そして、ノルマだけでなく、そこに相対評価も加味されている。これが絶対的相対評価だと思います。

 たとえば、車の販売、保険業務の外交。営業活動によって「ひと月車を5台売ること」とか「生命保険契約をひと月10件達成しなさい」とノルマが決められている(とします)。絶対評価なら、この目標(ノルマ)を達成したら、「それで良し」であり、「よくやった」として達成者が評価・表彰されるでしょう。
 一方、相対評価の場合ノルマはありません。壁には最も売れた人から最低の人までずらりと貼り出され、最高売り上げの人が最高の評価を受ける。それが車10台、保険契約20件であろうが、4台、8件であろうが、とにかく最高売り上げの人が賞賛され表彰される。
 どんな業種でも売り上げは月によって多寡(たか)がある。自分の売り上げが伸びないとき、最高成績の人もあまり売れていないとわかると、ほっとする……これは人情です。そして、相対評価ならこれが許されます。

 では、絶対評価ならどうか。相対評価であってもノルマが決められている場合はどうか。ここからは車の販売に限って話を進めます。

 月に車5台を売るという目標が定められたとき、「それは簡単だ」と思うか、「とても難しい」と感じるか、人によって違うでしょう。
 実際営業に出たとき、今月は軽く達成できた。だが、翌月は1台しか売れなかった。平均すると、ひと月3台になる。そのときどう思うか。
 それに、車の車種や値段も関係してきます。軽とか売れ筋である100万〜200万円台の車か、500万超の国産高級車か。はたまた1台軽く1000万を超える外車か。かたや月1台がやっとだったり、月10台は最低レベルだろうと思われたりする。全員一律に目標を決めることなど可能なのか、と思います。

 ここんとこ「あしたのチーム」さんも次のように補足しています。
「目標設定は社員それぞれに対して行われなければなりません。所属する部門や職種、勤続年数やポジションによって求められる要素やレベルは異なります。技術部門1年目の社員と営業部門の10年目の社員では、越えるべきハードルが違うのは当然のこと」と。
 つまり、絶対評価と呼びつつ、社員一人一人によって違う目標が設定されなければならないと言うのです。

 同じ営業でも、新米と勤続10年のベテラン(中堅?)に違いがあるのは誰しも納得できるでしょう。しかし、優秀な者には高い目標、劣っている者には低い目標が設定されるとどうでしょう。
 劣等社員にとってはありがたいけれど、優秀社員は心穏やかでないと思います。「オレが車10台を売るのと、あいつが車5台を売ることが、どうして同じ評価なんだ?」と不満が漏れること間違いありません。

 絶対評価はどの程度の目標を設定するかによって実質と効果が大きく変わってきます。全員に同じ目標を設定することは無理があるけれど、一人一人目標を変えることも、決して満足感をもたらしません。

 もしも「車は月1台売ること」と低い目標を設定すれば全員が達成できる。では「月100台売ること」と高く設定すれば、社員から「到底無理だ」と暴動が起こるか、全員やめてしまって会社がつぶれる。それなら「この程度でどうだ」と「月10台」に決める。すると「そのくらいなら」と達成できたり、できなかったりする社員に分かれる……。

 絶対評価だから、達成できたら高評価、達成できなかったら低評価。低評価の社員は納得ずくだから、不満はない。未達成だと基本給だけで歩合はないけれど、それも仕方ない。一方、達成した社員はプラス?万円の歩合給をもらえるので満足。
 では、会社側(経営者や株主)は「私たちも満足している」と言うかどうか。

 いやいや、言ってくれないでしょう。会社にとっては達成できなかった連中をどうするかという問題と、達成した優秀社員も、ある問題が発生していることに気づくはずです。

 ここで絶対評価最大の弱点が明らかになります。それは優秀社員が目標を達成すると、もはやそれ以上をやろうとしないことです。
 月の販売目標10台を半月で達成したら、あとは遊んでいれば良いではありませんか。他の連中はまだ数台で四苦八苦している。壁に貼られた自分の販売実績はトップである。自分の目標は達成したし、社員全体のトップでもある。「もうこれ以上あくせく働く必要はない」と思いませんか。会社は自分に対して高評価を下してくれるのですから。

 目標さえ達成すれば、月の半分は遊んでいい。それこそ絶対評価の厳密な適用です。ところが、そんな働き方を会社が許すはずもありません。
 そこでどうするかと言うと、この社員には「あと半月でもう10台売って目標の倍を達成したら、大きな褒美を与える」と新たなニンジンをぶら下げてさらに働かせるわけです。
 この優秀社員は基本給や歩合給として返ってくるお金が増えると知れば、もっともっとがんばって営業活動に励みます。
 かくして、営業課の壁には月に20台売った最も優秀な販売員から15台、10台売った人とランクが付けられ(ここまでが「ノルマ達成者!」)、月に5台、1台しか売れなかった劣等社員の成績も貼り出されます。

 おやおや、これはもはや相対評価です。しかも、単純な相対評価ではない。「ノルマを達成せずんば、人にあらず」みたいな評価制度です。

 優秀社員はさらなるニンジンによってもっとがんばらせることができた。
 では、目標10台を達成できなかった劣等社員はどうするか
 こちらは未達成でも9台売った人、5台だった人、1台しか売れなかった人に分かれます。そこで、こちらも差を付ける。そもそも売り上げ9台と1台が同じ基本給であるのはおかしい。そこで、全員の基本給を4分の3に下げ、ノルマ未達成の場合は月の売り上げに応じて基本給を上げ下げする……。
 これは社員にとってかなり辛いことです。誰もそんな[劣悪]企業で働こうとは思いません。

 だから、会社側が「今後は基本給を4分の3にする」などと労働者側に提案するはずがない。最初から基本給を低めに設定しておけば済む話です。「我が社は同業他社と比べれば、基本給は低い。だが、能力主義だから、がんばった分だけ給料が上がる」と告知するわけです。
 そして、未達成であっても、1台売ったらいくら、2台、3台とやっぱり歩合給をつける。そして、目標の10台を達成したら、一気に歩合がはねあがる。がんばれば、がんばっただけ見返りがある……といった方法で社員の働く意欲をかき立てるのです。

 このように、最低目標が決められているという絶対評価、一人一人を比べて優秀な者、次位の者、平均値の者、劣っている者……と評価する相対評価。[ノルマ+相対評価]が企業や会社組織における「絶対的相対評価」ではないかと思います。

 高校における絶対的相対評価とは「成績の低い生徒を救うための制度」でした。しかし、企業の絶対的相対評価はこれとは真逆の成績評価だと思います。
 ノルマを達成できない社員は全員劣等生であり、それが続くようなら、「お前は無能力だから、会社をやめてくれ」と追い出すための制度である――と言ったらさすがに言い過ぎでしょう。
 良心的な会社なら、「君は営業には向いていないから、総務とか経理に替わりなさい」と言ってくれると思います。

 こうして社員に課されるノルマについて考えてみると、結局の所、ノルマとは「絶対評価における目標であった」ことがわかります。
 よって、車の販売を例として3種の成績評価をまとめると、以下のようになります。

1 相対評価……目標はないので、トップが20台の月があれば、10台の月もある。基本給は同じで、各自の売り上げ台数によって歩合給をもらう。
2 絶対評価……月10台の販売目標(ノルマ)が決められたとき、達成したらあとは遊んでもいい。未達成の者はがんばるが、基本給に関係なければ、できなかったとあきらめる。
3 絶対的相対評価……月10台の販売目標を達成しても、さらに懸命に働いてトップを目指す。かたや目標を達成できないと、低い基本給しかもらえないので、懸命に働かねばならない。ときには詐欺師のようなことをしてでも、ノルマを達成する……。

 3の絶対的相対評価制度が社員にいかにプレッシャーを与え、それが基本給にも及ぶとき、人はどう感じ、どうなるか。最近ある事例が教えてくれました。
 2019年に発覚した日本郵政グループ、かんぽ生命保険の不正販売問題です。郵便局員が保険業法に違反して顧客に虚偽の説明を行い、契約を結ばせました。ほとんど詐欺まがいであり、全国の被害は18万件と言われます。

 いまだ全容解明、原因の探求など定かではありません。しかし、保険勧誘に関して「厳しいノルマが課された」ことは間違いないようです。すなわち、絶対的相対評価制度が生みだした不正だと私は思います。

 長くなりました。本節はここまでとします。が、最後に学校の成績評価に戻らねばなりません。
 学校の成績評価は戦後50年に渡る相対評価から2002年絶対評価に変わりました。が、そのとき「観点別評価」も加えられました。これを1→2→3とすると、
 1 相対評価
 2 絶対評価
 3 絶対的観点別評価

 ――となりましょう。もちろん上記「企業の人事評価における3段階」を意識しています。私は「絶対的観点別評価」とは「絶対的相対評価」であると思っています。

 文科省は解説の中でこれからの子どもたちに必要な学力は「知識・技能のみならず、学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などを含む幅広い学力」であると述べています。
 相対評価の時代は「学習指導要領に記された知識と技能」を学べば良かった。評価は「集団に準拠する=相対評価」だった。
 ところが、2002年度以降知識と技能の評価は「目標に準拠して=絶対評価」に変わった。さらにそれは観点別評価4〜5ヶの1項目となった。つまり、知識と技能の習得は4分の1から5分の1の最低レベル=ノルマとなったことを表しています。

 では、追加された「学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力」はどうやって学ぶのか、そしてそれは絶対評価できるのか。
 一例として「意欲」だけ考えても、児童生徒がどう学ぶ意欲を示すか――それは一人一人違うでしょう。先生は「この生徒は学ぶ意欲を持っているかどうか」判定する際、他の生徒との比較において評価するはずです。花子さんは太郎君より学習意欲が高い。または、先生が思い描く(理想の?)生徒像を基準としてABCをつける。
 つまり、「学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力」とは相対評価にならざるを得ません。絶対的観点別評価とは3の「絶対的相対評価」なのです。

 そうなると、学校に「絶対評価」のみの時代はありません。2002年度に相対評価から一気に「絶対的観点別評価」に変わったのですから。

 みなさん方がわが子、わが孫を学校に送り出すということは、ハイレベルの絶対値をクリアし、なおかつ集団の中でトップか2位になるオリンピック代表選手となることを求めているようなものである、と私は思います。それは子どもにとって使役牛のように、過大過重なノルマを課されて生きることです。
 さて、こう断言したら言い過ぎでしょうか。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

追記 : 文中以下の部分を「ブラック」から「劣悪」に変えました。[2020年9月23日]

  誰もそんな[劣悪]企業で働こうとは思いません。

 最近「これもまた差別であり偏見である」ことの例として軽々にこの言葉を使っていたことを知りました。よって、劣悪なことに色をつけることはやめます。 (御影祐)

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「一読法を学べ」  第 42 へ (6月12日発行)

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