カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 56号 (最終回)

提言編U 新しい教育システムの構築

 10「せめて格差のない教育システムをつくろう」




|本  文 | 一読法を学べ トップ | HPトップ


(^o^)(-_-;)(^_-)(-_-;)(^_-)(~o~)(*_*)(^_^)(+_+)(>_<)(^o^)(ΘΘ)(^_^;)(^.^)(-_-)(^o^)(-_-;)(^_-)(^_-)

『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 56号

(^o^)(-_-;)(^_-)(-_-;)(^_-)(~o~)(*_*)(^_^)(+_+)(>_<)(^o^)(ΘΘ)(^_^;)(^.^)(-_-)(^o^)(-_-;)(^_-)(^_-)

           原則月1 配信 2021年12月14日(火)



 前号はちと感傷に走った嫌いがあります。が、社会の分断だ、格差の解消だなどと声高に叫びながら、十代に突き付けられる格差――高校・大学のランク付けを、この国の上位にいる方々は変えようとも思わない。そんな上級国民への怒り、憤りゆえだとご理解ください。

 今号は「日本的カースト」についてもっと詳しく論じます。カースト=身分制度とするなら、最も有名なのは江戸時代の「士農工商」とか、インドのカースト。現代日本には「そのような身分制度はもはや存在しない」、そう思っている人が多いことでしょう。
 しかし、社会がピラミッド体制を取る限り、カーストは厳然として存在するし、今後も存在し続ける。前号は「カーストの消滅目指して」と書いたけれど、なくすことなどできないと見切った方が良いかもしれません。

 そうなると、カーストの中でどう生きるか――それが問題となります。
 しかし、カーストの生き方とは社会に出た後の話であり、大人になったときの課題である。つまり、十代を過ごす学校に格差を持ち込む必要があるのだろうか。せめて学校くらいは格差のない時間を送れるよう、教育システムを構築すべきではないか。それが私の結論です。

 ここで突然ですが、本号をもって「新しい教育システムの構築」を終了とし、同時に本稿『一読法を学べ』も結びにしたいと思います。
 まだまだ書きたいことは多々あれど、腹八分目で終えておこうかと(^_^;)。
「おいおい、これで腹八分目だったのかよ」とのツッコミは甘んじて受けます。
次号「(ちょっと長い)後書き」をもって擱筆といたします。

 そんなわけで、前号において「次号は『日本的カーストの消滅目指して(続き)』」と予告していましたが、表題を改め「10『せめて格差のない教育システムをつくろう』」に変更いたします。

 [前 号]
 「新しい教育システムの構築」
 9 日本的カーストの消滅目指して

 [今 号
 「新しい教育システムの構築」
 10 せめて格差のない教育システムをつくろう」
1 ]ピラミッドとカースト
2 ]命令と服従のピラミッド
3 ]世の中が安定するとカーストができる?
4 ]表と裏のある日本人を生みだす日本の学校教育
5 ]せめてカーストのない教育システムをつくろう
6 ]うそつき人間になることを要求される観点別成績評価
7 ]ピラミッドから長方形の教育システム構築を


 本号の難読漢字

・擱筆(かくひつ)・蔭位(おんい)の制・正一位(しょういちい)・少初位下(しょうそいげ)・従五位下(じょごいげ)・蝮(まむし)・唯々諾々(いいだくだく)・閑職(かんしょく)・魏(ぎ)の曹操(そうそう)・泣いて馬謖(ばしょく)を斬る・蔑(さげす)む
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』提言編U 56(最終回)

 新しい教育システムの構築 10

 せめて格差のない教育システムをつくろう

 [1] ピラミッドとカースト

 ピラミッドとくればエジプト王家のお墓であり、カーストならインドの身分制度が有名です。身分制度を日本で探せば、すぐに思いつくのは江戸時代の「士農工商」でしょう。
 しかし、カーストを、自分が国家や集団のどこに位置するか、そしてその階層が固定的であってなかなか変えられない、との意味に拡大すれば、カーストは古代から現代まで途切れることなく存在したし、今も存在している――と私は思います。

 日本史で振り返ると、古代奈良から平安時代には「蔭位の制」というのがありました。貴族は天皇を頂点として正一位から少初位下の30階に分かれており、朝廷の役人になるには一番下からスタートして一つずつ位階を上がっていかねばならない(厳密には「貴族」とは天皇にお目通りがかなう五位以上の位)。

 ところが、父や祖父が上級者だと昇進が早く、場合によっては突然従六位などに叙されたりする。「父祖のお蔭で官位が上がる」というので「蔭位の制」と呼ばれます。
 これを簡単に言うと、どんなぼんくらでも親父が偉ければ、子どもの身分も高くなる。逆にどんなに能力があっても父祖の官位が低ければ、昇進はほぼ絶望的ということです。

 それだけでなく、貴族最低の位である従五位下になるのは都に住む貴族の家柄にほぼ限られていた。都の庶民、地方出身者はどんなに能力があって(昇進を続けて)も、最高「外(げ)従五位下」まで。
 この「外」がつくと同じ従五位下であっても、天皇にお目通りはかないません。奈良・平安の貴族は明瞭な格差社会でした。

 では、貴族以外の一般庶民はどうか。実態はよくわかりませんが、制度としての身分差はなかったようです。しかし、田舎でも郡司というのがあってだいたい郡司の子が郡司になる。それも長男。

 日本は大昔から家の跡継ぎは「長子」であるとの慣例が――戦前まで延々と続きました。次男、三男はその下であり、婦女子はさらに下。これはある意味日本人の体に染みついた、カースト感(?)だと思います。

 だから、今でも議員さんや自治体首長の子や孫がそのまま二世、三世の議員や市町村長になる(ことが多い)。選挙民もなんとなくそちらに投票したくなる……といった現象として現れるのでしょう。

 その後平安時代末期になって武士が登場し、やがて貴族に替わって武士が権力を握る。ここでも武士と貴族は原則交わらないし、武士も上中下に分かれていた。当然その時代も一般庶民はその下であったと思われます。

 戦国時代の一時期、水飲み百姓のせがれであった秀吉が天下人に上り詰めるなど、下剋上の時代もありました。美濃の蝮と呼ばれた斎藤道三は油商人だったし、三杯の茶で有名な石田三成は小坊主でした(ただし二人とも出自は武士)。

 余談ながら、信長、秀吉、家康など戦国時代は映画やドラマとして何度も繰り返され、私たちも飽きることなくそれを見ます。あらすじはほぼ知っているのに、面白くてつい見てしまう。
 そのわけはおそらく日本の歴史の中で唯一(と言っていいほど)「格差が引っくり返された時代」だからでしょう。もしも武家の格差が固定的だったら――信長が格差肯定人間だったら、秀吉は草履取りか馬の世話役として終わったと思います。

 秀吉に仕えた黒田官兵衛など有名武将の家臣に当たる人たちも、魅力的な人材としてスピンオフドラマの主役になる。武将と関わった商人でさえ、千利休のように、また一編の主役として描かれる。それもこれも「能力のある人間がどんどん登用された」時代だからではないかと思います。
 明治維新が魅力的なのも始まりは下級武士による反抗であり、やがて上級武士(権力)を転覆する物語だからではないか、と私は推理しています。

 しかし、戦国の世が終わり、家康の江戸時代に入ると、士農工商によって武士の子は武士、百姓の子は百姓、職人の子は職人、商人の子は商人……と身分を越えての生き方が許されなくなる。この身分制度は二百六十年続きました。
 士農工商の実態が「士商工農」であり、その下に「穢多・非人」と呼ばれる賤民階級があったことはご存じのとおりです。

 そして、明治時代以降、士農工商は解体され、身分制度はなくなった――と思われています。
 ところがどっこい、明治時代も安定期に入ると、格差は復活する。明治・大正・昭和(戦前)まで、かなり旧士族・華族、富農、豪商をトップとする身分が残っていた。
 農工商の人々は「平民」になったけれど、賤民階級だけは「部落」と呼ばれて残り続け、島崎藤村の『破戒』に「部落出身であることを絶対に打ち明けてはいけない」差別として描かれました。そして、各身分はその中でまた上流、中流、下流に分かれて階層がある。私はこの全体像こそ「ピラミッド」だと思います。

 国民を5ランクに分ける場合、山形の正規分布曲線なら3が最も多く、4と2がそれより少なく、5と1が最も少ない。しかし、現実のカーストはエジプトのピラミッドのように、一握りの最上層、その下のやや上流、中流と下って一番下の人数が最も多い。

 さて、カーストについて常識的なことを長々と書きました。ピラミッドとカースト、日本の身分制度について頭に留めてほしかったからです。

 ここからが本題です。私は思うのですが――ひがみだ、邪推だと言われようと――日本の教育制度はこの「ピラミッドの構成員を養成するためにある」と考えています。
 公には「人は平等だ」とか、「かけがえのない個人を大切に」とか、「ひとりひとりの能力を引き出す」などと言われている。

 だが、ホンネの部分は「各人を能力・境遇に分け、カーストのどこに位置するかを思い知らせるために学校があり、成績評価システムをつくっている」と思うのです。


 [2] 命令と服従のピラミッド

 ピラミッドは上に立つ者にとって集団を統率するにはとても有効な形態です。構成員を小さなピラミッドに分け、それを集めて大ピラミッドをつくる。最高権力者は小ピラミッドのトップに指示・命令を下せばいい。
 ゆえに、ピラミッドはいつでも固定的であり、反抗・反乱は許されない。このピラミッドの基本こそ「命令と服従」です。

 上位者が命令して下位の者が服従する――それを最も厳密に求めているのが警察と軍隊でしょう。
 今年(2021年)ミャンマーでクーデターが発生しました。
 あのときみなさんはどう思われたでしょうか。「そういう国なんだ。民主主義が浸透していない発展途上国であり、下級国家だ」などと思われたかどうか。
 同時に「日本ではクーデターは起こらない」と思ったかもしれません。

 しかし、日本でも自衛隊がクーデターを起こそうと思えば、(秘密にして漏らすことさえなければ)簡単に成功すると思います。

 仮に軍隊上層部が「クーデターをやるぞ」という命令を発しても、下士官や兵士が「それは良くないことだから、私は命令に従いません」と言えば、クーデターは起こりません。クーデターに反対する国民に銃を向けることもないでしょう。

 だが、軍隊において《上の命令は絶対》です。逆らうことなど考えられない。彼らは上司の命令に逆らわない訓練を日々受けている。そこに個人の考えや判断を入れることはなく、決定するのは「命令を下す上の人間」である。
 日本の自衛隊も命令と服従の訓練を積み重ねています。だから、日本でもクーデターを起こすことはたやすい(と私は思います)。

 また、テレビの警察系ドラマではよく上司の「命令だ」の一言が出てきます。すると、それに従う刑事と、逆らって勝手な行動を取り、やがて事件を解決する正義と異端の個性的刑事の活躍が描かれることが多い(と言うより、これでないとドラマにならない)。『相棒』の杉下右京など典型例でしょう。
 だから、現実の警察においても、命令に従わないで捜査する刑事が多いのではないか、と思われるかもしれません。

 私の推理ですが、たぶん昨今の警察組織において命令に従わない刑事は10人に1人もいないのではないか。特に家族がいれば「命令だ」の言葉に、唯々諾々と(内心不満たらたらでも)従っているはずです。

 なぜなら、命令に反抗することは「言うことを聞けないならやめてくれ」が(隠された)脅し文句です。今後昇進・昇給も望めないし、意図しない閑職に追いやられる可能性だってある。
 組織内で生きる個人はつくづく考えます。「この集団から去って生きていけるだろうか」と。そう思えば、命令に従った方がいい。家族がいれば、路頭に迷うではないか。
 杉下右京さんが独身なのはたまたまではないと思います。彼に妻子がいたら、自由にふるまうのはかなり難しいはずです。

 このようなときに「だったら、やめてやる!」と辞表をたたきつけることができるのは、自分の能力に自信があり、他でも生きていけると思っているか、よっぽどの怒りや憤りが生まれたときでしょう。
 そして、このようにして組織を離れる人が増えれば増えるほど、もはや組織の中は上司の命令を聞く人ばかりとなります。これをもってピラミッドの完成と言っていいかもしれません。

 警察・軍隊、行政・教育機関――すなわち「公務員」の組織にとって最も大切なことは《命令と服従》である。命令を受ける者に個人の考えや判断は求められない。「そんなことはお前が考える必要はない。考えて命令を下すのは私で、お前はそれに従って行動すればいいのだ」というわけです。

 ――とこのように書いたところで、将来公務員を目指す少年少女のために、付け加えねばならないことがあります。
 犯罪をなくす正義感に燃えて警察官を目指す、災害時救助に乗り出し、外国に攻撃されたら国を守る自衛隊員を目指す、民間を下支えするための行政職や、子どもたちを教え導く教育職等々……。

 公的活動に従事するこれらの人々は米や野菜をつくり、魚貝類を獲ったり、家畜を育てたり、日常用品、機械などをつくる生産活動に従事するわけではありません。だが、世の中になくてはならない、必要な職業であることは明らかです。

 そして、確かに職場は命令と服従の組織ではあるけれど、程度問題ということもあります。「そこまでは命令を受け入れるが、不正や憲法違反・法律に反する命令は受け入れられない」と言えるし、上司が《まともな人間》なら、そのような命令を下さないでしょう。
 さらに言うと、上司がおかしな指示、違法な命令を下さないよう、下の人間が常に監視する意識を持てるかどうか――それもまた重要なことです。

 ここで賢明なる読者はいつものように、私が《一読法の大切さ》を主張しようとしているな、と気づかれたはずです。

 上司の命令や指示の言葉に対して「あれっ、おかしいな」と思うこと。そこで立ち止まって「こんなことを言われたが、何かおかしくないか」と考えること。判断しづらければ誰かに相談すること――これこそ一読法なのです。


 [3] 世の中が安定するとカーストができる?

 先ほど戦国時代、明治維新が魅力的なのは「日本の歴史の中でカーストが引っくり返された時代だからではないか」と書きました。

 ところが、世の中が安定する江戸時代、明治中期以降になると、カーストは復活します。むしろ支配層はカーストを設けて下剋上を許さないようにも思えます。
 妙な表現ながら、安定したからカーストが生まれるのか、カーストのおかげで社会は安定するのか。もしかしたらカーストがなければ社会は安定しないのかもしれません。
 なんにせよ、世の中が平和で安定していることとカーストは切り離せない――そんな気がします。

 抽象論になったので、具体的に述べましょう。会社や組織が下剋上を許すようなシステムを取るとはどういうことか。
 それは下の者が言いたい放題、やりたい放題に活動できる会社・組織であるということです。簡単に言うと警察組織が杉下右京ばかりとなります。これはこれでちょっと「うーん」とうなってしまいます。

 個人としては確かに自由に、思うがままに発言したり行動したい。しかし、組織全体で見ると、一つにまとまることで力を発揮する。「ワンチーム」は何もスポーツだけの話ではありません。人間はひとりひとりが勝手な行動を取るより、集団でまとまった方がより力を発揮できる

 一人では到底マンモスを倒せません。しかし、数十人が集まればマンモス一頭を食料にできる。これは太古の狩猟採集時代から今に至る大原則です。人間集団はまとまらないと力を発揮できない。だから、「命令だ」の一言で、勝手な行動を抑制して組織全体で同一行動を取ろうとする。

 軍隊や警察で命令と服従が最優先されるのは、「突撃!」と命令されたとき、個人の判断で「私は突撃しません」と言われたら、部隊が全滅するからです。だから、上司の命令には絶対服従が要求される。ゆえに軍隊はいつでもクーデターを起こせるというわけです。

 余談ながら、軍隊にクーデターを起こさせない方法ってあるのだろうか、と考えたことがあります。日本では「シビリアンコントロール」などと呼んで憲法がそんなことを許していないというけれど、軍隊にとって憲法なんぞへでもない(でしょう)。武器を持つ自分たちが「この国で一番強い。いつでも支配できる」と思っているはずです。

 かつての武士は軍人であり、その集団は軍隊です。平安時代末期、支配層が貴族から武士に替わったのはある種クーデターなのです。そして、江戸時代とは軍事政権であった。武士が刀をちらつかせたら、丸腰の庶民はひれ伏すしかありません。
 ということは明治維新とは政権が上級武士から下級武士に移ったのであり、外国の支援による武力によって政権を奪取したクーデターとまとめることができます。

 さらに、ということは明治、大正、昭和前期は軍人による軍事政権であったと言うべきでしょう。途中憲法なんかができたし、教育も広く平民に施された。しかし、学校とは兵隊を育成するのが最大目標でした。
 憲法をつくった伊藤博文の父は下級武士であり、平民宰相と呼ばれた原敬も武家の出でした。彼らは平民がピラミッドの上部に行くような普通選挙を決して取り入れようとはしなかった。軍事政権ならでは、ですね。

 しかも、戦前のピラミッドは日本を宗教国家にすることによって完成した。
 もちろん天皇を唯一神とする宗教国家です。兵士(や多くの国民)が「国のためなら死んでも構わない」と心から思うのは、近年自爆テロをいとわない某宗教信者と全く同じ心理です。
 ……と書けば、「乱暴な意見だ」とおっしゃるかどうか。でも、たまにはこういう視点も必要ではないでしょうか。

 閑話休題。余談の本線に戻って、軍隊の長が決して逆らわない、クーデターを起こさない方法を最近見つけました。
 中国発のテレビドラマ『三国志』と『水滸伝』を見て「これだったのか」とわかりました。

 ドラマの中には一国の国王と軍人の長である将軍が登場します。
 ある戦において出陣した将軍が敵に負ける。生き延びて宮殿に戻り、王に敗戦を報告すると、王は言います。「こんな惨敗を喫するとは許せない。誰かこの男を斬ってしまえ」と。
 歴戦の勇者でこれまで負けたことのない将軍が初めて負けたときでさえ、「斬ってしまえ」と命令する。ドラマのことながら、ちょっと驚きます。

 しかし、負けた将軍が斬首されることはまずない。側近や他の将軍が「これで斬首とはひどすぎます。ここは許して名誉挽回の機会を与えてください」と言上するからです。「それでも許せない」など、なおちょっとしたやり取りの後、敗戦の将軍は許される、という経過をたどります。将軍は「次回は必ず勝ちます」と王への忠誠と活躍を誓うのです。

 なるほどなあと思いました。失敗したり、この王に逆らったら殺されると思えば、軍部のクーデターは起こらないでしょう。
 しかし、「斬るぞ、斬るぞ」と口先ばかりでは、軍人も王を甘く見るようになる。だから、魏の曹操など平気で斬首するし、蜀の諸葛亮孔明には「泣いて馬謖を斬る」の逸話が生まれます。
 トランプのポーカーでもブラフばかりだと相手は下りてくれません。時に高い手を見せておく必要があるのと似ています。


 [4] 表と裏のある日本人を生みだす日本の学校教育

 最後だから――と言うわけではありませんが、余談ばかりですみません。

 ここで突然ですが一読法の復習を兼ね、立ち止まって本稿の後半を予想してみてください。どういう展開を予想できるでしょうか。
「そんなのわかんないよ。脇道ばかりに逸れているじゃないか」と言われそうですが、語っていることの本筋と脇道や具体例の意味するところを押さえていれば、そして前置きや表題をしっかり読んでいれば、予想できるはずです。

 これまで語って来たのはカーストやピラミッドの基本が命令と服従であること、動乱の世とはカーストが引っくり返されることであり、安定期に入ると再びカースト社会になると語ってきました。

 そこで思い起こしてほしいのは前置きの次の言葉です。
------------------------------------------
 社会がピラミッド体制を取る限り、カーストは厳然として存在するし、今後も存在し続ける。前号は「カーストの消滅目指して」と書いたけれど、なくすことなどできないと見切った方が良いかもしれません。

 そうなると、カーストの中でどう生きるか――それが問題となります。
 しかし、カーストの生き方とは社会に出た後の話であり、大人になったときの課題である。つまり、十代を過ごす学校に格差を持ち込む必要があるのだろうか。せめて学校くらいは格差のない時間を送れるよう、教育システムを構築すべきではないか。それが私の結論です。
------------------------------------------
 これまでは前置きの前段について語ってきました。すると、これからは「後段について語られるはず」と予想できるのです。次節の表題は「せめてカーストのない教育システムをつくろう」となっています。

 前置きや最初に列挙してある小見出しをぼーっと読んでいると、この《途中のまとめと予想》ができません。

 小説はほぼ見出しがないけれど、論文にはだいたい目次と見出しがあります。
 長い論文に目次を付けるわけは小説みたいに面白くできないので、途中で捨てられる恐れがある。だから、見出しをつけ、それをまず読んで「面白そうだ」とか、「なんだこれは?」と感じてもらいたいからです。論文やエッセーの見出しとは最初の立ち止まり地点です。

 読者各位は通読→精読の三読法を12年間学んできました。それは文章を最低限二度読む読書法です。しかし、学校を離れると、もはや文章を二度読むことはありません。ゆえに、文章を一度だけ、さーっと、ぼーっと通読する癖が身にこびりついています。途中で立ち止まることもしない。

 おそらく死ぬまで文章はぼーっと読み、人の話はぼーっと聞き続けるだろうなあ……と予想します(さすがにこれは言い過ぎながら、「一読法を学べ」という最後の脅し文句です(^_^;)。

 さて、教育、学校について考えるとき、ちょっと大げさながら私たちはこの国の支配者・リーダーになったつもりで考える必要があると思います。

 もちろん私たちが一国の支配者になることはほぼほぼないと思います。だが、大人となって異性と結ばれ子どもを得て育てることならかなりある。
 そのときどのように育てるか、否応なく考えねばなりません。放任するか、甘やかすか、命令や叱責によって言うことを聞かせるか。

 生徒に「どうするかい?」と聞くと、「子どもが生まれてから考える」と答える生徒が多い。私は「それでは遅い。たぶんばたばたしてパニックになるよ」と言ったものです。
 前もって考え、夫婦で話し合っていないと、だいたい自分の親と同じ育て方をします。親に殴られて育った人は子どもを殴って育てようとする。命令と叱責で良い人間になったと思う人は我が子に同じことをする……。

 もしも「生まれてから考える」なら、結婚しても生まれなかったり、生涯独身だと、何も考えることなく年を取り、一生を終えるかもしれません。
 だが、私たちは生涯独身であったとしても、近くや遠くの子どもたちにどう育ってほしいか考える必要がある。家庭だけでなく、この国の支配者になって教育システムをつくるつもりで、ひとりひとり教育について「考えましょう」と(私は)言いたいのです。

 なぜ自分の子だけでなく、遠くや近くの子どもたちがどう育ってほしいか考える必要があるのか。

 そのわけは日本の学校教育を受けた子どもが大人になって突然刃物を振り回し、可愛い子や孫に襲い掛かる。路上や電車内で無差別に人を殺傷しようとする。詐欺の下請けとなって老人の虎の子を奪い取る。
 これらの犯罪は学校を離れた大人だけでなく、現役の中学生や高校生も起こします。突然の理不尽な犯罪がいつ自分にやって来るか、予想もつきません。

 あるいは、優秀な成績をおさめ、上位ランクの大学を卒業して会社で高位カーストに属する経営者となる。最も優秀な人(のはず)が手抜き工事や検査不正を指示する。命令は中間からピラミッドの末端まで行きわたり、誰も「やめましょう」と言わない。
 中位カーストに属する会計担当者は横領・着服に精出して逮捕される。議員は当選するためには「金をばらまく」のが手っ取り早い方法だと考えて実行する。人のために口利きするんだから、ひそかに報酬をもらいたいと考える。

 それらは全て小中高、大学教育のなれの果ての姿である。決して精神的に異常な人間の、異常な行為ではない。表は立派な経営者、立派な議員であり、見かけは普通の人であって「そんなことを犯すとは思えない」と言われる。
 表と裏の違いは多くの日本人に共通の特質となりつつあります。

 そのような日本人を生み出したのは一体誰か。日本の学校教育である――そう認識すべきではないでしょうか。
 だからこそ教育のことを国会議員や官僚、大学教授など上級国民に任せず、我々一人一人が考えねばならない。犯罪の犠牲になるのはいつだって下級国民です。戦争で最前線に行かされるのも下級国民の若者です。


 [5] せめてカーストのない教育システムをつくろう

 さて、社会の安定のためにカーストやピラミッドが不可欠なら、子どもたちの教育方針は次の二つのいずれかになると思います。

A カーストの社会に早く適応できるよう、学校の中にカーストを取り入れる。

B いずれカーストに入るのだから、せめて学校にいるときくらいはカーストと無縁の教育システムにする。

 もちろん今の日本(や世界)はAです。過去の歴史を眺めても、学校が制度化された以降でBだったことはないと思います(あればどなたか教えてください)。

 教育にカーストを取り入れるAとは「成績を付けて子どもたちをランク付けする、優秀な子を集め、試験を課して上級学校に進学させる。高校・大学はランクを付け、カーストの中で生きるしかないと思い知らせる」という今の日本の学校が最たる例です。

 ――と書けば、「いやいや、高校・大学のランクは自然にできている」と反論される方が多いでしょう。
 私は逆です。「自然現象ではない。そうなるように制度化している」と見ています。

 では、カーストと無縁なBは「かつてなかったか、もはやないか」と問うてみれば、一部なら「ある」ことに気が付きます。
 カーストと無縁だったのは幼児時代であり、小学校の一時期であり、中高の部活動です。

 かつての幼稚園や今の保育所、幼保一体の子ども園。活動のほとんどは「遊び」でした。一日中遊んでいるようなものです。もしもみなさんに幼時の記憶が残っているなら、楽しかったはずです。
 そして、幼児時代の活動に成績がつけられることはなかった。だいたい同じ服を着ているので、誰が金持ちの子で、誰が貧乏人の子かもわからなかった。
 幼児は目の前の子の境遇なんぞどうでもいい。ただ、一緒に遊べるかどうかであり、親の境遇に関係なく仲良くできた(ただし、都市では親の階層に合わせた幼稚園が存在するようです)。

 そして、小学校も(成績はつけられたけれど)かなり幼児時代に近かった。遊びに関してランクはなく、親の境遇とも無縁で遊んだ。
 私なんぞ小学校時代とても楽しかった一人です。自宅が小学校から徒歩1分の所にあったので、下校したらランドセルを放り投げて学校に戻り、日が暮れるまで遊びまくった。同級生はもちろん上や下の子とも遊んだものです。

 中学・高校の部活動もまた体験したほとんどの生徒が「楽しかった」と言います。「学校に来るのは部活があるから」と言う生徒も多かった。
 3年が神で1年は奴隷なんてこともあってそこはカーストではある。しかし、いばりくさった神はすぐいなくなり、やがて自分にも神が回ってくる。文化部などは結構上下のない部活が多かったようです。運動系部活動では下剋上も平気で起こる。力さえあれば下級生がレギュラーとなります。

 この幼児時代の教育、中高の部活動が楽しいのは成績と無縁だからです。ただ「遊びなさい、好きなことをやりなさい」であり、遊びに上達しようが、下手なままであろうが、成績をつけられることはない。
 私は思います。なぜそれを小・中・高校の全教科でやらないのだろうかと。

 この主張に対する反論は直ちに出ると思います。「成績を付けることは別にカーストではない」とか、「学校教育で社会に適応できる人間を育てるのは当然じゃないか」と。

 前者に関してはクラス内の生徒がグループに分かれる、その多くは成績優秀者群、平均群、下位群の集まりとなる。すなわちカーストが発生する、と言えば充分でしょうか。

 類は友を呼ぶではないけれど、生徒は目の前の人間が「優秀か平均か平均以下か」を見事に嗅ぎ分けてグループをつくります。そして、グループ内にも序列がある。グループはだいたい4、5人で、リーダー(ボス)、幹部一人か二人、残りが平。すなわち小さなピラミッド。ボスが一人で残り全て平というグループもある。独裁国家の極小版ですね。

 もちろん成績優秀なグループに平均以下の子が入ることはある。しかし、その中では序列最下位であり、場合によっては奴隷生活かもしれない。
 また、平均以下のグループは男の場合ケンカの強い、荒っぽい連中が集まることが多い。そこにひ弱な男の子が入ると、彼は間違いなく序列最下位であり、だいたい使い走りになる。
 そして、悲惨なことはグループを離れて生きていけないことです。外から見るといじめられているように見えても、グループを離れようとはしません。

 だが、部活動はそうならない。成績優秀者も平均者も平均以下も集まって楽しく部活動をやる。
 もちろん部活動だって序列はある。それはレギュラーか補欠か、マネジャーだったりする。ただ、表に出て活躍する優秀者は部活の技術・技能における優秀者であり、彼らは補欠やマネジャーのような裏方への感謝を忘れない。

 特に5人、9人、11人とチームを組む部活動では全体を強くしなければならず、命令と服従の関係など取れない。「一緒にがんばろう」と声をかける。そこに上下関係はない。だから、格差は存在しない……ので、部活動は楽しい――となるわけです。
 ただ、実際のところ格差のある部活動、特に顧問が命令して部員が言われるがままに従うところは格差が顕在するようです。

 後者の反論「学校教育で社会に適応できる人間を育てるのは当然じゃないか」とか、「むしろ社会に適応できない人間を育成していいのか」といった反論に対して私は以下のように再反論したいと思います。それは――

格差を肯定し、学校をランク付けする現在のシステムで子供たちは卒業後社会に適応できているだろうか。そもそも学校自体に不適応症状を起こす子供たちが増えているのではないか」と。

 先ほど社会における不適応症状を例示しました。学校における不適応症状も文科省が毎年取り上げています。現在の学校は児童生徒の自殺、いじめ、不登校を解消できないのです。

 文科省が公表している昨年(2020年)の状況を見てみましょう。
 ・小中学校の自殺者―415人(前年度317人)。
 ・いじめの認知件数―51万7163件(前年度61万2496件)。
 ・暴力行為の発生件数―6万6201件(前年度7万8787件)。
 そして、小・中学校における不登校児童生徒数は19万6127人(前年度18万1272人)です。

 新型コロナパンデミックで休校があったりして、数値が減っているのがあれば、変わらず微増しているのもあります。いずれにせよ、文科省はこれらの数値に対して「極めて憂慮すべき状況」とまとめています。

 しかし、文科省――この国の上級国民はこの悲惨な状況に対して打つ手を知りません
 なぜなら彼らは根っこの部分を決して変えようと思わないからです。

 学校システムにおける元凶が成績評価です。成績によって序列が付けられ、その成績の優良可によって行ける高校、大学が決まる。「臭いにおいは元から断たなきゃダメ」なのに、そのシステムは全く変える気がありません。

 たとえば、都市部の高校でランク下位の高校に進学する子供たちは「もう自分の将来は決まった」と暗い顔をしてやって来ます。
 ここを出て大学・短大に(推薦で)行ってもランク下位の大学・短大であり、専門学校に進んで就職しても、中小企業や肉体労働の職に就くしかない、と未来を予想しています。
 自分はカーストの底辺で生きることが決まった、と15歳の段階で自覚するのです。
 みなさんはそれを「君が勉強しなかったからだよ」と言うのでしょうか。

 では、一所懸命勉強して上位、中位の高校に進学した生徒はどうでしょう。
 そちらも生徒は劣等感にとらわれ、将来を見切っています。
 中位校の生徒はランク中位の大学しか行けない、上位校の生徒でさえ、東大を頂点とするランク最上位の大学に行けるのは一握り。
 そうした大学に進学できなかった生徒は劣等感を抱えたまま、ランク次位の大学、次々位の大学に進学する……。
 ピラミッド社会の中で「自分はせいぜい中位カーストに位置するかな」と18歳の段階で将来が見えてしまう

 勉強を懸命にやってもこの状況です。やがて上司の命令に従って働き、おかしいと思う指示や命令が出ても従順な大人、夢は宝くじに当たって会社をやめること、と思う大人が大量生産される(と書けば言い過ぎでしょうか)。
 カースト内の生活に我慢できる人はまだいい。「どうして自分が底辺なんだ」 と不満や怒りを抱える人は導火線に火が点いた爆薬みたいなもんでしょう。

 私は学校において自殺、いじめ、不登校を解消できないのは学校がカースト化しているからだと考えています。

 社会におけるカースト、最大の問題点は軽蔑と差別でしょう。上位カーストは中位カーストを、中位カーストは下位カーストの人間を蔑み軽んじる。
 代表例はとある市長、とある議員が部下や運転手を叱りつけ、怒鳴りつける。会社でも上司が部下を「無能だ、やめてしまえ」と叫ぶ。その上司もさらに上の上司の前では怒鳴りつけられ軽蔑される。
 市長や議員さんが小学校の来賓として壇上に立つと、「職業に貴賤はありません。人間はひとりひとりかけがえのない存在です。いじめはやめましょう」とお話しする。いけしゃあしゃあと表と裏を使い分け、顧みることもない。

 そして、カーストには必ず賤民階級が存在します。下位カースト(のみならず全カーストが)最下層の賤民階級を忌み嫌い、交流を避ける。
 彼らは死体の処理、死刑執行、獣を殺して皮革を扱うなど必要な仕事に従事している。なのに差別され、固定化された最下層から出ることを許されない。
 江戸時代では「穢多・非人」、インドでは「不可触民(ダリット)」と呼ばれました。
 これはカーストにおける不満を逸らすためのスケープゴートでしょう。「自分はひどいが、まだ下がいる」と思えば、上への不満を減らすことができます。
 日本では明治から大正、昭和、戦後も「部落」が残り続けた。それが日本のカーストを証明していると思います。

 学校におけるいじめとは成績で分けられ、将来もまたカーストに属するしかないと感じる子供たちが内心の不満を序列最下位の生徒、クラスから浮いた生徒にぶつけている。あるいは、誰かを殴りたくなり、何かを壊したくなる。

 それらはカースト社会の縮図であり、学校がカースト化したことが児童生徒の不適応を生み出す最大の原因であると思います。
 ゆえに、「成績をつけるのをやめよう、高校入試をやめよう、大学・高校のランク付けをやめよう」と主張しているのです。


 [6] うそつき人間になることを要求される観点別成績評価

 2002年、学校の成績評価は相対評価から絶対評価に、そして観点別評価が導入されました。これについては今まで何度も論及してきましたが、最後に「観点別評価」がいかに劣悪であるか。これについて語って「観点別評価を直ちに廃止せよ」と声高く叫びたいと思います。

 文科省はこれからの社会に必要な学びは「知識・技能」だけでなく、「関心・意欲・態度」、「思考・判断・表現」であると述べています。すなわち、じっくりしっかり考えて行動し、表現できるようにしようということでしょう。文科省のこの方針、私は正しいと思います。

 だが、小中高の成績評価システム、高校や大学の入試などを変えないまま、この方針を出したことが最大の問題であり、不手際だったと言わざるを得ません。
 なぜなら、「知識・技能」は評価できるけれど、「関心・意欲・態度」、「思考・判断・表現」は評価できないからです。

 たとえば、知識ならどの教科も100ヶのことを教え、テストをやって90ヶ正解したら、90点の点数をつけることができる。60ヶなら60点、40ヶなら40点と判定できます。
 また、技能なら跳び箱6段を飛べる練習をして6段飛べたら100点、5段なら80点、4段は60点……とこれも成績評価できます。

 しかし、「関心・意欲・態度」に関しては……。

 みなさん方はあらゆる事柄に興味関心を持っていますか。何でも意欲を持って仕事をしたり活動していますか。ブルーマンデーでもハイテンションで明るく笑顔で生きていますか。
 もしもこの問いに「はい」と答えるなら、あなたはウソつきか、双極性障害の躁状態か、もしかしたら全能のスーパーマンかスーパーウーマンかもしれません。

 興味関心があるのは普通一つか二つであろうし、仕事だって生きるため、お金を得るためにやっている場合だってある。自分がやりたい仕事でないことは大いにあります。
 職場では明るくいつも笑顔であっても、家に帰ると、ふさぎこんでため息をついているのではないでしょうか。

 これを子どもたちで言うなら、国社数理英の五教科、音美体、技術家庭の実技、パソコンやワープロの情報。この全てに「関心を持ちなさい、意欲を示しなさい、熱心にやっている態度を見せなさい」と言われているようなものです。

 ここにおいて一人一人の好き嫌い、感性、興味関心は押し隠さねばなりません。内心は国語や社会が嫌い、数学理科が嫌い。体育は得意じゃない。歌を歌ったり楽器演奏は苦手だ、絵を描くのはやりたくない。
 だから、仏頂面していやいや授業を受ける。居眠りしたり、ぼーっと窓の外を見たり、ノートに先生の似顔絵を描いたりする……かつてそのような児童生徒はクラスに何人もいました。

 しかし、今は「私は全ての教科に関心があります、一所懸命やりたいと思います、熱心にやっている態度を見せます」と(心にもない)外見を見せなければなりません

 それを全ての教科に渡って、しかも知識・技能が低い子ほど見せる必要がある。なぜなら、知識・技能で小学校のCや中学校の2が予想されるなら、「こんなにがんばっているよ。この教科は大好きだし、いつも熱心にやっているよ」と先生に見せることで、Bや3にすることができるからです。
 みなさんはこれに対して「成績不良者を救ういい制度じゃないか」とおっしゃいますか。
 私なら「疲れる……」とつぶやきます。

 逆に知識・技能でAや5が想定される子は、Bや4の評価をもらったとき、つくづく考えます。
「もっと授業で活発に発言して先生の目にとまらないと。あの先生は好きじゃないけど、笑顔を見せて気に入られなきゃ」と。
 おべっかを使い、お世辞の一つも言って先生と親しくなれば、ワンランク上がる可能性がある。それが観点別成績評価です。
 みなさんは「いいじゃないか。オレなんか上司にしょっちゅうお世辞を言ってるよ」と子どもに教えますか。

 観点別評価は子供たちにいつもハイテンションを要求し、内心と外見のギャップをもたらす。要するに、子供たちは小学校、中学校、高校の12年間、自分を正直に表すことができない、ウソつきの人間となることを要求されるのです。
 おお、これは芥川龍之介「禅智内供」の誕生ではありませんか。

 かつて知識と技能を習得し、それが成績評価され、入試に利用されるときは、別に理数が嫌いでも、国社が嫌いでも構わなかった。テストの成績さえよければ、高校に行けたし、大学にだって(文系・理系・実技系の大学に分かれたけれど)行けた。
 各教科においてさも興味関心があるかのような、意欲があり、熱心な態度を見せる必要はなかった(それを見せたのは推薦入試の面接くらいでしょう)。
 だが、今の子供たちは教科の成績を上げるため、興味関心、意欲、熱心な態度を見せなければなりません。

 授業中は先生に笑顔と意欲、熱心さを見せる。休み時間や昼休みはグループのリーダーにおべっか使って生きる。リーダーの意向に逆らえば、グループを追い出される。他のグループに入れず、一匹オオカミになったら学校では生きていけません。
 さらに、スマホを持った子供たちは帰宅後もグループのリーダーやメンバーから来るラインに返答しなければならない。既読スルーしたら、翌日何言われるかわかりません。
 なんと疲れる生活でしょう。不登校が増えるのも当然です。私には「こんな学校行きたくない」とつぶやく方がまともな感情の持ち主ではないか、と思えます。

 そして、「思考・判断・表現」について……。

 生徒がいろいろ調べ考えて「うちの校則はおかしいと思います。廃止すべきです」と判断し、全生徒に訴え、学校側に校則廃止・改定を要求する。これに成績をつけるなら、何点でしょうか。100点ですか、50点ですか、0点ですか。もちろんこの例は教科と関係ありません。

 しかし、たとえば、ある先生は昔ながらの教科書を通読して内容を講義する授業、そして知識重視の穴埋め問題ばかりのテストをやっている。
 そんな先生に対して国語なら「一読法をやってください」、理科社会なら「ディープラーニングの授業をやってください・単元学習を」と生徒が要求したら……みなさんはこの生徒に何点つけますか。

 かつて知識と技能中心の成績評価では、仮に生徒が反抗的でいつも食ってかかるような子であったとしても、その子がテストで90点を取れば、10とか9、少なくとも8を付けました。クラスの平均点が60で個人は90点を取っている。なのに(10段階の)5とか4を付けたら説明できないからです。

 しかし、観点別評価の導入によって教師が「こいつは自分にいつも逆らって態度も悪い。テストが90点でも意味がない。10段階の4をつけたいところだが、まー5にしておこう」と教師の裁量で恣意的な成績がつけられる可能性が高い。生徒は従順で先生の言うことをよく聞く「良い子」でなければならないと感じます

 そして、観点別評価は先生も苦しめます。
 テストの成績はいいのに、三段階でCとか五段階で3や2をつけるとしたら、「関心・意欲・態度」、「思考・判断・表現」において劣る点を列挙できなければなりません。つまり、小学校なら毎時間、クラスの児童をひとりひとり観察し、メモしてデータを集める。中高なら自分の授業でやはり生徒がその観点を示しているか注意深く観察し、データを残さねばならない(この段階で解説講義型授業ではそれが不可能だとわかります)。

 真面目で良心的な先生ほど、あるいは、批判を恐れる先生ほど、観点別評価に精出さねばなりません。なんときつく辛い作業でしょう。
 中高の部活顧問や、研修、授業以外の雑務、報告事項も多く、勤務時間内だけでは仕事をこなせない。「残業をするな」と言われれば、自宅に持ち帰ってやるしかない。
 このような状況では先生方は病気になるか、やめたいと思うか、その状況を見聞きして「教師は大変だ」と採用試験を忌避する学生が増えるのも当然と言わざるを得ません。

 小中校の成績評価は相対評価から「絶対評価・観点別評価」に変わりました。以前中高の先生には「絶対評価はできない」ことを書きました。観点別評価の愚劣さ、しんどさは今書いた通りです。

 では、もしも観点別評価をやめ、絶対評価もやめたら、また相対評価に戻るのか。
 相対評価なら実力の低い先生でも授業ができます。一読法や単元学習、ディープラーニングなど課題解決学習も訓練によって可能となるでしょう。かつての相対評価が愚劣だったのは五段階で5が何人、4が何人……1が何人と数が決められていたことです。かつての高校のように相対的絶対評価にすれば、成績に関してのクレームは減るでしょう。

 しかし、全国共通学力テストの導入によって、もはやカーストは全国レベルとなりました。成績をつけ、しかもそれを郡・市・県レベル、全国レベルで比較されるとき、生徒は自分がカーストのどこにいるかを思い知らされます。

 全国都道府県の学力ランクが公表されることによって各地の上級国民は「うちはなんて低いのだ、平均以下じゃないか。先生は何やっている。もっと生徒に勉強させろ」と叫ぶ。
 上の指示命令に逆らうことのできない先生方は「もっと勉強しろ!」と児童生徒の尻を叩く。それは競走馬の世界であり、14歳の中学生に「闘え」と要求するアニメの話に似ています。

 ご存じかどうか、競走馬は2歳、3歳時にムチを叩きすぎると、4歳以上になって下位着順に低迷します。馬が「もう走りたくない」と思うからと言われています。
 日本の子どももあのアニメのように「僕は闘いたくない」とつぶやいて学校に背を向ける……それも当然の帰結だと思います。

 もうこれでわかったのではないでしょうか。相対評価であろうが、絶対評価であろうが、生徒に成績をつけることの愚劣さ、学校をランク付けしてカースト化することの理不尽さを。
 もはや相対評価も絶対評価も必要ない。学校における諸問題を解決したかったら、成績評価そのものをやめ、カーストのない学校をつくるべきです。


 [7] ピラミッドから長方形の教育システム構築を

 すでに上級国民は気づいています。高校入試が子供たちの負担になっていることを。だから、高校入試のない中高一貫校を、まず私立が設立し、次いで公立校も導入しています。
 だが、私は現在の中高一貫に反対です。それはエリート養成学校であり、カーストの最上位となる人間を選別するための学校だから。

 そこには倍率数倍から十数倍の入学試験がある。見事合格する児童と不合格の児童に分かれる。不合格の児童は12歳にして「自分の将来は決まった」とカースト最上位に行けないことを思い知らされます。
 見事合格した生徒だって試験によって序列化され、6年後には大学入試がある。学校内でランク上位にいなければ、やはり18歳で中位カーストにしか行けないと自覚するでしょう。

 日本社会は富裕層、上流、中流、下流、貧困層のピラミッドを構成してカースト化しています。近年はそこに正規社員と非正規という新たなカーストも生まれました。若者は同カーストでなければ結婚できない。女性は同カーストの男性ではなく上位カーストの男性と結婚したいと思っている。

 もはや将来浮上することがないと感じた男性の中には、あの『羅生門』の下人のように「生きるため、金を得るためには何やってもいいんだ」とつぶやいて詐欺の下請けに走るんだろうな、と思います。

 成績をつけ、高校や大学がランク付けされていることによって、18歳、15歳でカースト下位にしか行けないことを思い知らされる。
 だからこそ、せめて学校くらいはカーストのない教育システムを、カーストを感じることなく、のびのびと自分のやりたいことをやる。そういう学校にすべきではないか、と言いたいのです。

 そのためには以前書いた通りです。高校入試を廃止し、中高の成績評価も廃止する。中学校の教科書を6年間で学ぶ。それを基本科目として午前に入れ、午後は全て選択とする。選択の中には学校内の教科だけでなく、部活動や他施設での活動、高校生のバイトも可とする。サッカーや野球、音楽美術など校外の活動に乗り出しても構わないということです。しかし、そちらが難しいと感じたときはいつでも学校に戻って来られるよう、無試験での再入学・再履修を認める。
 午後の活動を全て単位化し、学校内の活動は午後4時半をもって終了とすれば、先生方は午後5時には退勤できます。

 この教育システムはピラミッドとカーストに替わる長方形のシステムです。
 生徒全員に6年間ゆっくりじっくり履修してもらうのは横長長方形。深く高いレベルまで学ぶのは縦長長方形。

 1 横長長方形……最低限の学びであり、選抜・成績評価はない。講義は減らし、一読法・単元学習・アクティブラーニングによる課題解決型学習を学ぶ。
 2 縦長長方形……深くハイレベルまで学び活動する。好きなこと、楽しいこと、得意なことを選択する。自分で調べ、他の生徒や先生と討論することでより深く学ぶ。

 成績評価をやめるだけでも生徒はのびのびと勉強できます。高校入試を廃止すれば、丸暗記や解法暗記の勉強から解放され、不合格を恐れるプレッシャーからも解放されます。
 ある哲学者は言いました。「嫌いなことをいくらやっても平均以上にはならない」と。
 遊びのように好きなことをやってこそ、実力や対応力がつき、ハイレベルに到達できる。社会は確かにカーストである。だが、その中を生きるたくましさを身につけることができる――私はそう思います。(了)


===================================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記: 最終号も長くなって恐縮至極です。
 次号「後書き」の前に今後のメルマガ方針についてお知らせしたいと思います。
 私は現在以下3種のメルマガを発行しています。

 1 狂歌今日行くジンセー論――狂短歌に託して語る教育子育て人生論
 2 ほぞ噛み競馬予想――競馬GI予想を[ほぞ噛み競馬予想ブログ]にて公開。
 3 御影祐の電子書籍――『空海マオの青春』論文編

 今回『一読法を学べ』は勝手に全読者に配信いたしました。長文の論考に迷惑顧みずと言いたいところですが、迷惑な方はおそらく削除なさったでしょうから、へでもありません(^_^;)。
 もしも途中で「なかなかいいこと書いているじゃないか。削除しなければ良かった」と後悔されたなら、御影祐のホームページに行けば、読むことができます。ぜひ再読してください。二度読むことが学校で学んだ通読-精読の読書法を活かす最善の道です。

 そこで今後ですが、競馬予想を除いて基本的に書いたものは全てメルマガ読者に配信したいと思います。迷惑な方は削除してください(^.^)。
 1の『狂歌今日行くジンセー論』はたまーに発行するだけの休眠状態だし、3の『空海論』は前半を終え、後半に入るけれど、しばらく考察・執筆時間が必要です。
 よって、今後は書籍化されている『狂短歌人生論』と『ケンジとマーヤのフラクタル時空』(前編)、『時空ストレイシープ』(後編)を配信します。

 この3冊分は書籍となっているので、ホームページには公開しません。メルマガも公開しないつもりでしたが、現在メルマガは本文が非公開です。なので、ひそかに読者にお届けしても構わない状況となっています。
 そんなわけで、来年1月よりまず『狂短歌人生論』を配信いたします。
 ぜひ一読法で読んでください。 m(_ _)m 御影祐

===================================

「一読法を学べ」  後書き へ (12月29日発行)

画面トップ

→『空海マオの青春』論文編メルマガ 読者登録

一読法を学べ トップ | HPトップ

Copyright(C) 2021 MIKAGEYUU.All rights reserved.