カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 57号

「一読法を学べ」後書き

 ハーメルンの笛吹きになって




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 57号

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           原則月1 配信 2021年12月29日(水)



 前号にて『一読法を学べ』にやっとピリオドを打ちました。「ずいぶんかかったなあ。2年くらいか」と思って第1号を開いてみたら、2019年3月の発行でした。すなわち2年と9ヶ月。おやおや(^_^;)。

 55号を発行したのは9月のことでした。前号はそこから3ヶ月かかっています。ただ、今年は1月に47号(「英語教育の半減」)を発行してから55号までひと月1回ペースで発行しています。56号も10月に書いてあと3回ほど発行するつもりでした。

 ところが、10月、11月となかなか筆が進みません。書く気が起きないので参りました。
 もしかしたら待っているかもしれない読者には失礼ながら、こういうとき私はあわてません。執筆意欲がよみがえるのを待つとも言えます。

 遅滞した理由はわかっていました。一つは10月から競馬GIが始まり、ほぼ毎週のように予想と回顧を書かねばならなかったこと(こちらはパターンが決まっているし、最も好きな執筆なので滞ることはない)。
 もう一つは10月末に遠来の友人と2年ぶりのゴルフに行ったら、脊柱管狭窄症の痛みがひどくなり、ロキソニンを飲んでも緩和できなかったこと。

 あまりに痛くて日常生活に差し障るので、整形外科に行ったら別の(ピンポイントで効くという)クスリを処方してくれました。けれど、これも効かない……ということで、パソコン前に座ることがしんどくなったのです。

 しかし、最大の理由は「書いていることがこれまで書いたこととかなり重なっている」と感じたことです。
 もっとも、この件は確信犯です。今までは同内容を繰り返しても、別に悩むことなく書いてきました。

 私の論考を念入りに読んだ方はその都度「また同じことを言ってるな」と思われたのではないでしょうか。対して私は「それで構わない」と思い、むしろ意識してそのように書いてきました。
 これは論文としては下手くそな部類であり、もしも大学の先生に提出したら、「もっと短くまとめなさい」と突き返されること間違いなし。

 毎度書いているように、読者のほとんどは三読法の《通読》で終える読書法実践者です。二度読むことはおろか精読なんぞしない。この文章はネットで公開しているし、メルマガで読んでいるはず。だから、読めない、意味の分からない漢字や語句が現れたら、ネット辞典を検索できる。少なくとも「本号の難読漢字」に戻ればいい。
 だが、それさえしていない(と推測します)。途中で立ち止まることもなく、とにかく一度だけさーっと読んで終える。それは読者の習慣であり、身にこびりついた癖です。

 ということはぼーっと読んでいるから、「前の号で何が書かれていたか」だいたい忘れている。いわんや数号前――すなわち数か月以上前――の内容なんぞ1割も思い出せない(^.^)。

[ここで「身にこびりついた癖」を初めて読んだ気がする人は前号をぼーっと読んだ可能性大。この辛辣な言葉を「ずいぶん激しいなあ」と立ち止まって「そうかなあ」と考えていれば頭に残っているはずです]

 一読法で読んだ方は「身にこびりついた癖」が「前号にあったな」と思い出せたかもしれません。が、47号で訴えた「英語教育の半減」は「えっ、そんなこと言っていたの?」とつぶやく読者がほとんどでしょう。ゆえに、同じことを様々な角度から、前に書いたのと同じ例も(安易と思いつつ)書きつづっていたのです。

 気を悪くしないでください。この悪癖が身についたのは読者各位のせいではありません。学校が――小中高の国語科、他の座学教科の先生方がその読み方を教えたのです。「まず全体をさーっと読みなさい」と。
 もちろんそれはかつての文部省、今の文科省のお墨付きであり、大学の国語国文・教育学部教授たちお勧めの最強(!)「国語読解法」です。

 ただ、彼らは日本で最も優秀な人たちだから二度読むことをする。大学教授各位は研究対象を念入りに調べ、過去の論文や書物を精読する。そうしなければ新説を提起できないからです。自分ができるのだから普通の人だって「できるはず」と考える。

 ところが、9割の下級国民は新聞や雑誌、書物などを「めんどくさくて忙しくて2度読んでられっか」と思う
 有識者や官僚はこの至極当然の感想を理解できなかった。だから、何の反省もなく戦前から戦後、現在に至るまで「三読法が最も素晴らしい読書法だ」として小中高の国語科でやらせたわけです。
 国民に必要なのは《一度読んだだけで内容をしっかり理解できる読み方》です。それは訓練しなければできません。

 ちなみに、大学教授だってそこらの小説は一度しか読まないでしょう。論文は二度読む価値があるけれど、小説は二度読む価値はないと考えている。だから、高校国語教科書に論文や実用文を増やし、小説や詩を減らす(厳密には二つに分ける)と決めました(2022年度から開始)。

 いわく「論文を読む力が弱いから、小説なんぞより論文や実用文をたくさん読め」というわけです。昔「小説を読んでいるヒマがあったら畑を耕せ」と言われた。よく似ていますね。
 私の結論は正反対です。「論文を読む力をつけたかったら小説を読め」と書いた49号(「日本の抽象語は日常生活と結びついていない」)を再読してください。

 それに(以前も書いた通り)三読法は人の話を聞くことには全く使えません
 相手の言うことを黙って聞いてひと段落ついたところで「今の話はさーっと聞いていました。今度は検討しながら聞くので、もう一度喋ってください」とお願いしなければならない。あるいは、録音しておいて「帰ってからまた聞きます」と言ってさよならする。
 これが三読法による人の話の聞き方です。ただし、後者をひそかにやると「危ないやつだ」と相手を不快にさせます。

 ここでも必要なのは《一度聞いただけでその内容をしっかり聞き取る聞き方》です。だが、小中高ではその訓練をしていません。通読→精読の読み方とは二度聞く聞き方だから、どうやったらいいかわからないのです。

 かくして、人の話をぼーっと聞く子供や若者、大人が大量生産され、「私の話を真面目に聞いているのか!」と怒鳴る(優秀な)大人も生み出されました。
 だが、怒られる筋合いはない。みんな三読法の通読を《聞くこと》に応用しているだけ。真面目で良い子の国民です。国語教育が「人の話はさーっと聞きなさい」と教えたのですから。

 ところで、ここらへんで「おいおい。これ後書きかあ」とつぶやかれた方、一読法が身についてきましたね(^_^)。
 そのつぶやきの後「どうもおかしい。これは後書きじゃなく前置きじゃないか」とつぶやいたなら、一読法読者として二段を差し上げます。

 その通り。これはいつもの前置きで、真の「後書き」はこの後始まります。

 閑話休題。執筆地帯の話に戻って、なかなか筆が進まなかった11月末、ひょいと「そうだ。これで終わりにしよう」と思いついたとき、一気に執筆意欲が再燃しました。

 手を替え品を替え、あらゆる方角から日本の国語教育、小中高の教育システムについて語って来たけれど、さすがに《結論(主張)》はただ一つ、とばれたことでしょう。
 それは「まず一読法を学ぶべき」であり、「高校入試を廃止し、相対評価であろうが絶対評価であろうが、成績をつけることをやめるべきである」に尽きます。このことを繰り返し語ってきました。
 もうこのへんで「終わってもいいか」と思ったとき、56号を一気に書きあげることができました。

 ところで、また余談ですが、前号(最終回)の結末をお読みになったとき、どう思いましたか。「全体の結末にしてはちょっと弱いな」と感じたなら、かなりの読解力です。
 実はほかならぬ当人がそう感じたので、これまた参りました(^_^;)。

 何しろ全56号の最終回です。その最後を締めくくる結末。読者の脳裏に刻印のように刻まれてほしい「感動的な結末」――それがうまく書けないなあと。

 そのうち前々号を再読して理由がわかりました。
 55号の結末を再掲すると、
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 高校入試は廃止すべきである。小学校が近くの公立中学を自由に選べるように、公立高等学校も生徒が自由に選び、無試験で入学できるようにする。今座学の勉強をしたくなかったら、実技系の活動に進み、挫折したり、座学が必要だと思ったときにいつでも再入学できる制度をつくる。
 日本では基礎的教養は中学校の教科書で尽くされています。それを中高6年間でじっくりゆっくり学ぶ。もちろん宿題も課題もない。帰宅後は自由にやりたいことをやっていい。

 そのような中学、高校を想像してみてください。ストレスもプレッシャーもない。のんびり楽しく学校生活を送れる。教室に大人や高齢者が混じれば、いじめは激減すると思います。
 入試がないから成績付けはない。テストはあっていいけれど、成績には直結しない。中学を終えたら、今やりたいことを求めて外に出てみる。無理だったら、また高校に戻る。

 このシステムにおける最大のメリットは「十代の数年間、自分が最もやりたいことをやった」という充実感です。それは「自分がやりたいことをやるのは楽しい、生きることは楽しい」との思いにつながるでしょう。
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 これを読み返したとき、「しまった。この結末を最終回に持っていくべきだった」と思いました。これが感動的かどうかはひとまず置くとして(^_^;)。

 その後「前号の結末をもう一度書きます」として結末に置こうかと考えたけれど、さすがに情けない。「ええい、弱い結末だがこの程度にしておけ。次号で感動的な後書きと結末を書こう」と思い、そうなるとたぶん後書きは長くなる。ゆえに「次号「(ちょっと長い)後書き」と書いた次第です。

 以上、最終回執筆の裏事情と、後書きの(長い)前置きでした。
 ここから後書きの始まりです。

[前置きの途中「執筆遅滞」と書くべきところが「執筆地帯」になっています。「これは誤字だな」と気づいた方は一読法三段を献呈します。同時に「この前置きは全56号のまとめになっているな」と感じた方は一読法師範代レベルです]


 [前 号](最終回)
 「新しい教育システムの構築」10『せめて格差のない教育システムをつくろう』
 [1] ピラミッドとカースト
 [2] 命令と服従のピラミッド
 [3] 世の中が安定するとカーストができる?
 [4] 表と裏のある日本人を生みだす日本の学校教育
 [5] せめてカーストのない教育システムをつくろう
 [6] うそつき人間になることを要求される観点別成績評価
 [7] ピラミッドから長方形の教育システム構築を

 [今 号](後書き)
 『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』後書き――ハーメルンの笛吹きになって
1 ] 中高の縦長長方形システムについて
2 ]大学・大学入試の根本的改変について
3 ]20年前なぜ『一読法を学べ』を書かなかったのか
4 ]なぜ12歳で小説家になりたいと思ったのか
5 ]ハーメルンの笛吹きになって

[ここでも「おいおい。後書きに見出しがあるんかい」とつぶやいた方、いいつぶやきですよ(^_^)。「ハーメルンの笛吹き」が初見だったら、ここでネット検索したいところです]


 本号の難読漢字

 最後は省略します。どうか検索してください。滞る・辛辣……等々
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』57

  「後書き――ハーメルンの笛吹きになって」

 [1] 中高の縦長長方形システムについて

 まずは前号の復習を兼ねた補足です。
 結末に「ピラミッドから長方形の教育システム構築を」と書きました。このうち「縦長長方形」のところが説明不足だったので補っておきます。

 まず横長長方形とは中学校の教科書を中高6年間で学ぶこと。中学3年間で一度やり、高校でもう一度やるといった感じです。これを基本として縦長長方形とは好きな教科や実技・やりたいことをどんどん深く高くやることです。

 たとえば、オリンピックに出たい、あるいは外交官になりたいと12歳の段階で思うなら、そのための活動をどんどんやる。そして、前者は競技種目に、後者は英語・英会話に上達しようということです。部活動や校外に出ての活動も単位化して学校は午後5時までとする。そうすれば教員の負担もかなり改善されます。

 そのとき大切なことは生徒自身が深くやりたいと思った実技や教科以外は「最低限(=中学の教科書)ができればいい」ということ。簡単に言えば、この二人は数学が今の高校レベルである必要はない。中学卒業レベルを習得すれば充分だというシステムです。

 そのためには高校入試廃止だけでなく、大学入試も根底から変えねばなりません
 大学(入試)がオリンピック志望者に対して「国社数理英全て偏差値60以上を取りなさい」と言ったら、好きなことだけやることはできません。
 外交官志望者に対して「英語は偏差値70だが、数学が偏差値40だから入学できない」と言われたら、やはり数学を何時間も勉強しなければなりません。

 ただ、オリンピック志望者は英会話(ときには中国語?)に習熟した方がいいし、外交官志望者は日本の歴史、外国の歴史を深く知るべきでしょう。特に東アジアの国々の外交官になりたかったら、東アジア史の勉強は必須です。
 だが、化学・物理の知識は中卒程度の教養があればいい。もしもそれらが必要だと言うなら、大学、さらに大学卒業後自学自習で学べば良いのです。

 私を例に挙げれば、中学校・高専(3年間)・大学において英語は学校で34分の6コマ、家庭では4時間のうち1〜2時間を使い、12歳から20歳まで懸命に勉強しました(厳密に言うと小5からラジオの基礎講座を聞いていた)。
 しかし、大学国文に入学し、卒業して高校国語教員になってみれば、全て無駄な時間でした。私は英語を使わないし、原書を読まないし、英字新聞も読まない(読めないし読みたくもない)。国語授業で英語を使わないし、街角で出会った外人さんと英会話も交わせない。

 人生に「ればたら」はないけれど、もしもあの英語習得のための時間を3分の1に減らして残りの時間を日本文学、外国文学の読書に当てることができたら……と残念でなりません。
 私は国語教員として生徒にもっと素晴らしい授業ができ、内外の名作を紹介できただろうに、と思います(ホンネは「0」と言いたいところですが、日本文法との比較のため、英語を学んだことは意味があったので、3分の1と書きました)。

 私は12歳の段階ではひそかな小説家志望で「将来国語の先生に」とは思ってもいなかった。しかし、もしも中学校で「午後は君の好きなことをやっていいよ」と言われたら、そして入試もテストもなくなり、自宅で学校の勉強をする必要がなくなったら、私は学校でも家でも書物を読みまくったと思います。これが縦長長方形ということです。


 [2] 大学・大学入試の根本的改変について

 高卒の段階で大学の入学試験があるとしても、中卒レベルならある程度の点は取れる。さらに、私が言いたいのは大学入試で「全教科の平均が偏差値60以上」などとする必要はない。極端に言えば、国語や社会が70、80、理科や数学が70、80なら、英語は40点あればいいということです(もちろん英語を必要とする学部は別)。

 そして、大学に入ったら、直ちに専門科目の勉強を開始する。いわゆる教養科目は専門に必要な教科に減らして1年からどんどん専門科目をやるべきです。そうすれば五月病の大きな原因である「また高校と同じ勉強をするのか」という失望感がなくなるでしょう。

 学生には「教養がないから教養課程が必要だ」との意見があります。しかし、教養とは一生をかけて身につけるものです(と文科省も勧めています)。
 そもそも大学生に教養がない(と大学の先生方が感じる)のは中高でテストや入試のために、その場しのぎの丸暗記勉強をやっているからです。つまり、教養が身についていない。

 理工学部なのにもう一度中学の数学を教えねばならない。文系の学生なのに日本史(特に戦前戦後)の内容をほとんど知らない。太平洋戦争が何年に始まり何年に終わったか首をかしげる。それは言えても、どうして始まり、どんな経緯で終わったのか、「日本が戦争に負けたからでしょ」くらいしか言えない(それは同義反復)。
 そんなことじゃ困る、と大学1、2年生に教養科目を取らせようとする。
 だが、親の心子知らず、新入生は高校と同じ教養科目を、その場しのぎの――つまり、テストで合格点を取ればいいという、相変わらずの勉強をするだけ。

 かくして、だらだら遊ぶ無駄な2年間を過ごし、卒論・卒業研究もその場しのぎとなり、大学卒業後は中高大で学んだ教養なんか頭から消え去ってしまう。
 しかも、子供のころから、勉強とはいやでいやで仕方ないと感じていたから、大人になって教養を身につけようなどと思いもしない。そのような大学卒業生がどんどん社会に送り出される……やれやれって感じです。

 もう大学の教養2年、専門2年という考え方はやめるべきだと思います。
 そもそも卒業研究や卒論はだいたい3年から始まります。しかし、4年になれば就職活動や各種採用試験が始まります。就活は早いと3年後期から、また教員志望者には教育実習1ヶ月もあります。それらをやりつつ卒論・卒業研究を並行してやらねばなりません。

 なのに、卒論について先生方は何と言うか。いわく「今までの学説のまとめでは意味がない。新説を出せ」と。
 学生にしてみれば「あんたは10年20年自分の専門しかやっていない。実質1年の研究で新説を出したことがあるんかい?」と言いたくなるでしょう。

 私は先生方の言葉を真に受け――というわけではないけれど、「暗夜行路論の新説を出し、大学院並みの論文にしてやるぞ」と決意して大学にもう1年行きました。

 普通は1年ちょっとの研究、論文読書で満足できる卒論なんぞ書けません。中高で深く高く学んだ生徒は大学に進学したら、1年の最初からどんどん専門科目を学ぶ、そのような大学にすべきだと思います。


 [3] 20年前なぜ『一読法を学べ』を書かなかったのか

 ここで「おいおい。[1・2]は前号に入れる内容じゃないのか」とつぶやいたでしょうか。
 まっことその通り。後先考えないものだから(前号執筆中に)「長くなったなあ。ええい、大学改変の部分は次号に持っていけ」って羽目になりました(^_^;)。

 ここからがほんとの後書きです。ただ、かなり私的・個人的話題となること、ご容赦ください。

 実は2019年に『一読法を学べ』を書き始めたとき、理論編は3ヶ月で終えました。理論だけじゃちょっとわかりづらいので、実践編も書こう――と考えたときは「まー半年分くらいかな」のつもりでした。
 ところが、実践編が終わったら、「一読法からの提言」、そして「新しい教育システムの構築」とふくらみ、とうとう原稿用紙にして1000枚近い作品になってしまいました。おやおや。

 まー長くなったのは「ぼくの悪い癖」(杉下右京)としても、私にはずっと二つの「なぜ」が頭の中でうごめいていました。

 一つは2000年に退職した直後、「なぜこの『一読法を学べ』を書かなかったのだろうか」であり、もう一つはさらに私的なことながら、なぜ自分は12歳の時「小説家になりたい」と思ったのだろうか――という二つの「なぜ」です。

 答えは本稿執筆中にわかりました。後者が先で33号「総ルビを復活しませんか」を書いているとき、「ああ、だから私は小説家になりたかったんだ」と(ちょっと妙な表現ながら)小説家になりたかった理由を《発見》しました。

 そして、前者の理由はもっと後「学校の成績評価」について書いているときです。
「そうか。だから20年の歳月が必要だったんだ」とつぶやきました。
 こちらの方が短く簡単なので、先にやっつけてしまいます。

 私は2000年に二十数年間続いた教員をやめ、執筆活動に入りました。成績評価が相対評価から絶対評価(プラス観点別評価)に変わったのは2002年のことです。
 学校ではその前から成績付けが変わる話は出ていました。通信簿(通知表)の表記が変わるし、成績をどうやってつけるか、など話し合いが持たれたものです。

 その頃高校教員の反応はと言うと、「観点別評価ちゃなんね?」が最も多かったと思います。高校は小中の完全相対評価と違って相対的絶対評価でした(意味不明と言うか、すっかり忘れた方はこちら→34号〜35号参照)。
 それに「愚劣な相対評価は廃止せよ」と主張していたこともあって相対評価が絶対評価に変わるのは「良いこと」との感想でした。
 しかし、観点別評価はほとんど意味不明といった感じで、「別に成績の付け方は変わらない。意欲とか表現など生徒の様子を見て適当につければいいだろう」といった結論でした(ほんとです)。

 10段階(最終的に5段階)の成績をつけることは変わらないし、テストをやってその人数の中で平均が5.5〜6.5に入るよう、そして5段階の5が1割ほど出るよう成績をつける――それは変わらない。だから「その評価に合わせて観点別評価もつけよう」てなところでした。
 例えば、総合評価が5段階の5なら観点別評価も5とか4をつける。総合評価が4とか2なら、観点別評価も「その前後にしとけ」ってわけです。

 本稿を読んで観点別評価の意味を知った人は「そりゃ逆だろ!」と突っ込み入れるところです。その通りでして「まず観点別評価を先に出し、それをまとめて総合評価とすべき」ものです。小中はすぐにそのように変わったと思います。

 私は退職したので、その後高校がどうなったか知りません。ただ、友人たちの話題を総合すると、しばらくは当初話し合った通りテストの結果優先で、観点別評価を適当につけておいた(ようです)。
 ところが、近年は「校長などからそれではダメだ」と言われるようになったとのこと。私の退職後、管理職による授業参観が行われるようになり、授業についていろいろ評価・指摘されるようになった。やがて「君の授業は講義解説型だからダメだな」と言われるようになったというのです。
 講義解説型では生徒の様子を見ることはまずできません。たまーに質問をしても、小学校と違って手を上げる生徒はいない。だから、観点別評価なんぞ不可能というわけです。

 それはさておき、数年前いよいよ『一読法を学べ』を書こうと決め、小中高の成績評価について調べ、考えるようになったとき、「この件は退職直後には書けなかった」ことがわかりました。

 あの頃観点別評価がどういうものか、私にはさっぱりわかっていなかった。それが子どもたちや先生方にどういう影響を及ぼすかも不明でした。10年経ち、20年経ってようやく愚劣な実態がわかり始めたと言えるでしょう。本稿執筆中「そうか。退職直後に成績評価について語ることはたぶんできなかったんだ」とつぶやいたことです。

 ただ、私は観点別評価や成績評価そのものが「愚劣だから廃止せよ」と主張していますが、観点別評価の中の「知識・技能」・「関心・意欲・態度」・「思考・判断・表現」――それを身につけることを廃止せよとは言っていないので誤解なきように。

 国語の一読法、理科社会の単元学習など「まず疑問を持ち、調べる活動を中心とした授業」、それは講義解説型の授業を上回る良い授業です。
 かと言って講義解説型の授業を全廃せよ、とも言いたくない。それは全体について半年なり1年なりで知ることのできる、とても効率的な方法です。
 だが、それをテストするから、成績評価するから、入試があるから、丸暗記しなければならない。しかも、かつて講義解説型授業(しかも通読と解説)は全教科に渡っていた――そのことを問題視しているのです。

 生徒がせっかく「調べて深く学ぶ」授業を開始しながら、高校入試の中心は「いかに暗記しているか」の優劣を競っている。何か1教科を深く調べ、その教科の達人になったとしても、興味のない他教科――全教科をまんべんなく勉強し(覚え)ていないと、高校入試、大学入試に受からない。
 要するに、現在の子供たちは相対評価だったころに比べて2倍、3倍の勉強を強いられているのです。

 それでいいのですか。彼らは苦しくて苦しくてあえいでいます。
 ある一人は「もう学校なんか行きたくない」と思い、別の一人は弱弱しい連中をいじり、いじめることに快感を覚え、また一人は物を壊し、ケンカをして先生を殴ることが楽しくて仕方ない。

 不登校の児童生徒だけが子供たちの苦しみを表しているわけではありません。
 授業と成績評価と入試システムの中で、良い子を演じて通い続ける子どもだっていつ不適応症状を起こすか。いつ爆発するか。
 やがて学校を離れ、社会に出ても、生きづらさは変わらない。(このように書くと総すかんでしょうが、敢えて書きます)ひそかに死んでくれればまだしも、「こんな自分に誰がした。世の中だ。一人で死んでたまるか。誰か道連れにして死んでやる」と思って実行する……。

 日本の自殺者は依然として毎年2万人、無差別殺人の件数はわからないけれど、毎年どこかで起こっていると感じます。
 マスコミは後者は大々的に取り上げるけれど、前者は(有名人以外)知らんぷり。それこそ「ひそかに死んでくれれば」の思いが現れているではありませんか。
 コロナ感染者の数を毎日報告するなら、「先週の自殺者何人、うち小中高の自殺者〇〇人」と知らせるべきではないでしょうか。

 不適応行動の原点は子供時代、十代の学び方、生き方にあると私は思います。論説文や実用文をたくさん読んで、この悲しい感情、まがまがしい感情を制御できますか。
 大人はいつになったら、子供たちの苦しみに気づくのでしょう


 [4] なぜ12歳で小説家になりたいと思ったのか

 もう一つの「なぜ」です。
 私は中学校入学直後、父から「将来何になりたいか」と聞かれたとき、
小説家になりたい」と答えました。
 すると、父はあきれた顔をして
「父ちゃんと母ちゃんの子に小説家の才能はないからやめとけ」と言いました。

 ずっと不思議に感じていました。自分はなぜ12歳の段階で「小説家になりたい」と思ったのかと。

 家にはろくに本がなかった。本棚はたった一つで百科事典が一段を占め、その他の書籍は全部で20冊くらい。絵本さえありませんでした。
 父も母も戦前の尋常小学校卒で文筆関係とは全く無縁であり、読書の趣味もなかった。
 私は父の言葉に納得して「作家になりたい」との思いを封印しました。

 そもそも私自身、家に本がないからと言って学校の図書室で本を読み漁るような子供ではなかった。外で遊ぶ方が好きな子供だったのです。
 不思議です。どうしてあんな環境で小説家になりたいと思ったのか。

 ところが、私からその思いが消えることはなかった。
 高専に進んだら、1年から詩や小説を書き始め、大学国文に進学してからも時折小説を書き、教員になってからも長い休みを利用していくつか小説を書いていました。
 働きながら小説を書いている作家志望は全国にあまたいらっしゃるでしょう。そのような人は普通書き上げた小説を新人賞など文学賞に投稿するはず。だが、私にはできませんでした。自分で「下手くそ」とわかっていたからです(^_^;)。

 それでも2000年に本気で作家を目指そうと退職しました。
 なぜ辞めようと思い、実行したのか。その前数年間に理由があります。が、それを語り始めると、もう1号必要なので、いつかまたにしたいと思います。

 二点理由を書くと、一つは自作に自信を持てるようになったこと。もう一つは40を過ぎても独身でどうやら妻子を得られそうにない。このまま教員生活を続けて10年後ぼろぼろになっているくらいなら、自分のやりたいことをやって人生を終えよう――そう決意したのです。

 退職後は本格的に小説や論文、エッセーを書き始め、ホームページやブログで公開しました。本を3冊自費出版し、小説を文学賞に投稿もしました。が、本は売れず、残念ながら全国レベルの入賞もなし。九州・沖縄・山口限定の文学賞で大分一席になったのが最高でした。

 そして、一昨年から『一読法を学べ』を書き始めました。
 中には自身の小学校や中学・高専時代を例とすることもあり、その都度どうして12歳のころ小説家になりたいと思ったのか、なおかつその気持ちを途切れることなく持ち続けたのか。それは我ながら不思議な思いでした。

 ところが、本稿を書いている途中その答えを見出しました
「そうだ。だから小説家になりたいと思ったんだ」と。古い記憶がよみがえったのです。

 それは33号『一読法からの提言T- 3』として「日本に出回る文書を全て総ルビ(ふりがな付き)としませんか」との提言を書いたときです。
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 世の中の文書が総ルビとなれば、漢字読みの練習が不要となります。戦前の日本がこれでした。それが戦後になってなぜか総ルビをやめました。それを復活させようという提言です。さすがに小一、小二レベルの漢字はルビなしでもいい。常用漢字小三以上は全てルビ付きにしようではありませんか。
-----------------------------------------
 ――と書きました。

 そのときふと自分の家にあった講談社の『少年少女世界文学全集』(全50巻、1959年発行)のうちの2冊――それを小学校1年から読んでいたことを思い出しました。なぜか2冊だけ家にあったのです。
 振り返って「確かオールひらがなのはずはないし、小学校高学年の漢字も混じっていたはずだが、よく小一から読めたなあ」と思いました。
 実家にはその二冊が今でもあったので、背表紙がぼろぼろになった本を取り出して確認しました。

 すると……それが総ルビだったのです。

 ちょっと身震いが起こるほどの発見でした。
 私はずっと総ルビ復活論者でした。なんのことはない、小学校で愛読した総ルビの本が根拠だったのです。
 もしも漢字にルビがなかったら、私はあの2冊を小一から読むことはなかったでしょう。

 そして、2冊の書名を見たとき、なぜ「将来小説家になりたい」と言ったのか。その理由を思い出しました。

 2冊のうち一冊は第14巻マーク・トゥェインであり、『トムソーヤーの冒険』・『王子とこじき』が入っていました。
 もう一冊は第23巻エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』・『エミールとかるわざ師』・『点子ちゃんとアントン』の三作でした。

 私はこの2冊を小一から小六まで何度読んだことでしょう。毎年読んでいたかもしれません。
 というのは家に児童文学の本はこの2冊しかなかった。面白くて読み始めたらやめられなかったし、長い冬休みもあった。

[ここは「はて、長い夏休みの間違いじゃないのか」とつぶやいてほしいところです]

 私の実家は九州大分でも内陸の町にあって冬は氷点下の寒さとなることがあり、雪も結構降りました(温暖化のはるか前のことです)。かまくらをつくったことがあるし、ミカン箱と竹のそりで斜面を滑ったこともあります。
 逆に夏はお盆を過ぎると、夜肌寒いほど涼しく日中うだるほどの暑さではなかった。
 なので小学校は夏休みが短く、その分冬休みが10日ほど長かったのです。

 私は春夏秋は平日も長い休みも外で遊ぶのが大好きな子供でした。父から「テレビは夜8時まで。それから寝るまで勉強しろ」と言われ、仕方なく学校の予習復習をやりました。
 しかし、さすがの父も長い休みの夜に「勉強しろ」とは言わなかった。学校から出された課題を午前中に終えれば、午後以降は私の自由です。で、冬の夜長はよくマーク・トウェインとエーリッヒ・ケストナーの2冊を読んだのです。
 今振り返れば、私はこの2冊から生き方の基本を学んだような気がします。

 私はトムのように近所の仲良し数人と野山を駆け回り、川遊びをし、山中の木に板を渡した秘密基地をつくった。トムとベッキーのほのかな恋(?)に憧れた(早熟だったのはこのせいかも)。
 不仲になったベッキーが誤って先生の大切な本を破り、ムチで打たれることが避けられなかったとき、トムは「自分がやりました」と名乗り出た。それは『点子ちゃんとアントン』の点子が友であるアントンのために、彼に知られることなく行動を起こすのと同じ。みんなかっこいいと思いました。『王子とこじき』では自分が王子になって、こじきになって世の中を見る。相手の立場になって考えることを学びました。

 そして、『飛ぶ教室』では寄宿舎生活を送る少年たちの活躍を、自分のことのように体験していました。
 主人公マルチンは家が貧乏なため奨学金で暮らしている。絵が得意で成績優秀だが、友達のためには真っ先に駆けつけるような少年。家から通う実業学校の生徒との大掛かりなケンカ――最終的には雪合戦で大活躍する。
 ウリーは女の子のように小柄で臆病、仲間からバカにされている。私もマルチンのようになりたいと思い、でも、ウリーのように臆病でケンカができない子供でした。

 また、ヨナタンは文学好きで作家志望。だが実の父親に捨てられるという過去を持っている。ニューヨークから船に乗せられドイツにやって来た。親戚が迎えに来るという父の言葉を信じて港で待ち続けるヨナタン。誰も迎えに来ないと悟ったとき、彼は一粒だけ涙を流した。でも、船の船長が彼を助けました。

 その後マルチンは冬期休暇を前におかしくなる。彼が背景を描いた「飛ぶ教室」という劇の舞台では上の空の演技をし、夜寝入った後「涙は厳禁、涙は厳禁」とつぶやいている。だが、マルチンは自分の悩みを誰にも打ち明けなかった。その異変に気づいたのは「正義先生」とあだ名のある舎監の先生。

 余談ながら、私はこれまで二度死にたいと思ったことがあると、別のところ(「狂短歌ジンセー論」179号)で書きました。二十歳のころと還暦前一文無しになって「もう死ぬしかない」と思ったときです。
 前の時はなんとか自力で復活しました。後の方は不甲斐ないことに自力ではどうすることもできず、兄や友人に助けを求めました。
 あのとき死ななかったのはどちらも「自分には死ぬ勇気がないからだ」と思っていました。

 が、『飛ぶ教室』の内容を思い出して「ああ、私は自分が困ったとき誰かが助けてくれる。それを信じられた。だから自殺しなかったんだ」とわかりました。マルチンの苦境を救ってくれたのは「正義先生」でした。

 中学校の国語で「読書感想文」が課題となったとき、私は『飛ぶ教室』の中で最も感動的な場面を、原稿用紙九枚に書き写して提出しました。あと1枚はそこまでのあらすじを書いて。
 先生から「それを君の言葉で書くんだよ」と言われ、「ぼくの言葉で書いたら、この感動を人に伝えられません」と答えたものです。

 それがどの場面でマルチンと正義先生の顛末、さらに正義先生と学校近くの禁煙車両で暮らす禁煙先生との関係など、『飛ぶ教室』は私にとって宝石のようなエピソードだらけです。
 が、これ以上は書きません。面白そうだと思った人は作品を読んでください。子供より大人が読んでほしい作品です。

 だから、「小説家になりたい」と言ったのだ。やっと理由がわかりました。
 私が言いたかったのは「マーク・トウェインやエーリッヒ・ケストナーのような小説家になりたい」だったのです。

 あのころの父は子供の心を深く聞いてくれるような人ではありませんでした。
 父は私の言葉を誰か日本の小説家のようになりたいと受け取ったのでしょう。そして、作家になるには本をたくさん読んだり、何より才能が必要だと。この家の、父ちゃんと母ちゃんの子に、そんな才能はなく文学環境もないと。

 なので、「マーク・トウェインやエーリッヒ・ケストナーのような小説家に……」と続けたとしても、父の反応は変わらなかったと思います。
 私は作家志望を封印し、そして「小説家になりたい」真の理由をも忘れてしまったというわけです。

 これもまた不思議な偶然を感じます。『一読法を学べ』を理論編で終えず、実践編でもやめず、教育への提言まで書きつないだ。それによって「小説家になりたかったほんとうの理由」を発見できたからです。
 もしも本稿を書かなかったら、私はこのことを思い出さないままあの世に逝ったかもしれません。

 もっとも、「これからどうするか。困ったことになった」とも感じています。と言うのは私がこれまで書いてきた小説に、小学生に読ませたいような作品は一つもないからです。
 自分の夢が「マーク・トウェインやエーリッヒ・ケストナーのような小説家になりたい」であるなら、その夢に向かって努力するべきでしょう。「そろそろ物書きから撤退しようかな」などと考え始めた矢先、えれえことに気づいてしまいました(^_^;)。
 今後児童文学を書くか、書けるかどうか。思案投げ首の体なのであります。


 [5] ハーメルンの笛吹きになって

 さて、後書きの最後に短い詩(のようなもの)を書きます。
 題して「ハーメルンの笛吹きになって」。


 〇 ハーメルンの笛吹きになって

 私はハーメルンの笛吹きになって子供たちを違う世界に連れていきたい。

 そこにはテストがない、宿題がない、成績をつけられることもない。
 自分の好きなことを思いっきりやっていい世界だ。
 遊ぶことにあきたら、絵本を読んでみる。
 絵本はやがて児童文学の本に変わる。
 そうして本を読んで世の中のことを知ったり、昔のことを知ったり、異国のことを知るのも楽しいと感じるようになる。
 異国の笛吹きに連れられて来た、異国の子供たちと遊ぶことも楽しい。

 いま不登校の子供たちに言いたい。
 もう死にたいと思っているあなたに言いたい。

 あなたがそう感じることは正しい。
 もしも私が今の小学生、中学生なら、私も不登校になるだろう。
 こんな世の中から消えてしまいたいと思うかもしれない。

 悩んだあげく家に閉じこもったら、やってほしいことがある。
 死を決行する前にやってほしいことがある。

 それは絵本から始めて児童文学の本を読むことだ。
 それも一読法で、あるいは二度、三度同じ本を読んでほしい。

 日本の文学、世界の文学の中にあなたが求める答えがある。
 もうちょっと生きてみようか、外に出てみようかと思える本に出会える。
 お勧めは『トムソーヤーの冒険』と『飛ぶ教室』だ。

 きっと生きる力が泉のように湧いてくると思う。

 そして、大人たちへ。

 子供が学校からいなくならないと気づきませんか?
 子供が全員不登校になってようやくあわてますか?

 ハーメルンの笛吹きが子供たちを連れ去る前に気づいてほしい。

 うん?

 ということは私はハーメルンの笛吹きじゃないってことか。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「まだ後記もあるんかい」と言われそうですが、父の名誉のためにちょっと書かせてください。
 小学校時代の父は厳しく怖い人でした。ただ、殴ることだけはしなかった。頭をこつんとやることもなく、私や兄がいたずらをしても決して手を上げない人でした。
 また、危険な遊びをしても「やめろ」と言う人でもなかった。小二のころ川で魚取りをするとき早くもモリで突いてでかい魚を獲っていました。小学校の高さ7、8メートルの石垣をよじ登ることも、山の中に子供だけで入ることも「危ないからやめろ」と言われたことがなかった。

 そして、父は私が中二のとき、ある文学全集(全100巻ほど)を突然プレゼントしてくれました。四つ違いの兄が「家には本がない」と父によく言っていたようです。勉強部屋は一つだったから、私が同じ本を何度も読んでいることに気づいていたのでしょう。
 ところが、父は家族に何の相談もなくその全集を購入しました。

 それは近現代の日本文学全集でした。児童文学とは無縁で世界の文学とも無縁。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介など有名作家が入っていたけれど、マイナー作家も入って必ずしも中高生には……という文学全集でした。
 父は兄と私から「どうして買う前に相談してくれなかったのか」となじられる羽目になりました。

 ただ、私は中二、中三、そして大学入試と無縁な高専に行ったので結構長い休みには全集内の作品を読みました。
 田山花袋『蒲団』、北条民雄『いのちの初夜』、田村泰次郎『肉体の門』など中学生はなかなか読まないでしょう。もちろん題名だけ見てあることを期待して読んだのです(^.^)。早熟な14歳でしたから。

 以上です。
 余談だらけのエッセー風小論に長いことお付き合いいただき、ありがとうございました。 m(_ _)m 御影祐
                       2021年12月29日

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