『続狂短歌人生論』33 なぜ変えられないのか

 その5「感情と理屈が結びついているから」


○ 人間は性善なのか性悪か 溶け合っている理屈と感情


|本文 | 『続狂短歌人生論』トップ |HPトップ|



ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年12月06日(水)第33号


 『続狂短歌人生論』33 なぜ変えられないのか その5「感情と理屈が結びついているから」

 今号は有名な人間観である性善説、性悪説について語ります。
 これは理屈(思想)を表す言葉です。高校の漢文教科書に大概出ているので、ご存じの方も多いでしょう。この言葉は人間の本質について語ったものだから、各自の感情とはカンケーないように思われます。
 いやいや、どうして感情と密接に結びついている(と私は思います)。

 集まった人に「ディベートを行うので、どちらを支持するか左右に分かれてください」と言った場合、四タイプのうち二タイプは性悪説の席に、残り二タイプは性善説の席に着きやすい。
 それは脅迫・批判・傍観・受容のどのタイプか――と前号後記にてクイズにしました。答えは出ましたか。

 以下二タイプのまとめを読んでください。

 脅迫者・批判者
 脅迫者と批判者は自分が強く正しく、周囲は愚かで弱々しい人間ばかりだと思っている。だから、自分が支配し、服従させ、リードすべきだと考えている。

 傍観者・受容者
 傍観者と受容者は自由にさせてくれれば、自分はもっと良い人間になる、良い人間になったはずと思っている。周囲もいい人なんだからもっと自由にさせる方がいいと考える。

 これが支配する側に立つ脅迫者と批判者。支配される側に立つ傍観者と受容者の考えです。
 どちらが性善説を支持し、性悪説を支持するか。わかりましたね(^_^)。

 えっ、まだわからない? おいおい……。


11月08日  なぜ変えられないのか その1「長所と信じるから」
 〇 四タイプ それが長所と信じれば 変えなければと思うことなし

11月15日
 なぜ変えられないのか その2「尊敬されるから」
 〇 三タイプ 誉められ認められるなら 変えようなどと思いもしない

11月22日
 なぜ変えられないのか その3「愛してほしいから」
 〇 幼子は人を愛することよりも 愛してほしいと思う生き物

11月29・30日
 なぜ変えられないのか その4「愛してくれるから」
 〇 四タイプ それがあなたの愛ならば 人は続けてほしいと思う

12月06日
 なぜ変えられないのか その5「感情と理屈が結びついているから」――――本号
 〇 人間は性善なのか性悪か 溶け合っている理屈と感情



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 人間は性善なのか性悪か 溶け合っている理屈と感情

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
===================================
****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』33 なぜ変えられないのか 】

 その5「感情と理屈が結びついているから」

 人は四タイプの生き方をなかなか変えられません。
 これまで述べてきたキーワードは「長所・尊敬・愛」。自分の言動を長所と思い、周囲や家族、子どもから尊敬され、愛されていると思えば、変えようなどと思わない。
 さらに「誉められ、認められ、愛されたい」と(ひそかに)思って生きてきた。その結果親のタイプに合わせて四タイプの生き方を獲得した。三つ子の魂百までと言います。幼いころから身についた癖であれば、変えることは容易ではありません。

 もちろんいつも長所を発揮してくれれば問題はない。だが、四タイプはしばしば悪しき性格を露にする。上に立つ人が下の者に不正を強要することだってある。

 たとえば、親と子の関係で見ると、脅迫者は子どもを叩き威嚇して育てようとする。親に服従し続けた子は迫害・虐待を受けても抵抗できない受容者となる。
 批判者は小言・説教を繰り返し、子どもに努力と完璧を求める。子は期待に応えて生きる人生に苦しみしか感じない。

 傍観者は子どもに関心を示さず誰かに任せる。子どもは親の愛をあきらめ、何でも自力で解決しようと孤立無援のさみしい人生を送らねばならない。
 受容者は子どもの全てを受け入れ甘えさせる。子どもはわがままに育ち、最後は暴力的な脅迫者となって周囲を苦しめる。

 もしも誰かが「あなたのそんな生き方を改めてほしい」と忠告しても、四タイプは変わろうとしない。なぜ変えられないのか、最後の考え方が本号「性善説・性悪説」です。

 以前(『続編』第4号「心の基地と武器」にて)人は心に基地を設けていると書きました。脅迫者は鉄の要塞、批判者は木の砦。傍観者は映画のオープンセット、受容者は水風船を構築してその中にいると。
 この基地を補強する固い固い理屈が性善説と性悪説なのです。

 人は誰が何と言おうと「自分が正しい」と思えば変わる必要を認めない。四タイプの感情は性善説・性悪説の理屈と深く結びついています。[以下「である」体]

 A・Bタイプの親……
 例えば、AやBタイプの親は子どもの躾に関して「厳しくしなければならない」と考える。甘やかしては子どもが「良い人間に育たない」と信じている。時には小さな暴力を振るってでも「子どもを正すべき」と考えている。

 A・Bタイプの人間観は基本的に「性悪説」である。

 人は「悪」として生まれ、何もしなければ「悪」として育つ。人は根本的に怠け者である。放っておくと勉強も仕事もせず遊んで怠ける。だから、監視が必要だし、常に意見して説教して注意する。子どもと積極的に関わり相手を正すための行為をする。
 A・Bタイプはそう考え、その信念に則って子育てを実践する。

 C・Dタイプの親……
 一方、CやDタイプの親は子どもには何も言わず、好きなことをやらせてこそ、のびのび個性的に育つと信じている。殴って言うことを聞かせるなどとんでもない。そんことをするから子どもは委縮する。悪い点をくどくど説教するのではなく、誉めて良い点を伸ばすべきと考えている。

 C・Dタイプの人間観は基本的に「性善説」である。

 人は「善」として生まれてくる。悪を矯正すると言って善まで正すから、子は「悪」に陥る。善なる人は勉強にしても仕事にしても、自由にやらせれば進んで勉強するし、いきいきと働く。いやなこと、嫌いなことはしなくていい。人は好きなことを自由にやってこそ真価を発揮する。ゆえに「自由放任」こそ最上なのである。
 C・Dタイプはそう考え、その信念に則って子育てを実践する。

 このABCDが四タイプのどれにあたるか。もうおわかりだろう。
 ABタイプが脅迫者・批判者であり、CDタイプが傍観者・受容者である。

 あなたがもしもA・Bタイプなら、そう思ってそう行動するのは、自分の思想・信条であり、主義・主張であると信じているはずだ。だが、その主張はあなたが脅迫者・批判者だから出て来る発想である。

 あなたは自分が正しいと思っている。性悪説に基づく自分の考え、行動は間違っていないと信じている。だから、あなたは自分を変える必要を認めない。変わらなければならないのは自由にさせると遊んで怠けてだらだら生きる連中の方だ。自分の言うことを聞こうとしない連中だ。

 だから、(脅迫者は言う)「殴るんだ。子どもは叩いて言うことを聞かせる。怒鳴らなければ悪は正せない」と。
 だから、(批判者は言う)「口酸っぱく言って聞かせるんだ。自由にやらせたらろくな結果にならない。しょっちゅう注意して正しい道を歩ませるんだ」と。

 両者は「人間とは生まれつき性悪な存在だ」と思っている。これこそ脅迫者、批判者の心の中である。性悪説は単なる理屈ではない。脅迫者と批判者の感情と分かちがたく結びついているのである。

 一方、C・Dタイプ。

 あなたがもしもC・Dタイプなら「自由放任」こそ最高と思い、それを支持するのは自分の思想・信条であり、主義・主張であると信じているかもしれない。

 そもそも放っておいても子は育つ。「生まれた時から善」なのだから、余計な躾・教育などすべきではない。ゆえに(傍観者はつぶやく)「自由放任こそ最高の子育てである」と。
 かたや受容者のあなたは子どものやりたいことをやりたいようにやらせる。子どもが嫌うこと、いやなことはしなくていいと言う。ゆえに(受容者もつぶやく)「いい子だから、自由にやりたいようにさせよう」と。

 両者は傍観者・受容者として生きている。だから、そう思ってそのように行動している。性善説に基づく「自由放任」は傍観者・受容者にとって自らの生き方、子育てを正当化してくれる最高の理屈なのである。

 基地と武器のたとえで言うなら、理屈と感情が結びついた基地こそ最強の要塞となる。
 自分の感情と性善説・性悪説が結びついた四タイプは自分の生き方に自信を持っている。ゆえに、自ら変わろうと思わないし、人が「その生き方を改めるべきだ」と忠告しても、てこでも変わるものではない。脅迫者・批判者の感情は性悪説と結びつき、傍観者・受容者は性善説と結びついているのである。

 以上です。

 さて、ここまでを読まれてもしかしたら「あれっ、今節は意外と短いな」と思われたかもしれません。ここで執筆ウラ事情の開陳(^_^;)。[以下「ですます」体]

 下書き段階では数倍の記述がありました。性善説・性悪説について解説し、さらに四タイプの生き方も絡めて書きました。が、多くは前著の繰り返しです。それを再掲載しようと思ってやめました。理由は大見出しが「変えられない理由」と限ってしまったからです。

 しかし、これではちと短すぎる(^_^;)ので、今回追加したことを少々書きます。

 まず「生まれつき性善」とか「自由放任」と聞くと、性善説に躾や教育は必要ないかのように思われるかもしれません。それは誤解です。
 人は善なる存在として生まれてくるが、悪を覚え悪に染まる。だから「それは悪いことだよ」と教えねばならない。
 一方、性悪説だって「善」を強調する。人は本来悪である。だからこそ善になるよう導かねばならないと。

 ゆえに大人が子どもに「その行為は悪だ、それが善だ」と教える。社会において「これこれの行為は悪だ」と法律で定め、違反すれば罰が与えられる。これを「法治主義」と呼ぶ。それらを教えるのが躾であり、教育ということになります。

 しかし、世の中には法律で悪だと決められていないものもあります。
 たとえば、パワハラ・セクハラ・学校や組織団体におけるいじめ。最近いじめは子どもの世界だけでなく大人の世界でも多発しています。

 もちろん発覚すれば、それなりの罰がある。だが、傷害罪とか殺人未遂とか殺人罪のような刑罰はない。端的に言っていじめを苦に自殺したなら、加害者は殺人罪に問われるべきだ(と私は思います)。

 これらが法律化されにくいのは心の問題だからでしょう。殴ったり傷つけるなど体に痕跡が残れば、傷害罪に問える。だが、言葉による暴力、シカトなどは外見に現れない。最近こそ証拠として録音されることが多いけれど、以前は「言った、言わない」の水掛け論となることが多かった。心に受けた傷はひとりひとり違う。だから、法律になりにくいのでしょう。

 現代の学校や社会における企業・会社などは性悪説に基づいていると言えます。
 たとえば、中高における校則。自由にさせたら無茶苦茶になる、と思うから制服を決める。髪型を決め、スカートの丈を決め、靴下の色を決める。
 あるいは、部活において顧問が殴って蹴って暴言吐いて強くしようとするなら、それは生徒が性悪であると考えるから。この顧問は自由にやらせたら部は強くならないと信じています。

 多くの企業も性悪説に立つ。上司が監視しないと怠けてさぼるのが社員だ。だから、強く言って真面目に働くよう指導する。失敗したら、厳しく叱って罰を与える。
 上からの命令に逆らってはいけないと言うのは別にテレビ『相棒』の話だけではなく、現実の警察・軍隊の実話でしょう。
 上からの命令に忠実な刑事警官、兵士が賞賛される限り、警察による民衆弾圧、他国との戦争はなくならない(と私は思うので、戦争の判断を兵士一人一人にさせるべきだと主張しているのです)。

 一方、性善説に基づいているのが詐欺に騙される人たち。特に高齢者。
 2022年の特殊詐欺被害額370億円。今年(2023年)も被害はすでに300億円に達しているそうです。ここには性善説だけでなく日本人の心深くに巣くっている上下思想――と言うか上下感情――が根深く絡んでいる。近々このことを書きます。

 以前夏目漱石の言葉「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです」(『こころ』)を取り上げました。漱石はこの後「先生」に「それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」と語らせています。

 これは性善説か性悪説か。一見「性善説」に思えるけれど、「普通の人間」の方が重い。すなわち、人間は本来善でも悪でもない、ニュートラルなんだと主張しています。敢えて言えば「人性中間説」でしょうか。

 それがあるとき善になり、あるとき悪に変わる。悪に豹変するのは人間の根本に利己主義があるからでしょう。人は「自分ひとりだけいい目を見たいという表の感情、逆に自分ひとりだけ不利を受けるのは許せないという裏の感情」を持ち、この感情に従って悪を犯す。詳細は『一読法を学べ』第27号「利己主義が持つ表と裏の感情」を再読下さい。芥川龍之介はこれを『羅生門』と『鼻』で描きました(第28号参照)。

 ちなみに、人はなぜこの利己主義を克服できないのか。そのわけをこの五節「変えられない理由」で書いてきました。お答えください。

 ――と言って答えられる人はいないでしょうから(^_^;)、直ちに書きます。

 [ここで立ち止まって果敢にも「考えてみよう」という一読法実践者のために以下空白をもうけます。前置きにある五首の狂短歌と冒頭部を読めば、答えられるかもしれません。]

ページトップ






 では、答えです。
 子どもの頃親や大人から充分な愛エネルギーを与えられなかった人は心のコップに愛という水が半分しかたまっていない。この人は「自分は人や社会、運命や自然から愛されていない」と感じている。自分ひとり困窮したり、苦しかったり、不利を受けることが許せない。自分だけはもっと愛されてしかるべきだと思っている。彼(または彼女)は世の中から認められず、尊敬されず、愛されていないと感じている。
 この感情を克服できない人が人を傷つけ、人の物を盗みに行く……と語ったわけです。

 最後にもう一つ。人性中間説に関連して最近性悪説にも性善説にも基づかないスポーツ指導者が現れているようです。これもいずれ紹介したいと思います。
 たとえば、WBCの日本監督、夏の甲子園で優勝した某高校野球部の指導と戦い方にそれは現れていました。


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今号にて四タイプが「変えられない理由」について語った五節の終了です。
 最初の前置きに記していた「ある課題」覚えていますか。
------------------------------
 なお、この五節には26号『迷路の整理』で語った「自分を変えるにはどうすればいいか。身近の人を変えるにはどうしたらいいのか」のヒントとなる部分があります。二項対立を意識しながら、この答えを考えながら読んでください。
------------------------------

 いかがでしょう。答えは見つかったか。「ちっともわかんねえ」とつぶやくか、「なんとなくこれかなと感じた」部分もあるでしょう。
 むしろ全体の感想として「自分を変え、身近の人に変わってもらうことがいかに難しいか、よくわかった。絶望的な気持ちになった」かもしれません。

 そろそろ『続編』の登山は9合目に近づいています。しかし、まだまだ読者各位に絶望を味わってもらわねばなりません(^_^;)。
 そこで次回から「変わることに成功した」ドラマと「変わることに失敗した」ドラマを紹介するつもりでした。変わることに成功してちょっと明るい気持ちになるもつかの間、失敗して再び奈落の底に突き落とされる……そんなドラマです。

 が、その前に間に一つはさみます。表題は「出産子育てと消費税」。

 以前(→14号)にて「出産と子育ては《労働》ではない」と書いたけれど、「では何なのか」については「いずれまた」として保留しました。
 このテーマ、どうやらここにしか入らない感じだし、今日本では「児童手当てをどうするか、少子化対策の財源は医療保険から」など議論になっている折でもあり、参考になるのではと思います。


次 34号 へ
ページトップ

 以下のサイトよりメルマガ登録ができます(無料)。↓

  『ゆうさんの狂短歌ジンセー論』メルマガ登録



『続狂短歌人生論』トップ | 6 狂短歌ジンセー論トップ | HPトップ|




Copyright(C) 2023 MIKAGEYUU.All rights reserved.