『続狂短歌人生論』43 執筆意欲復活(^_^)


○ 復活をあせらず今を受け入れる やがて何かが起きるときまで


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年02月14日(水)第43号


 『続狂短歌人生論』43 執筆意欲復活(^_^)

 お待たせしました。休刊することなく一週間で執筆意欲復活しました。

 ――などと書くと、「おいおい」と言われそうなので、今号は前号の意欲喪失報告に続いて意欲が再燃した経緯を説明します。

 筆者の個人的事情であるし、本稿全体にとって「どうでもいいことじゃないか」と感じるかもしれません。
 しかし、意欲を失う…元気が出ない…八方ふさがりで絶望感にとらわれている。
 そのようなときにどうやって回復するか。
 この流れを知ることは読者にとっても意味あることではないか。そう思って書こうと決めました。大いなる余談としてお付き合いください。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 復活をあせらず今を受け入れる やがて何かが起きるときまで

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』43 執筆意欲復活(^_^) 】

 前号「執筆意欲が失われた1月」を書いたのは1月第3週(18日頃)のことです。
 2週目が終わる頃何だか元気が出ない、書く意欲が湧かないことに気づき、あれっと思って数日……「そうか。能登半島地震のせいだ」と気づきました。

 そのとき1月公開予定の3号(37、38、39号)はすでにメルマガやブログ・ホームページに公開済み。次の40、41号も待機中。
 以前書いたように、この5回分は12月までに完成していたので、1日の能登半島地震、2日の日航機と海保航空機衝突炎上の件は全く触れていません。

 さりとて、できあがっているものを休刊するのもへんだし、追加の改稿もできそうにない(その気力が湧かない)。
 そこで決めました。1月中は予定通りそのまま発行して、2月最初のメルマガにて「休刊」宣言しようと。つまり、意欲の喪失とメルマガ休刊の決定は1月中旬になされていたのです。

 そのころ同じように執筆意欲が失われた過去二つの出来事を思い出していました。
 一つが2006年父が亡くなった後。もう一つが2011年東日本大震災後です。
 1月第三週に入って06年、11年に公開していた『狂歌今日行くジンセー論』メルマガから関連原稿を探して再読しました。
 というのはあのとき意欲が失われて元気が出ず、やがて回復したことを「書いた」記憶があったからです。

 2006年は以下の2号。見出しと狂短歌も掲載します。

第68号 02月10日 「親父の小往生」
 〇 いつか来るやがて来ると思いつつ この日の来るを思わざりけり

第72号 11月30日 「近況報告――メルマガ復活」
 〇 友人の「メルマガやめた?」の言葉受け 再開するかと思い立つわれ

 72号には父を失った喪失感から何もやる気が起きなかったこと。それが復活する経緯が書かれています。今号の狂短歌「やがて意外な何かが起きる」の関連では、雷に撃たれて引き裂かれた樹木を見たこと、10月初めの僥倖、友人から来た「メルマガやめたの?」のメールも立ち直りのきっかけとなりました。しかし、9月はどん底の鬱状態でした。

 再読して2006年と現在との共通点も気づきました。当時アメリカがテロ報復として始めた「イラク戦争」が泥沼化しており、ロシアのウクライナ侵攻の泥沼化と重なります。日本ではいじめ問題が大きなニュースになっていたことを取り上げています。

 また、2011年には以下の2号。

第131号 03月31日 「東日本大震災について」
 〇 大津波 全て失い 悲しみに ひたる自分を 許してほしい

第137号 09月30日 「悲しい顔を許したい――被災地の子どもたち」
 〇 なにゆえに子どもを元気にさせたがる 悲しい顔も受け入れたいね

 これらを読んで、あのころのことがよみがえり、「こんなこと書いていたんだ」と驚いたほど。自作でこの忘れようだから、読者にはかけらさえ残っていないだろうと推察します(^_^;)。
 特に東日本大震災後の記述は「元気が出ないなら、無理せず休もう」との趣旨であり、今回「意欲を取り戻すまでメルマガは休刊するか」との思いにつながりました。

 ところが、この4号を読み終えて逆に「書きたい」との気持ちが湧き出したから不思議です。
 そして、意欲が失われて元気が出ない気持ちを正直に書き始めると、ますます書きたい気持ちがよみがえり、前号を書き終えたときには沈滞気分が一掃されました。

 末尾に「幸い意欲は復活しつつあります。本号がここまで長くなったことがその表われ」と書きました。実のところ、すでに意欲は復活していたのです。
 妙な表現ですが、前号は間違いなく「執筆意欲が失われた」ことを描いている。だが、筆者にとっては「執筆意欲が復活したから書けた」原稿なのです。

 ちなみに、文芸評論で有名な言葉に「書くという行為は脱出行為である」というのがあります。現在の自分について「どのような状況か、なぜこんなことになっているのか、それを(特に自分の感情を)詳しく書く」ことで、行き詰った状況を脱出できるとの考え方です。よく私小説作家の批評に使われます。みなさん方にもお勧めの沈滞脱出法です。

 それはともかく、その後1月末までの10日間で今号と2月公開予定の最終節の執筆に取り掛かり、ほぼ目途がついたので、見た目「一週間後の復活」となる今号を公開できました。

 以上が執筆意欲再燃の経緯です。

 さて、本号はこれで終えて前記メルマガ4回分にリンクを張り、「ぜひ読んでください」と書くことで終了。

 ……と考えましたが、ふとよぎったのは「読者は果たして過去メルマガを読んでくれるだろうか」との思い。筆者としては4号全てここに掲載したいほどなので、めんどくさがらずぜひ読んでほしいところです。

 というのは、私と同じように能登半島地震の情景を見て「なんとなく元気が出ない」と感じた方がいるかもしれない。
 特に本稿読者にとって1月発行の5号は変えられない絶望、日本的カーストの絶望に続いて「日本人の上下意識は日本語そのものから生み出されるので、現代においてもなくなっていない。日本語を使う限り永遠に続くかもしれない」などと書きました。

 ボクシングにたとえるなら、左右のストレートパンチに続いて強烈なフックをあびてダウンしたようなもの。ゴングに救われたけれど、気持ちを立て直すセコンドの言葉は聞いてほしい――それが過去の4号です。

 もっとも4号全てここに掲載するのはさすがに長すぎる。一つだけ掲載するとしたら131号だろうか。
 再読して気づきましたが、131号には長い前置きがありました。狂短歌も3首詠んでいます。
 大震災後世界から義捐金が送られた。だが、円ドルは一気に円高に振れたため日本に届く義捐金は円に換えると金額が減る。なぜ円高になるんだ。投資家に「円を買うな」と書いた部分など、読んでほしいところです。
 しかし、前置きも含めて全文掲載すると、いかな私でも長すぎる(^_^;)。

 なので前置きは泣く泣く割愛しました。リンクを張っているので、ぜひ読んでください。
 131号の「後記」に「被災地以外の人は喪明けを決めて普通の生活に戻ろうじゃないか」とあってこれも大切なことと思ったので、そのまま掲載します。

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 2011年 3月31日(木)第131号

 (-_-)本日の狂短歌(-_-)

 ○ 大津波 全て失い 悲しみに ひたる自分を 許してほしい

 (-_-) ゆとりある人のための10分エッセー (-_-)

 【 東日本大震災 】

 大地震と巨大津波を受けガレキと化した町並み、根こそぎ家が押し流され、途方に暮れる被災者。家族や友人を失い悲しみに浸る人たち。避難所で耐えている人たち。救援と復興目指してがんばっている人たち……。
 テレビで震災の情景を見るにつけ、今の感情は自分がこれまで体験した何と似ているだろうかと考えました。
 そのとき、ふっと思い当たったことがあります。それは私の父が亡くなった後の心情に似ていると。

 父の死は一年前から予定されていました。三月末に癌が発覚して医師から余命数ヶ月と宣告され、入退院を繰り返すこと四度、発病九ヶ月後に亡くなりました。
 私としては最初の入院から一緒に暮らし、最期を迎えるまでやるだけのことはやった。家族の思い出も少ないながら残せた。父が息を引き取る瞬間も、病室で兄と一緒に看取った。

 父は八十歳まで生きた。大往生とは言えないけれど小往生だった。葬式を上げ、後かたづけを済ませ、四十九日を終えると実家は空き家にして再上京。やることをやって悔いはないと思いました。
 だから、東京に戻るとすぐにでも小説執筆を再開し、普通の生活を送れると考えました。三月の終わり、桜が咲き始めた頃です。

 ところが、なぜか元気が出ません。人と雑談を交わしても、ゴルフに行っても心から楽しめない。なぜか心から笑う気分になれない。小説を書く気も湧かない。妙に涙もろくなってぼんやりしている。そして、ふっと思っているのは父のことでした。

 もう一緒に旅行はできない、もう一緒に歩くことも、飯を食うこともできない。声も聞けない、言葉を交わすこともない。それを思い出すと涙が出ました。悲しみがじわりとわいてきました。
 そして実家のことを思い、盆暮れに帰省しても誰も迎えてくれる人がいないことを想像したとき、帰る気をなくし、帰ってもさみしいだろうなと思いました。

 そのようなとき、久しぶりに散歩した雑木林の中で、私は雷に打たれ引き裂かれた大木を見いだしました。帰省前はなかったので、自宅を開けていた一年の間に起こった落雷でした。
 大木は真ん中から真っ二つに折れ、白い幹がずたずたに裂けていました。

 それを見て私はやっとわかりました。雷に打たれて裂けた木は私の心だと。
 父の死は自分にとってなんでもないことだと思っていた。だが、きっと心が裂けているに違いないと思ったのです。元気が出ないわけ、悲しみに浸ってなぜかすぐに涙ぐんでしまうわけはそのせいだと思いました。

 それから私はしばらく悲しみに浸ることにしました。無理に元気を出すことをやめました。
 心が引き裂かれた以上、すぐには治らないと思ったからです。

 この状態は半年続きました。なかなか回復しませんでした。そして私はそれも自分に許しました。立ち直るには何かきっかけが必要だし、時間がかかると思いました。
 その後あることでさらに落ち込み、九月はどん底状態でした。
 しかし、十月になって思いもしなかった出来事が起こり、それをきっかけとしてようやく立ち直ることができました(今この詳細は省きます)。

 心が引き裂かれたとき、それを修復するのは簡単ではないと思います。
 もしも私の声が届くなら、私はそれを被災者たちに伝えたい。未曾有の大震災から生き残った人たちも、きっと父を亡くした後の私と同じだと思います。いや、それ以上でしょう。

 被災地でインタビューに応じる多くの人が「がんばります・きっと復興します」と力強く決意を語ります。強い言葉、頼もしい言葉であり、前向きの言葉です。心からそう思い、すぐに立ち直りの言葉を言える人はいいでしょう。
 家を失っても家族だけは「幸いみな助かった」という人がいます。家族全員が生き残っていれば、家を失っても気持ちは違うと思います。

 しかし、自分一人だけ取り残されたかのように、家は流され、家族を全て失った人もいます。
 引き裂かれた心の痛みはいかほどでしょう。元気を見せてもふっと涙ぐむと思います。失った父や母、我が子や孫、じいちゃんばあちゃんを思い出して悲しみが心に広がると思います。
 もう一緒に歩けない、もう一緒にごはんを食べることもない。家が壊され流された人は思い出の品さえ失っています。

 小学生や中学生が安否不明の両親を探して遺体安置所を巡り歩いています。父や母の遺体を見つけだし葬式をしています。あまりに辛すぎる情景です。心はきっと引き裂かれていると思います。
 ある小学校の児童は全員逃げ切って無事だった。しかし、別の小学校では七割の児童が津波に飲み込まれ行方不明となっている。生き残った大人たちは苦渋の、いや苦悶の表情です。

 あるいは、老母と一緒に逃げ出したけれど、津波に飲み込まれ握っていた老母の手を離した男性がいます。子どもの手を離して生き残った親もいます。救えなかった自責の念にとらわれている人がたくさんいるはずです。きっと心は折れている。傷つき、引き裂かれていると思います。

 私は思います。がんばれる人はがんばればいい。しかし、がんばれない人は無理にがんばらなくていいと。
 しばらく悲しみに浸って「元気が出ない」と言っていい。元気が出ない自分を許してほしい。
 すぐには立ち直れない。時間がかかると思います。半年どころか一年、二年、三年……。

 でも、いつかきっと何かが起こる。立ち直りのきっかけとなることが必ず起こります。
 いつか亡くなった家族の声が聞こえると思います。
「生きなさい。生きていい。また夢をもって希望を抱いて生きていってほしい」――そんな身内の声を感じ取れる日がきっと来ます。
 それまではしばらく悲しみに浸ってください。元気になれない自分を許してほしいと思います。
 ……これが私が感じたこと、伝えたい言葉の全てです。

 ○ 大津波 全て失い 涙ぐむ 自分をしばらく 許してほしい


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:被災地以外の人に一つだけ言いたいことがあります。それは「喪明けをつくって普通の生活に戻ろうではないか」ということです。
 多くの日本人は義援金を送ったと思います。被災地のために何かしたいと考え、なかなか行動できないことに悔しさを感じていると思います。同時にいろいろな「楽しい」ことを自粛しているでしょう。旅行とかレジャーとか、レストランや飲み屋に行くこととかゴルフなども。
 しかし、自粛が続くとお金が回りません。すでに被災地近くの旅館は宿泊キャンセル続きで廃業に追い込まれています。レストランや居酒屋なども売り上げが半減したと嘆いています。「酒飲んでバカ言う気持ちになれない」のはよくわかります。それこそ喪に服したときと同じ状態です。
 だからこそ、被災地以外の人は自分で大震災の喪明けを決めて普通の生活に戻ろうではありませんか。震災前は買いだめ・買い占めなんかしていなかったはず。それが普通の生活です。普通の生活に戻ることが、回り回って被災者への支援になるのではと思います。(2011年3月)


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(2024年2月)

後記:2006年、2011年4号のリンク先は本文初めにあります。
 この中では137号も(自作ながら)読み終えてちょっと驚きました。本稿に「いつか亡くなった家族の声が聞こえる」とあります。その具体例――震災後亡くなったお母さんの言葉を子どもが聞く――が書かれていたからです。
  →リンクはこちら


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